朝鮮五葉松への旅 第四話 日本に立ち返る
朝鮮五葉松への旅 第四話 ( 日本 )
日本に立ち返る
北から南まで朝鮮五葉の森
一九九九年の年賀状で、一九九八年のそれにつづいて、あえて普通あまり聞き慣れない朝鮮五葉のことを取り上げてみた。
今度は昨年よりは少し反響が増えた。
その中のひとつに、仙台の畏友一戸冨士雄さんのものがある。
<年賀状、ありがとうございます。
朝鮮五葉と聞いて、とてもなつかしく思いました。第六次と第七次の二回、野尻湖発掘調査に参加した際に、たまたま朝鮮五葉の花粉化石を採取したからです。
トウヒやツガ、モミ、カラマツなどの亜寒帯から冷温帯の植物の花粉が大半でした。
ウルム氷河期(第四氷期)の約二万年前ですから、かなり寒い時期だとの説明をうけたことを思い出しました。>
野尻湖の発掘調査は、一九六二年に始まり、第六次調査は一九七五年、第七次調査は一九七八年のことである。
一戸さんは娘さんと一緒に、この二回の調査に参加したという。
野尻湖層の下部・中部から出土した植物遺体は針葉樹種子がもっとも多く、そのなかでも多いのはヒメバラモミの毬果であり、チョウセンゴヨウの毬果とカラマツの毬果がこれについでいる。
[井尻正二監修・野尻湖発掘調査団著『野尻湖の発掘 1962-1973 』共立出版一九七五年.一〇二頁。]
今から一万年以前前までは繰り返し繰り返し厳しい寒さと温暖な時期が交代して訪れたので、これを氷河時代と呼ぶ。
当時の日本列島の形状は今日とは異なるが、いわゆる旧石器時代人が住んでいた。
今日、列島各地の遺跡からは、旧石器時代人を取り巻いていた森林の樹木がそのまま発見されたり、またそこに生きていた獣、シカなどの糞までもなまなましい状態で発見されたりしている。
その樹木類は、アカエゾマツなどの亜寒帯性の針葉樹類で、その主要な樹木のひとつにチョウセンゴヨウつまりチョウセンマツが位置しているのである。
今から二万年前は、現在より年平均気温は五~七度ほど寒かったようだ。
たとえば、仙台市富沢遺跡では、現在の地表下三メ―トルに約二万三千年前の氷河時代の林が眠っていた。
その林の主要針葉樹として朝鮮五葉松の葉が出てきている。
[毎日新聞社『日本のあけぼの1/最古のハンタ―』加藤晋平.一九頁。]
小金井市野川中洲遺跡では、地表下三メ―トルのところに旧石器時代の泥炭層(有機質に富み、植物遺体が未分解のなまに近い状態で埋れている)が三層広がっているのが発見され、その中層(約二万年前)からヒメバラモミやチョウセンゴヨウの実などがたくさん出土した。
ほかに三万年前、一万年前のチョウセンゴヨウの種子も発見された。
また、針葉樹の流木や倒木も出、中には約三〇センチ、長さ三メ―トルの倒木もあった。
ヒメバラモミもチョウセンゴヨウもその付近が今よりかなり寒かったことを思わせる。
[朝日百科『日本の歴史1/原始・古代』七一頁。集英社版『日本の歴史1/日本史誕生』佐々木高明.五三頁。]
なお、日本の代表的な第四紀層である京阪神一帯の大阪層群から出土した植物化石を整理分類した<植物群の変遷表>を見ると、チョウセンゴヨウは初期の難波層-伊丹層-上町層-浄谷層-播磨層を通じて大阪層の上部-下部までずっと途絶えず繁茂していたことになっている。
以上のように、チョウセンゴヨウの植物化石が日本各地にから出土していることは、遠藤隆次氏『植物化石図譜』浅倉書店.一九六六年によっても(その一二八~一二九頁に東京・江古田遺跡泥炭層から出土したチョウセンゴヨウの植物遺体-更新世の図)、安田喜憲氏・三好教夫氏編『図説日本列島植生史』浅倉書店.一九九八年によっても(北海道-早来町~厚真町の早来層から現在の北海道には自生しない本州系の針葉樹であるシラベの鱗片やチヨウセンゴヨウの種子などの大型植物遺体が出土。
東北地方-山形・川樋盆地遺跡からチヨウセンゴヨウ。新潟平野南部や関東平野以西-主にマツ科針葉樹が森林を形成しており冷温帯性の落葉樹がこれらに交じって生育しており、当時のマツ科針葉樹は低標高部ではヒメバラモミやチョウセンゴヨウなどが温帯性針葉樹林を、高いところではチョウセンゴヨウ、トウヒ、シラビソ、コメツガなどが亜寒帯性針葉樹林を形成していたようである)わかるのである。
朝鮮松、朝鮮五葉松といっても、今はその名前だけでも知る人は少なくなり、日本ではまったく馴染みが薄くなってしまった。
ところが、朝鮮松すなわち朝鮮五葉松は、約二万年前の大昔は、北は北海道から南は九州まで日本全域に生えていた針葉樹の主役のひとつであった。時は、第四紀である更新世である。
この時代は、世界的な大氷河時代であり、大氷期が五~六回も訪れた氷河時代であった。最後の氷期が終わると、今から七、八千年前に世界的に温暖な時期が訪れる。
日本では縄文海進期と呼ばれる温暖期である。
朝日百科の『植物の世界』第八集の一二六~一二八頁に掲載されている辻誠一郎氏の「日本の森の変遷、六万年」を読むと、過去五〇万年間同じような周期で氷期と間氷期とが繰り返されてきたが、その最も新しい氷期と現間氷期(後氷期)を通して、日本の植生の変化様式が素描されている。
<およそ六万年前から一万年前までの五万年間、日本列島は乾燥気候に見舞われていた。五万年前と二万年前は気候が著しく寒冷になり、シベリア、サハリン、北海道は地続きとなって日本列島は大陸から垂れ下がった半島のようであった。
現在により近い二万年前には、海面は今より約一〇〇メ―トル下がっており、「北の陸橋」がやはり開かれていた。
津軽海峡は氷でつながる「津軽氷橋」、瀬戸内海は大湿地が広がる「瀬戸内陸地」であった。
日本海には暖流が流れ込まず、黒潮もはるかに沖合いをかすめるだけであったから、植生も今とは大きく違っていたはずである。
最近、最終氷期の最盛期とされる二万年前ころの植生が急速にわかってきた。
二万四千年前の始良 あいら カルデラ(現在の鹿児島湾北部)の巨大噴火が日本のほぼ全域に大量の火山灰を降らせたことが明らかになり、これを鍵に年代が決めやすくなったからである。
当時の森林をトレ―スしてみると、氷期にどのような植生帯が成立していたかがよくわかる。
現在と比べて特異だと思われるのは、針葉樹の優占が日本の全域に及んでいたことである。今では、北方四島、サハリン以北に分布するダイマツや北海道に普通なエゾマツ、アカエゾマツが東北地方中部にまで、中部山岳地帯以北のいわゆる高山帯をなすハイマツが中部地方の盆地から東北地方以北の平野にまで、また、中部山岳地帯にまれに生えるカラマツ、チョウセンゴヨウや、ヒメバラモミ、ヤツガタケトウヒなどトウヒ属バラモミ節が東北地方北部から九州に至るまで、おのおの広大な面積を占有していた。今日の主役たち、ブナやカシの仲間は当時は目立つことがなく、南端部もしくは局所的な逃避地で生き延びていた。
このように当時の日本は著しく針葉樹林化を遂げていたといえる。しかも、針葉樹の多くが、今ではあまり目立たないか、まれな種であった。
どうしてこのような植生が成立していたのだろうか。
それはやはり、大陸から垂れ下がった半島に象徴されるような気候と風土によっていたと解される。
寒気団の南限を示す北極前線は当時、現在位置する北海道中央部よりはるか南の、東京と大阪を結ぶ線の前後まで張り出し、梅雨や秋霖など雨の多い季節がはっきりしなかった。台風は太平洋岸をかすめる程度だったかもしれない。…
乾燥を好み、温帯から亜寒帯まで温度に対する広汎な適応範囲をもつ針葉樹種の独壇場となったのである。…
堆積物の中から花粉を抽出し、種組成の変化から植生史を調べる方法を花粉分析とよんでいる。
過去二万数千年間の連続堆積物をこの方法で解析してみると、約一万一〇〇〇年前、これまでの話のような針葉樹が優占する植生が劇的な終末を迎えたことがわかる。
約二万年前の日本列島に広がっていた森林の主役たちは、カラマツ、チョウセンゴヨウ、ヒメバラモミ、あるいはダイマツ、アカエゾマツ、ハイマツ、ゴヨウマツ、アカマツなどの類似種子であり、草本類ではコケスギランやミツガシワなどであった。…
約一万三千年前、最終氷期が終りに近づき、全般に寒冷乾燥気候が卓越した氷期から温暖で湿潤な気候が支配する間氷期へ向かっていくと、針葉樹優占時代は終りを告げ、植生に大きな変化が始まる。
日本海には対馬暖流が流入し始め、黒潮の勢力は大きくなるとともに日本の沿岸に急接近しはじめた。現在に続く間氷期の象徴でもある縄文海進はこの変化をもって始まった。…
針葉樹優占時代終る
もっとも、針葉樹の急激な衰退後、ブナ林や照葉樹林といった今の代表的な森林植生に一気に移行したわけではない。
関東地方以西では、まず落葉樹のコナラ属やクリが針葉樹にとってかわり、エノキやムクノキの短期間の優占を経て、シイやカシの仲間から成る照葉樹林へと移り変わった。中部地方や関東地方以北ではコナラ属の優占がそのまま継続するが、わずかに遅れてブナも加わり、種数の多い落葉樹林へと移り変わった。
照葉樹林をつくる樹種やブナの分布の拡大は、南のほうが早かったことは確かであるが、拡大の仕方にはいくつかの考えが提唱されている。
最終氷期に現在より南に閉じ込められていたが、あるいは局所的に取り残されていた集団が、気候の温暖・湿潤化とともに徐々に北方へ拡大したというのがひとつ。
もうひとつは、拡大の時期は南のほうが早かったのだが、海進が一時的に止まったり、海面が下がるという海況の変化、あるいは巨大噴火のような突発的な事件を契機として、段階的に拡大していったという考えである。
かつて私も前者のように考えていたが、海に囲まれ、生態系の秩序を一瞬に崩すような突発的な事件が多い日本では、これからの豊富な資料の蓄積によって、後者の考えの正しさが裏づけられるのではないかと思っている。
台地や丘陵を除くと、平野は見渡すかぎり広大な低地であり、人工集中域でないところは農耕地として開かれ、低地は見通しのきく馴染み深い空間である。
弥生時代以降は、水田稲作農耕や畑作農耕の伝播によってつくられてきたこのような空間に、開発される以前のおよそ二千数百年間、うっそうとした森林が成立していたことなど、私たちは最近まで想像もしなかった。
一九八〇年代に入ると、低地や谷に及ぶ規模の大きい遺跡の発掘調査が各地で急増し、自然環境や人間の生業についてのおびただしい資料が得られるようになってきた。
そのなかで私たちが驚きをもって注目したのは、およそ四五〇〇年前から二千数百年前の森林がそのままパックされて残されていた大規模な埋没林であった。
縄文時代後期の大森林時代
まず、東京低地の台地緑や埼玉県の大宮台地から群馬県の館林台地に刻まれた谷で、湿り気の高いところにハンノキ、ヤアグモを主とする湿地林、少し乾いたところにトチノキ林やケヤキ、ムクノキ、アサダ、カエデの仲間などからなる落葉広葉樹林が次々と見出されていった。
これらの埋没林は、ほぼ木本の植物遺体のみからなる泥炭の中に埋まっており、森林がその場で枯死し、埋積していったことを物語っている。
縄文海進がピ―クを迎えるのは約六三〇〇年前である。
その後、海面は停滞あるいは少しずつ低下を始め、約四五〇〇年前、急速に海退の時代に入った。
縄文中期の小海退とよばれる。関東平野をはじめ海に面した日本のほとんどの平野は、縄文海進期に侵入していた海が急速に退いていき、そのあとに広大な陸地が出現した。その陸地がいつまでも裸のままであったはずはない。
湿原植物がいち早く侵入し、泥炭地化が急速に進んだ。泥炭の埋積は地下水位を低くし、森林の成立を大いに促進したと考えられるのである。
若狭湾に面した福井県の三方低地帯では、縄文時代後期に樹齢が二〇〇年をゆうに超えるスギやハンノキ、ヤチグモからなる低地林がそのほぼ全域に成立していたことが、その後わかってきた。
さらに秋田県や青森県の津軽地方の海岸部に見られる広大な砂丘地帯が、当時はブナやトチノキなどの落葉広葉樹林におおわれていたことも明らかになった。
海退によってできた広大な陸地、そして砂丘形成の停止、これらが一気に植物分布の拡大を促し、平野部に大森林時代をもたらした。
気候の寒冷化と立地空間の出現はもちろん森林の樹木だけではなく、さまざまな植物群にさまざまな戦略をともなった移動と分布の拡大を促した。
弥生時代に入ると、突然、大森林時代は幕を閉じた。
弥生の小海退とよばれる新たな環境変動、そして農耕伝播に象徴される人間活動の活発化が複雑にからみあい、日本の植生史はそれまでとは性格の違った新たな道を歩みはじめる。>
旧石器時代人の重要な食料 松の実
約二万年前のヴュルム氷期最盛期、気温はいまよりも七度ほど低かったとされている。この時代の衣食住の特色を具体的に復元できるほどの遺物はいまのところほとんど発見されていない。
だから、よくわからないというのが正直なところである。
佐々木高明氏は集英社版『日本の歴史1/日本史誕生』』一九九一年の第一章日本列島の旧石器時代」でこう語っている。
<当時の人のおもな食料は、花泉遺跡や野尻湖遺跡のキル・サイトの例によってもわかるように、大型獣 ビッグゲ-ム を中心に中小型獣も含め、その肉と血や内臓や脂肪などであったことはいうまでもない。そ
れらの一部は焼き肉や燻製や干し肉にして移動の際の携帯食料にすることもあっただろう。このほか、植物性食料も可能な限り利用していたに違いない。
アク抜きの技法は、縄文時代になって完成するものなので、当時はアク抜きを必要としない植物が食料の対象となっていたと思われる。
東北日本の亜寒帯針葉樹林帯やその周辺ではコメモモ・クロマメノキなどの 果しょうか 類やハイマツ・チョウセンゴヨウの実などが、西日本の落葉広葉樹林帯や広葉樹と針葉樹との混合林帯ではチョウセンゴヨウ・ハシバミをはじめ、クルミ・クリ・ヒシなどの堅果類やヤマブドウ・サルナシ・キイチゴなどの 果類、ウバユリなどの根茎類が食料として利用されていたと思われる。
なかでも、その当時、本州から北九州にかけてひろく分布していたチョウセンゴヨウの実は小型のピ―ナッツほどもあり、栄養価も高く、食料として重要性が大きかったと鈴木忠司氏は推定している。私もその意見には賛成である。>
[前掲書.五一~五二頁]。
その後の森林相の変化
元エ―ル大学の歴史学の教授であり日本近世史が専門である、
コンラッド・タットマン氏の『緑の列島/ 工業化以前の日本の森林 THE GREEN ARCHIPELAGO / Forestry in Preindustrial Japan 』カリォフルニア大学出版部.一九八九年という著書が、
熊崎実氏の翻訳で『日本人はどのように森をつくってきたか』築地書館一九九八年として出版されている。
有史以来明治維新までの日本の森林と林業の歴史を包括的に扱った著作として国際的にも評判の高い著作である。
訳者は、「日本列島におけるヒトと森との歴史的なかかわりについて、近年の研究成果を広く取り入れながら、その全体像を鮮明に描き出した<通史>としては唯一のものである」と評価している。
タットマン氏によると、「工業化以前の日本列島の森林は、二つの大きな危機に直面した。律令国家の成立過程で見られた古代の(森林)略奪(六〇〇~八五〇年)と、秀吉・家康の諸国統一に象徴される近世の(森林)略奪(一五七〇~一六七〇年)がそれである。とくに近世以降、森林伐採が全国に広がり、林地開墾も盛んになつた。傾斜が急で地質的にも脆弱な日本の山地に繰り返し強度の干渉が加えられれば、生態系の劣化が急速に進展する。
事実、<近世の略奪>があった直後には(森林は)荒廃の一歩手前まで来ていた。しかし現実には朝鮮半島や中国の山地に見られるような極度の森林荒廃は起こらなかった。 というのも、一七世紀の終わりころから伐採速度が低下し、より安定した森林利用のパタ―ンが出現するからである。
まず第一に、森林の利用と林産物の消費にたいして強い規制が加えられるようになった。統治者による上からの取り締まりに加えて、村びとたちもコミュニティのレベルで自主的な規制を強めていった。
だが、消極的な規制だけでは林産物の絶対的な不足は解決しない。ついで、一八世紀の半ばあたりから、規制に加えて、積極的に(森林)資源を育成する方式が広く採用されるようになった。スギ・ヒノキの人工造林がそれである。
タットマン氏によれば、こうした措置が成功をおさめ、日本はドイツとともに世界に先駆けて収奪的な林業から持続的な林業への転換を果たしたという。
この転換によって今日の日本型育成林業の原型が形成され、二〇世紀半ばまでつづく<植林の時代>を支えることになるのだが、その育成林業はいま崩壊の瀬戸際にある。」
<エコロジカル・テロリスト>日本
<訳者まえがき>は以上のように、タットマン氏の論稿を要約し、次のような訳者の補足を試みている。
<タットマン氏が平成にまでおよぶ日本の全森林史を書くとしたら、列島の森林が直面した三番目の危機として「二〇世紀の略奪」を加えたはずである。
二〇世紀に入ってからも、官民挙げての植林の努力が、列島の森林荒廃を阻止し、木材の国内生産を大幅に増やしたのは事実だが、その一方で森林の伐採頻度が高まり、列島の森林はしだいに疲弊の度を深めていった。
それがとくに顕著になったのは太平洋戦争とその後の復興期においてである。
一九五〇年の林野庁の調査によると、森林一ヘクタ―ル当たりの材木蓄積量は全国平均でわずかに六七立方メ―トル。
温帯の工業国の最低のレベルにまで落ち込んだ。…
この危機に直面して日本人はふたたび植林に精を出した。
戦中戦後に伐り荒らされた山林にほどなく緑がよみがえり、奥地の天然林や里山の薪炭林なども次々と成長の早い針葉樹に切り替えられていった。…
だが、この植林も年々増加する当面の木材需要に対してはあまり足しにはならない。
木材資源の枯渇とともに材価の急騰が始まった。
他の資材による木材の代替と外国産木材の輸入が本格化するのはこのときからである。そのおかげで国内の森林はあまり伐られなくなった。
長年酷使された列島の森林にしてみれば、しばしの休息がおとずれたということであろう。
二〇世紀の略奪が生み出した森林危機は、植林によってではなく非木質系の代替資材と外国産の木材によって救われたと言っていい。
それは一方で、化石燃料の大量消費と地球規模の森林破壊という深刻な代償をともなっていた。
地球環境の悪化と引き替えに、国内の森林が安定を得たのである。
森林について言えば、伐採圧力が国内の森林から国外の森林に移された。
その対象になったのは、東南アジアの熱帯雨林、北米やロシアの北方林、オ―ストラリアの天然ユ―カリ林をはじめ、世界のあらゆる森林におよんでいる。
世界中のこれほど多くの地域から、これほど大量の木材・木製品を集めている国はほかにはない。
輸入材の多くは原生林から伐り出されたもので価格も安かった。
というのも林木の更新保育費用や環境へのダメ―ジを最小にするための費用が含まれていなかったからである。
更新費用と環境費用を外部化した安価な木材が大量に流入すれば、植えて育てる育成型の林業は成り立たない。
世界に先駆けて成立した持続可能な人工林林業はこのようにして存立の基盤を失ったのでる。その結果、世界一の木材輸入国でありながら、自国の森林の活用度がもっとも低くなるという奇妙な現象が生み出されている。…
近年の統計によれば、国内の森林が保有する木材のストツク量は約三五億立方メ―トル。この木材は生きた材木の形をとっているから毎年成長する。
その成長量は年当たり九〇〇〇立方メ―トルくらいにはなるだろう。
物的な材積だけで言えば、国内の木材消費量の約八割に相当する。
ところがこの成長量のうち実際に伐採・利用されるのは三分の一程度でしかない。成長量の七~八割を利用する欧米諸国とは雲泥の差がある。
たとえば、ドイツの森林は一〇〇〇万ヘクタ―ルで四〇〇〇万立方メ―トルの木材を生産しているが、日本はその二・五倍の面積で二五〇〇万立方しか生産していない。
ヘクタ―ル当たりの森林蓄積は五〇年当時の約二倍に増加しているのに、木材の生産量のほうは減少をつづけ、国内の自給率はついに二〇パ―セントになってしまった。
日本は熱帯雨林や北方の針葉樹林を破壊して自国の森林を温存しているのではないかと勘ぐられたり、「エコロジカル・テロリスト」という有り難くないニックネ―ムを頂戴したりする理由もここにある。…
木材の消費を押さえひたすら植林した以前の日本人と、熱帯雨林や北方林の崩壊に目をつむってひたする安い木材・木製品を求めつづける今日の日本人とのあいだには、埋め切れないほどのギャップがある。なぜこうもちがってしまったのか。…
