朝鮮五葉松への旅

朝鮮五葉松への旅  第四話  日本に立ち返る

朝鮮五葉松への旅  第四話  ( 日本 )
日本に立ち返る


  北から南まで朝鮮五葉の森
 

一九九九年の年賀状で、一九九八年のそれにつづいて、あえて普通あまり聞き慣れない朝鮮五葉のことを取り上げてみた。
今度は昨年よりは少し反響が増えた。
その中のひとつに、仙台の畏友一戸冨士雄さんのものがある。

 <年賀状、ありがとうございます。
朝鮮五葉と聞いて、とてもなつかしく思いました。第六次と第七次の二回、野尻湖発掘調査に参加した際に、たまたま朝鮮五葉の花粉化石を採取したからです。
トウヒやツガ、モミ、カラマツなどの亜寒帯から冷温帯の植物の花粉が大半でした。
ウルム氷河期(第四氷期)の約二万年前ですから、かなり寒い時期だとの説明をうけたことを思い出しました。>

 野尻湖の発掘調査は、一九六二年に始まり、第六次調査は一九七五年、第七次調査は一九七八年のことである。
一戸さんは娘さんと一緒に、この二回の調査に参加したという。
 野尻湖層の下部・中部から出土した植物遺体は針葉樹種子がもっとも多く、そのなかでも多いのはヒメバラモミの毬果であり、チョウセンゴヨウの毬果とカラマツの毬果がこれについでいる。
[井尻正二監修・野尻湖発掘調査団著『野尻湖の発掘 1962-1973 』共立出版一九七五年.一〇二頁。]

 今から一万年以前前までは繰り返し繰り返し厳しい寒さと温暖な時期が交代して訪れたので、これを氷河時代と呼ぶ。
当時の日本列島の形状は今日とは異なるが、いわゆる旧石器時代人が住んでいた。
今日、列島各地の遺跡からは、旧石器時代人を取り巻いていた森林の樹木がそのまま発見されたり、またそこに生きていた獣、シカなどの糞までもなまなましい状態で発見されたりしている。
その樹木類は、アカエゾマツなどの亜寒帯性の針葉樹類で、その主要な樹木のひとつにチョウセンゴヨウつまりチョウセンマツが位置しているのである。
今から二万年前は、現在より年平均気温は五~七度ほど寒かったようだ。

 たとえば、仙台市富沢遺跡では、現在の地表下三メ―トルに約二万三千年前の氷河時代の林が眠っていた。
その林の主要針葉樹として朝鮮五葉松の葉が出てきている。
[毎日新聞社『日本のあけぼの1/最古のハンタ―』加藤晋平.一九頁。]

 小金井市野川中洲遺跡では、地表下三メ―トルのところに旧石器時代の泥炭層(有機質に富み、植物遺体が未分解のなまに近い状態で埋れている)が三層広がっているのが発見され、その中層(約二万年前)からヒメバラモミやチョウセンゴヨウの実などがたくさん出土した。
ほかに三万年前、一万年前のチョウセンゴヨウの種子も発見された。
また、針葉樹の流木や倒木も出、中には約三〇センチ、長さ三メ―トルの倒木もあった。
ヒメバラモミもチョウセンゴヨウもその付近が今よりかなり寒かったことを思わせる。

[朝日百科『日本の歴史1/原始・古代』七一頁。集英社版『日本の歴史1/日本史誕生』佐々木高明.五三頁。]

 なお、日本の代表的な第四紀層である京阪神一帯の大阪層群から出土した植物化石を整理分類した<植物群の変遷表>を見ると、チョウセンゴヨウは初期の難波層-伊丹層-上町層-浄谷層-播磨層を通じて大阪層の上部-下部までずっと途絶えず繁茂していたことになっている。
 以上のように、チョウセンゴヨウの植物化石が日本各地にから出土していることは、遠藤隆次氏『植物化石図譜』浅倉書店.一九六六年によっても(その一二八~一二九頁に東京・江古田遺跡泥炭層から出土したチョウセンゴヨウの植物遺体-更新世の図)、安田喜憲氏・三好教夫氏編『図説日本列島植生史』浅倉書店.一九九八年によっても(北海道-早来町~厚真町の早来層から現在の北海道には自生しない本州系の針葉樹であるシラベの鱗片やチヨウセンゴヨウの種子などの大型植物遺体が出土。
東北地方-山形・川樋盆地遺跡からチヨウセンゴヨウ。新潟平野南部や関東平野以西-主にマツ科針葉樹が森林を形成しており冷温帯性の落葉樹がこれらに交じって生育しており、当時のマツ科針葉樹は低標高部ではヒメバラモミやチョウセンゴヨウなどが温帯性針葉樹林を、高いところではチョウセンゴヨウ、トウヒ、シラビソ、コメツガなどが亜寒帯性針葉樹林を形成していたようである)わかるのである。

 朝鮮松、朝鮮五葉松といっても、今はその名前だけでも知る人は少なくなり、日本ではまったく馴染みが薄くなってしまった。
 ところが、朝鮮松すなわち朝鮮五葉松は、約二万年前の大昔は、北は北海道から南は九州まで日本全域に生えていた針葉樹の主役のひとつであった。時は、第四紀である更新世である。
この時代は、世界的な大氷河時代であり、大氷期が五~六回も訪れた氷河時代であった。最後の氷期が終わると、今から七、八千年前に世界的に温暖な時期が訪れる。
日本では縄文海進期と呼ばれる温暖期である。

 朝日百科の『植物の世界』第八集の一二六~一二八頁に掲載されている辻誠一郎氏の「日本の森の変遷、六万年」を読むと、過去五〇万年間同じような周期で氷期と間氷期とが繰り返されてきたが、その最も新しい氷期と現間氷期(後氷期)を通して、日本の植生の変化様式が素描されている。