よその国の森林なら荒れてもかまわない。
安い木材であればいくらでも使うという島国根性がわれわれのどこかにあるのかもしれない。
しかし、基本的には市場経済と自由貿易がもたらした帰結ともいうべきであろう。…
地球規模の市場経済に潜む危険性を早くから予見していたマハトマ・ガンジ―は、一九二九年にこう書いた。
「インドが西欧のやり方をまねて工業化することを神は禁じている。イギリスのような小さな島国の経済帝国主義が今日世界を鎖でつないでいるが、もし人口三億のインドが同じような経済開発を始めたとしたら、世界はイナゴの大群に襲われたように丸裸になってしまうであろう」と。
イギリスのやり方を忠実にまねて成功したのが日本である。
この小さな島国の一億二五〇〇万人が高い生活水準を享受できるのも、経済帝国主義によって世界の資源をかき集めているからだ。
タットマン氏の表現を借りれば、工業化社会が取り得るテクニックを駆使して世界のエコシステムから生計のかてを獲得しているということになる。
ガンジ―がインドの人々に説いたのは「国内で手に入らないものは欲しがるな」、「自らの手でつくったもの以外は身につけるな」ということであった。
これが人間のまっとうな生き方だとすれば、地域資源の循環的利用を旨とした徳川(幕藩体制)のシステムのほうが、現代のシステムよりも、はるかにまっとうであったと言わねばならない。>
[コンラッド・タットマン/熊崎実訳『日本人はどのように森をつくってきたのか』築地書館.一九九八年.「訳者まえがき」四~六頁.一〇~一一頁]。
マツ林盛衰記
日本列島においてチョウセンゴヨウを含めた針葉樹林が優占していた時代は、更新世とともに終わった。
旧石器時代人が生きていた最後の氷河時代が終わるとともに、チョウセンゴヨウの樹林は後退し、おそらく北から南までの山地・高地に点在する形になったと思われる。
そして、名前が一般に知られたマツとしては、アカマツそしてクロマツが低地や平野、海岸などでも普通に見られるマツとなり、チョウセンゴヨウマツの残存・存在などは遠く忘れ去られていたと思われる。
二〇世紀の世紀末の九〇年代後半、樹木や林業にはまったくの素人である私が、ふとした興味・関心からチョウセンゴヨウマツ探索を東京周辺で始めたとき、まず訪ねたのは植物園や樹木の多い公園である。
八〇年代の出版物である東京都公園協会監修の東京公園文庫という叢書がある。それを調べているうちに『石神井公園』の巻の中に、公園内の樹木の一覧表があり、チョウセンゴヨウ一本というのが見つかった。
近くの公園だったのですぐその公園の管理事務所に行き、樹木のことがわかる所員に尋ねてみると、そんな樹はとっくに枯れてなくなっているようで知らない、今の公園には無い、という返事で、ひょっとすると神代植物公園ならばあるのではなかろうか、と教えてくださった。
早速、別の日に深大寺の脇にある神代植物公園を訪ねてみた。
植物会館でチョウセンゴヨウの有無と所在を尋ねると、一本だけあるはずだ、という。
しばらく待っていると、現場の人が戻ってきて、あったにはあったのだが枯れてしまって伐ったばかりだ、という答えが戻ってきた。
所在を聞き、一本のチョウセンゴヨウがちょっと前まで生えていた場所を探すと、針葉樹園で、無残に切倒された根株とチョウセンゴヨウの標識だけが残っていた。これが多分調布市の朝鮮五葉として市販の樹木図鑑に載っているものであろう。
別の東京公園文庫に内山正雄・蓑茂寿太郎『代々木の森』というのがある。
これを見ると、明治天皇が亡くなったとき、明治天皇の功業を偲び明治天皇の霊を祭る明治神宮の造営に際し、植民地を含む全国各地からの寄進で集められたさまざまな樹木苗木を明治神宮の内苑に計画的に植樹したのであるが、その植樹された樹木の一覧表が載せてある。その中に、日露戦争の勝利後獲得した植民地である朝鮮から運んだであろうチョウセンゴヨウが四四一本植樹されたと記録されている。
一九九八年、明治神宮社務所を訪ね、林苑課長の中井沢氏にうかがったところ、現在チョウセンゴヨウは一本も神宮内苑には残っていない、とのことであった。
前掲の『代々木の森』には掲載されているのだが、敗戦後の一九七〇年の調査ではまだチョウセンゴヨウが残っていることが『明治神宮五十年誌』に記録されている、とある。とすると、七〇年代から九〇年代後半にかけてのどの時点かで神宮内苑に四四一本もあったチョウセンゴヨウマツが壊滅していったのであろう。
やはり何本も植樹されていたはずのアカマツやクロマツが同じような運命をたどっているようである。アカマツ・クロマツの壊滅という運命が同様に見られるのが、港区白金台にある国立白金台自然教育園のマツ類であろう。
ここでは、この都心の植物園が他の植物園以上に影響を受けたであろう環境の激変に応じた森林の移り変わり、とくにマツ林のゆくすえという問題が注意され、説明されている。
「森林の移り変わり」という説明では、開園当時と現在を比較する図面と円グラフの下に次のような文章がある。
「(戦後)開園当時の自然教育園はシイ巨木の並木、コナラやミズキなどの落葉樹林がありました。
しかし、開園前に人工的に植えられたスギやマツの針葉樹も多く、下草刈りが行なわれていたため、全体に見通しのきく、明るい森でした。
開園後四〇年間に、大気汚染に特に弱いスギやアカマツなどの針葉樹が減り、カシ類、タブ、シイなどのこの地域本来の常緑樹の自然林に変わりつつあります。」
園内の通路脇にあるパネルにはこうあります。
「マツ林のゆくすえ
この林は、樹齢約八〇年のマツとあとから育ったミズキ、イイギリなどの高木、スダジイ、タブノキなどの亜高木、アオキ、ヒサカキなどの低木、そしてアオキ、スダジイの芽生えなどの草木と四階建で構成されています。
しかし、マツはしだいに枯れ、ミズキ、イイギリなどの落葉樹の林に変わりつつあります。そして、長い年月の内にはこの落葉樹林もやがてはスダジイ、タブノキなどの常緑樹林に変わってしまいます。
このように植物群落が時間とともに変化していくことを遷移といい、その遷移が進んで、ある程度安定した林を極相林といっています。」
大阪市南の泉北丘陵地帯に古代の須恵器の窯跡が千基以上発見され、須恵器の破片から使用年代が推定できる窯にのこっていた木炭を分析した西田正規氏の研究によると、その当時使用していた薪のほとんどはカシなどの広葉樹であったが、六世紀後半からアカマツが増え始め、七世紀後半以降になるとほとんど全部がアカマツに変わってしまうという。六世紀から七世紀にかけての時代とは飛鳥時代である。タットマン氏のいう第一の森林略奪期である。
やはり近畿地方周辺の照葉樹林が伐り荒らされて、マツ林に変わってきたのではあるまいか。
八世紀末に近い奈良時代末に編纂された万葉集には、マツは一番名の知れた樹木として現われている。
八世紀初めの記紀の記述に二七科五三種の樹木名が現われるが、その中にマツの名も見られる。人口が増え、生産が進むほど、周辺の森林が略奪され、地力は衰え、その地域本来の森林が維持できなくなると、痩せ地に耐え得る貧しい植生に変わって行く。
その代表がマツ即アカマツ・クロマツ類であった。
西日本ならば肥沃な土地ではその土地本来の照葉樹に圧倒されてしまうので、それらが育ち得ない痩せ地でマツは勢力を持つ。
人々が森林の収奪を繰り返す。そこの土地が痩せる。
今までの樹木が衰える。
その後を狙って、それまで尾根筋などの痩せ地で耐えてきたマツが進出する。
日本列島各地の里山のマツ林は、多かれ少なかれこうした経過で生れたようだ。
長い歴史の中で繰り返されてきた収奪が土地の肥沃化するのを妨げ、マツ林の景観が維持され、それが日本の景色の代表として認められてきたのである。
人口少なく人手がかかることなかった木曽谷にアカマツが増え始めるのは、近畿より四、五百年も遅れて一一〇〇年頃から、と土中埋没花粉分析の結果は物語るという。木曽谷ではアカマツの花粉と同時代からソバの花粉も増え始めるという。
ソバは山地や荒れ地を開拓して最初に栽培されることが多く、畑地の土壌改良の意味も持つ作物であるので、ソバの花粉が現われることは人間の営み・働きが加わりだしたことの指標ともいえる。
アカマツとソバという共に人間臭い二つの植物の同時出現は、この頃から木曽谷の人間活動が盛んになり人口も増え始めていることを示唆している。
豪族の木曽氏が平家討伐に乗り出すのに数十年かかっていること。
木曽義仲の挙兵は一一八〇年である
。[以上<マツ盛衰記>は只木良也氏『森と人間の文化史』NHKブックス.一九八八年.第三章マツ林盛衰記による]。
白砂青松の海岸とよく言う。
土とは言えない砂、そんな栄養分の少ない痩せた土地でも生きられるのがマツである。
海岸の砂浜では、まず塩に強くて地下茎の発達する植物があちこちに群を作って砂の動きを止め、そのあとがクロマツ林になる。
クロマツは砂の中の塩分を徐々に取り除き、落ち葉などの有機物が溜まって土の条件がよくなると、やがて広葉樹林へと代わっていく。
「白砂青松という。…しかしながら、この言葉を、白砂を流し出す荒れ山、土壌化の進まぬ青松の林と捉えれば、人間の収奪が繰り返されてきた日本の自然を表現しているとは言えないだろうか。もちろん、白砂青松のすべてを人間のせいだとはいわないが、もともと白砂青松になりやすい国土の体質に、人間の収奪が拍車をかけたといってもよいであろう。文化の開け始めるのが早く、花崗岩地帯であった瀬戸内の山々はその典型である。」
[前掲、只木良也氏『森と人間の文化史』六六頁]。
「マツ林は、日本文化の栄養となった照葉樹林などの本来の森林の墓標ともいえ、それは日本文化進展の指標でもある。」
「一九五五年ごろから、化学肥料や石油・プロパンガスなどの進出によって、落葉や薪炭材の採取がなくなって里山林が肥沃化し始め…マツ林も確実に肥沃になってきた。」
「マツタケはもともと地力の低い、常に人が地面を掻いているようなマツ林の産物である。肥沃な土地ではマツタケ菌が他の菌に負けてしまうからだ。…肥沃な土地ではマツがその土地本来の他の樹木に圧倒されて生育できないのと同じである。土地が肥沃になったマツ林からはマツタケは採れなくなる理屈である。事実マツタケの不作は一九五五年以降、石油化社会になってからのことであった。」
「さて、マツ林の肥沃化は、そこの本来の植生が回復してくることを意味する。例えば西日本ならば、もとの照葉樹林に戻っていくことになる。里山にとっては結構なことだが、マツ自身には困ったことといわざるをえない。それに追い討ちをかけるように、松食い虫被害が全国に広がった。」
「戦後間もなくの(松食い虫の)大発生には、戦時中のマツ脂や松根油採取に代表されるマツ林の環境破壊があったし、再発のきっかけは相次ぐ台風被害、そして七〇年代前半の都市開発や道路開設およびそれに伴う被害材の移動、大気汚染は松枯れ拡大に拍車をかけた。七〇年代後半の大被害は、その頃の異常高温と異常小雨が影響しているらしい。」
「燃料革命と化学肥料進出以来、マツ林は収奪されなくなり、その土壌は徐々に肥沃になって、より豊かな植生を維持することが可能となってきた。かつては燃料として先を争って採られていた枯れ木がそのまま放置されていることは、マツノマダラカミキリに絶好の産卵場所を提供し、また肥沃化したマツ林の、生き生きとよく伸びた新梢はカミキリの好餌でもある。これも松枯れの重要因子であろう。…かつてその被害が騒がれた九州では、いま松枯れ騒ぎは下火となった。枯れるべきは枯れ、もう枯れるほどのマツがなくなったともいえるのである。マツが優勢であったかつての風景は影をひそめ、その跡は土地条件さえ許せばシイ・カシなどの照葉樹林へと推移を見せている。」
只木良也氏は、そのマツ林盛衰記を次のように締め括っている。
「千年あまりにわたった日本のマツ林の全盛時代は、今終わりに近づいているようである。森林酷使の歴史の中で、その土地本来の樹木が生育不能な痩せ地をおおい、貧しい土地や岩石の上にすら根を張って、日本の山の緑を守ってきたマツの功績は大きい。もしわが国にアカマツ・クロマツがなかったとしたら、わが国土はどんなに荒れ放題になっていただろうか。それを考えるとぞっとする。マツ林は徐々に姿を消していくであろう。それは当然松枯れ病の終息を意味する。しかし、マツは絶滅するわけではない。ずっと昔にそうであったように、山の尾根筋や岩場などに生き続けていよう。そして条件が整えば、また我々がその気になって呼び戻すならばいつでも、帰ってくるはずである。」
[前掲書.『森と人間の文化史』六八~七四頁]。
が、 今は稀少といわれ、名前すら忘れ去られているチョウセンゴヨウマツ、福島から岐阜までの亜高山地帯、そしてわずかに四国の東赤石山脈に散在するというチョウセンゴヨウいま条件さえ整えば低地・平野でも植栽されているように、と言い加えておきたい。
古代以降の日本での朝鮮松
朝鮮五葉、別名朝鮮松は中国名では紅松 ホンスン、朝鮮名ではチャンナム、ロシア名ではケ―ドラといい、現在はロシア極東の沿海地方のシホテ・アリン山脈から中国東北部、朝鮮半島北部にかけての針広混交林帯と、日本本州中部、四国の一部に分布している。
現在の日本では亜高山帯針広混交樹林の中に散在する目立たない樹種であるが、大陸の針広混交林では最も重要な構成種として位置づけられ、寿命は四〇〇年以上と長く、広葉樹林内でよく更新する極相種である。
これらのことは第一話から語ってきた通りである。
洪積世、氷河時代には、北海道から九州まで日本列島を優占していた大針葉樹林帯、そこに住む旧石器時代人には見慣れたものであったろうチョウセンゴヨウ。
しかし、もちろんその当時の人々は、その五葉松が後に「朝鮮松、朝鮮五葉松」などと呼ばれるようになるなどとはまったく関知しなかった。
そして、氷期が終わり、縄文時代から弥生時代へ、古墳時代、古代以降、おそらくは、「豊臣秀吉の朝鮮出兵」ということで日本列島人の相当数がチョウセンマツ、チョウセンゴヨウの世界である朝鮮半島(一部は「加藤清正のトラ退治」という説話に象徴されるように「オランカイ」[北間島カンド]まで)に体当たりする集団的歴史体験までは、この五葉松のことはそれとして念頭にはなかった、特別の松としては自覚されてはいなかったのではないだろうか。
文献記録の中では、この十六世紀の九〇年代以降までは、朝鮮松・朝鮮五葉松がそういう特別の松として現われてくることはなかったのではないか。
現代の日本列島に散在するチョウセンゴヨウの数や分布よりももっと数多くまたもっと多くの地域にチョウセンゴヨウが生きていたとしても、列島に住む人々はそれとして認識することがあったのだろうか、疑問である。
しかし、とにかくチョウセンゴヨウが主要なかつ重要な樹種であり続けた東北アジアの大陸からは、珍重される<マツの実>、不老長寿の薬物として、大陸からの客人が古代以来の日本に輸入し、また貴重な贈物として持参しつづけたことはさまざまな文献資料により跡づけることができる。
この場合、これを大陸からの客人から受け取った列島の人々は、その<マツの実>が探せば日本列島の各所に眠っていることに気づかなかったのだと思う。
キタリスなど小動物と朝鮮五葉
氷期が終わった後も、東北アジアの大陸各地のチョウセンゴヨウ植物圏ほどではないが、日本列島の亜高地帯を中心に散在して生き続けたチョウセンゴヨウは大陸の仲間と同じような面白い種子の散布の仕方で種を維持し続けたと思われる。
実はチョウセンゴヨウの種子は、この樹木この種子と共存共生した森林の動物であるネズミやリス、とくにキタリス、そしてカケス、イスカ、ホシガラス、ライチョウなどが、大量に集めて四辺に散布してきたのである。
彼ら小動物たちは、貯食を行なう動物である。彼らは、種鱗をはぎとった種子すなわち球果をくわえて運びながら、種子を二~四個ずつ、深さ数センチの地中に分散して貯蔵する。このようにして、森林あるいは丘陵内の広い範囲にわたって分散貯蔵された種子は、すべてが食べられることはなく、食べ残された種子が発芽し、成長してきたのである。
つまり、彼ら小動物によってかなり大量の種子が集められ、移動されて各地で種を殖やし種を維持し続けてきたのである。
[朝日百科『植物の世界』第一一集「チョウセンゴヨウ」の項目および辻井達一『日本の樹木』中公新書二〇頁.参照]
大陸でいえば、中国東北部の小興安嶺でも森林の中の各所でまとまった形でベニマツ即チョウセンゴヨウの稚樹の発生を見た、と植物生態学の辻井達一氏が『日本の樹木』中公新書でチョウセンゴヨウの種子を小動物が広く伝播することに注目している箇所で述べている。日本で言えば、高山の高木限界付近に見られる低木状のチョウセンゴヨウ(ハイマツに似た状態の)がこの例ではあるまいか。
ベニマツを主要構成樹種とする東満洲の樹海を歌い続けたニコライ・A・バイコフは、『樹海に生きる』(今村龍夫訳・中公文庫)にある「クロテンの毛皮」の中で、クロテンとリスと紅松すなわちチョウセンゴヨウと三者の共存共生のきずなを描いている。
<かつてクロテンの生息分布地域は、シベリアをはじめ、北ロシア、リトアニア、スカンジナヴィア半島にも及んでいたが、今ではシベリアやカムチャツカ、サハリン、ウスリ―スク地方と北満洲のみとなった。
この地域に残されている紅松を主体とする松林に、クロテンの大好物であるリスが生息しているからだ。
現地の猟師たちは、
「紅松があればリスがいる。リスがおればクロテンがいる」
とよく言うが、的をえている表現である。
満洲でも紅松林が減少してきたため、いまではクロテンは、アム―ル河(黒龍江)の支流のクマラ川上流地域、小興安嶺山脈の山中、東満洲の山岳森林地帯にみられるだけである。
クロテン狩りは地方によって違う。
シベリアではライカ犬を使ってクロテン猟をする。
ライカ犬に追われて木の上に駆け上ったクロテンの頭を、小さな弾でねらうが、この方法だと高価な毛皮のきずが小さくてすむ。
満洲ではクロテンの通路である風倒木の穴や、木の幹の空洞のそばに網を仕掛けて捕獲する。朝鮮ではいろいろな仕組みのワナで捕らえる。
リスの生息地である紅松林の伐採増大とともにクロテンも姿を消した。
最近の統計によると、毎月の捕獲数は千頭にも達しない。
「最後の紅松が切り倒されるときこそ、クロテン絶滅のときである」―私は自信をもってこう断言できる。…
クロテンは森を移動するとき、風倒木、岩石など凸状のところを伝わってゆくが、この習性を猟師が利用して、このような場所にワナを仕掛ける。
クロテンの足跡は広い足裏と、かかとの回りにびっしり生えている毛のおかげで、実際より大きく見える。
クロテンは戦っても勝てる小動物を食糧とするが、植物も松の実(もちろん紅松の実である)、どんぐり、ブドウなどのほか、キノコも喜んで食べる。クロテンの敵は人間のほかに、ヒマラヤテンと呼ばれるキエリテンとオオヤマネコがいる。>
バイコフは、ほかの文章で、長白山系とその北支脈である老爺嶺と老松嶺をおおう樹海(東奔道ドゥンベンダオと呼ばれる)に触れ、
<年老いた満洲人はこの地方を樹海 シュ-ハイ とよんでいる。事実、これらの果てしない森林は、その緑の波で山脈、渓谷、谷間を埋め尽くし、樹海から生ずる音は、海辺の潮騒を思い起こさせる。「森の枝を伝わって、リスは土を踏まずに、百里の旅ができる」―樹海に生きてきた老密林人たちは、よくこう言うのである。>
<一九〇二年の一月、私は帽児山 モウルシャン 駅の北方にある同じ名前の帽児山のふもとへアカシカとイノシシ狩りにでかけた。当時、その一帯は鬱蒼とした紅松の原生林で、無数のイノシシの群れがいた。「トラはイノシシを放牧している」と中国人はよく言うが、イノシシの群れのあとを、牧童のようにトラが追い、必要に応じて食べていた。帽児山の岩山にトラがすみつき、そこで子を育てた。>
リスとクロテン、そしてイノシシとトラ、みんな紅松林即チョウセンゴヨウ林にともに生きる住人だったのである。
そういう植物としては例の朝鮮人参がある。
新羅人通訳から松子を贈られた円仁
八世紀末、下野国都賀郡に生れ、十五才で最澄に師事し、八三八年四四才のとき、唐帝国に渡り、五台山・大興善寺など各地で修行し、密教の奥義をきわめ、八四七年帰国して天台宗山門派の祖となり、比叡山の堂塔完備につとめ、天台教学を大成した僧侶、その人が円仁 えんにん である。
謚は慈覚大師。彼が残した貴重な渡唐記録が、
『入唐求法巡礼行記』[深谷憲一訳.中公文庫.一九九〇年]である。