 <およそ六万年前から一万年前までの五万年間、日本列島は乾燥気候に見舞われていた。五万年前と二万年前は気候が著しく寒冷になり、シベリア、サハリン、北海道は地続きとなって日本列島は大陸から垂れ下がった半島のようであった。
現在により近い二万年前には、海面は今より約一〇〇メ―トル下がっており、「北の陸橋」がやはり開かれていた。
津軽海峡は氷でつながる「津軽氷橋」、瀬戸内海は大湿地が広がる「瀬戸内陸地」であった。
日本海には暖流が流れ込まず、黒潮もはるかに沖合いをかすめるだけであったから、植生も今とは大きく違っていたはずである。
 最近、最終氷期の最盛期とされる二万年前ころの植生が急速にわかってきた。
二万四千年前の始良 あいら カルデラ(現在の鹿児島湾北部)の巨大噴火が日本のほぼ全域に大量の火山灰を降らせたことが明らかになり、これを鍵に年代が決めやすくなったからである。
 当時の森林をトレ―スしてみると、氷期にどのような植生帯が成立していたかがよくわかる。
現在と比べて特異だと思われるのは、針葉樹の優占が日本の全域に及んでいたことである。今では、北方四島、サハリン以北に分布するダイマツや北海道に普通なエゾマツ、アカエゾマツが東北地方中部にまで、中部山岳地帯以北のいわゆる高山帯をなすハイマツが中部地方の盆地から東北地方以北の平野にまで、また、中部山岳地帯にまれに生えるカラマツ、チョウセンゴヨウや、ヒメバラモミ、ヤツガタケトウヒなどトウヒ属バラモミ節が東北地方北部から九州に至るまで、おのおの広大な面積を占有していた。今日の主役たち、ブナやカシの仲間は当時は目立つことがなく、南端部もしくは局所的な逃避地で生き延びていた。
 このように当時の日本は著しく針葉樹林化を遂げていたといえる。しかも、針葉樹の多くが、今ではあまり目立たないか、まれな種であった。
どうしてこのような植生が成立していたのだろうか。
それはやはり、大陸から垂れ下がった半島に象徴されるような気候と風土によっていたと解される。

 寒気団の南限を示す北極前線は当時、現在位置する北海道中央部よりはるか南の、東京と大阪を結ぶ線の前後まで張り出し、梅雨や秋霖など雨の多い季節がはっきりしなかった。台風は太平洋岸をかすめる程度だったかもしれない。…
乾燥を好み、温帯から亜寒帯まで温度に対する広汎な適応範囲をもつ針葉樹種の独壇場となったのである。…
 堆積物の中から花粉を抽出し、種組成の変化から植生史を調べる方法を花粉分析とよんでいる。
過去二万数千年間の連続堆積物をこの方法で解析してみると、約一万一〇〇〇年前、これまでの話のような針葉樹が優占する植生が劇的な終末を迎えたことがわかる。
 約二万年前の日本列島に広がっていた森林の主役たちは、カラマツ、チョウセンゴヨウ、ヒメバラモミ、あるいはダイマツ、アカエゾマツ、ハイマツ、ゴヨウマツ、アカマツなどの類似種子であり、草本類ではコケスギランやミツガシワなどであった。…
 約一万三千年前、最終氷期が終りに近づき、全般に寒冷乾燥気候が卓越した氷期から温暖で湿潤な気候が支配する間氷期へ向かっていくと、針葉樹優占時代は終りを告げ、植生に大きな変化が始まる。
日本海には対馬暖流が流入し始め、黒潮の勢力は大きくなるとともに日本の沿岸に急接近しはじめた。現在に続く間氷期の象徴でもある縄文海進はこの変化をもって始まった。…

針葉樹優占時代終る

 もっとも、針葉樹の急激な衰退後、ブナ林や照葉樹林といった今の代表的な森林植生に一気に移行したわけではない。
関東地方以西では、まず落葉樹のコナラ属やクリが針葉樹にとってかわり、エノキやムクノキの短期間の優占を経て、シイやカシの仲間から成る照葉樹林へと移り変わった。中部地方や関東地方以北ではコナラ属の優占がそのまま継続するが、わずかに遅れてブナも加わり、種数の多い落葉樹林へと移り変わった。
 照葉樹林をつくる樹種やブナの分布の拡大は、南のほうが早かったことは確かであるが、拡大の仕方にはいくつかの考えが提唱されている。
最終氷期に現在より南に閉じ込められていたが、あるいは局所的に取り残されていた集団が、気候の温暖・湿潤化とともに徐々に北方へ拡大したというのがひとつ。
もうひとつは、拡大の時期は南のほうが早かったのだが、海進が一時的に止まったり、海面が下がるという海況の変化、あるいは巨大噴火のような突発的な事件を契機として、段階的に拡大していったという考えである。
 かつて私も前者のように考えていたが、海に囲まれ、生態系の秩序を一瞬に崩すような突発的な事件が多い日本では、これからの豊富な資料の蓄積によって、後者の考えの正しさが裏づけられるのではないかと思っている。
 台地や丘陵を除くと、平野は見渡すかぎり広大な低地であり、人工集中域でないところは農耕地として開かれ、低地は見通しのきく馴染み深い空間である。
弥生時代以降は、水田稲作農耕や畑作農耕の伝播によってつくられてきたこのような空間に、開発される以前のおよそ二千数百年間、うっそうとした森林が成立していたことなど、私たちは最近まで想像もしなかった。
 一九八〇年代に入ると、低地や谷に及ぶ規模の大きい遺跡の発掘調査が各地で急増し、自然環境や人間の生業についてのおびただしい資料が得られるようになってきた。
そのなかで私たちが驚きをもって注目したのは、およそ四五〇〇年前から二千数百年前の森林がそのままパックされて残されていた大規模な埋没林であった。

縄文時代後期の大森林時代

 まず、東京低地の台地緑や埼玉県の大宮台地から群馬県の館林台地に刻まれた谷で、湿り気の高いところにハンノキ、ヤアグモを主とする湿地林、少し乾いたところにトチノキ林やケヤキ、ムクノキ、アサダ、カエデの仲間などからなる落葉広葉樹林が次々と見出されていった。
これらの埋没林は、ほぼ木本の植物遺体のみからなる泥炭の中に埋まっており、森林がその場で枯死し、埋積していったことを物語っている。

 縄文海進がピ―クを迎えるのは約六三〇〇年前である。
その後、海面は停滞あるいは少しずつ低下を始め、約四五〇〇年前、急速に海退の時代に入った。
縄文中期の小海退とよばれる。関東平野をはじめ海に面した日本のほとんどの平野は、縄文海進期に侵入していた海が急速に退いていき、そのあとに広大な陸地が出現した。その陸地がいつまでも裸のままであったはずはない。
湿原植物がいち早く侵入し、泥炭地化が急速に進んだ。泥炭の埋積は地下水位を低くし、森林の成立を大いに促進したと考えられるのである。
 若狭湾に面した福井県の三方低地帯では、縄文時代後期に樹齢が二〇〇年をゆうに超えるスギやハンノキ、ヤチグモからなる低地林がそのほぼ全域に成立していたことが、その後わかってきた。
さらに秋田県や青森県の津軽地方の海岸部に見られる広大な砂丘地帯が、当時はブナやトチノキなどの落葉広葉樹林におおわれていたことも明らかになった。
 海退によってできた広大な陸地、そして砂丘形成の停止、これらが一気に植物分布の拡大を促し、平野部に大森林時代をもたらした。
気候の寒冷化と立地空間の出現はもちろん森林の樹木だけではなく、さまざまな植物群にさまざまな戦略をともなった移動と分布の拡大を促した。

 弥生時代に入ると、突然、大森林時代は幕を閉じた。
弥生の小海退とよばれる新たな環境変動、そして農耕伝播に象徴される人間活動の活発化が複雑にからみあい、日本の植生史はそれまでとは性格の違った新たな道を歩みはじめる。>

旧石器時代人の重要な食料 松の実

 約二万年前のヴュルム氷期最盛期、気温はいまよりも七度ほど低かったとされている。この時代の衣食住の特色を具体的に復元できるほどの遺物はいまのところほとんど発見されていない。
だから、よくわからないというのが正直なところである。

 佐々木高明氏は集英社版『日本の歴史1/日本史誕生』』一九九一年の第一章日本列島の旧石器時代」でこう語っている。

 <当時の人のおもな食料は、花泉遺跡や野尻湖遺跡のキル・サイトの例によってもわかるように、大型獣 ビッグゲ-ム を中心に中小型獣も含め、その肉と血や内臓や脂肪などであったことはいうまでもない。そ
れらの一部は焼き肉や燻製や干し肉にして移動の際の携帯食料にすることもあっただろう。このほか、植物性食料も可能な限り利用していたに違いない。
アク抜きの技法は、縄文時代になって完成するものなので、当時はアク抜きを必要としない植物が食料の対象となっていたと思われる。
東北日本の亜寒帯針葉樹林帯やその周辺ではコメモモ・クロマメノキなどの 果しょうか 類やハイマツ・チョウセンゴヨウの実などが、西日本の落葉広葉樹林帯や広葉樹と針葉樹との混合林帯ではチョウセンゴヨウ・ハシバミをはじめ、クルミ・クリ・ヒシなどの堅果類やヤマブドウ・サルナシ・キイチゴなどの 果類、ウバユリなどの根茎類が食料として利用されていたと思われる。
なかでも、その当時、本州から北九州にかけてひろく分布していたチョウセンゴヨウの実は小型のピ―ナッツほどもあり、栄養価も高く、食料として重要性が大きかったと鈴木忠司氏は推定している。私もその意見には賛成である。>
 [前掲書.五一~五二頁]。

その後の森林相の変化

 元エ―ル大学の歴史学の教授であり日本近世史が専門である、
コンラッド・タットマン氏の『緑の列島/ 工業化以前の日本の森林 THE GREEN ARCHIPELAGO / Forestry in Preindustrial Japan 』カリォフルニア大学出版部.一九八九年という著書が、
熊崎実氏の翻訳で『日本人はどのように森をつくってきたか』築地書館一九九八年として出版されている。

有史以来明治維新までの日本の森林と林業の歴史を包括的に扱った著作として国際的にも評判の高い著作である。
訳者は、「日本列島におけるヒトと森との歴史的なかかわりについて、近年の研究成果を広く取り入れながら、その全体像を鮮明に描き出した<通史>としては唯一のものである」と評価している。
 タットマン氏によると、「工業化以前の日本列島の森林は、二つの大きな危機に直面した。律令国家の成立過程で見られた古代の(森林)略奪(六〇〇~八五〇年)と、秀吉・家康の諸国統一に象徴される近世の(森林)略奪(一五七〇~一六七〇年)がそれである。とくに近世以降、森林伐採が全国に広がり、林地開墾も盛んになつた。傾斜が急で地質的にも脆弱な日本の山地に繰り返し強度の干渉が加えられれば、生態系の劣化が急速に進展する。
事実、<近世の略奪>があった直後には(森林は)荒廃の一歩手前まで来ていた。しかし現実には朝鮮半島や中国の山地に見られるような極度の森林荒廃は起こらなかった。 というのも、一七世紀の終わりころから伐採速度が低下し、より安定した森林利用のパタ―ンが出現するからである。
まず第一に、森林の利用と林産物の消費にたいして強い規制が加えられるようになった。統治者による上からの取り締まりに加えて、村びとたちもコミュニティのレベルで自主的な規制を強めていった。
だが、消極的な規制だけでは林産物の絶対的な不足は解決しない。ついで、一八世紀の半ばあたりから、規制に加えて、積極的に(森林)資源を育成する方式が広く採用されるようになった。スギ・ヒノキの人工造林がそれである。
タットマン氏によれば、こうした措置が成功をおさめ、日本はドイツとともに世界に先駆けて収奪的な林業から持続的な林業への転換を果たしたという。
 この転換によって今日の日本型育成林業の原型が形成され、二〇世紀半ばまでつづく<植林の時代>を支えることになるのだが、その育成林業はいま崩壊の瀬戸際にある。」