この記録の、入唐二年目の八三九年三月の箇所に次のように書いている。
<三月十七日
…船頭は日本人の水手を統率するほか、さらに新羅人で海路をよく知っているもの六十余人を雇い入れ、船ごとにあるいは七人、あるいは六人とか五人を配置した。また新羅人の金正南に円仁らがどうしたら唐に留まることができるか、その方法を考えさせたが、いまのところどれが得かそうでないか、まだはっきりした結論が出ないでいる。
三月二十二日
早朝、沙金大二両と大坂腰帯一つを新羅人の通訳劉慎言に与えた。
三月二十三日
午後二時、劉慎言が新芽の上茶十斤と松脯(しょうほ、五葉松の実)を請益僧の私に贈ってきた。
三月二十五日
午前六時出発、風は真西から吹いている。淮河の流れに乗って東に進み行く。午後二時、徐州の管内漣水県の南に行きつき、淮河の中で停泊した。>[前掲書一五〇頁]
六六三年白村江の戦いのあと、六六八年に国交を再開した新羅と日本は、八世紀になると複雑な国家間関係を重ね、藤原仲麻呂政権の新羅征討計画(中止)を経て、七五二年の新羅使の来日を転機として、新羅使の使行目的には貿易活動という経済的側面がつよくなり、七六八年ころには新羅の民間商人の来航が盛んになり、民間商人の活躍により貿易に傾斜していた使を派遣する必要がなくなり、新羅が使を派遣しなくなった、という。
一方、漂着した新羅人に食糧を与え新羅に帰す日本朝廷の政策は九世紀後半にも続いた。日本が唐へ往来するときや新羅に漂着した場合に新羅の協力を配慮した処置である。
当時、新羅船の優秀性と新羅の西方あるいは南方を通過することになりやすい航路のため、唐から帰朝する日本の使や僧侶たちは新羅船を借りて航海に慣れた新羅人を雇うことが多かった。
新羅朝廷も日本人の漂着者について同様の措置をとっていたようで、八四五年には日本人の漂着者五〇人を送還した。
姜在彦氏は、『玄海灘に架けた歴史』朝日文庫.一九九三年.の中にある「円仁の入唐求法と新羅坊」で次のように述べている。
<比叡山延暦寺を知らない人はいないだろう。
しかし円仁の意志によって赤山禅院が建立され、赤山明神が延暦寺の護法神になっていることを知る人はいくばくいるだろうか。
[中国の山東半島東端にある文登県清寧郷赤山村の岩石が高く秀でる赤山の中に赤山法華院という張宝高が創建した寺があり、円仁は入唐時、まずここの聖琳和尚の世話になり修行する.赤山には新羅坊があり、新羅人の居留地で自治が行なわれていた.]。
円仁が入唐求法した九世紀は、新羅と日本との関係がきわめて冷却し、事実上国交が断絶していた時期である。
にもかかわらず円仁に対する新羅人たちの献身的な好意は、何を意味するのだろうか。
そこには国家次元の関係を越えて、仏教信仰で結ばれた民間次元のおおらかな交流がある。…新羅人通訳金正南をはじめ、張詠、聖琳和尚、劉慎言らを抜きにして、円仁の入唐求法の成功は考えられないだろう。
このことを円仁は死にぎわまで忘れなかったようだ。>
円仁の『入唐求法巡礼行記』を読めば、彼がこの入唐求法巡礼行の行く先々でどんなに新羅人や新羅坊の世話になったか、がわかる。
九世紀の初め、新羅人で張保皋チャンポゴ(張宝高)という将軍が唐軍にいたが、新羅に帰り、半島西南海域の莞島におかれた青海鎮 チョンヘジョン 大使に任ぜられ、艦隊を率いて黄海に出没する海賊をとりしまり、一方では唐や日本(太宰府)との貿易もとりしきった。
八四六年張の死後、在唐新羅人はその後も商人組織を作り日本の入唐僧たちが日本に帰国するときには同行して交易することによって、唐・新羅・日本の三国間交易で蓄財した。しかし、八五一年青海鎮廃止後には唐商人が日本にしきりに行くようになり、対日交易の中心は新羅商人に代わり唐商人が担っていくようになった。
円仁が入唐早々、新羅人の通訳劉慎言からお返しに頂戴した新芽の上茶と松の実、この松の実はもちろん朝鮮五葉の松の実に違いない。
多分、中国東北産のものではなく朝鮮半島の美味良質の松の実であったろう。円仁は保存栄養食糧そして貴重な薬用として有難くこれを頂戴し大事に使用したに違いない。
E.O.ライシャワ―の『円仁 唐代中国への旅』田村完誓氏訳・原書房.一九八四年の七三頁にはこうある。
<遣唐使の日本人が、中国で買い求めようとした品物は、香と薬品であったが、しかし彼らが受けた贈物の大部分は、絹織物であった。
おそらく上等の絹と一行の学者が蒐集した写経や絵など、 その他 桃、蜜、松の実など消耗してしまうものもあった。
銅貨やある種の抹茶やナイフなどは日本に持ち帰る値打ちのあったものである。>
ここにも、松の実が出てくる。
謎の海東の盛国 渤海国
渤海という国が、唐帝国と同時代に東北アジアで栄えた。
ツング―ス系の靺鞨(以前の粛慎、後の女真と同系)族や高句麗遺民を統合して、大祚栄が、六九八年東満洲に建てた国である。
唐の官制や文化を移入したいわゆる律令国家で、首都は上京龍泉府、最盛期は中国東北、ロシア極東のプリモルスキイ(沿海)地方南部から北朝鮮までを支配した。
一時は唐と勢力を競い、仏教文化も栄え、「海東の盛国」と呼ばれ、日本の大和朝とは日本海を舞台に七二七年から九二二年にわたって親しい国交(三四回の渤海使船、十三回の遣渤海使船)が続けられたが、九二六年契丹族の遼に倒されている。
渤海使船は現在のロシア極東プリモルスキイ(沿海)地方のポシェト湾クラスキノ村(クラスキノ土塁跡)から船出し、日本海の冬の北西季節風やリマン海流を利用して朝鮮東岸を敵対する新羅の領海を避けて南下し、越前・能登・出羽・隠岐・但馬・長門・出雲・伯耆・若狭など日本海に面する各地に着いた。
八〇四年能登国には渤海使のための客院が造らされている。
一九八四年に黒龍江省文物出版編輯室から出版された『渤海史稿』が佐伯有清氏監訳・浜田耕策氏訳、朱国忱・魏国忠両氏『渤海史』東方書店一九九六年として翻訳出版されている。同書の第五章「渤海の社会と経済」の第五節「商業と貿易」にこうある。
<以上の種々の合法・非合法の経路を通じて[公貿易の他に密貿易・私貿易の意味]、渤海から中国各地(日本へも、と解釈してもよかろう)に運ばれて記録されているものは、主に 虎皮・海豹皮・貂鼠皮・白莵皮・猫皮・革・馬匹・羊・鷹・海東青・鶻・鯨鯢・魚晴・鯔魚・乾文魚・人参・昆布・牛黄・頭髪・松子・黄明・白附子・蜜・金・銀・金銀の仏像・六十綜布・魚牙紬・朝霞紬・靴…などである。>
松子とあるのは、もちろん松の実、朝鮮五葉松の実である。
さらに、第八章「渤海の文化」では「飲食」の項目にこうある。
<渤海の民衆の食物はそれ以前より豊富であって、五穀・雑穀および肉食のほか、史料には魚・鳥・卵などの副食と蜂蜜・松の実・昆布・えび・かに などが記されている。>
第八章「渤海の文化」には「雪滑り」という項目があり、沿海地方の民族である流鬼人が使っているスキ―の元祖のような器具が記録されており、また、渤海における造船技術・建築技術の発達について特記している。
このような器具、造船、建築それにおそらく車両に、松の実を採取する樹木である渤海国特産の朝鮮五葉松が活用されたのではあるまいか。
渤海の領域である東満洲・沿海地方・北朝鮮は、第一話・第二話・第三話で話したようにまさに連続する朝鮮五葉の世界であった。夫余・高句麗についで渤海国の故地は、後の女真がそうであるように、朝鮮五葉が主要な構成要素をつとめる森林地帯の豊富な土地であった。
遣唐使と並んで遣渤海使が日本の大和朝廷が試みた唐風な律令国家の基礎づくりに大きな役割を果たしたことであろう。
たとえば、八六二年に採用され、江戸時代まで八〇〇年間にわたり使われた太陰暦は、渤海使がもたらした当時最新の唐の宣明暦がもとになっている。
唐から帰朝する遣唐使が渤海の船に便乗することもあった。渤海はさきに上げた特産以外に「羽のように軽く、透明な光沢があり、色が実に美しい」磁器や鼈甲や碼瑙の杯とともに高価に取引された。
また、渤海国では製鉄の技術もかなり高度であったという。
ところが、渤海国の丁度中枢部に位置した白頭山(長白山)は多分一〇世紀に何回目かの大爆発をおこし、大量の噴出物、火砕流、溶岩流をともない、森林の破壊は半径五〇キロメ―トルに及び、その火山灰は東方一〇〇〇キロ以上の遠方に達した。過去二千年間を通じて世界最大級の火山爆発のひとつであった。
白頭山をのせている蓋馬ケ-マ 高原地域を中心として七世紀末から九二六年まで栄えた渤海国の滅亡は、この噴火によってひきおこされた可能性がある、と都立大学の町田洋氏は示唆している。
[町田洋「長白火山の大噴火とその環境影響(英文)」『東京都立大学地理学研究報告』第二五号.一九九〇年.]
この時の火山灰は、遠く東方の北海道や東北地方北部にも降灰し、火山灰層として発見されている。
北方民族と元帝国
中国化した元朝の立場で書かれた『元史』や『元文類』巻四十一に、十三世紀「骨嵬」族という北方種族がひたすらサハリンを北上し続けたが、すでに元に降伏していた黒龍江の「吉里迷」族に衝突、「吉里迷」族が東方の「骨嵬」族と「亦里于」族が攻撃してくる旨を元朝に訴えたので、一二六四年、元軍がサハリンを北上しさらに黒龍江へ西行しようとする「骨嵬」族を迎え撃とうとした。この戦いは、四十余年続き、一三〇八年「骨嵬」族の帰順により終結している。
「骨嵬クイ 」族は、戦前の研究以来アイヌ民族をさすと、されており、「吉里迷 ギレミ 」はオホ―ツク文化人であり今日のニブフ・ニグブンの祖先であり、「亦里于 イリウ 」はウィルタとされている。
一三〇八年には「毎年貢異皮」の条件をみずから言いだして「乞降」、まぁ示談、「帰順」という類と想像される。
サハリン・黒龍江における元軍とアイヌ民族との交戦の理由は、モンゴル人勢力の「世界征服」の特徴からみて、サハリン-黒龍江のル―トを経由して中国・大都に通ずる毛皮の販路を手に入れるためと考えられる。
サハリン-黒龍江(現在のロシア極東)の民族の特産の代表が毛皮であり、毛皮の販売で和商品や中国製品を入手したのである。
モンゴル人の世界帝国の中枢・元帝国は黒龍江水系を軸とする北方地域の「毛皮の道」を獲得しようとして、この地域での「骨嵬」との長期の戦いを敢えて続けのだと思う。そして、「骨嵬」の「帰順」と「毎年貢異皮」という和平協定の締結で、サハリン-黒龍江水系を軸とする「毛皮の道」は維持・安定し、この東北地域の物産は大都の国際市場に集められ、さらにモンゴルの世界帝国の各地へ運ばれてもいったに違いない。
いわゆる<北方水域における「元寇」>とは、このような意味をもったものであったろう。
[大隅和雄・村井章介編『中世後期における東アジアの国際関係』山川出版社一九九七年.中の中村和之「十三~十六世紀の環日本海海域とアイヌ」。海保嶺夫『エゾの歴史』講談社選書メチエ.一九九六年]。
十三湊とアイヌと山丹人とナナイ
<津軽半島の十三湖といわれている潟湖の出口にあたる十三湊には、早くから都市が形成されており、たくさんの中国製の青白磁や列島内の各地の焼物が発掘されている。
十二世紀からかなりの量が出ているので、平安時代の末から、十三湊にも中国製の青白磁が流入していたと考えられる。
能登半島の珠洲焼も十三世紀に入ると十三湊に入っており、北海道の上ノ国や余市にも珠洲焼が流入している。このように日本海の交通ル―トは早くから安定していて、十三湊はそのときの大きな拠点だったと考えられる.(網野氏は、十一世紀には廻船のル―ト、廻船人の組織が日本列島全域にわたってできあがっていたと考えてよいと思っている、と言う.)>
[網野善彦『続・日本の歴史をよみなおす』筑摩プリマ―ブックス.一九九六年.九七頁]。
<ここ十三湊は津軽の安藤氏の拠点であり、十四世紀には都市として最盛期をむかえており、西の博多に匹敵するといってもよいほどの繁栄をしていたことが、最近の発掘によって明らかになった。町並みをもつ都市であり、中国大陸の銭や中国製の青白磁が大量に出土するし、高麗青磁も出てきた。十四世紀から十五世紀にかけて、十三湊が北の国際的な都市になっていたことは間違いない。>
[網野前掲書、一三四頁]。
<十四世紀に入ってまもなく、四国、西海で熊野海賊の大反乱がおこる。…
しかも同じころ、北でも「蝦夷」の反乱といわれる、北海道の海上勢力と北条氏との大衝突がおこっている。
アイヌはこのころ活発な交易活動をしているのだが、北方の都市津軽の十三湊に根拠を置き、日本海から北海道にいたる商業、貿易のネットワ―クをおさえている安藤氏の一族内部の対立もからみ、アイヌもまきこんだ北条氏にたいする大反乱がおこる。
何回かくりかえし起こったこの反乱を、北条氏は滅びるまでついに鎮圧しきれなかった。>
[網野前掲書.一四三~一四四頁]。
<十五世紀のごく初頭、象がパレンバンから運ばれてくるほど、この時期の日本列島は、中国大陸、朝鮮半島はもちろん、東南アジアまでをふくむ広い東アジアの貿易圏のなかに入っていた。
このころに確立する琉球王国はこうした交易活動を基礎にしており、琉球の船はこの広域的な貿易ル―トを東西南北に活発に動いていた。
一方、北方でも、北東アジアとの関係が緊密であったことが明らかになっており、さきにあげた津軽の十三湊は日本海を西方に向かう貿易ももちろんやっているが、北東アジアとの貿易港にもなっていくような状況がみられた。
このように十五世紀の日本列島の社会は、東アジア全体との緊密な関係のなかで理解されなくてはならないと思う。>
[網野前掲書.一五四頁]。
戦国期につくられたと考えられている『廻船式目』という文書がある(越前内田敬三氏旧蔵文書、『鎌倉遺文』より)。
戦国期の日本列島全域の廻船人のネットワ―クの中から作り出されてきた慣習法の集大成であるが、この自立的な廻船人の全国組織の点である列島全域の有力な港として「三津七湊さんしんしちそう 」が挙げられている。
三津とは伊勢の姉津(安濃津なるべし)・博多の宇津・泉州の境津、七湊とは日本海に面する重要な港であり、越前の三國・加賀の本吉(三馬なるべし)・能登の輪島・越中の岩瀬・越後の今町(直江なり)・出羽の秋田・奥州の津軽十三の湊が挙げられている。
<十三湊から多くの高麗青磁が出たことについては…報告されると思いますが、関周一さんは、能登の守護であった畠山氏が朝鮮の漂流民の送還を理由に、朝鮮との交易を独自に開こうとしていたことを指摘されておられます。さらにまた、朝鮮国王に対し、若狭以西の海の領主たちが直接関係を結ぼうとして使いを送った事実にすでに確認されており、日本海の海の領主たちは独自に朝鮮と交流していたと考えられます。
[網野善彦「中世の日本海交通」二八~三〇頁.国立歴史民俗博物館編『中世都市十三湊と安藤氏』新人物往来社一九九四年]。
さらに網野氏は、秋田の院内銀山には十七世紀の初め非常に栄えた銀山町が形成されており、全国から商人や職人も集まりかなり大きな都市ができており、この状況を記録した『梅津政景日記』の慶長十八年(一六一四年)四月二十日条に「高麗の吉右衛門」という人物が現われている.この人はまぎれもなく高麗人ではないかと推測できる.つまり、高麗-朝鮮と東北との関係はやはりただならぬものがあったと考えることは十分に可能だと思う、と述べている
[前掲文章.網野氏.三一頁]。
一五九二年(文禄元年)豊臣秀吉から高麗陣の先将を命じられた加藤清正の軍は、四月十二日釜山に上陸、五月二日には京城を占領、七月二十三日には会寧を攻略、朝鮮の二王子、左右大臣、大官十二名を捕虜にし、さらに豆満江を渡り七月二十六日兀良哈(オランカイ)に攻め入った。
『清正高麗陣覚書』にこうあるという。
「せいしう浦」で「せるとうす」という名の「北国の武者大将」を生け捕りにしたが、その配下に「おらんかい口(女真語)をも、朝鮮口をも、日本口をも、自由につかい申候能よき 通詞」がおり、清正は重宝がって二郎と名づけ召し仕った。
この二郎はもと松前の漁師で、風に流され「せいしう浦」に漂着し、二〇年ほど暮した人だった、と。
[村井章介『海から見た戦国日本』ちくま新書一九九七年.六〇-六一頁]
一衣帯水というが、オランカイ(のちの間島地方および沿海州地方あたり)と北海道松前あるいは津軽・日本海側の日本とはこのような距離にあったのである。
村井章介氏は、フロイスの『日本史』を引いて、統一権力をうちたてた豊臣秀吉の朝鮮侵略の<判断の背景には、つぎのような地理認識があった。
―朝鮮国征服の次第をよりよく理解するためには、関白当人がかの地から得た情報、ならびにかの地の事情と地勢が印刷されている諸地図にもとづき、まず同国の特質、および同国民について知っておく必要があろう。
この朝鮮地方は…三四か国と隣接し、西方ではシナ人と接触し、朝貢国として彼らに対して毎年貢納している。
北部および北東部ではタルタ―ル人とオランカイ人(の土地)に接している。
オランカイ人(の土地)は、日本の北部と大きい入江を形成し、蝦夷島の上方で北方に向かって延びている突出した陸地である。
―秀吉は日本海の岸が蝦夷地・オランカイでつながる閉じた円環をなしていることをよく知っていた。
かれが小田原攻めの前から再三「奥州・津軽・日の本まで」あるいは「関東・出羽・奥州・日の本迄」仰せつけると広言していたことも、朝鮮侵略戦争の過程で加藤清正が戦略的にオランカイへ侵入したことも、豊臣政権が日本海をとりまく地域のすべてを征服しようという構想をもっていたことを示すのではないか。>
という仮説を述べている。
[村井章介『海から見た戦国日本』ちくま新書一九九七年.五九頁]
『諏訪大明神絵詞』は南北朝期に作られたものだが、そこには宇曽利鶴子洲(函館)と万堂宇満伊犬(松前)の人々が、安東氏の支配下にあった奥州外ケ浜と往来交易していたことがみえ、鎌倉末期の陸奥の安東一族の合戦に数千の「夷賊」が動員された、と記している。「蝦夷管領」といわれた安東氏の根拠地十三湊とさみなとには、「関東御免津軽船」を始めとする和人の商船の間に、アイヌの船も数多く停泊していたことであろう。
『十三往来』の『蒼海滄々トシテ、夷船・京船群衆シテ艫先ヲ並調ヘ、湊ニ市ヲ成ス』という文章も簡単には捨て切れない(『青森県史』第一巻)[福田豊彦「鉄を中心にみた北方世界」一九二頁.『蝦夷の世界と北方交易』中世の風景を読むシリ―ズ1.新人物往来社一九九五年]。
十七世紀の初頭に北海道に渡ったイエズス会修道士アンジェリスとカルワ―リュのイエズス会に宛てた報告書がある(H.チ―スリク編『北方探検記』吉川弘文館一九六二年)。
その報告によると、ラッコの皮と鷹や鶴、鷲の羽などを持参したメナシのアイヌが東方から、中国の緞絹に似た織物(山丹錦)等を持参したテンショ(天塩だけでなく樺太に居住する人も含んだ呼称)のアイヌが西方(北方)から、船を連ねて松前に来ている。それは、ラッコを持参したアイヌだけで百艘、一艘に日本の米俵二百石を積める大船もあったという。
西方からの朝貢物には、干鮭・鰊・白鳥・鯨・魚油、それに高価なラッコの皮と安いトドの皮などがあった。彼らが持参したラッコや山丹錦は、彼らの土地の産物ではなく、千島列島や大陸に住む他民族からの交易品であった。
ラッコは千島の猟虎島(ウルップ島か)などから、山丹錦はアム―ル河(黒龍江)を下り、ギリヤ―ク(現ニヴフ)経由でもたらされた品物であるから、ここでのアイヌの役割は中継貿易である。アイヌは後世では考えられない旺盛な海洋交易民であった
[前掲福田豊彦論文、一八四、一八八頁]。
山丹錦といえば蝦夷錦ともいわれ山丹交易の目玉商品であったが、古くは『中外抄』に出ており、一一四三年、前関白藤原忠実が
「(琵琶などの)宝物は、えぞいはぬ錦などを袋用可ニ、下品生絹を袋縫テ入たるなり」と語ったという。
のち沿海州方面との山丹交易品として有名になる高級織物蝦夷錦が、この頃の京都ですでに知られていたのである。
[海保嶺夫『中世蝦夷史料』『中世蝦夷史料補遺』から]。
実は山丹交易の主役は、アイヌよりもニヴフ(ギリヤ―ク)、ウィルタ(オロッコ)、ウリチ(オルチャ)、ナナイ(ゴリド、ゴルヂ、あるいはホジエン、ヘジェンなど沿海州・アム―ル河地域の人々であったが、日本側からだけ見ると松前藩やその支配下に入ろうとするアイヌにのみ目が偏ることになるのである。
サハリン(樺太)の諸民族と明朝との朝貢関係の成立と継続は、当然のことながら、サハリンの関係民族に高価な絹織物や衣類をもたらすとともに、これらの絹織物や衣類はサハリンの関係諸民族の手を経て、同島内のアイヌ民族はいうまでもなく、北海道のアイヌ民族にも流入したものとみられる。また、河内良弘氏によれば、成化期(一四六五~八七)以降、東北の女真と明や朝鮮との貂皮交易が盛んになり、女真は、この貂皮交易を通じて鉄製農具を積極的に入手したということである。
とすると、一五~一六世紀には、女真や他の民族を介して、こうした鉄製品の一部や他の中国産製品もサハリンの諸民族にもたらされたと推察される
[榎森進「アイヌ民族と安藤氏」一四九~一五〇頁.小口雅史編『津軽安藤氏と北方世界』河出新社一九九五年]。
<このころなお北奥地域には多数のアイヌが居住しており、津軽海峡を往来する「狄船」の姿がめずらしくなかった。一五九三(文禄二)年の南部信直書状は、下北の田名部・横浜・野辺地で多くの「ゑぞふね」が建造されていたことを記している。>
[村井章介『海から見た戦国日本』ちくま新書.五六-五八頁]
「ゑぞふね」といえば、樺太・北海道のアイヌの船がナナイの五葉で造られた優秀な船をモデルにしていたことや、実際にナナイの船を購入していただろうことなどが想起される。
<モヨロ貝塚(北海道オホ―ツク海沿岸)のアイヌ民族の女性の墓に副葬されている首飾りの下端の円形の透かし彫り文様の青銅製装飾品は、本来アム―ル河下流域やウスリ―河下流域や松花江下流域のナナイ民族が長上衣の裾や胸に縫い付けた装飾品だったろう。
サハリン南部のパ―ルスノエ村の墓やピウスツキ収集の帯飾りに用いられている小型の青銅製装飾品は、本来ナナイ民族のかぶりものやウデヘ民族の長上衣の装飾品だったかもしれない。
またパ―ルスノエ村の墓から出土したガラス玉はナナイ民族の首飾りのガラス玉と同種のものであろう。
ガラス玉はいわゆる青玉として山丹交易の交易品のひとつに挙げられている。
ガラス玉はデレンの交易所で山丹人やニヴフ民族がナナイ民族から入手してこれをサハリンにもたらしたのであろう。
あるいはサハリンのアイヌ民族が自らデレンの交易所で入手したものかもしれない。
他方、透かし彫り文様や小型の青銅製装飾品は山丹交易の交易品に列挙されていない。
しかしながらこのような装飾品を含めて、一七~一九世紀に北海道とサハリンのアイヌ民族は北方交易を通してさまざまな大陸製品を入手していたことだろう。>
[菊池俊彦「アイヌ民族と北方交易」一一一~一一二頁.北方史研究協議会編『北方史の新視座―対外政策と文化―』雄山閣一九九四年]。
朝鮮五葉の世界を故地とするナナイや女真と山丹人、そしてサハリン(樺太)・北海道のアイヌ、そして津軽安藤氏の十三湊、「中世」「近世」の「日本海交易」とは、以上に見られるような興味深い相関関係にある。
日本の銀と東北アジア
島根県の太田市の山間部に十六世紀に開かれた石見銀山が代表する戦国日本の銀は、世界に出回り、世界経済を一時動かした。
十七世紀前半、日本全体の銀の生産額は四~五万貫、これが世界の銀産の三分の一を占めたといい、石見銀山だけでも世界の銀の十五分の一を産出していた。
十七世紀実現した、日本の幕藩制国家による生産設備および労働力編成の組織化がなければこのような銀産出額の達成は不可能であったろう。
この銀は当初は、国内の需要はわずかで、大半が輸入の決済や輸出商品そのものとして海外に流出していった。
十六世紀の初めまでは、日朝間の貿易で銀はむしろ日本側の輸入物資だったが、石見銀山が発見されるとすぐ、日本銀が流入していった。
倭人が銀の見返りとして朝鮮に求めたものは圧倒的に綿布だった。
公貿易・私貿易におけるこの変動は、朝鮮の経済を撹乱し、朝鮮半島を経由して大陸へ流れ込んだ日本銀は、経済先進地帯の中原ばかりでなく、遼東の辺境地帯にも吸い寄せられた。
十六世紀の遼東地域では、中国中央部のめざましい経済発展にもしげきされて経済ブ―ムが起きており、朝鮮半島をしのぐほどの活気を見せていた。
そこで利益を手中にした実力者たちの代表が、李成梁、毛文龍、そして建州女真から勃興してきたヌルハチである。彼らの手元にも日本銀が蓄積されていたかもしれない。 日本銀の中国流入は、朝鮮半島経由よりも、東シナ海を横断する直航ル―トの方が太かった。倭人や中国人密貿易商は、盛んに東シナ海上のル―トで列島から日本銀を搬出した。十六世紀のことゆえ、この銀の道にはヨ―ロッパ海上勢力も加わってきた。
メンデス-ピントの『東洋遍歴記』によれば、平戸- 州間を往来する中国船の積んでいた日本銀をイスラム海賊が奪い、最後にはポルトガル人が手に入れた、とある。まもなく日本銀の名はヨ―ロッパにも聞こえるようになる。
十七世紀の初め、イギリスやオランダの船によって、日本から上質の銀が多量に搬出された。日本銀を原資として中国や東南アジアから諸種の産物が買いつけられ、ヨ―ロッパやその他の地域に輸出された。
こうして日本銀は、東アジアから世界を駆けた、といってよい。
十六-十七世紀の東アジアの海面では、唐人・倭人・韓人・それに 達子(女真人)も活躍していた。
建州女真はじめ女真人は海洋民族でもあったのである。
[以上、村井章介『海から見た戦国日本』ちくま新書.第五章/日本銀と倭人ネットワ―クおよび第六章/統一権力登場の世界史的意味によるところ大きい。]
壬辰倭乱と「清正の虎退治」
「秀吉の朝鮮征伐」などと戦前の皇国史観では教えこまれた、豊臣秀吉の野望から引き起こされた壬辰・丁酉倭乱とはいったい何であったろうか。
戦争が終わって百二十年も過ぎた時点で日本に派遣された朝鮮通信使の申維翰 シンユハン の『海游録』の中にある雨森芳洲との問答にこうある。
崔官氏の『文禄・慶長の役』講談社選書メチエ.(五七頁)によって、この問答を省みてみたい。
<芳州は中国語もでき、朝鮮語を学ぶために釜山の倭館にも滞在したこともある。
当時としては稀な国際人であった。
師の木下順庵の推挙で若い時から対馬藩に仕えた彼が、外交官として朝鮮通信使を江戸まで随行し、申維翰との数カ月の旅の後での問答である。
雨森東(芳州)「吾、いつか折があったら言いたいと思っていた所懐がある。
日本と貴国は、海を隔てて隣国であり、たがいに信義をいたす。敝邦の人民はみな、朝鮮国王と寡君が敬礼の書を通じていることを知っており、ゆえに公私の文簿には、必ず崇極を致している。
しかし、ひそかに貴国人の撰する文集を見るに、その中で言葉が敝邦に及ぶところは必ず、倭賊、蛮酋と称し、醜蔑狼藉、言うに忍びないものがある。…」
余(申維翰)「その意はおのずから容易に知りうるところだが、顧みるに、貴国こそ、諒解していないようだ。
君が見た我が国の文集とは、何人の著であるかは知らぬが、しかしこれすべて壬辰の乱の後に刊行された文であろう。
平秀吉(豊臣秀吉)は我が国の通天の讐であり、宗社の恥辱、生霊の血肉、じつに万世になかった変である。
我が国の臣民たる者、誰か、その肉を切り刻みて食わんと思わぬ者がいようか。
上は薦紳(身分や地位ある人)から下は厮隷にいたるまで、これを奴といい賊といってかえるみないようになり、それが文章に反映したとしても、もとより当然のことであろう。
しかし、今日にいたっては、我が聖朝は仁をもって生民を愛し、関市(釜山・東莱の倭館)して交易し、かつ日東国(日本)の山河に、すでに秀吉の遺類なきを知る。
ゆえに、信使を遣わして和睦を修め、国書を交換し、大半の民庶がみな、その趣意を仰いでいる。どうして、あえて宿怨を再発させることがあろうか」
(「日本見聞雑録」)>。
戦争が終わって四百年たった今日、申維翰が答えた「その意はおのずから容易に知りうるところだが、顧みるに、貴国こそ、諒解していないようだ」という言葉は依然として生きている。
これは、「秀吉の遺類なきを知る」と申が述べた日本の状況が、数世紀を経た今日、どうなっているのだろうか、ということを憂慮させるものがある。
<壬辰倭乱の九十一回、丁酉再乱の十八回におよぶその激しい戦闘から壬辰・丁酉倭乱は成り立っているのである。
合計百九回におよぶ数多くの戦いのなかでも晋州城攻防戦は、晋州という一城をめぐって朝鮮・日本の両国軍が二度とも激しい攻防戦を繰り広げた一番代表的な戦いの一つであり、後代には両国で伝説化・作品化された象徴的に戦乱を物語るものである。
晋州はその地理的要件から、全羅・慶尚両道を結ぶ朝鮮軍の拠点となり、日本軍の集中的な攻撃を受けることになった。
壬辰倭乱が起こった一五九二年十月と翌年六月の二回にかけて、晋州城を囲む日本軍と朝鮮軍との攻防戦が熾烈に行なわれた。
この攻防戦は戦局の流れを左右する重要な戦いにふさわしく、朝鮮では第一次晋州城攻防戦は「壬辰倭乱三大捷(三大勝利)」の一つとされており、それを受けた第二次晋州城攻防戦も、九万人をはるかに上回る戦乱最大の日本軍が一つの城に投入された前例のないものであった。
当時の記録からも、壬辰戦乱史の一ペ―ジを飾ってきた晋州城戦闘は、両国二回ずつの勝利と敗北、戦乱最大の死者、そして二回の晋州城戦闘から生まれた戦争英雄といった数々の出来事によって、両国民に他の戦いより印象強く位置付けられてきた。>
[崔官『文禄・慶長の役』講談社メチエ.八十二-八十三頁]
<二回にわたる晋州城攻防戦の熾烈さ、守る側と攻める側の命かけたじつに凄絶をきわめたものであった。第二次晋州城攻防戦の朝鮮側の死傷者だけでも、朝鮮の記録では六万人、日本の記録では二万五千人と記されている。…翌年の第二次攻防戦の時も、日本軍が受けた被害は少なからぬものであったが、晋州城陥落後の朝鮮側は悲惨そのものの状況であった。…
軍民の死者は六万余にのぼり、牛、馬、鶏、犬さえも残らなかった。賊は、何一つ残さずに城を毀ち、壕を埋め、井戸をうめ、木を切り倒し、こうして以前の憤りをはらした。(中略)軍士であれ民間人であれ、(城から)脱出できた者は数人に過ぎなかった。倭の変乱があって以来、死者の多いこと、この戦いのように甚だしかったことはなかった。(『懲毖録』)>
[前掲書.崔官氏.一三八~一三九頁]
晋州城陥落の時、官妓論介 ノンゲ が倭将を抱き寄せて南江に飛びこんで死んだという事実は、現場の目撃者たちによって口承されてきた。
以後、論介は壬辰倭乱の花として、フランスにおけるジャンヌ-ダルクと肩を並べる朝鮮の義妓として、敬われている。
一方、日本において、この戦争はどのように後世に語り伝えられてきたであろうか。
軍国主義・侵略主義の風潮にいかにも見合った話で、戦前の日本の子供たちには馴染みの話に、「朝鮮での加藤清正の虎退治」がある。
清正が小姓の上月左膳が虎に殺されたのに腹を立て、三叉の槍でその虎を刺し殺したという話で、子供心には共通の絵柄としても鮮明に刻み込まれてきたものである。
しかし、この話は『常山紀談』という、文禄の役から百四十年以上もあとに岡山藩士湯浅元禎が書いた英雄豪傑譚が元になっているのだが、虎を捕った場所も年月も出典もない話である。
小姓の名を入れていかにも実話らしく作ってあるが、根拠なき作り話であろう。
[朝鮮総督府の教科書編纂に携わっていた小田省吾という人が、昭和九年(一九三四)京城帝国大学医学部考古会で講演した記録が『朝鮮役と加藤清正』として公刊されており、清正の虎退治を作り話として否定しているという。
遠藤公男『韓国の虎はなぜ消えたか』講談社一九八六年.一三二頁]。
清正の虎退治について触れた、ちゃんとした文献は発見されていない。
『清正記』には帰国した清正が慶長元年、秀吉に進物として虎の皮五枚を持参したとある。部将たちが、虎を塩漬にして秀吉のもとへ送った、とか、秀吉が薬用として虎の皮・頭・骨・肝胆の入手を一部の部将に命じたという資料もある。
虎は、洪積世には日本列島を含めてまさに朝鮮五葉の世界であった東北アジアの各地の密林・山地には生息していたらしい。
梶島孝雄氏の『資料・日本動物史』八坂書房一九九七年を見るとこうある。
<トラは洪積世前期以降、我が国にも生息していたが、縄文時代草創期までの間に絶滅し(日本の考古学)、…しかし縄文・弥生時代から往来のあった朝鮮半島には多数生息していたためであろう、虎に関する知識は古くから豊富で、…>とあり、日本書紀、万葉集、古事記などの出典例を挙げている。
そして、さらに
<虎皮は(古代から)中世に入ってもしばしば進物として用いられており…>数例を挙げたうえで、<このあと豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には虎に関する話題が豊富になり、文禄二年(一五九三)には亀井武蔵守が鉄砲で虎を撃ち取り(寛永諸家系図伝)、松浦鎮信等も虎狩りを行なっている(甲子夜話三篇二四-五)。
こうしたことから判断すると当時の朝鮮半島には非常に多くの虎が生息していた事がわかる。…
江戸時代に入り、朝鮮との国交が修復すると、将軍の代替わりの際に朝鮮から信使が来訪する事が恒例となり、その際には慶長一二年(一六〇七)を始めとして、贈物の中に必ず虎皮が含まれるようになる(実紀)。
虎皮の贈答は朝鮮信使以外にもしばしば行なわれており、敷物や馬具、刀の尻鞘等に広く用いられている。このように需要が多かったためであろう。『雍州府志』によると京都には虎皮の偽物である植虎皮を作る職人が現われている。>とある。
[前掲、梶島孝雄『資料・日本動物史』第二部動物別通史・第一二章脊椎動物・三九、トラ 八坂書房一九九七年.五八一~五八三頁]。
その後、朝鮮半島の虎はどうなっただろうか。
ずっと時が流れて、昭和十一年(一九三六)版の村岡懋麻呂編『鮮満動物通鑑』という本には次のようにあるという[遠藤惟道『韓国の虎はなぜ消えたか』講談社一九八六年.一二七頁]。
<…朝鮮といえば、虎を連想させるほどだが、今は江原道、平安北道、咸鏡南道の僻地でなければ、容易に捕ることはできなくなった。
中国東北部では大、小興安嶺から西は内外蒙古、東は吉林、黒龍江省の大森林中に今そうとうの頭数いるようである。…>
さらに、同書二三一頁にはこうある。
<WWFの日本委員会に、北朝鮮の虎のことを尋ねると、IUCNが出したレッド・デ―タ・ブック(一九六八年版)には、一九五七~六六年にかけて、白頭山で五頭が確認されており、長白山脈の南斜面に残っている可能性があるとのこと。これ以上新しい情報はないらしい。
国立科学博物館にも寄って、小原巌さんを訪ねた。…
「北朝鮮の虎はわかんないですねえ。しかし、中国科学院は一九八〇年にはじめて、大陸の虎を発表しましたよ。かつては全土にいたのに、今はもう狭い地域に小群で分散、孤立しているらしいですね」
小原さんによれば、中国の虎は四亜種いて、一番北に分布するものは東北虎(アム―ル虎)で、陜西省、牡丹江省、黒龍江省、吉林省に分布している。
一九七五年の調査では、約一五〇頭である。
このうち何頭かは、吉林省の白頭山北部にいるらしい。
北朝鮮と地続きの地帯である。
中国でもようやく、虎は第一級の保護動物に指定され、密猟者は罰せられ、繁殖地の環境は保全されるようになった。
虎を含む各種動物の自然保護区が、吉林省をはじめ、各省に作られている。>
一九九八年は虎年だったので、一月七日の朝日新聞夕刊に「種の保存へ/ ”トラ戸籍”/世界の動物園が協力/日本・インドネシア共同研究も」という見出しの記事が載った。
内容は、「今年の干支(えと)のトラが、絶滅の危機にひんしている.百年前には世界中に推定で約十万頭いたが、現在は五千~七千頭台にまで減った.漢方薬の材料になるほねを狙う密猟や、生息地での森林破壊が進行中だ.八つの亜種のうちカスピトラなど三亜種は絶滅し、残された五亜種を絶やすまいと、世界の動物園は「戸籍づくり」を進めている.生息地を追われて保護されたトラを自然に近い環境で繁殖させるとともに生態を探ろうと、日本もインドネシアとの共同研究を計画している」というもので、世界に分布するトラの亜種と生息数についてのIUCN(国際自然保護連合)などによる一九九六年現在の表があり、シベリアトラ(アム―ルトラ)/中国、朝鮮半島、ロシア/四四七頭~五〇五頭とあり、世界中の合計としては五〇七七~七五六〇頭とある。
なお、記事のなかでは。
「増井教授は、トラを自然に返そうとしても、その地域に密猟がなく十分な数の草食獣がいなければ生きていけない.地元の人たちの理解を得ることも現状では非常に難しい.という.…トラは生態系の頂点に立つ.オスのトラ一頭の行動範囲は獲物が豊富なところで数十平方キロ、ロシアでは千平方キロと広大だ.豊かな生き物をはぐくむ森と生態系を守る道を探れと専門家たちは強調する.」とある。
清正の虎退治からトラにこだわってきたのは、いうまでもない。
シベリアトラ(アム―ルトラ)の生息地の大森林とチョウセンゴヨウとが重なっているからだ。
朝鮮五葉すなわち紅松の樹海を愛し、その賛歌を書き続けたバイコフが、『偉大なる王』(今村龍夫訳・中公文庫)で、密林の大王であったトラを讃えて、こう書いている。
<これらの肉食獣のなかに、堂々とした大柄の体格で他を圧している年老いた一頭の牡虎がいた。その広い額に「王」、また後頭部に「大」という漢字が見られた。この二字はその虎が「偉大なる王」であることを意味していた。すべての虎は彼に服従した。彼はタトウティンツの岩場の難所にある洞穴に独りで住んでおり、イノシシやアカシカ、ノロの群れがいる谷を襲っていた。…密林で猟師をしている古老たちは。「王大」の年齢を五十ぐらいと見ており、三親等まで系図を知っている。彼の父親はすばらしい朝鮮虎で、白頭山の頂上にある「龍の偉大なる霊」(大龍王)と呼ばれる洞穴で老衰のため死んだ。その死は地震となって現われた。山の地底に眠っていた巨龍は、石の寝床でのたうち回り、彼の熱い息は灰色の蒸気と有毒ガスとなって、山頂の深い割れ目から噴き出した。噴火口の静かな天池は、たちまち沸騰し、波立ちはじめ、その再生の聖水をスンガリ―河(松花江)へ押し流した。こんな言い伝えがある。
『新生の輪廻をおこなった偉大な人間の魂は、「偉大なる王」の体内に居を移し、「 偉大なる王」の死とともに、人間に見えない蓮の花に化身し、完全な浄化と宇宙の霊との融合までその中にとどまる。スンガリ―の河の水は、聖山の大龍王の息で豊かに補給され、再生の源と活力をもたらす。黄色い蓮は五十年に一度、三日のあいだ花を咲かせるが、そのとき「偉大なる王」が死ぬという。人間の罪から解放された聖人だけがこの花を見ることができる。四十年ほど前、オモシャン郡の森林で北京野獣動物園向けに、皇帝の狩りが行なわれ、まだ若かった「偉大なる王」が網にかかった。中国皇帝の随員の博学者たちが「王」をみつけ、敬意を払って彼を放して自由にした。この儀式には皇帝自身も出席した。自由の身となった「王大」は、静かに皇帝に近づき、深く頭を下げて、ゆっくりと自分が生れた森へと姿を消した』>
[前掲書.今村龍夫氏訳・中公文庫七六~七八頁]。
<高麗特産か、本邦自生か>
序の話で、壬辰倭乱の際、捕虜-奴隷として日本に連行された朝鮮人・中国人のことに触れた。
加藤清正についても、こういう話がある。
清正は朝鮮在陣の間、しばしば築城・築塁をしたが、朝鮮人の石工の技術が精妙であるのに感心して、目を掛け手厚く待遇した。
帰国にあたり、日本への移住を進めると、応じた朝鮮人が二百人を超えたという。
なかでも、王子の小侍部であった良甫鑑(日本名金官)は清正公の人徳を慕い帰化し、禄二百石を貰い、清正が死ぬと殉死したという。
ここにも奴隷官僚がいたわけである。
清正の菩提寺、熊本本妙寺の第三世住職日通和尚も、十三才のとき清正の兵に捕らえられ、惨殺される寸前に清正の目に留まり、側近として熊本へ連行され、やがて出家したという経歴である。
倭乱の爪跡はこのようなものであったが、侵略者が朝鮮から持ち帰ったもののなかに朝鮮五葉の苗木や種子もあったに違いない。
そこで、「盛岡の朝鮮松」に象徴されるようなチョウセンゴヨウをめぐる問題が生じたのである。上
原敬二氏の『樹木大図説』全四巻・有明書房一九六一年の「てぅせんまつ」(第一巻・1-一四七~一五一頁)を見ると、次の数行が目につく。
<岩手県下のものは天然生か人工植栽か疑問とする説がある.伝えるところによれば文禄慶長の頃朝鮮の役に際し盛岡藩主南部信直がこの種を持ち帰り城内に播いたものから繁殖植栽されたのだという.岩手公園にその遺木がある.他の一説では寛永十一年対馬から盛岡に流された方長老という人が種をまいて生育させたのが最初であるともいう.同県岩手郡米内村上田に名木「大道の松」あり、地上一・五メ―トルの周四m以上、高さ二七m(大正元年)に達し、これは盛岡と縁故の深い大道和尚が朝鮮から持ち帰った種子の実生 (みしょう) ものだと伝える.>
壬辰倭乱に出兵した全国各藩で類似の話が生れているのではなかろうか。