<エコロジカル・テロリスト>日本
 

<訳者まえがき>は以上のように、タットマン氏の論稿を要約し、次のような訳者の補足を試みている。
 <タットマン氏が平成にまでおよぶ日本の全森林史を書くとしたら、列島の森林が直面した三番目の危機として「二〇世紀の略奪」を加えたはずである。
二〇世紀に入ってからも、官民挙げての植林の努力が、列島の森林荒廃を阻止し、木材の国内生産を大幅に増やしたのは事実だが、その一方で森林の伐採頻度が高まり、列島の森林はしだいに疲弊の度を深めていった。

それがとくに顕著になったのは太平洋戦争とその後の復興期においてである。
一九五〇年の林野庁の調査によると、森林一ヘクタ―ル当たりの材木蓄積量は全国平均でわずかに六七立方メ―トル。
温帯の工業国の最低のレベルにまで落ち込んだ。…
 この危機に直面して日本人はふたたび植林に精を出した。
戦中戦後に伐り荒らされた山林にほどなく緑がよみがえり、奥地の天然林や里山の薪炭林なども次々と成長の早い針葉樹に切り替えられていった。…
だが、この植林も年々増加する当面の木材需要に対してはあまり足しにはならない。
木材資源の枯渇とともに材価の急騰が始まった。
他の資材による木材の代替と外国産木材の輸入が本格化するのはこのときからである。そのおかげで国内の森林はあまり伐られなくなった。
長年酷使された列島の森林にしてみれば、しばしの休息がおとずれたということであろう。
二〇世紀の略奪が生み出した森林危機は、植林によってではなく非木質系の代替資材と外国産の木材によって救われたと言っていい。

 それは一方で、化石燃料の大量消費と地球規模の森林破壊という深刻な代償をともなっていた。
地球環境の悪化と引き替えに、国内の森林が安定を得たのである。
森林について言えば、伐採圧力が国内の森林から国外の森林に移された。
その対象になったのは、東南アジアの熱帯雨林、北米やロシアの北方林、オ―ストラリアの天然ユ―カリ林をはじめ、世界のあらゆる森林におよんでいる。
世界中のこれほど多くの地域から、これほど大量の木材・木製品を集めている国はほかにはない。
輸入材の多くは原生林から伐り出されたもので価格も安かった。
というのも林木の更新保育費用や環境へのダメ―ジを最小にするための費用が含まれていなかったからである。
更新費用と環境費用を外部化した安価な木材が大量に流入すれば、植えて育てる育成型の林業は成り立たない。
世界に先駆けて成立した持続可能な人工林林業はこのようにして存立の基盤を失ったのでる。その結果、世界一の木材輸入国でありながら、自国の森林の活用度がもっとも低くなるという奇妙な現象が生み出されている。…

 近年の統計によれば、国内の森林が保有する木材のストツク量は約三五億立方メ―トル。この木材は生きた材木の形をとっているから毎年成長する。
その成長量は年当たり九〇〇〇立方メ―トルくらいにはなるだろう。
物的な材積だけで言えば、国内の木材消費量の約八割に相当する。
ところがこの成長量のうち実際に伐採・利用されるのは三分の一程度でしかない。成長量の七~八割を利用する欧米諸国とは雲泥の差がある。
たとえば、ドイツの森林は一〇〇〇万ヘクタ―ルで四〇〇〇万立方メ―トルの木材を生産しているが、日本はその二・五倍の面積で二五〇〇万立方しか生産していない。
ヘクタ―ル当たりの森林蓄積は五〇年当時の約二倍に増加しているのに、木材の生産量のほうは減少をつづけ、国内の自給率はついに二〇パ―セントになってしまった。

 日本は熱帯雨林や北方の針葉樹林を破壊して自国の森林を温存しているのではないかと勘ぐられたり、「エコロジカル・テロリスト」という有り難くないニックネ―ムを頂戴したりする理由もここにある。…

 木材の消費を押さえひたすら植林した以前の日本人と、熱帯雨林や北方林の崩壊に目をつむってひたする安い木材・木製品を求めつづける今日の日本人とのあいだには、埋め切れないほどのギャップがある。なぜこうもちがってしまったのか。…

 よその国の森林なら荒れてもかまわない。
安い木材であればいくらでも使うという島国根性がわれわれのどこかにあるのかもしれない。
しかし、基本的には市場経済と自由貿易がもたらした帰結ともいうべきであろう。…
 地球規模の市場経済に潜む危険性を早くから予見していたマハトマ・ガンジ―は、一九二九年にこう書いた。

「インドが西欧のやり方をまねて工業化することを神は禁じている。イギリスのような小さな島国の経済帝国主義が今日世界を鎖でつないでいるが、もし人口三億のインドが同じような経済開発を始めたとしたら、世界はイナゴの大群に襲われたように丸裸になってしまうであろう」と。

 イギリスのやり方を忠実にまねて成功したのが日本である。
この小さな島国の一億二五〇〇万人が高い生活水準を享受できるのも、経済帝国主義によって世界の資源をかき集めているからだ。
タットマン氏の表現を借りれば、工業化社会が取り得るテクニックを駆使して世界のエコシステムから生計のかてを獲得しているということになる。