実は、チョウセンゴヨウ即ち朝鮮松は今まで話してきたように、洪積世には日本の南北に生えていた五葉松なのだが、氷河時代が終わるとともに交代して他の針・広葉樹に場を譲り、山地・高地に後退残存したわけで、もともと日本にも自生している松なのであるが、しばらく平地・低地の民からは忘れられ、日本には生育していない樹木と一般には思われてきたというのが真相であろう。
日本史の古代以来、一部に珍重された大振りの松の実(海松子あるいは松脯)が舶来物(主として高麗もの、一部は支那産)だと思い込まれ、日本内部でも山地・高地を探れば、それほどの大振りでなければ採取可能であることなどは気づかれなかったのだと思う。
ほぼ十九世紀前半に生きたドイツ人シ―ボルトはオランダに帰化し、長崎出島のオランダ商館の医員として一八二三年来日(一八二八年、帰国、シ―ボルト事件、一八五九年再来日、一八六二年帰国)、商館長に従って長崎~江戸間を往復した。
シ―ボルトは長崎~江戸間の旅行に一四三日を要したという。
その間、彼は各地で日本の植物の調査も行ない、医学や植物の研究を志す人たちと会い、指導もしている。
この植物調査の成果は、シ―ボルトの『日本植物誌 Flora Japonica 』として実った。
大場秀章氏監修瀬倉正克氏訳の『シ―ボルト・日本の植物』八坂書房一九九六年の二一一頁にある「116チョウセンマツ」を見ると、こうある。
[チョウセンマツの絵だけならば、木村陽二郎・大場秀章両氏解説『日本植物誌―シ―ボルト「フロ―ラ・ヤポニカ」―』八坂書房一九九二年の九九頁にある。]。
<おそらく高麗から移入されたこのマツは、日本ではかなりまれに庭や寺の境内で栽培されているだけである。我々が目にしたのはほんの数株であるが、それらの姿形は前種とそっくりである。しかし、高さはどれも三・九メ―トルを超えるものはなかった。我々は高麗の船乗りたちから種子つきの球果も手に入れたが、これは彼らの生国では食用になる。…>
シ―ボルトが長崎から江戸への調査旅行で見聞した朝鮮松についての情報は、十九世紀の二〇年代のものであるわけだが、やはりチョウセンゴヨウの朝鮮伝来説にまどわされている。日本にも自生し続けているということをまだ把握してはいない。小野蘭山の『本草綱目啓蒙』の講義や盛岡の栗谷川仁右衛門の朝鮮五葉植林の勧めを知っていない。
人見必大著・島田勇雄氏訳注の本朝食鑑2』平凡社東洋文庫312の「88松子」の項目にも、<近時韓国より移栽しているが、木が高くなければ実らないので、この実ったところを見たことがない。ただ韓人によって対馬の市であきなわれ、それが全国四方に売られている。また長崎の市にも、中華より伝来している。普通の松子は栢子の大きさくらいで、使うにはあまりよくないものである。>とある。
ただ小野蘭山の『本草綱目啓蒙』平凡社東洋文庫536、同書第二巻・巻之二十七・果之三・夷果類の「松花子」にはこうあるのは注目すべきであろう。
<…新ナルモノハ種デ生ジヤスシ。禅院ニ栽ルモノ多シ。コノ松、本邦ニモ自生アレバ、カラマツト訓ジガタシ。信州戸隠山ニ多シ。唐松郷ト云ウ地モアリ。又、越後出羽ニモ多シテ器材トス。…>
この文献では、信州あるいは越後出羽に自生の朝鮮五葉松が成育していることを認識している。
とにかく、日本にも朝鮮五葉が自生していることを国際的に公認したのは西欧人の学者の手によることになる。
はじめ、日本各地に見られる朝鮮五葉は古い時代、とくに秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮半島から渡来したものと考えられていた。
それが一八八九年ドイツの植物学者ハインリヒ-マイル H.Mayr が群馬県の山中で発見してから、日本にも天然分布していることが確認され、その後、関東、中部両地方の亜高山帯で続々と発見され、福島県南部の枯木山を北限として、栃木、群馬、埼玉、山梨、長野、岐阜、富山、静岡の各県下に野生することがわかった。
そして、愛媛県下の東赤石山にわずかに発見されるに至った。
こうして長年続いた秀吉の「朝鮮征伐の土産」説は崩れた、ということになっている。
さらに、洪積世の寒冷期には、日本の広範囲にわたって繁茂していたことが、化石その他の研究で明らかになったのである。
江戸時代人の植林の思想
江戸時代随一の本草学者小野蘭山以外にも、チョウセンゴヨウとその松の実とが本邦にも自生していることを認識していた知識人が日本の東北に住んでいた。
栗谷川仁右衛門という盛岡の人で、山林の民のために尽くした林業家、植林の実践者でもあった。
ここに盛岡藩士栗谷川(厨川に居るが故にこの氏号を称す)仁右衛門の『山林雑記』という古文書がある。
佐藤敬二氏が「造林業各論には、南に琉球藩蔡温の『林政八書』あり、北には盛岡藩士栗谷川仁右衛門の『諸木植立秘伝抄(山林雑記の別名)』がある」と評価した文献である。
以下、日本農書全集56に収められた『山林雑記』の八重樫良輝氏の「解題」によって、栗谷川仁右衛門と『山林雑記』成立の事情について見てみたい。
盛岡四大飢饉のひとつという天保三(一八三二)年から同九(一八三八)年に及ぶ大飢饉に追討ちをかけたのが、藩財政の窮乏をうめようとした重税政策であった。
そこで当然農民一揆が頻発した。
このとき、天保四年、仁右衛門らは徒かち 目付として役人を連れて、農家が凶作飢饉に備えている備蓄米を徴発する役目にあたり、農民の困窮をつぶさに見たわけである。
天保六年、仁右衛門は田名部(現青森県むつ市)の山林奉行に転じ、三年間の任期を終え、天保九年、大奥御用聞を拝命する。
その三月に江戸城西丸の焼失により、盛岡藩からヒノキ(ヒバ)材一万本の献納を命ぜられたが、四月に田名部山林が大火に見舞われ献納ができず、幕府に陳謝した。
実は、藩財政が逼迫し木材生産に困り、故意に山火事を起こしたという説もあるという。
天保三年から嘉永元(一八四八)年までの藩主三十八代南部利済は、英才ではあれ計画が杜撰で派手好み、種々の工事などを進め、凶作なのに課税が厳しく、農民一揆が多発した。だが、諌言する家臣もいなかったという。
こういう藩の事情を知り、農民の困窮の実態を熟知した仁右衛門が起草し、献策したのが『諸木植立秘伝抄自序』である。
弘化元(一八四四)年、南部藩はとくに養蚕を奨励し、諸士・寺院などの屋敷内の差し支えない場所に桑苗木を一戸につき一〇本以上植えるように命じている。
同三年に仁右衛門は養蚕ならびに紙すきの指導を命ぜられており、山林のことのみならず彼の該博な知識が認められてのことだろう。
盛岡藩は、米穀生産のほか金・銀・銅を産し、馬・木材・海産物の生産も多く、初期においては富裕な財政であった。
山林は当初、武士の知行高に含めて支配させていたが、寛永七(一六三〇)年耕地だけにその支配を限定し、宅地の立木も自由に伐採することを禁止し、山林は一切藩の支配地として山守によって管理することにした。
山守には、元禄年代(一六八八~一七〇三年)には村の古老あるいは有力者を任命して、盗伐・野火・植立・払下などの取締り業務にあたらせた。
正徳年間(一七一一~一五年)には木材を江戸・加賀・松前などに出荷し、公費を補うとの記録も見られる。
農民が家を建てる際には藩有林または入会林から無料で木材の払下げを受けているが、その材は地域により異なるものの、主として雑木・松であり、許可なくしては伐採できない杉やヒバを使うのは武士階級のみであった。
国中一〇郡は三三通に分けられ、各地の交通の便により二五か所に代官所を設置したが、山林の多い地域には山林奉行が配置された。
寛保元(一七四一)年には盛岡近くの山林はあらかた伐り尽くされ、御用木の調達に差し支え、日常の薪炭にも事欠く様が見られた。
延亨二(一七四五)年には、盗伐や山火事が頻発したことから、藩は「御山奉行はその取締りに、また植立に山守とともに心を尽くすように」と申し付けた。
田名部地方では寛政年間(一七九〇年頃)「近年に至り山林の取締りが疎かとなり、水之目御山(水源林)まで伐り尽くされているので、厳重に取締るように」との命令が再三出されたという。
鉱山業の発達あるいは海岸地方の製塩などのため、燃料として山林が乱伐され、山村農民の生活が脅かされたことや藩政に対する農民の反発もあったことだろう。
『山林雑記』は、植立吟味役という藩組織のなかの一介の山林役人という職にあってのことで、内容は備忘録的な形式ではあるが、中国古代周礼の林政の例を引き、山林政策の重要性を説くなど意気込んだものであり、一方へりくだって「短才の記する所なれば」という。
長年その職にあり、自ら体験しえたことのみを記述しようという姿勢が見える。
<植林の業務を取り扱うため、基礎的な一〇〇種に及ぶ樹種解説を「繁栄木天・地・人」として述べているのは、いかに著者仁右衛門が山林の実態把握に執拗なまでに意を用いているかが窺い知れるところである。本書はまさに造林学の各論であるが、単に知識の披瀝ではなく、実践者としての記述が評価されるべきであろう。著者の植林に対する功績が最初に公表されたのは、明治十五(一八八一)年の農商務省主催の山林共進会であった。各県から山林関係の功績者の推薦を受けて集まった総数二千四百余件のなかから、履歴・経験・参考の三部門のうちの履歴の二等賞に著者親子が選ばれている。その理由は、当時の『山林共進会報告』によると、天保の初期から志を立て、自ら植栽適地の選定と諸種の苗木養成を手がけ、苗木を毎年広く領内に頒布して植林を奨め、二公八民の「忠信植立」を主体としたことによって植林を願い出るものが増加したこと、一方では藩に対し植林の必要性を建言したことである。また、その子覚蔵も父の職を引き継いでおり、父子二代の功績が称えられている。> [以上、八重樫良輝氏『山林雑記―解題』・日本農書全集56] 注目すべきことは、本書のなかにある「繁栄をもたらす樹木」に「五葉松」としてチョウセンゴヨウがちゃんと挙げられていることである。
「繁栄木 天号」すなわち藩と人民に繁栄をもたらす植樹すべき木の第一級のもののなかに「松」が挙げられており、そのなかに「五葉松」があり、<…岩鷲山がんしゅうざん霜降り五葉の松あり。是を御山松といふ。じやのめ根岸ふり(松葉の広がりの意)のことくにて、輪付根に白くきわ立て入、吹上松・黒松・赤松ともいふ。葉皆上へ向てかたそき(片削ぎ.神社の屋根のような片流れの形の意)の如しにて、上吹上たる体成故、吹上松と名付ける。葉の長き五葉松あり、大木なり。…>
また、「五葉松実臥之事」(五葉松の播種の意)として、次のようにある。
<秋九、十月松かさより実を取、土中へ入かけ囲置候事。畑拵之儀者、秋より小便水をかけ、畑打こなし、是ハ虫付ぬ為なり。春土用近、上畑拵之事。平畦長七間、幅弐尺砂ふり、其上へ松の実一寸位に千鳥にならへ、其上へ猶川砂ふり、其上へ赤土粟通しにて一分程かけ、其上へ川砂壱分余かけ、是者第一の秘法伝なり。但、虫よけ、みみち外虫よりけら虫杯、或ハよろちの虫よけなり。
杉床之如し菰のせ、松芽出候ハバ棚かき、すたれのせ、雨ふりにハ度々 しろ 水(米のとぎ汁など台所の流し水の意)をかけ、冬囲にハ松葉、三ケ年目一寸余はなし、千鳥植立、植替可申事。五、六年目、又候見合植替可申事。七ケ年目、山植立之事。…>
まさに朝鮮五葉松の植え方である。
さらに、「植立心附扣」(植樹の心得 控の意)では、「五葉松」として、
<右者 松の実弐ケ年中ニ 千かさお買上、御百姓共ニ実臥被仰付候ハバ、従是拾六、七年之間ニ三京江為御登、御国産極一之御入金不少御儀ニ奉存候。>
(五葉松の実を二か年のうちに松かさ一〇〇〇個分をお買い上げになり、百姓たちに播種を命じられれば、今後一六~一七年の間には京都、大阪、江戸の三大都市に移出できるようになり、わが藩第一の収入源として少なからずお役に立つと考える.という意)とあり、仁右衛門は朝鮮五葉の松の実である「海松子、松脯」の商品価値を熟知していたことを示していて、興味深い。
「繁栄木 地号」には、<老松>という最後の項目に、こう説明している。
<老松 てうせん松ともいふ。葉長き松なり、葉の色雪の如く白く、銀のさい(采配の意)ともいふべし。青き色少しまちりて景気成物(人気のあるものの意)、一名しらか松。>とある。
「ちょうせんまつ-ちょうせんごよう」という言い方も使われていることがわかる。
かつて盛岡の銘菓のひとつに『松実糖』というのがあったと本で読んだが、現在はどうなっているのだろうか。
また、第二話で話した浅川巧が書いた文章に「盛岡の朝鮮松」というのがあったというが、まだ発見されていないようである。
浅川巧は、いかなる機会に盛岡の朝鮮五葉について知り、この未発見の文章のなかで何を物語ったのであろうか、大変興味がある。
栗谷川仁右衛門のような江戸時代末期の役人に、このように立派な実践的な植林の知恵というか思想があった。
当時の日本人は、現代の日本人が熱帯雨林や北方林の破壊に目をつむりひたすらただただ安い木材・木製品を求め続けている状況とは、異なり、森林の荒廃を気にし、互いに木材の消費を自制しあったのはなぜであろうか。
タットマン氏の『緑の列島』を訳した熊崎実氏は、当該訳書『日本人はどのように森をつくってきたのか』築地書館一九九八年の「訳者まえがき」で、きわめて重要な、賛成できる見解を述べている。
<そこで私がふと考えたのは幕藩体制という政治経済のシステムである。当時は藩という比較的小さな経済圏内で可能なかぎり自給することになっていた。人びとの自由な移動は許されず、藩の外に出るのはほとんど不可能であった。つまり孫子の代まで地域の資源の枠内で生きていかねばならない。幸いなことに比較的小さい地域であったから、域内の森林の状況を自分たちの目で確かめることができた。森の木を伐りすぎれば、やがて用材や燃料の不足に直面せざるを得ない。山が荒廃すれば、水の流れが不安定になって、洪水や干ばつに悩まされる。その苦しみが体験的に分かっていた。だから、住民たちは森林が濫用されないように監視の目を光らせ、互いに林産物の消費を自制したのである。
わが国の森林・林業史研究の礎を築かれた鳥羽正雄氏も、戦時中に出版された『森林と文化』のなかで、中央の幕府と地方の藩が並立する徳川のシステムに注目して、つぎのように述べておられる。「幕府はその領地の産業を起こすことにつとめ、大名は各自の領内の生産を豊富にし、これを以て自給自足し、出来得れば更に自分の領分以外の地方へも売り出して自国に無い必要品を買入れようと致しました。かくて山林の多い国々では、林業が著しく発達し、これを監督し保護助長せしめる林政が、特殊的な進歩をとげたのであります」と。
明治期になって藩や県の境界が低くなり、日本という国民国家が経済活動の重要な単位となった。さらに七〇年代以降は国の境界を超えて物資や資本が自由に行き来する時代である。何千キロも離れた見ず知らずの国から珍しい木材がいくらでも入るようになった。輸出国の森林が伐採されそこで何が起こっているかまるで分からない。
森を失った先住民の人たちの苦難が時たま報道されても、見て見ぬ振りをする。
それと同時に木材の取引が世界中に拡大したことで資源の限界が実感できなくなった。
となれば誰も消費を自制しようとしない。
論者によっては「距離による割引」現象に注目する。人びとは自分に近い環境の健康には気を使うが、環境が遠くなるにつれて気にかけなくなる。
遠い将来に得られる収入ほど大きく割り引くのと同じ理屈だ。
その一例として日本の木材輸入が挙げられている。「日本は自国の森林を注意深く保護する一方で、いくつかの国々の処女林を裸にし、そこから伐り出された木材を、使い捨てのコンクリ―ト型枠のようなものに使っている」と。
よその国の森林なら荒れてもかまわない。
安い木材であればいくらでも使うという島国根性がわれわれのどこかにあるのかもしれない。しかし基本的には市場経済と自由貿易がもたらした帰結というべきであろう。>
[熊崎実「訳者まえがき」.コンラッド・タットマン氏『日本人はどのように森をつくってきたか』築地書館.七頁]。
通信使の土産物 人参・松子・清蜜
日本列島の知識人は、貴重な薬用食物である海松子、松脯つまりチョウセンゴヨウの松の実が採取される松は、高麗、朝鮮からもたらされたもの、日本では採取不可能なものと思い違い、その松をチョウセンマツあるいはチョウセンゴヨウマツと名付けたのであろう。やがて、近代化された日本を足場に、こういう呼称が国際的な学名にまで流用されてしまったのであろう。
今まで話してきたように、九世紀に入唐した僧円仁が世話になった新羅人通訳劉真言から上茶十斤とともに送られたのが「松脯(五葉松の実)」であったし、海東の盛国-渤海との往来でもたらされた品物のなかに「海松子」があったように、やがて室町時代・江戸時代日本を訪問した朝鮮からの国使が来日の度ごとに持参したのが良質の「松子」であった。本場ものの松子、海松子はやはり朝鮮から、あるいは渤海国から、つまり白頭山北麓を含む「ウスリ―世界」からもたらされたのである。
平凡社版東洋文庫の人見必大『本朝食鑑 2』にある
訳注者である島田勇雄氏の「食物儀礼史における「菓子」「鳥類」」によると、
大江匡房(一〇四一~一一一一)の『江家次第』に宮中行事の菓子の素材として松実が挙がっており、やはり公家の記録である『類聚雑要抄』(王朝時代の末頃の書物)には公家の食品中に松子があり、鎌倉時代の食物儀礼の専門書『厨事類記』には、干菓子として松実が挙がり、
「松子。五菓子ト云。イリテカハムキテモル。柏子。コレモイリテモル。…松ノキナキ時、シロキササゲヲモル。柏ナキ時、粉餅ノヤウニツクリテ、サクツライレグシテイリテ、カタナニテウヘヲコソゲテモル。」とある、という。
この頃、松の実はどこから入手していたのだろうか。
『李朝実録』にある朝鮮国王使いの贈答品を見ると、
一四四八年、正使正祐の源義成(政)への贈答品には、大蔵経一部函倶、鞍子一面などに並んで、人参一〇〇斤、松子五〇〇斤、清蜜二〇斗があり、
一四八七年、使節鉄牛の多多良(大内)政弘への贈答品には、人参三五斤、清蜜一六斗、松子一〇〇斤が挙げられており、
一四九四年、正使元菊の源義材(植)への贈答品には、人参一〇〇斤、海松子五〇〇斤、清蜜二〇斗が含まれている。
[上田正昭編・高麗美術館『朝鮮通信使/善隣友好のみのり』明石書房一九九五年所収の仲尾宏「室町時代の朝鮮使節/もうひとつの善隣友好の時代」九五~九六頁]。
一七一一(正徳元)年の朝鮮通信使については、新井白石との関わりがよく知られているが、同時に、唯一、通信使からの贈答品が日本に遺っている年度である。
それは現在、山口県立山口博物館に所蔵されている。
それまではずっと元長州藩主の毛利家にあり、代々家宝として黒漆の長持のなかに一括して目録とともに保管されてきた。
長持の蓋の内側には一八一一(文化八)年、当時の毛利藩の役人がこの宝物を点検した際に貼った書き付けがある。
朝鮮国王から将軍への贈品(正徳期)としては、人参五〇斤、大繻子一〇匹(黒色五巻、草緑色五巻)、大純子(多紅色二巻、草緑色四巻、藍色四巻)、色照布二〇匹、黄照布二〇匹、黒麻布二〇匹、虎皮二〇張、豹皮二〇張、貂皮二〇張、青黍皮三〇張、魚皮一〇〇張、色紙三〇巻、各色筆五〇柄、真墨五〇笏、黄蜜一〇〇斤、清蜜一〇斗、駿馬二匹、鷹一〇匹とある。通信使から毛利家への贈品(正徳期)としては、人参一斤、黒麻布五匹、黄毛筆二〇柄、真墨一〇笏、色紙三巻、栢子(松の実)一斗、硯石一面、扇子一五柄とある。さらに、将軍から朝鮮国王への贈品としては、鎧二〇領、太刀二〇把、長刀二〇條、屏風二〇幅、厨子一座とある。
虎皮、貂皮、蜜、人参、栢子などはすべて、今まで注意してきた「ウスリ―的な世界」、チョウセンゴヨウの世界と切っても切れない縁のあるものである。ちなみに、将軍への贈品にある「人参 五〇斤」であるが、一斤は約六〇〇グラム、すると五〇斤は三〇キロ、乾燥した朝鮮人参三〇キロというのは相当な量である。
朝鮮からの贈品は、日本のどういう人びとに用意されたのか。朝鮮王朝には『通文館志』という記録が残っている。それはおよそ一七二〇年頃に編纂され、中国そして日本との交流方法とその歴史が記してある。それによると、通信使の贈品関係については、およそ次のようである。
一 日本への贈品は国王から、禮曹(政府)から、そして三使(正使)からの、三通り の物があったこと。
二 国王からの贈品は将軍と若君へ。禮曹からは執政・奉行・対馬島主・対馬にて外交 文書を司る五山の僧侶・護行長老・受職倭に用意されたこと。
ここでいう五山とは京都の寺院のことで、別格の南禅寺を筆頭にして、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺である。それらの諸寺は、対馬の以酊庵において外交文書を司った僧侶の所属寺である。その制度も、「柳川一件」以来、始まった制度である。「受職倭」とは、朝鮮王朝に功績のあったものとして官職を授けられ、特別に交易を認められた日本人のことである。
三 三使からは将軍、執政を始め、通信使一行が江戸に至るまでの応対に対する返礼物 として、贈品が事前に用意されていたこと。
四 上記の贈品は江原道、忠清道、全羅道、慶尚道、すなわち朝鮮半島の南部(現在の 韓国のほぼ全域)から調達して、釜山に集められた物であること。
五 各贈品には必ず目録が用意されており、その書式は相手の身分に応じて異なり、また伝統的な様式があったこと。 [上田正昭編・高麗美術館.前掲書所収第十一章.金巴望「日光への道と正使からの贈り物」三二六~三三四頁]。
小野蘭山の『本草綱目啓蒙』
江戸時代の数多くの本草家のなかで第一人者を選ぶとすれば小野蘭山(一七二九~一八一〇年)をあげるのは当然と思われる、という。
江戸時代に一番通用した本草書は李時珍の『本草綱目』である。
李時珍が中国本草学の代表であり、その『本草綱目』が本草書の代表であることは誰もが認めるところであろう。
小野蘭山の『本草綱目』が日本本草書の代表であることも明らかである、という。
小野蘭山が『本草綱目』について講義するのを弟子たちが筆記したものが『本草綱目啓蒙』である。
この講義録の定本をつくるべく、蘭山が孫の職孝に筆記させ蘭山自身がこれを推敲したうえ『本草綱目啓蒙』と題して、亨和三(一八〇三)年から文化三(一八〇六)年にかけて四十八巻二十七冊で刊行された。
蘭山が七十五歳から七十八歳の時である。
本書は動植鉱物の種を論じた自然科学的内容ばかりでなく生活文化と密接にかかわり、医薬、食料、農林業、漁業、畜産業、花弁園芸、詩歌、伝説、交易、文化交流がこれらの自然物と密接にからみあっている。
ここで前にも話した蘭山の『本草綱目啓蒙』巻之二十七 果之三 夷果類[平凡社東洋文庫536小野蘭山『本草綱目啓蒙』第2巻.一九九一年.二七五頁]にある「海松子」の項目をあらためて読んでみたい。全文を引用してみる。
<海松子 朝鮮マツノミ カラマツノミ[一名]位叱 郷薬本草 樹[一名]新羅海松 通雅
凡ソ松葉二針ナルモノハ常ナリ。コノ松ハ五針ナリ。今俗ニ五葉マツト呼モノハ、赤松 メマツ 葉ノ形ニシテ五針ナリ。海松ハ葉燈心草ノ大サニシテ背白シ。朝鮮人来聘ノトキ多クコノ松子ヲ斉シ来ル。名産ナリ。カタチ大ニシテ巴豆ノゴトシ。三稜上尖リ茶褐色、皮アツクシテ破リガタシ。別ニ鉄器アリテ狭ミ按バ破レヤスシ。内ニ白仁アリ。油多シ。味山胡桃クルミ ノゴトシ。生食スベシ。新ナルモノハ種テ生ジヤスシ。禅院ニ栽ルモノ多シ。コノ松、本邦ニモ自生アレバ、カラマツト訓ジガタシ。信州戸隠山ニ多シ。唐松郷ト云地モアリ。又越後出羽ニモ多シテ器材トス。木理ヒノキニ似タル故、ヒノキニ代モチユ。コノ松卵マツカサ ナガサ六七寸、鱗甲モ大ナリ。鱗甲ゴトニ子二粒アリ。時珍ノ説ノ中国松子大如 柏子 コノテガシハノミ ト云ハ尋常ノ松子ナリ。鱗甲ゴトニ二粒アレドモ、形小シテ米粒ノゴトクニシテ白黒斑アリ。薬ニハ海松子、尋常ノ松子トモニモチユ。果子ニハ海松子ヲモチユ。松子ハ、一名、万年豆 事物異名 錬形子 不老丹 共ニ同上 >
この記述から明らかなことは、十九世紀の初め頃には日本のもっとも信頼されていた本草書のなかで、チョウセンゴヨウとそれから採取できる大粒の松の実が、朝鮮渡来のものばかりではなく、日本国内でもちゃんと自生していることが認識されているのである。
蘭山の『本草綱目啓蒙』が出版された十九世紀の三〇~四〇年代には岩手の盛岡の山林奉行栗谷川仁右衛門の『山林雑記』が起草されている。
栗谷川仁右衛門は、チョウセンゴヨウという名は使ってはいないが、岩手-盛岡地域に自生するチョウセンゴヨウマツの植栽を提案し、指導している。
彼の植林学と植樹についての実践指導は、明らかに東北に自生するチョウセンゴヨウマツを理解し認識したうえで、「繁栄をもたらす樹木」の主要なものとして山林の民にチョウセンンゴヨウを推薦し、これを植樹し松の実を採取し利益を得るよう啓蒙し、その種の蒔き方、苗の育て方を教え指導している。
現代の植物学者が(例えば林弥栄氏が朝日百科『世界の植物』24巻88頁の「チョウセンゴヨウ」の項目で)、<はじめ、日本各地に見られるもの[チョウセンゴヨウ]は、古い時代に朝鮮から渡来したものと考えられていた。
しかし、1889年ドイツの植物学者ハインリッヒ・マイル H.Mayrが群馬県の山中で発見してから、日本にも天然分布していることが確認された>と説明するのを常としてきた。これは、江戸時代にすでにあった日本の本草学や岩手地域の植林実践のなかで、十九世紀の初期においてすでにチョウセンゴヨウが日本国内にも天然分布している事実が認識されていたという上述の歴史と伝統を忘れ無視していることになりはしないだろうか。
朝鮮五葉の大陸へ
日本列島に住む人々の歴史と密接不可分の関係にあった朝鮮半島・中国東北・ロシア極東はチョウセンゴヨウの生育する世界であった。
そして、日本もまた氷河時代にはチョウセンゴヨウに覆われており、その後も他の樹木に交代したとはいえ、東北から中部地方、四国にかけて亜高地・山地に生き残り、山村の民に恵みを与え続けてきたのである。
江戸時代、東北の盛岡では、チョウセンゴヨウのことを、その松の実が薬用・食品になることから、「料理松」と名付けた、という。
十六世紀九〇年代の二回にわたる豊臣秀吉の朝鮮侵略は、チョウセンゴヨウが残っていることに殆ど自覚がなくなっていた東北アジア東南端の日本列島に住む倭人が、まさにチョウセンゴヨウの本場であった朝鮮半島へ侵略し、明朝をも討ちチョウセンゴヨウの大陸をおさえた中華帝国を纂奪しようとした最後にして最大の倭寇であった。
この時、朝鮮侵入の土産ものとしてチョウセンゴヨウが倭人の意識にのぼったという事実は、「盛岡の朝鮮松」の話ですでに語ったとおりである。
さて、それ以後、倭人・日本が、チョウセンゴヨウの本場である東北アジア大陸へ進出・侵入したのは、十九~二十世紀における近代化し国民国家を作った日本、資本主義-帝国主義を成立させた日本としての朝鮮そして「満蒙」、さらに中国本土への進出・侵入であった。二十世紀の三〇年代から十余年、日本帝国はチョウセンゴヨウの世界である朝鮮から満蒙を一時ではあったが独占領有した。
二十世紀の東アジアおよび西太平洋地域における戦争と大量破壊は、日本帝国がこの独占領有の範囲を確保あるいは死守しようとして引き起こされたものであり、これは当然やがては支配下の民族・人民によって抵抗-打倒され瓦解すべき運命にあったといえよう。
しかし、植民地-半植民地状態を脱しえた朝鮮・「満蒙」-中国は、その後朝鮮の場合は南北分断・内戦の国際化・社会主義と資本主義の異なれる体制の対立を経、中国は内戦、台湾を除く大部分の社会主義化という過程で、それぞれ脱植民地主義五十年に達したが、いまだ植民地・従属国時代の傷跡は癒えていない。
他方、欧米の帝国主義国よりも遅れて植民地支配を開始し、アジア・太平洋戦争での敗北で突如植民地・従属国を失うことにより脱植民地化の過程をもつことがなかった日本人・日本の場合、植民地・従属国支配の責任や補償についての自覚・意識は乏しく、また、そのような自覚・意識を育てる教育や文化も創造できないまま今日に至った。
植民地主義初頭のチョウセンゴヨウ
十七世紀半ば、越前の商人たちのポシェト湾近辺への漂着と建州女真の故地を通過した護送、このとき彼ら倭人は明らかにチョウセンゴヨウの本場を通過し、五葉の密林を体験している。
十九世紀初め、幕府の役人間宮林蔵は黒龍江を中流まで遡り、五葉の民ゴリド(ナナイ)に出会い、五葉の世界と五葉の船を印象づけられている。明治十一(一八七八)年、ロシアに赴任していた特命全権公使榎本武揚は一時帰国旅行の途次ウスリ―江岸でゴリド(ナナイ)の村を出会い、ナナイの舟(おそらく五葉製の)も見ていることを彼の『シベリア日記』に記している。
二十世紀の初め、日露戦争直前、特命を帯びてロシア極東から満洲に潜入した石光真清が残した興味ある手記が、石光真人編で『石光真清の手記』として前四巻合冊して中央公論社から一九八八年出版されている。
そのなかの『曠野の花』で、日露戦争直前の吉林省、ハルビン(哈爾賓)から寧古塔(寧安)そして綏芬河、ウラジオストクにかけてを何度も苦労して往来する場面が展開される。
<その日、私は崖のすすめに従って駅(阿什河 アジハ)の宿舎に泊った。翌日、崖は命令によって石頭河子 シタヘ-ザに行くから同行しないかと言うので賛成した。
翌朝、支那馬車で出発、途中は全くの大原始林で二抱えもある針葉樹(引用者註―多分チョウセンゴヨウもあったに違いない)が繁り込んで昼も暗く、枯木の大木が倒れて朽ち果てており、底知れぬ薄気味悪さを湛えていた。
私と崖はこの大森林開発の夢物語に花を咲かせた。
私が日本の資本家を説得し、崖がロシア軍にとり入って権利を獲得する……こんな他愛ない話をするうちにロシア軍の連絡哨舎に辿り着いた。
ここにはカザック兵が三名勤務していた。彼らの話によると、夜が更けると狼の群が集まって来て吠えるので気持が悪い。時折は戸口近くまで進出して来るので、小銃をブッ放して追い払うとのことであった。
だが相手を小国人(韓国人)だと思って、多少お伽話化して大袈裟に話しているようであった。その夜は哨舎に泊った。
翌日早朝に出発、正午頃石頭河子に着いた。
密林の中の小さい村落であったが、ロシアの鉄道工事が進捗するにつれて、この土地が鉄道用材木の集散地になり、露清両国人が次第に集まって来ている。家も建ち道も出来、ひと通りの田舎町の形をなして来たものであるが、今回の騒動のために馬賊が付近に出没してやや寂れた感があるとのことだった。>
監禁され命も危うかったのを脱出させてくれたお米さんをウラジオストクまで連れて行き、十分な支度金を与えて日本へ帰してあげようと考えた石光の旅路が次のように描かれている。
<僅か十里内外の行程に半日を費して石頭河子に着いた。その夜は客桟に身を休めたが、ここから横道河子 ハンダヘ-ザ へ出て掖河 エイホウ を通り磨刀石 モドシ に到るまでは、土工車も通っていない。しかも横道河子との間には老爺嶺の嶮があり、ここは徒歩でゆくより方法がない。女連れで厳寒のこの峠を越すことはやや無謀に近いが、お米は昨夜にも増して言葉少なく「私は大平溝から三姓まで歩いた女ですから」と答えて準備にかかった。こうして翌日の朝早く老爺嶺に向かって出発したのである。
零下三十度の酷寒であった。眼のとど限り一軒の家とてなく、厳しい峠を越え密林を抜ければ石のように凍りついた平原ばかり、またも峠と密林が続く。四肢は知覚を失い、唇も黒ずんで固くなって来た。お米はとみれば死人のように蒼白の顔をこわばらせ、頭から被った毛布は霜に覆われて白く、杖に寄って今にも崩れそうに見える。私は炊事道具や食糧を入れた大きな包みを肩から下し、枯木を集めて火をつけた。薬鑵を吊り、氷片を砕いてお茶の準備をした。こんな場合には砂糖を沢山入れた紅茶が最良の薬である。私はお米の睫に凍りついた氷を拭きとって、その口に熱い紅茶をそそぎ入れた。二杯三杯と飲むうちに温気が身体の隅々に廻ってくる。私は無理に笑って言った。「どうだ、少しは楽になったか、ロシア人や清国人が越えるこの峠を日本人がへたばってどうする、大平溝から三姓まで歩いたお前じゃないか」と激励するが、お米の顔には絶望と諦めがあるだけであった。「すみません、ご迷惑ばかりかけて――足手纏いになるばかりです。大事なお身体ですから、私を捨ててお行き下さい、無理は申しません――私はとっくに死んでいる身体ですから」。…
やがて密林の夜が来た。密林の夜ほど怖ろしいものはない。一歩動くにも危険を覚悟しなければならぬ。私は北を崖に受ける場所を選んで野宿の準備にかかった。凍って折れやすい枯枝を支えに粗末なズックの布を張って風を防ぎ、枯草を集めて床に敷いた。…私は火の番をお米に頼んで、おぼつかない足どりで一歩一歩を危ぶみながら枯木集めに闇の中に入って行った。
あちこちと集めた薪が十把ほど出来上がった頃、ふと振り返って見ると今さきまで樹間に見えていた焚火が一面の闇に塗りつぶされている。さほど遠くに来た筈もない。枯木に火を点じて大声にお米の名を叫んだが、耳に入る答えは私の声の反響と遠い樹木の裂ける悲鳴だけであった。時計を出してみると八時半、枯木をとりに出掛けてまだ三十分余を経過したにすぎない。薪が焚きつくされた筈はない。空しく何度か大声に呼んでみたが答えるものがない。これ以上、闇の中を探し歩くことは危険である。夜の明けるまで別々に野宿するより方法がない。心にお米の安全を祈りつつ、枝を折っては火にくべる長い長い一夜であった。鬱蒼たる森林の梢に見えかくれする星の光の冷たい鋭さ、ひしひしと迫る寒気、止んではまた起る狼の声は遠いものであると思われたが、生死の間を何度かくぐりぬけてきた私にも胸の塞がれる思いである。 一睡もしない疲れた眼に朝の薄明がおとずれ、闇は密林の間を流れるように去って行った。見廻すと私のいる所は意外にも河畔であった。…私は淡い記憶を頼って暗い林の中を探しまわった。それは僅かに二丁ほど距てた地点であった。ズックの布は昨夜のままに張られており、携帯の品は何一つ失われてはいなかったが、お米の姿がなかった。消えた焚火の傍には薪が置かれてあるし、枯草の床はそのままで狼藉の跡もみられない。虎の仕業であれば血潮も飛ぼう。あまりにも静かすぎるではないか。約一時間もそのあたりを探し歩いたが手がかり一つ得られない。私は長い間、お米のいた場所にうずくまって思いに沈んだ。お米の残したただ一つの杖を手にして、一昨夜から沈んでいたお米の気持を辿ってみた。
…もともと拉林城で私がお米に救われ、お米の日本への帰国を託された時に、お米は少しも喜んでいなかった。こんな境遇を経て故郷に帰る気はなかったのかもしれない。余計なおせっかいであったかも知れない。しかし私にとっては命の恩人である。私はお米を無事にウラジオストックに連れもどり、出来るだけ多額の金を持たせて乗船させるつもりであった。それならば故郷に帰っても、両親は夢かと悦んで迎えるであろうと考えたのである。>
なんとか見つけ出さねばならぬと付近を再び探し廻り呼び廻ったが、何の手がかりもない。いつまでもこうしていてもいたし方ないので決心する。
<お米が残して行った杖に小刀で「お米よさようなら、ありがとう、菊池正三」と刻んで凍った土に打込み、旅具をまとめて、しばらく合掌した後に勇を鼓して歩み出した。またもばらつく粉雪の中を、大きな包みを背負って歩み続けた。
薄暗い大密林は次第に急勾配になり、二抱えも三抱えもある大樹の蔭を縫って、見失い勝ちの道を細々と辿って行った。もし神あってこれを空高く眺めたならば、樹木の間をはってゆく孤独な一匹の蟻とも見え、必ずや憐れみ給うたであろう。…>
<私は石頭河子で唐と別れポグラニ―チナヤに行き、国境地帯を視察して哈爾浜へ引返す途中、横道河子に着いたときであった。ぶらりとホ―ムへ降りて街の方を眺めていたら、駅の柵外に立っていた馬夫らしい男がつたない日本語で呼びかけた。「菊池先生ではありませんか」「誰だ」「私は増世策夫人の君子さんの側にいる李です。馬夫の李です」…「どこにおるか」「ここから五里ばかりの山奥です。ご案内しましょう。…」
…李は馬二頭仕立ててさっさと飛び乗った。私は狐に化かされたような気持であったが、李の後へ馬首を向けて、街はずれから南へ南へと山道を走った。辺り一帯は斧を入れたこともない密林地帯で、馬の駆ける道も、道とはいえない谷間であった。人家などは見当たらず、澄み切った山気が肌にしみた。李は時々後を振返って私を見た。「ひどい山奥で驚かれたでしょう。馴れた者でなければこの道は通れません。それだけに我々にとっては安全な土地です」といって道のない道を狼が走るように、ためらう様子もなく進んで行った。> この五里の騎行で原始民族の集落のような五軒にたどり着く。一軒から出てきたのは、男子の支那服で弁髪の、まちがいなくお君であった。お君の話では、<増世策は生きていれば必ずここへ来る筈です。それなのに二年経った今日まで、とうとう姿を現わしません。殺されたのでしょう。さて自分の身をどうしたらよいか、随分考えぬきました。馬賊の女房が尾羽打枯らして郷里へ帰れるものですか。死ぬ機会を失うと不思議に気が強くなるもので、配下の手前、どこまでも生き抜いてやるぞという気になりました。こんな気持で日を過しているうちに、思いついたのが鉄道相手の枕木商売です。横道河子と石頭河子とに鉄道事務所があって枕木を買い入れているので、仇敵のロシアを相手に金儲けをやっています。契約を結んでやって見ると、案外時機が良かったと見えて、出しても出しても間に合わず、代金はその場ですぐ払ってくれますし、足かけ三年目の今日では苦力百人使って、四季を通じて伐り出しています。この五軒の家には番頭や馬夫や苦力の家族持ちの者が住んでいて、独身者は全部、持場持場の山の中に小屋を作って自炊しています。>
以上の場面は、日露戦争の起る二、三年前のこと、ここを通る東清鉄道のハルビン~綏芬河の支線を含めて東清(のちに東支鉄道と改名)鉄道が全線開通するのが一九〇三年のことだが、この鉄道が建設中で開通がほど遠くない時期と考えられる。
満洲・ロシア極東の一帯の密林から伐採されるチョウセンゴヨウ即ちベニマツが、ロシアの鉄道建設の際の枕木として使用されたのである。
石光真清が菊池正三なる偽名で、密偵として満洲・ロシア極東を転々と移動していたとき、自分を助けてくれた日本人の「からゆきさん」のお米を恩返しに大金をもたせて日本に帰らせるつもりで、密林の多い峠道を難儀して越えようとする途中の夜、お米を見失ってしまう土地も、ロシア人作家でこの土地に精通したバイコフがさまざまな作品で書き残してくれているように、鬱蒼としたベニマツ即ちチョウセンゴヨウの原生林が続く山地である。石光真清がその『手記』に描いている、東満洲からロシア極東の深山密林は、ロシア資本主義そして日本資本主義の手にまだほとんど汚されてはいない、いわば処女地の時代の自然であった。
この風土、自然がその後どのように破壊され荒廃して行ったのだろうか。
同時期の、この東満洲の密林を描いたニコライ・A.バイコフはこう書いている。
<東清鉄道(ハルビン~綏芬河)の建設の始まった一八九〇年代、満洲は文字どおりの未開の地で、人口がきわめて少なく、見渡すかぎり生い茂る森におおわれていた。鉄道建設労働者や警備隊員たちの生活は非常につらく、たえず困窮と危険を伴っていた。義和団の残党や野獣がしばしば鉄道線路の近くまでやってきて、労働者たちを脅かすばかりでなく、哨所や集落を襲撃した。ここに紹介する短編は、すでに伝説化し、また昔物語となった、遠く過ぎ去った満洲をめぐる私の思い出である。>[バイコフ・今村龍夫訳『樹海に生きる』中公文庫二二二頁]。
バイコフは傀儡国家「満洲国」崩壊まで満洲のこの地域に住んでいたので、この地域の密林の変貌を次のように概観する。
<この地方には主として森林企業が集中している。以前ここでは、森林伐採利権企業による開発がおこなわれた。鉄道輸送ができる東清鉄道沿線と、はしけやいかだで河川輸送ができる地方に、森林開発が集中し、森林の総面積は約半分に減ったと推定される。伐採樹木のなかでも紅松(=チョウセンゴヨウ)は、もっとも価値が高く、建築や加工用として素晴らしい用材なので、大量に伐採され、多くの地区で姿を消した。
かつての森林伐採システムは合理的でなく、現地には大量の廃材や木片、おがくずなどが放置されたため、森林害虫のまたとない餌となり、また山火事の原因となった。乱伐された紅松に代わって、シラカバ、ヤマナラシなど広葉樹が育った地域は、それでも条件のよいところであった。
大森林は、各所で鉄道線路によって切り裂かれたため、すでに広大な「みどりの海」でなくなった。将来は山脈やその支脈の急傾斜だけにようやく命を保つ「みどりの湖」に姿を変えるだろう。
大森林のあちこちの伐採地に耕地が出現し、かつて猟師のまずしい掘立て小屋があった場所には、いま移住農民の集落や村が点在している。