ガンジ―がインドの人々に説いたのは「国内で手に入らないものは欲しがるな」、「自らの手でつくったもの以外は身につけるな」ということであった。

これが人間のまっとうな生き方だとすれば、地域資源の循環的利用を旨とした徳川(幕藩体制)のシステムのほうが、現代のシステムよりも、はるかにまっとうであったと言わねばならない。>

 [コンラッド・タットマン/熊崎実訳『日本人はどのように森をつくってきたのか』築地書館.一九九八年.「訳者まえがき」四~六頁.一〇~一一頁]。

マツ林盛衰記
 

日本列島においてチョウセンゴヨウを含めた針葉樹林が優占していた時代は、更新世とともに終わった。
旧石器時代人が生きていた最後の氷河時代が終わるとともに、チョウセンゴヨウの樹林は後退し、おそらく北から南までの山地・高地に点在する形になったと思われる。
そして、名前が一般に知られたマツとしては、アカマツそしてクロマツが低地や平野、海岸などでも普通に見られるマツとなり、チョウセンゴヨウマツの残存・存在などは遠く忘れ去られていたと思われる。

 二〇世紀の世紀末の九〇年代後半、樹木や林業にはまったくの素人である私が、ふとした興味・関心からチョウセンゴヨウマツ探索を東京周辺で始めたとき、まず訪ねたのは植物園や樹木の多い公園である。
八〇年代の出版物である東京都公園協会監修の東京公園文庫という叢書がある。それを調べているうちに『石神井公園』の巻の中に、公園内の樹木の一覧表があり、チョウセンゴヨウ一本というのが見つかった。
近くの公園だったのですぐその公園の管理事務所に行き、樹木のことがわかる所員に尋ねてみると、そんな樹はとっくに枯れてなくなっているようで知らない、今の公園には無い、という返事で、ひょっとすると神代植物公園ならばあるのではなかろうか、と教えてくださった。
早速、別の日に深大寺の脇にある神代植物公園を訪ねてみた。
植物会館でチョウセンゴヨウの有無と所在を尋ねると、一本だけあるはずだ、という。
しばらく待っていると、現場の人が戻ってきて、あったにはあったのだが枯れてしまって伐ったばかりだ、という答えが戻ってきた。
所在を聞き、一本のチョウセンゴヨウがちょっと前まで生えていた場所を探すと、針葉樹園で、無残に切倒された根株とチョウセンゴヨウの標識だけが残っていた。これが多分調布市の朝鮮五葉として市販の樹木図鑑に載っているものであろう。

 別の東京公園文庫に内山正雄・蓑茂寿太郎『代々木の森』というのがある。
これを見ると、明治天皇が亡くなったとき、明治天皇の功業を偲び明治天皇の霊を祭る明治神宮の造営に際し、植民地を含む全国各地からの寄進で集められたさまざまな樹木苗木を明治神宮の内苑に計画的に植樹したのであるが、その植樹された樹木の一覧表が載せてある。その中に、日露戦争の勝利後獲得した植民地である朝鮮から運んだであろうチョウセンゴヨウが四四一本植樹されたと記録されている。

一九九八年、明治神宮社務所を訪ね、林苑課長の中井沢氏にうかがったところ、現在チョウセンゴヨウは一本も神宮内苑には残っていない、とのことであった。
 前掲の『代々木の森』には掲載されているのだが、敗戦後の一九七〇年の調査ではまだチョウセンゴヨウが残っていることが『明治神宮五十年誌』に記録されている、とある。とすると、七〇年代から九〇年代後半にかけてのどの時点かで神宮内苑に四四一本もあったチョウセンゴヨウマツが壊滅していったのであろう。
やはり何本も植樹されていたはずのアカマツやクロマツが同じような運命をたどっているようである。アカマツ・クロマツの壊滅という運命が同様に見られるのが、港区白金台にある国立白金台自然教育園のマツ類であろう。
ここでは、この都心の植物園が他の植物園以上に影響を受けたであろう環境の激変に応じた森林の移り変わり、とくにマツ林のゆくすえという問題が注意され、説明されている。

 「森林の移り変わり」という説明では、開園当時と現在を比較する図面と円グラフの下に次のような文章がある。

 「(戦後)開園当時の自然教育園はシイ巨木の並木、コナラやミズキなどの落葉樹林がありました。
しかし、開園前に人工的に植えられたスギやマツの針葉樹も多く、下草刈りが行なわれていたため、全体に見通しのきく、明るい森でした。
開園後四〇年間に、大気汚染に特に弱いスギやアカマツなどの針葉樹が減り、カシ類、タブ、シイなどのこの地域本来の常緑樹の自然林に変わりつつあります。」

 園内の通路脇にあるパネルにはこうあります。

 「マツ林のゆくすえ
 この林は、樹齢約八〇年のマツとあとから育ったミズキ、イイギリなどの高木、スダジイ、タブノキなどの亜高木、アオキ、ヒサカキなどの低木、そしてアオキ、スダジイの芽生えなどの草木と四階建で構成されています。
しかし、マツはしだいに枯れ、ミズキ、イイギリなどの落葉樹の林に変わりつつあります。そして、長い年月の内にはこの落葉樹林もやがてはスダジイ、タブノキなどの常緑樹林に変わってしまいます。
このように植物群落が時間とともに変化していくことを遷移といい、その遷移が進んで、ある程度安定した林を極相林といっています。」

 大阪市南の泉北丘陵地帯に古代の須恵器の窯跡が千基以上発見され、須恵器の破片から使用年代が推定できる窯にのこっていた木炭を分析した西田正規氏の研究によると、その当時使用していた薪のほとんどはカシなどの広葉樹であったが、六世紀後半からアカマツが増え始め、七世紀後半以降になるとほとんど全部がアカマツに変わってしまうという。六世紀から七世紀にかけての時代とは飛鳥時代である。タットマン氏のいう第一の森林略奪期である。
やはり近畿地方周辺の照葉樹林が伐り荒らされて、マツ林に変わってきたのではあるまいか。

 八世紀末に近い奈良時代末に編纂された万葉集には、マツは一番名の知れた樹木として現われている。
八世紀初めの記紀の記述に二七科五三種の樹木名が現われるが、その中にマツの名も見られる。人口が増え、生産が進むほど、周辺の森林が略奪され、地力は衰え、その地域本来の森林が維持できなくなると、痩せ地に耐え得る貧しい植生に変わって行く。
その代表がマツ即アカマツ・クロマツ類であった。
西日本ならば肥沃な土地ではその土地本来の照葉樹に圧倒されてしまうので、それらが育ち得ない痩せ地でマツは勢力を持つ。
人々が森林の収奪を繰り返す。そこの土地が痩せる。
今までの樹木が衰える。
その後を狙って、それまで尾根筋などの痩せ地で耐えてきたマツが進出する。
日本列島各地の里山のマツ林は、多かれ少なかれこうした経過で生れたようだ。
長い歴史の中で繰り返されてきた収奪が土地の肥沃化するのを妨げ、マツ林の景観が維持され、それが日本の景色の代表として認められてきたのである。

 人口少なく人手がかかることなかった木曽谷にアカマツが増え始めるのは、近畿より四、五百年も遅れて一一〇〇年頃から、と土中埋没花粉分析の結果は物語るという。木曽谷ではアカマツの花粉と同時代からソバの花粉も増え始めるという。

ソバは山地や荒れ地を開拓して最初に栽培されることが多く、畑地の土壌改良の意味も持つ作物であるので、ソバの花粉が現われることは人間の営み・働きが加わりだしたことの指標ともいえる。
アカマツとソバという共に人間臭い二つの植物の同時出現は、この頃から木曽谷の人間活動が盛んになり人口も増え始めていることを示唆している。
豪族の木曽氏が平家討伐に乗り出すのに数十年かかっていること。
木曽義仲の挙兵は一一八〇年である
。[以上<マツ盛衰記>は只木良也氏『森と人間の文化史』NHKブックス.一九八八年.第三章マツ林盛衰記による]。


 白砂青松の海岸とよく言う。
土とは言えない砂、そんな栄養分の少ない痩せた土地でも生きられるのがマツである。
海岸の砂浜では、まず塩に強くて地下茎の発達する植物があちこちに群を作って砂の動きを止め、そのあとがクロマツ林になる。

クロマツは砂の中の塩分を徐々に取り除き、落ち葉などの有機物が溜まって土の条件がよくなると、やがて広葉樹林へと代わっていく。

「白砂青松という。…しかしながら、この言葉を、白砂を流し出す荒れ山、土壌化の進まぬ青松の林と捉えれば、人間の収奪が繰り返されてきた日本の自然を表現しているとは言えないだろうか。もちろん、白砂青松のすべてを人間のせいだとはいわないが、もともと白砂青松になりやすい国土の体質に、人間の収奪が拍車をかけたといってもよいであろう。文化の開け始めるのが早く、花崗岩地帯であった瀬戸内の山々はその典型である。」

[前掲、只木良也氏『森と人間の文化史』六六頁]。


 「マツ林は、日本文化の栄養となった照葉樹林などの本来の森林の墓標ともいえ、それは日本文化進展の指標でもある。」

「一九五五年ごろから、化学肥料や石油・プロパンガスなどの進出によって、落葉や薪炭材の採取がなくなって里山林が肥沃化し始め…マツ林も確実に肥沃になってきた。」

「マツタケはもともと地力の低い、常に人が地面を掻いているようなマツ林の産物である。肥沃な土地ではマツタケ菌が他の菌に負けてしまうからだ。…肥沃な土地ではマツがその土地本来の他の樹木に圧倒されて生育できないのと同じである。土地が肥沃になったマツ林からはマツタケは採れなくなる理屈である。事実マツタケの不作は一九五五年以降、石油化社会になってからのことであった。」

 「さて、マツ林の肥沃化は、そこの本来の植生が回復してくることを意味する。例えば西日本ならば、もとの照葉樹林に戻っていくことになる。里山にとっては結構なことだが、マツ自身には困ったことといわざるをえない。それに追い討ちをかけるように、松食い虫被害が全国に広がった。」

「戦後間もなくの(松食い虫の)大発生には、戦時中のマツ脂や松根油採取に代表されるマツ林の環境破壊があったし、再発のきっかけは相次ぐ台風被害、そして七〇年代前半の都市開発や道路開設およびそれに伴う被害材の移動、大気汚染は松枯れ拡大に拍車をかけた。七〇年代後半の大被害は、その頃の異常高温と異常小雨が影響しているらしい。」

 「燃料革命と化学肥料進出以来、マツ林は収奪されなくなり、その土壌は徐々に肥沃になって、より豊かな植生を維持することが可能となってきた。かつては燃料として先を争って採られていた枯れ木がそのまま放置されていることは、マツノマダラカミキリに絶好の産卵場所を提供し、また肥沃化したマツ林の、生き生きとよく伸びた新梢はカミキリの好餌でもある。これも松枯れの重要因子であろう。…かつてその被害が騒がれた九州では、いま松枯れ騒ぎは下火となった。枯れるべきは枯れ、もう枯れるほどのマツがなくなったともいえるのである。マツが優勢であったかつての風景は影をひそめ、その跡は土地条件さえ許せばシイ・カシなどの照葉樹林へと推移を見せている。」