大森林はその産業的な価値のほかに、気象関係でおおきな役割を果たしている。日本海沿岸や、北から南へ長白山系沿いに伸びる大森林は、湿気をたっぷり含んだ東南アジアからの夏のモンス―ンを、その大きなふところに包み込み、スンガリ―全水系の「水門」となって、満洲全体の降雨量を調節している。[引用者註―そしてスンガリ―・アム―ル全水系の水はオホ―ツク海に注ぎ込み、北洋漁業に不可欠の豊富なプランクトンを育む]。 かつての大森林は、神秘的な奇跡や魅惑的なおとぎ話に富む王国で、山と森の霊である「偉大なる王ワン 」が支配していたところである。密林の住人たちは山脈の高い峠や頂に偶像廟をつくり、王に祈りをささげた。しかし、いまではこれらの廟も朽ち果てて、その多くは跡形もなくなってしまった。朝焼けが広がる夜明けにも、野獣の咆哮はもう聞こえない。そのかわり、蒸気機関車のするどい汽笛、斧の打撃音、製材所の甲高いうなり声、処女地を走りまわるトラクタ―の騒音―これらが密林の静寂を無残にも破る。
こうして、数十年前までは美しかった大森林は姿を消しはじめ、潮騒を思わせた樹海のざわめきも鳴りを潜めなければならなかった。>
[同上『樹海に生きる』一五~一七頁]
一九〇五年、日露戦争直後の乙已保護条約(第二次日韓協約)以後保護国となり、一九一〇年完全に併合された朝鮮の森林はどういう運命を辿ったのだろうか。
第一話で話した浅川巧が一九二二年一年分と一九二三年の七月・九月分の日記が残されていた。
その中のある箇所に次のような部分があることは、すでに第一話で紹介したことであるが、あらためてその文章を読んでみたい。
朝鮮総督府の林業試験所技手としての浅川巧が、京城(ソウル)を訪れた王子製紙社長の晩餐会に招待された夜の日記にこう記している。
< <彼らはこれから朝鮮の国境の森林をねらって居ることは明らかだ。北海道も彼らによって裸かにされた。樺太だってもういくらも余さないだらう。…兎に角あんな工業は森林を荒らすにきまって居る。此処十数年で朝鮮の森林をも松毛虫の様に食ひ尽すであらう。製紙事業は今の世に必要にきまって居るから利用するのは一向差支へないが、これにともなふて跡地の荒れない様の伐採法と森林が永続する様の造林法が実現されることが必要だと思ふ。>
[『浅川巧全集』草風館版一四八~一四九頁]。
「此処十数年で朝鮮の森林をも松毛虫の様に食ひ尽くすであらう」とあるが、保護国化からすでに十数年経った時点である。これから二十二年、日本の敗戦でようやく朝鮮は植民地状態から解放される。そのとき朝鮮の林野はどのように荒廃していたであろうか。
再び第一話で引用した浅川巧の「窯跡巡りの一日」の一節、三幕寺の老僧の言葉を振り返ってみたい。
<以前はこの辺一帯は立派な森林であった。それは寺で保護して居たのでよかったが、総督府になってから取り上げられて、寺持ちの森林は寺の周囲僅かの部分に限られたので、此の頃は寺では薪にも不自由する程になった。今、此の山は日本人の金持ちが独りで手に入れて経営して居るが、年々荒れるばかりで有名な冠岳山の松茸も近年は寺の付近だけにしか生えない>
[前掲『浅川巧全集』二八二~二八三頁]。
林野、森林、チョウセンゴヨウだけではない。
林野、森林、朝鮮五葉などと共存共生してきた朝鮮の人々、朝鮮の国土自体がどのように荒廃したであろうか。
一九三一年なくなった浅川巧が夢みたような「ハゲ山」だらけの朝鮮半島を緑化するという事業はどのように進み、どのように挫折したのであろうか。日本資本主義-帝国主義のための用材伐採と森林再生のための植林とはどういうバランスを保っていたのであろうか。すでに浅川巧は王子製紙社長らの発言から、朝鮮半島の林野荒廃の将来を憂えており、この林野破壊は鴨緑江・豆満江を越えて満洲にも進むであろうことを予感していたのではないか。
そういう日本の植民地主義の功罪を日本人自身がどれほど認識・反省できたか。
脱植民地主義からすでに五十年を経た今日においても、残念ながら疑わしい、と自認せざるをえない。
アリランの歌
一九〇七年、ハ―グ密使事件を口実に大韓帝国の高宗が退位させられ丁未七条約(第三次日韓協約)の締結、軍隊の解散、保安法と新聞紙法公布、義兵闘争の激化以後、百万の朝鮮人が故国を去って満洲に出た。
「朝鮮に来る日本人一人につき、三十人の朝鮮人が国を出る」と朝鮮人は言った。
朝鮮の人口は大まかに見積もって二千万同胞の住む故国から、二十人に一人が難民として出奔した。
大部分は、満洲とくに北間島・西間島からロシア極東へ行き、北極圏で漁夫になるものもあった。
中国やアメリカ、メキシコ、ハワイに行くものもいた。
日本には三十万の労働者がいた。
外国へ出たものの大半はクリスチャンであったという。
李恢成氏と水野直樹氏とが編纂した『「アリランの歌」覚書―キム・サンとニム・ウェ―ルズ―』(岩波書店一九九一年)という貴重なドキュメントがある。
以下、ニム・ウェ―ルズが延安で朝鮮人革命家キム・サンから聞き取ったという話を紹介する。
<
アリラン、アリラン、アラリヨ
アリラン、コゲロ、ノモガンダ
アリランの一二の丘と谷
その最後の丘と谷をいまわたる
大空に輝く無数の星
人の世には報いを受ける無数の罪
アリラン、アリラン、アラリヨ
アリランの丘を越えていく
アリランは涙の丘、涙の谷
この丘を越えればもう二度と帰れない
アリラン、アリラン、アラリヨ
アリランの丘を越えていく
朝鮮の二〇〇〇万の民よ いまいずこ
あとに残るは二〇〇〇里の山と河
アリラン、アリラン、アラリヨ
アリランの丘を越えていく
二〇〇〇里の山と河も いまは捨て
鴨緑江を越えていく
アリラン、アリラン、アラリヨ
アリランの丘を越えていく
ソウルの近くに、アリランと呼ばれる丘がある。[実は「アリラン」は特定の場所ではないが、歌の内容からこう考える朝鮮人が多かった]。李王朝による圧政の時代、この丘の上には大きな一本松が立っていて、何百年という間公式の刑場となっていた。何万もの囚人がこの老樹のごつごつした枝につるされ、なきがらは崖の上にぶらさがった。盗賊もいたし、普通の犯罪者、反政府的学者、国王の政敵や敵対する一門の者などもいたが、多くは圧政に抗した貧農たちであり、暴政と不正に対して起ち上った若者たちであった。この歌はそうした若者の一人が囚われの日々の間につくり、重い足取りでアリランの丘を上って行くとき歌ったことになっている。人々はそれを聞き覚え、やがて誰が死刑になる時にも、その喜びと悲しみへの別れの心をこめて歌うようになった。朝鮮のどこの牢獄にもこの忘れ難い旋律がこだまし、死に際してこの歌を歌う死刑囚の権利を奪おうとするものはいない。
アリランの歌は四〇〇年前から伝わる民謡である。李朝の時代につくられたが、今では現実となった。すでに二〇〇〇万人が難民として他国へ移住したのだ。「アリランの歌」は朝鮮の悲劇を象徴することになった。歌の意味は、幾多の障害をのりこえた末にあるものはただ死ばかりであることを表わすもので、生の歌ではなく死の歌なのである。ただし死は敗北ではない。多くの死から勝利は生れよう。愛国者・革命家・独立運動家の仲間がこの古い「アリランの歌」に新たな歌詞を書き加えるだろうが、最終の章はまだ書かれていない。一九四五年、日本帝国主義の敗北によって一応の独立は回復したものの、朝鮮は南北に分断され、いまだに統一独立を実現できていない。朝鮮は、アリランの最後の丘をよじのぼり、その首吊り柱を引き倒す日を待っている。
[以上。李恢成・水野直樹編『「アリランの歌」覚書―キム・サンとニム・ウェ―ルズ―』岩波書店一九九一年による。]
チョウセンゴヨウ即ち朝鮮松 KOREAN PINE 本場の国、朝鮮が日清戦争後、新興日本の植民地化への道を辿らせる。この動きに反発し抵抗する魂たち。朝鮮松を愛し、朝鮮松の祖国を守ろうとした心をもっとも深くまた繊細に歌い自主独立を闘いとろうとした優れた詩人たちを二、三紹介しよう。
一九〇四年生れの李陸史は、一九二三年十九才のとき来日、一年余滞在し、帰国後抗日結社「義烈団」に加盟、一九二六年北京に行き、帰国後銀行爆破事件に連座、釈放後再度北京に行き、朝鮮軍官学校第一期生として卒業、一九四三年特高に逮捕され、一九四四年北京で獄死している。
享年四十一才。
彼の詩集が安宇植氏訳で講談社・韓国文学名作選で一九九九年出ている。
その詩集から二篇引用してみたい。
絶頂
厳しい季節の鞭に追い立てられ
ついに北方の地に来てみれば
いまはただ空もくたびれ果て 倦める高原の
霜柱白く研ぎ澄まされたうえに立つ
いずこにひざまずくべきか
歩を進めて踏みしめるところとてなく
眼を閉じて思うよりほかになし
冬は鋼鉄の虹かと
民族の苦難の道で詩人は呻吟する。
曠野
遥かなる遠い日に
天が初めて開かれ
いずこよりか鶏の啼く声が聞こえただろう
なべての山なみが
海原を恋慕ってひた走ろうとも
ここばかりは犯すことができなかっただろう
絶え間のない光陰を
勤勉な季節が咲かせては散らせ
大河がようやく道を開かせた
いま雪が降り
ひとり梅の香が満ち満ちて
ここに貧しい歌の種を播こう
ふたたび千古ののちに
白馬を駆って現われる超人あり
この曠野で声も高らかにうたわせるとしよう
詩人李陸史の行動する魂は永遠に生き続ける。たとえ「千古ののち」であろうとも、祖国光復の日はきっとやって来るに違いないと固く信じてやまない。彼が日本帝国主義の監獄の中で故国と民族のために殉じた明くる年、祖国解放の日がやってきた。 韓龍雲は、一八七九年生れ、書堂で漢文を学び、一九〇六年得度、一九〇九年『朝鮮仏教維新論』を発表、一九一三年『仏教大典』を編纂、一九一九年三・一運動で逮捕された。一九二六年詩集『ニムの沈黙』を発表、一九三七年卍党事件で再逮捕され、一九四四年死去した。[以下、韓龍雲、安宇植氏訳『ニムの沈黙』講談社・韓国文学名作選一九九八年による].
無題
李舜臣を船頭に仕立て
乙支文徳[六世紀の高句麗の武将]を御者に仕立てて
破邪剣を高く振りかざし
南船北馬 駆け巡ろうか
どうやらニムに巡り逢う道は
それをおいてほかになし。
海は深いというけれど
測ってみれば底があり
山は高いというけれど
測ってみれば頂上がある。
海や山より深くて高いのは
ニムをおいてほかになし。
蛙が鳴く声に
雨が降ると承知していたが
ニムが来られると聞いて
衣服を着替えて出てみたら
ニムより先に雨が降り
寂しい気持ちにさせられた。
山中に陽は長く
せせらぎのうえに花ぞ散る。
草むらに独り寝転び
万古の興亡を忘れていたら
どこからか声が二つ三つ
「かっこう かっこう」と鳴く
この川の流れ具合は
豆満江が干上がるきざしか。
この山の聳え具合は
白頭山の崩れるきざしか。
その間を行き交う人になんぞ
告げても詮ないこと。
あなたは見ました
あなたが行ってしまわれてから あなたを忘れることができません。
そのわけは あなたのためというよりも わたしのためのほうが大きいでしょう。
耕し植えつける田畑がないので わたしには秋の収穫がありません。
夕べの糧を欠き 粟かじゃが芋を借りようと隣家を訪ねたら 主人から
「物乞いには人格がない 人格のない者には生命がない お前を助けるのは罪悪だ」と言われました。
その言葉をきいて踵を返したとき こぼれ落ちる涙の中にあなたを見ました。
わたしには家もなく ほかに事情もあって戸籍がありません。
[日帝に対する抵抗の生き方として彼は戸籍をつくらなかった]
「戸籍のない者に人権はない。人権のないおまえに何が貞操だ」と言って辱めようとした将軍がおりました。
将軍に抗った後で激昂がおのれの哀しみと化した瞬間 あなたを見ました。
ああ 倫理、道徳、法律などのあらゆるものが剣と黄金を祀る演技だと知りました 永遠の愛を得るか 人類の歴史の最初の頁にインクでしるすか 酒を飲もうかと
ためらっているとき あなたを見ました。
この詩は、韓龍雲が、主権を奪われ祖国を喪失した日本の統治下で、倫理も道徳も法律もすべてが剣と黄金、いや「帝国主義」によって煙と化してしまった暗澹たる植民地の現実に、抵抗の心情をこめて詠んだものである。
論介 ノンゲ の愛人となってその墓に
昼となく夜となく流れて流れる南江は 行かず。
風雨のけぶる中にたたずむ矗石楼チョクソンヌ は 矢のごとき光陰を追いて疾駆する。
論介よ、われに涙と笑いを同時にもたらす愛する論介よ。
そなたは朝鮮の墓所の中に咲けるよき花の一輪。よってその芳香は腐臭を放たず。
われは詩人としてそなたの愛人となれり。
そなたはいずこにおわす。死することなきそなたの姿が この世にはなしとは。
われは 黄金の力もて切られし花のごとく香り高く痛々しき そなたの当年を
回想してやまぬ。
酒の香にむせりつつ口ずさむ静かな歌は 獄舎に埋れて錆びつける刀を響かせり。
踊る袖を孕みて舞う恐ろしく冷たき風は 幽鬼の国の花の茂みを経て
沈みゆく陽を凍えさせり。
か弱きそなたの心は落ち着きはらえども 震えるよりさらに恐れおののきしぞ。
美しく邪気なきそなたの眼は笑みを浮かべしが 涙するよりなお哀しみを
漂わせたり。
紅に染まれしかと思えば青ざめ 青ざめしかと思えば蒼白にして 微かに震わせる
そなたの唇は微笑みの朝雲ぞや、歔欷の暮雨ぞや、有明の月の秘密ぞや、
露草の象徴ぞや。
茅の新芽にも似たそなたの掌に手折られざりし 落花台の残れる花は
羞じらいに酔いて顔を赤らめたり。
玉のごときそなたが踵もて踏まれし 川岸に生す古き苔は驕衿にあふれ
青き紗灯篭もて おのが名をさえぎれり。
ああ、われはそなたなき虚ろの墓にもひとしき住いを そなたの家と呼ぶらん。
たとい名ばかりといえそなたの住いなかりせば そなたの名を呼ぶ機会を呼ぶ
機会を逸するゆえなれば。
われは草花を愛すれど そなたが家の庭に咲けるを手折ることは叶うまじ。
そなたが家の庭の草花を手折らんとすれば わが腸こそ まず引き裂かれるゆえに
われは草花を愛すれど そなたが家の庭に植えることは叶うまじ。
そなたが家の庭に手植えんとすればまず わが心に野いばらぞ植えられるゆえに。
許されよ 論介よ、金石にもひとしき約束を違えしはそなたにあらじ われなり。
許されよ 論介よ、もの悲しくうら寂しき寝屋に独り身を横たえ わが身に及びし
恨 ハン に涙するはわれにあらじ そなたなり。
わが心に「愛」の金文字刻みつけ そなたが祠堂に記念の碑建立せしとて
そなたのいかばかりの慰めとなろうや。
わが歌に「涙」の調べもて烙印し そなたの祠堂に祭鐘を打ち鳴らすとて
われにはいかばかりの贖罪たりえようや。
われはひたすら そなたの遺言を守り そなたに尽くし得ざりし愛を 永遠に
他の女性に捧げまじ、これぞそなたが顔とひとしく 忘れ得ざる誓約なれば。
許されよ 論介よ、 そなたの許しを得るならば わが罪は神に懺悔せずとも
消ゆるならん。
千秋に身罷ることなき論介よ、
一日とて生きられざる論介よ、
そなたを愛するわが心のいかで愉しく いかで哀しきぞ。
わが笑いは高じて涙となり 涙は高じて笑いとなれり。
おお 許されよ わが愛する論介よ。
論介は、前に話したように、壬申倭乱当時、晋州役所お抱えの芸妓であったが、城が豊臣軍の手に落ち矗石楼チョクソンヌ (晋州城の主将台の高楼)で倭側の侍大将らが祝宴をはったとき、その席にはべらされた論介は、倭将の毛谷村六助の首を抱えこんで南江の淵へ身を投げ、自らの命をすてて敵将を水死させた、という。
論介は身を捨てて朝鮮の主権と尊厳を守り、侵略者を震撼させてくれた。それから三世紀余、論介の子孫である二〇世紀初頭の朝鮮民族は、固有の誇るべき歴史と高度に発達した文化を民族の主権と尊厳すべてとともに根こそぎ日本帝国主義に奪われ、その刀と黄金の力によって組み敷かれ、植民地化した朝鮮は日本の拡張戦争の兵站基地として使われ、朝鮮の資源と労働力は日本のアジア・太平洋戦争に奉仕させられた。
そういう傾向と展開に対して容易に抵抗を持続させ得なかった自民族を自己批判し、鞭打った詩である。
以上の詩篇は、前に挙げた間島の生んだ青年詩人尹東柱の詩篇とともに、加害者である日本と日本人にいまなお自己批判と反省を迫るものがある。
豆満江を越えて
「豆満江の歌」というのがある。この歌の歌詞は一九三七年延安でキム・サンとニム・ウェ―ルズにより翻訳されたものであり、岩波書店版のキム・サン/ニム・ウェ―ルズ『アリランの歌』に載っている。
きのう川を渡してやった客なのに
きょうは悲しい知らせが届く
豆満江を渡る老船頭の繰り言
ふかく青い流れをものうげに漕ぎ行く船頭
船をおりながら
悲しげに振り返る客には
なぐさめの言葉をかける
意気揚々と帰ってこいよ
一年たち二年たち十年たち
それでもあれからまだ四十年
こうした様をみながら年とった
豆満江を渡る船の上
ニム・ウェ―ルズにキム・サンは次のように説明している。
<豆満江の歌は一九二八年ある朝鮮人革命家がつくった。この年、一〇〇〇人もの労働運動指導者や知識人が「危険思想」の持ち主ということで日本人に逮捕された。他の人々も豆満江を渡ってシベリアや満洲に逃げのびなければならなかった。ここで「客」といわれているのは政治亡命者の意味だが、この言葉は朝鮮では禁止用語にあたるので使えない。この歌はその後、朝鮮の学生たちの愛唱歌になった。豆満江は朝鮮とシベリア、満洲の国境を流れる。源は朝鮮最高の山、万年雪におおわれた白頭山脈である。この山を境として鴨緑江と豆満江にわかれる。一九一〇年の日本による朝鮮併合以来、二〇〇万人近い朝鮮人がこの二つの河を渡って亡命した。現在朝鮮人の数はシベリアに八〇万人、朝鮮とシベリアの間にある満洲の間島三角地帯に五〇万人、その他五〇万人が満洲の奥地に亡命している。朝鮮の革命指導者の多くが重大な危険にさらされるとこの豆満江をひそかに越える。忠実な老船頭らはそのために苦境に立つことが多いが、決して革命家を裏切らない。小型の船でひそかに河を渡ろうとする現場がみつかれば、逮捕・投獄は免れない。なんの証拠がなくても「危険思想」の持ち主とみなされるからである。>[李恢成・水野直樹編『「アリランの歌」覚書―キム・サンとニム・ウェ―ルズ―』岩波書店一九九一年による]。
ここで「シベリア」とされているのは「ロシア極東」であるが、「間島」(北間島)が出てくることに注目したい。すでに間島地方のことは大分語ってきたとおりである。
日本の参謀本部は、ロシアの十月革命勃発直後から、北満洲とバイカル以東のシベリア(ロシア極東)を占領する作戦計画を立てており、これを容認する日中軍事協定も結んでいた。一九一八年八月に開始された「シベリア出兵」は、ロシア社会主義革命に対する連合国の干渉戦争に乗じたものであるが、同時に植民地朝鮮およびこれに隣接する間島地方・ロシア極東(ウラジオストの新韓村)における民族独立運動に社会主義・共産主義思想とその勢力が合体して強化されることを恐れ、これを封殺しようという作戦であった。
豆満江を越えて、北方にはみだすように移住あるいは亡命した朝鮮人は、(北)間島地方とウラジオストクを中心にロシア極東地方に移り住んだ。中国東北部であった間島地方への移住朝鮮人と比べて、ロシア極東へ入った移住朝鮮人はロシアに帰化し、ロシア革命に際しても、ボルシェビキに入党するものも多く、社会主義・共産主義にも影響されやすく、その影響力は間島の朝鮮人社会から植民地の本土にも及び、日本帝国主義の支配を脅かした。「シベリア出兵」の目的には、当初から植民地朝鮮の支配の安定と朝鮮半島内外の朝鮮人社会への抑圧という問題があったのである。
<日本のシベリア戦争における朝鮮問題の大きな比重は、(一九二二年)いざ撤兵という段階になって軍部のますます痛感するところとなった。撤兵に最後まで反対した参謀本部は七月二三日づけで「撤兵後ニ於ケル西伯利政情ノ予想及其帝国ニ及ホスヘキ影響ニ就テ」と題する調書を作成したが、その中に見出される「撤兵後最モ脅威ヲ感スルハ朝鮮ニ対スル宣伝陰謀及之ニ伴フ朝鮮内外ノ騒擾トス」との一節に、問題の本質がよく現わされている。>
[原暉之『シベリア出兵/革命と干渉 1917-1922』筑摩書房一九八九年.五六六頁]。
ウラジオストクの新韓村の朝鮮人社会に対する攻撃を頂点とする、ロシア極東における「朝鮮人狩り」から、中国東北部の間島地方に対する「侵略と虐殺」に参加するという事実が「シベリア出兵」の見落とされた重要な本質を現わしている。そして、この関連、この問題構造は、ついで日本帝国主義が「満蒙」全体を狙うとき、さらに芋づるのように拡大していった。
朝鮮駐屯日本軍である朝鮮軍の参謀であり、柳条湖の鉄道爆破の協力者、朝鮮軍の満洲への越境進撃の画策者であった神田正種という軍人がいる。
<神田正種らは、満洲事変の直前、朝鮮軍が朝鮮北部の会寧 ホエリョン から豆満江対岸の竜井村 ロンジンチュン に通じる鉄道を故意に爆破し、それを機会に日本軍を間島に越境進撃させ、「朝鮮としては鮮内鮮人の不平の安全弁を与える意味で、間島を朝鮮に編入すること」を考えていた。この計画は実行寸前にまでことがすすんでいたのである(神田正種「鴨緑江」、みすず書房『現代史資料・7・満洲事変』所収)。ひとあし先に満洲事変がひき起こされたため、この計画は未遂に終ったのであるが、神田らの計画を全満洲までおしひろげて実行したのが満洲事変であったといってよい。>
[中塚明『近代日本と朝鮮』三省堂一九九四年]。
植民地化された朝鮮。
その朝鮮に一人の日本人が入れば三十人の朝鮮人が朝鮮からはみ出ていく。
まず、朝鮮人が故国から追い出された先は、豆満江・鴨緑江を越えて間島・満洲でありロシア極東であった。
植民地朝鮮の安定を計るためには日本帝国主義は、越境して間島から全満洲を、そしてロシア極東に進撃せざるを得なかった。
そして、この朝鮮・間島から満洲・ロシア極東は、すべて連結するチョウセンゴヨウが生い茂る生態であったのである。
一九三七年九月、日本人に追われソ連に新天地を得ていたロシア極東の朝鮮人は、日本軍の侵攻を警戒したスタ―リン政権により中央アジア・カザフへ丸ごと移される。
満洲事変からアジア・太平洋戦争へ
<満洲事変は、日本帝国主義が長年もくろんできた中国から「満蒙」を分離し、これを日本の植民地とかえようとする計画を、大恐慌によって国の内外の矛盾が極度に先鋭化したとき実行に移したものであった。戦争は関東軍の独断ではじめられたが、三年前の張作霖爆殺のときとちがって、日本政府も軍部の中央も、出先の軍隊の行動をおさえて戦争の拡大を阻止することはしなかった。ここに日本帝国主義はみずから新たに第二次世界大戦の発火点をつくるとともに、一九四五(昭和二十)年八月十五日の敗戦に直接つながる長い戦争の一歩をふみだしたのである。>
<満洲事変は、それまでの日本の朝鮮に対する植民地支配の矛盾を深くむすびついていたことを忘れてはならない。植民地朝鮮のさまざまな矛盾が満洲におよび、満洲における朝鮮人の独立運動は朝鮮の内部に影響し、したがって満洲での朝鮮人独立運動の息の根をとめなければ、日本の朝鮮支配も安定しないと考えられていたのである。
日本では、第二次世界大戦後、満洲事変にはじまり敗戦にいたる長い戦争をどうみるかという場合、それ以前の朝鮮支配の問題、朝鮮侵略の問題と満洲事変がどう構造的に関係しているのか、往々にして忘られがちである。
それにはさまざまな理由が考えられる。極東国際軍事裁判は過去の植民地支配の問題はとりあげず、一九二八(昭和三)年一月一日から一九四五年九月二日までの戦争犯罪を問題にしたこと、天皇をはじめ日本の支配層が朝鮮などに対する植民地支配を当然のことと正当化しつづけてきたこと、また日本の敗戦という未曾有の体験を考える場合、アメリカの圧倒的な軍事力の印象が日本の国民に強かったこと、そのうえ戦後、アメリカの対日政策によって、ことさらに「日米戦争」というイメ―ジが強調されたこと、そうしたもろもろのことを背景として、学校教育や思想界でも、日本の植民地支配の問題が日本の近・現代史のなかでもつ意味についての論及を長らくさけてとおってきたことなど、さまざまな理由があるだろう。
しかし歴史的な事実として、満洲事変と日本による朝鮮に対する植民地支配は構造的・有機的にかたくむすびついてはじまったことを忘れてはならない。この問題は、朝鮮侵略の問題をどう見るかということにとどまらず、近代日本の歴史をどうみるかという日本人の歴史認識の根幹にかかわることである。満洲事変は満洲占領という目的と同時に、朝鮮の植民地支配をより強化することをもめざしていた。このことは、満洲事変の首謀者たちの回想からも明らかである。>
[以上、中塚明『近代日本と朝鮮』三省堂一九九四年]
<関東軍の作戦主任参謀で満洲事変の首謀者の一人であった石原芫爾は、満洲占領を含めて、戦争の見通しを次のように述べていた。―将来「米国ノミヲ敵トスルコトニ努ム、コレガ為満蒙ヲ領有シ「フィリッピン」「ガム」等占領以外支那本部ニハ成ルベク兵ヲ用ウルヲ避ケ、威嚇ニヨリ支那ノ排日及参戦ヲ防止ス」(『対米戦争計画大綱』)。
中国の民族運動は、「威嚇」によって沈黙させることができるというのである。そして「満蒙」を占領しさえすれば、「朝鮮ノ統治」もおのずから安定すると彼も考えていた。>
<「満洲国」は「独立国」の体裁をとっていたが、まったく日本の傀儡国家にすぎなかった。国家の実権はすべて日本人によって独占され、議会はもちろんおかれなかった。そして連帯責任の保甲制を実施し、民衆から武器を没収し、治安の確立をはかった。武器の没収は一九三一年から三六年末まで銃器九九万挺、弾薬四五四万発に達した。とりわけ朝鮮との国境地方ではもっとも徹底しておこなわれ、料理包丁すら十戸に一本だけ許されるというところもあった(宇佐美誠次郎「満洲侵略」、岩波講座『日本歴史』現代3,一九六三年)。このことは国境付近での朝鮮人民の抗日武装闘争に日本側がどれほど手を焼き、おそれていたかを裏書している。>
<満洲事変後の朝鮮「工業化」政策―朝鮮の鉱工業への日本資本の投下―恐慌の打撃からのがれようとする日本資本の要求と、満洲侵略戦争にともなう戦時経済建設の必要をみたすためのもの―満洲事変後、金本位制がふたたび停止され、金価格が騰貴するにつれて、日本政府が朝鮮の金の収奪を強化し、さらに全面的な中国への戦争の拡大にともなって、鉄・石炭・明礬石・マグネサイト・タングステン・黒鉛・重晶石・蛍石・その他雲母・モリブデン・石綿・燐鉱など、直接間接に兵器生産に役立つ朝鮮の地下資源の開発をはかった結果にほかならない。
このように朝鮮を中国との戦争の兵站基地とし、朝鮮の資源を日本帝国主義の侵略戦争に奉仕させようとする傾向は、中国との戦争が長期化するとともにますます強められた。>
[いずれも、中塚明『近代日本と朝鮮』三省堂一九九四年による]。
以上のことから、次のような大江志乃夫氏の指摘もうなずける。
<朝鮮。日本は、固有の歴史と高度に発達した文化をもつこの民族全体を丸ごと植民地として支配してその文化を根絶しようとし、その民を日本の次なる新しい戦争の道具として使い捨てた。その傷はいまだに癒えずその怨恨はいまだに深い。>[大江志乃夫『日本植民地探訪』新潮選書一九九八年]。
以上の説明で明らかなように、朝鮮問題、植民地としての朝鮮をいかに安定した状態で統治していくかという問題が中核をなして、朝鮮問題の拡大・延長としての間島-満洲、ロシア極東の制圧・可能ならば植民地化という欲望、こうして、かつて同様にチョウセンゴヨウの世界であった日本がチョウセンゴヨウを生態の主要構成要素とする朝鮮を占領支配下に収め、これと構造的・有機的に連関する、やはり生態的にチョウセンゴヨウの世界である間島-満洲、そしてロシア極東に侵略していく。
そして、そういう侵略・占領は敗れ、チョウセンゴヨウの世界の征服戦争は瓦解するが、その敗北・崩壊から五十年経た今日いまだに日本・日本人は、日本-朝鮮-満蒙-中国-ロシア極東の構造的・有機的連関、その連関を支える生態、そのなかでのチョウセンゴヨウの重要性と意味を理解していないし、理解しようともしていない。
朝鮮南北分断に責任はないか
ポツダム宣言の受諾、日本の降伏の結果は、突如とした植民地朝鮮の解放であった。
植民地朝鮮は、日本の降伏受諾とともに突然日本の手から失われたわけで、そこに欧米諸国が植民地主義本国として味わったような脱植民地主義との長く苦しい摩擦と闘争の体験などは経験しなかったわけである。
ある意味では、そういう苦労を味わなくて済ませたことが逆に日本・日本人に植民地主義とか脱植民地主義についての自覚や認識を欠落させ、いまだ解決しない禍根を残したことになろうか。
朝鮮分断が決まる当時のアメリカは朝鮮問題をあまり理解していなかったといえよう。トル―マン政府内の政策樹立者の側に朝鮮問題を理解できる人はいなかったために、朝鮮問題は無視されがちで、ル―ズベルト大統領が任意に作った対韓政策を無批判に追随するだけで、ソウルだけはアメリカ側で確保できるという意味合いだけから三十八度線を提案した。
できるだけ北方を占領したいというアメリカの政治的要求と、その政治的要求を実現できる当時のアメリカの軍事的能力の問題であった。
ソ連軍による朝鮮半島全域の軍事的占領を阻止し、ソウルをアメリカの占領支配地域に置くことにより、戦後のソ連の朝鮮・東アジアへの影響力を限定化しようという、戦後最初のテストケ―スとなった対ソ封じ込め政策の発動であった。
一方、スタ―リンにとって朝鮮は完全にソ連軍が軍事的に占領支配できる力をもっていたのに、なぜアメリカに対して三十八度線についての共同行動を許容したのであろうか。 和田春樹氏の解釈が妥当であると思うので、ここに紹介しておきたい。
[和田春樹「韓国情勢と私たち」『世界』一九八七年三月号、三五頁]。
<朝鮮の分断占領は八月一五日のアメリカ提案でそのまま決まったのである。ソ連としては、日本本土はアメリカ、南サハリンとクリル諸島はソ連という分担とセットにして、自明のことと考えていた占領方式であった。つまり、ソ連が参戦すれば、自動的に朝鮮は分断占領される運命であったといえるのである。だとすれば、ソ連参戦以前に降伏して戦争を終えることのできなかった日本には朝鮮分断占領、ひいては南北分断の責任があることになる。敗戦国日本の領土のうち、分断占領になったのは唯一朝鮮である。これが懲罰であるのなら、朝鮮ではなく、日本の本土が分割占領されるべきであったろう。日本が積極的にしたことではないが、結果的には、対立する米ソの分割用に放棄する朝鮮をさし出すことによって、自らは分割の運命を免れたことになったのである。>
かつて日韓歴史教育の対話でソウルを訪問したとき、李元淳先生がわざわざ私たちを江華島の歴史遺跡巡りの案内を引き受けられ、きわめて有意義なフィ―ルド学習が実現した。このとき李元淳先生が雑談の中で、「本当は日本が分割占領されるべきだったのです」という意味のことをおっしゃられたことを記憶している。
この言葉を聞いていたのは数名であったが、私たち日本人の盲点をついてショッキングな発言であった。
日本本土の分割占領は、トル―マン大統領の対ソ冷戦政策遂行の観点から回避され、他方、朝鮮半島の分断占領は、その代償として、ソ連の対日戦参加と日露戦争以来のロシア人の日本に対する民族感情に応えるものとして行なわれたと言えよう。
いずれにしても、このような決定に米ソ両国とも応じたことは、日本よりも植民地であった朝鮮に対する無理解と軽視ひょっとすると蔑視があったのではなかろうか。
朝鮮という国の歴史と国土、統一された民族共同体の価値と尊厳に対するいくらかの理解・認識・尊敬の念があったならば(もっともソ連軍はいちはやく三十八度線以北から撤退し、あとは朝鮮民族の自主独立にまかせた)このような南北分断を固定するような政策をとらなかったのではなかろうか。
日本・日本人は、かつて植民地としてこき使い、戦争の道具としても荒廃させ、そのうえ後始末もろくにせず放棄した朝鮮の分断に対して、どのような反省と認識を行なえたであろうか。米国の占領政策と日本本土分割占領の回避によって、戦後の日本人は自らのアジア・アジアの諸民族に対する侵略戦争への反省と戦争責任・植民地支配責任の自覚とそれに対する補償問題を軽視ないし無視することになった。
東京裁判や公職追放は占領軍のアメリカがおもにアメリカに対する日本軍の戦争犯罪、捕虜虐待に対して行なったものであり、アジア・朝鮮の人々に対する日本の戦争犯罪責任・植民地支配責任の追及はほとんどなされなかった。日本人自らの戦争責任・植民地支配責任の明確化、引責をも求めなかった。
そして、多くの日本人もそれまでの歴史を忘却しようとした。
こうして、日本人は戦後一貫して朝鮮・アジアへの戦争責任・植民地支配責任を一切放棄してきたといえよう。わずかに、一九五二年の日本の独立回復後のアジア諸国との国交回復時に経済援助という名目で各国政府へわずかな無償・有償の援助金を与えた。
こうした日本政府の政策は、アメリカの冷戦政策の一環として実施され、そしてその後の日本のアジアへのいわゆる経済外交、経済進出の足掛かりとなった。
[大沼久夫『朝鮮分断の歴史1945-1950』新幹社一九九三年]。
一九九九年五月一七日の朝日新聞に、韓国国民会議副総裁の金槿泰氏のインタビュ―記事が載っていた。
韓国で軍事独裁政権と闘っていた一九七〇、八〇年代、北朝鮮のことをどう見ていたか、という朝日記者の質問の答えが勉強になった。
<北が南の民主化に意味のある役割を果たしたことはなく、北のほうが民主的だと考えたこともない。
ただ、北は日本帝国主義下で民族解放運動をした勢力が指導部を形成し、韓国はそうではないことに一種の挫折感があり、北の指導部に正当性がよりあるのではないか、と苦悶していた。(いまはどうですか、という問に対して)理解が相当に難しい。
政策決定の予測ができず、交渉に臨んでも、こちらが困惑することが多い。
抗日遊撃隊方式の政治性向があるのと同時に、経済危機にあって体制維持に苦しむ不安定さからきていると思う。北の立場からすれば、国際社会に入ってそこの慣習を自分のものとする機会がなかった。米、日、西欧の主要国が北と国交を結んでいないから、北自身が国際社会で行動して物事を決めることができなかった。>
日本人も、民主化闘争の経験のある金槿泰氏に学んで、脱植民地主義の日本人としてこの韓国人の理解に照応するような独自の北朝鮮理解を一日も早く持たなければならない。
朝鮮戦争がらみの高度経済成長
アジア・太平洋戦争における日本の敗戦-戦争終結の仕方は、多くの点で戦争責任および植民地支配責任のけじめをつけなかった、後世に大変な宿題を残すものとなった。
そういう放棄された諸問題のなかに、南サハリン(樺太)の朝鮮人を虐殺し「棄民」したこと[角田房子『悲しみの島サハリン―戦後責任の背景』新潮社一九九四年]、
敗戦後も在日していた朝鮮人(それに台湾人)約六〇万人を、平等が保護されない、権利が保証されない、差別された不安定な「外国人」として疎外し続けたこと[記録映画『戦後在日五〇年史・「在日」』],あるいは、満洲=中国東北で戦時中に行なわれた化学兵器の製造・実験と敗戦時その兵器の隠匿・放棄の問題などがある。
しかし、ここで注目したい事実は、敗戦で崩壊・解体された日本社会と経済・産業がまたしてもかつての植民地朝鮮の内戦に始まる朝鮮戦争という大悲劇を下敷きにして復活・再生したことである。
荒廃した生産・輸送施設、占領軍によるさまざまな経済規制などで沈滞していた日本資本主義は、朝鮮戦争によって復活と再生、新たな発展の条件を獲得した。
アメリカの軍事力の根拠地、補給・兵站基地として、アメリカのアジア政策-冷戦政策に従属させる形で日本資本主義は復活し、未曾有の高度経済成長を開始した。いわゆる「朝鮮特需」による独占の復活である。
こうして、またしても朝鮮が踏み台になったのである。
戦後経済成長後の森林危機
アジア・太平洋戦争は戦略資源の乏しい日本にとっては松根油まで採取するような消耗戦に陥り、列島の林野の荒廃も最低レベルに達した。
しかし、戦後日本人はふたたび植林に励み、林野の緑は回復していったが、奥地の天然林や里山の薪炭林まで次々と成長の早い針葉樹に切り替えられていった。
わずか二、三〇年の間に杉林ばかりの森林景観に列島は一変した。
高度経済成長とバブル景気は、木材需要を激増させ、木材資源の枯渇にともなって材価の急騰が進み、他の資材による木材の代替と外国産木材の輸入が本格化し、コスト高から国内の森林の伐採のテンポは落ちていった。
戦後進行した猛烈な森林略奪は、植林によってではなく非木質系の代替資材と外材により救われた。
しかし、これは復活した日本資本主義を含めた世界資本主義の進展のなかでは、化石燃料の大量消費と地球規模の森林破壊という深刻な代償をともなった。
地球環境の悪化と引き換えに、列島内の森林があまり切られなくなった。
伐採圧力が国内の森林から国外の森林に移ったのである。東南アジアの熱帯雨林、北米やロシア極東の北方林、オ―ストラリアの天然生ユ―カリ林はじめ、世界のあらゆる森林に破壊の嵐は及んでいる。
世界中のこれほど多くの地域から、これほど大量の木材・木製品を集めている国はほかにはない。
[熊崎実「訳者まえがき」、コンラッド・タットマン『日本人はどのように森をつくってきたか』築地書館、所収]。
<七〇年代以降は国の境界を超えて物資や資本が自由に行き来する時代である。何千キロも離れた見ず知らずの国から珍しい木材がいくらでも入るようになった。輸出国の森林が伐採されそこで何が起っているかまるで分からない。森を失った先住民の人たちの苦難が時たま報道されても、見て見ぬ振りをする。それと同時に木材の取引が世界中に拡大したことで資源の限界が実感できなくなった。となれば誰も消費を自制しようとしない。‥人びとは自分に近い環境の健康には気を使うが、環境が遠くなるにつれて気にかけなくなる。遠い将来に得られる収入ほど大きく割り引くのと同じ理屈だ。…よその国の森林なら荒れてもかまわない。安い木材であればいくらでも使うという島国根性がわれわれんどこかにあるのかもしれない。しかし基本的には市場経済と自由貿易がもたらした帰結というべきであろう。>[前掲書中の熊崎実「訳者まえがき」から]
一九九九年三月六日、朝日新聞夕刊に次のような記事が載っていた。
<森林乱伐やめさせて/ロシア極東・ウデゲ族/来日し技術援助要請
ロシア沿海地方に住む少数民族・ウデゲ族のアルカジ―・カザさん(三六才)が来日し<無謀な森林伐採で生物資源が減少し、自然環境も汚染されている。毛皮猟など伝統的な生業は、ロシア社会の混乱で破綻した。環境に合った民生用発電やキノコ加工などの面で、日本からの技術援助や協力がほしい」と訴えている。ウデゲは、ツング―ス満洲語派の狩猟民族。カザさんは先月末、ハバロフスクにある森林資源保全極東同盟のアンドレイ・ザハレンコフ理事長(三三才)とともに、非政府組織(NGO) 「地球の友ジャパン」(本部・東京)の招きで来日した。現地では近く、猟師五十二人で合同組織を設立し、少数民族に優先権のある森林の利用に乗り出すという。しかし、毛皮販売やウコギ、ワラビ、ハチミツなど林産物の加工にしても技術や経験が乏しい。このため、「地球の友」は技術指導や新製品開発の協力者を探し、環境を保護しながら少数民族の生活を守りたい、としている。>
来日したウデゲ(ウデヘ)族の住む土地はかつてチョウセンマツの世界であった。
チョウセンゴヨウ、北洋材ではベニマツは、建築用主要木材の一覧表の19番目に挙げられている。
[上村武氏『棟梁も学ぶ木材のはなし』丸善一九九四年、二四二頁付表「建築用主要木材の性質一覧表」]。
韓国・中国、とくに日本が買い付けている北洋材の主産地、ロシア極東の森林荒廃の実情については、すでに第三話で話したとおりである。
では、しばらく休息していた列島の森林はどうなっているのか。最近(1998.10.20)朝日新聞の「声」欄に次のような投稿があった。
<日本の森林がいまピンチだ―前橋市・宮下正次氏(営林局員 54才)
高度成長を支えるため、日本の森は伐採されてしまった。わずかに残った自然林は三割を切っている。人工林の半分近くは杉で四十五万ヘクタ―ルに及ぶ。力を込めて育ってきた、その杉に価値が無くなってしまった。育てた原価さえ回収できない杉林に、農家の人たちは見向きもしない。売れない山に相続税がかけられ、今や山は厄介者だ。国有林では、営林署が来年三月には六割近くもカツトされる。これでは、山を管理する組織は無いに等しくなる。今ですら、山がどういう実態にあるのかつかみ切れていない。
日本の森は、酸性雨のpHが5を切り、微生物との共生が出来なく成りつつある。各地で森が枯れ始め、奥地の自然林に被害が目立ち、早急に対策を取らなければ、せっかく育ち始めた幼樹まで失ってしまう。杉の人工林を、照葉樹などの、ふる里の木に戻してやることも、二十一世紀に向けて重要になる。元気な森づくりを急がなければ、だれも生きられなくなる。>
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