 只木良也氏は、そのマツ林盛衰記を次のように締め括っている。


 「千年あまりにわたった日本のマツ林の全盛時代は、今終わりに近づいているようである。森林酷使の歴史の中で、その土地本来の樹木が生育不能な痩せ地をおおい、貧しい土地や岩石の上にすら根を張って、日本の山の緑を守ってきたマツの功績は大きい。もしわが国にアカマツ・クロマツがなかったとしたら、わが国土はどんなに荒れ放題になっていただろうか。それを考えるとぞっとする。マツ林は徐々に姿を消していくであろう。それは当然松枯れ病の終息を意味する。しかし、マツは絶滅するわけではない。ずっと昔にそうであったように、山の尾根筋や岩場などに生き続けていよう。そして条件が整えば、また我々がその気になって呼び戻すならばいつでも、帰ってくるはずである。」

[前掲書.『森と人間の文化史』六八~七四頁]。


が、 今は稀少といわれ、名前すら忘れ去られているチョウセンゴヨウマツ、福島から岐阜までの亜高山地帯、そしてわずかに四国の東赤石山脈に散在するというチョウセンゴヨウいま条件さえ整えば低地・平野でも植栽されているように、と言い加えておきたい。



古代以降の日本での朝鮮松


 朝鮮五葉、別名朝鮮松は中国名では紅松 ホンスン、朝鮮名ではチャンナム、ロシア名ではケ―ドラといい、現在はロシア極東の沿海地方のシホテ・アリン山脈から中国東北部、朝鮮半島北部にかけての針広混交林帯と、日本本州中部、四国の一部に分布している。

現在の日本では亜高山帯針広混交樹林の中に散在する目立たない樹種であるが、大陸の針広混交林では最も重要な構成種として位置づけられ、寿命は四〇〇年以上と長く、広葉樹林内でよく更新する極相種である。

これらのことは第一話から語ってきた通りである。

洪積世、氷河時代には、北海道から九州まで日本列島を優占していた大針葉樹林帯、そこに住む旧石器時代人には見慣れたものであったろうチョウセンゴヨウ。
しかし、もちろんその当時の人々は、その五葉松が後に「朝鮮松、朝鮮五葉松」などと呼ばれるようになるなどとはまったく関知しなかった。
そして、氷期が終わり、縄文時代から弥生時代へ、古墳時代、古代以降、おそらくは、「豊臣秀吉の朝鮮出兵」ということで日本列島人の相当数がチョウセンマツ、チョウセンゴヨウの世界である朝鮮半島(一部は「加藤清正のトラ退治」という説話に象徴されるように「オランカイ」[北間島カンド]まで)に体当たりする集団的歴史体験までは、この五葉松のことはそれとして念頭にはなかった、特別の松としては自覚されてはいなかったのではないだろうか。

文献記録の中では、この十六世紀の九〇年代以降までは、朝鮮松・朝鮮五葉松がそういう特別の松として現われてくることはなかったのではないか。

現代の日本列島に散在するチョウセンゴヨウの数や分布よりももっと数多くまたもっと多くの地域にチョウセンゴヨウが生きていたとしても、列島に住む人々はそれとして認識することがあったのだろうか、疑問である。

                     
 しかし、とにかくチョウセンゴヨウが主要なかつ重要な樹種であり続けた東北アジアの大陸からは、珍重される<マツの実>、不老長寿の薬物として、大陸からの客人が古代以来の日本に輸入し、また貴重な贈物として持参しつづけたことはさまざまな文献資料により跡づけることができる。
この場合、これを大陸からの客人から受け取った列島の人々は、その<マツの実>が探せば日本列島の各所に眠っていることに気づかなかったのだと思う。  
                                
  キタリスなど小動物と朝鮮五葉

 氷期が終わった後も、東北アジアの大陸各地のチョウセンゴヨウ植物圏ほどではないが、日本列島の亜高地帯を中心に散在して生き続けたチョウセンゴヨウは大陸の仲間と同じような面白い種子の散布の仕方で種を維持し続けたと思われる。

実はチョウセンゴヨウの種子は、この樹木この種子と共存共生した森林の動物であるネズミやリス、とくにキタリス、そしてカケス、イスカ、ホシガラス、ライチョウなどが、大量に集めて四辺に散布してきたのである。
彼ら小動物たちは、貯食を行なう動物である。彼らは、種鱗をはぎとった種子すなわち球果をくわえて運びながら、種子を二~四個ずつ、深さ数センチの地中に分散して貯蔵する。このようにして、森林あるいは丘陵内の広い範囲にわたって分散貯蔵された種子は、すべてが食べられることはなく、食べ残された種子が発芽し、成長してきたのである。
つまり、彼ら小動物によってかなり大量の種子が集められ、移動されて各地で種を殖やし種を維持し続けてきたのである。
[朝日百科『植物の世界』第一一集「チョウセンゴヨウ」の項目および辻井達一『日本の樹木』中公新書二〇頁.参照]


 大陸でいえば、中国東北部の小興安嶺でも森林の中の各所でまとまった形でベニマツ即チョウセンゴヨウの稚樹の発生を見た、と植物生態学の辻井達一氏が『日本の樹木』中公新書でチョウセンゴヨウの種子を小動物が広く伝播することに注目している箇所で述べている。日本で言えば、高山の高木限界付近に見られる低木状のチョウセンゴヨウ(ハイマツに似た状態の)がこの例ではあるまいか。

 ベニマツを主要構成樹種とする東満洲の樹海を歌い続けたニコライ・A・バイコフは、『樹海に生きる』(今村龍夫訳・中公文庫)にある「クロテンの毛皮」の中で、クロテンとリスと紅松すなわちチョウセンゴヨウと三者の共存共生のきずなを描いている。


 <かつてクロテンの生息分布地域は、シベリアをはじめ、北ロシア、リトアニア、スカンジナヴィア半島にも及んでいたが、今ではシベリアやカムチャツカ、サハリン、ウスリ―スク地方と北満洲のみとなった。
この地域に残されている紅松を主体とする松林に、クロテンの大好物であるリスが生息しているからだ。
現地の猟師たちは、
「紅松があればリスがいる。リスがおればクロテンがいる」
 とよく言うが、的をえている表現である。
 満洲でも紅松林が減少してきたため、いまではクロテンは、アム―ル河(黒龍江)の支流のクマラ川上流地域、小興安嶺山脈の山中、東満洲の山岳森林地帯にみられるだけである。
 クロテン狩りは地方によって違う。
シベリアではライカ犬を使ってクロテン猟をする。
ライカ犬に追われて木の上に駆け上ったクロテンの頭を、小さな弾でねらうが、この方法だと高価な毛皮のきずが小さくてすむ。
満洲ではクロテンの通路である風倒木の穴や、木の幹の空洞のそばに網を仕掛けて捕獲する。朝鮮ではいろいろな仕組みのワナで捕らえる。
リスの生息地である紅松林の伐採増大とともにクロテンも姿を消した。
最近の統計によると、毎月の捕獲数は千頭にも達しない。
 「最後の紅松が切り倒されるときこそ、クロテン絶滅のときである」―私は自信をもってこう断言できる。…
 クロテンは森を移動するとき、風倒木、岩石など凸状のところを伝わってゆくが、この習性を猟師が利用して、このような場所にワナを仕掛ける。
クロテンの足跡は広い足裏と、かかとの回りにびっしり生えている毛のおかげで、実際より大きく見える。
クロテンは戦っても勝てる小動物を食糧とするが、植物も松の実(もちろん紅松の実である)、どんぐり、ブドウなどのほか、キノコも喜んで食べる。クロテンの敵は人間のほかに、ヒマラヤテンと呼ばれるキエリテンとオオヤマネコがいる。>


 バイコフは、ほかの文章で、長白山系とその北支脈である老爺嶺と老松嶺をおおう樹海(東奔道ドゥンベンダオと呼ばれる)に触れ、

<年老いた満洲人はこの地方を樹海 シュ-ハイ とよんでいる。事実、これらの果てしない森林は、その緑の波で山脈、渓谷、谷間を埋め尽くし、樹海から生ずる音は、海辺の潮騒を思い起こさせる。「森の枝を伝わって、リスは土を踏まずに、百里の旅ができる」―樹海に生きてきた老密林人たちは、よくこう言うのである。>

 <一九〇二年の一月、私は帽児山 モウルシャン 駅の北方にある同じ名前の帽児山のふもとへアカシカとイノシシ狩りにでかけた。当時、その一帯は鬱蒼とした紅松の原生林で、無数のイノシシの群れがいた。「トラはイノシシを放牧している」と中国人はよく言うが、イノシシの群れのあとを、牧童のようにトラが追い、必要に応じて食べていた。帽児山の岩山にトラがすみつき、そこで子を育てた。>


 リスとクロテン、そしてイノシシとトラ、みんな紅松林即チョウセンゴヨウ林にともに生きる住人だったのである。
そういう植物としては例の朝鮮人参がある。

  新羅人通訳から松子を贈られた円仁
 

八世紀末、下野国都賀郡に生れ、十五才で最澄に師事し、八三八年四四才のとき、唐帝国に渡り、五台山・大興善寺など各地で修行し、密教の奥義をきわめ、八四七年帰国して天台宗山門派の祖となり、比叡山の堂塔完備につとめ、天台教学を大成した僧侶、その人が円仁 えんにん である。
謚は慈覚大師。彼が残した貴重な渡唐記録が、

『入唐求法巡礼行記』[深谷憲一訳.中公文庫.一九九〇年]である。

 この記録の、入唐二年目の八三九年三月の箇所に次のように書いている。
             
 <三月十七日
  …船頭は日本人の水手を統率するほか、さらに新羅人で海路をよく知っているもの六十余人を雇い入れ、船ごとにあるいは七人、あるいは六人とか五人を配置した。また新羅人の金正南に円仁らがどうしたら唐に留まることができるか、その方法を考えさせたが、いまのところどれが得かそうでないか、まだはっきりした結論が出ないでいる。
  三月二十二日
  早朝、沙金大二両と大坂腰帯一つを新羅人の通訳劉慎言に与えた。
  三月二十三日
  午後二時、劉慎言が新芽の上茶十斤と松脯(しょうほ、五葉松の実)を請益僧の私に贈ってきた。
  三月二十五日
  午前六時出発、風は真西から吹いている。淮河の流れに乗って東に進み行く。午後二時、徐州の管内漣水県の南に行きつき、淮河の中で停泊した。>[前掲書一五〇頁]
 六六三年白村江の戦いのあと、六六八年に国交を再開した新羅と日本は、八世紀になると複雑な国家間関係を重ね、藤原仲麻呂政権の新羅征討計画(中止)を経て、七五二年の新羅使の来日を転機として、新羅使の使行目的には貿易活動という経済的側面がつよくなり、七六八年ころには新羅の民間商人の来航が盛んになり、民間商人の活躍により貿易に傾斜していた使を派遣する必要がなくなり、新羅が使を派遣しなくなった、という。       

                      
 一方、漂着した新羅人に食糧を与え新羅に帰す日本朝廷の政策は九世紀後半にも続いた。日本が唐へ往来するときや新羅に漂着した場合に新羅の協力を配慮した処置である。
当時、新羅船の優秀性と新羅の西方あるいは南方を通過することになりやすい航路のため、唐から帰朝する日本の使や僧侶たちは新羅船を借りて航海に慣れた新羅人を雇うことが多かった。
新羅朝廷も日本人の漂着者について同様の措置をとっていたようで、八四五年には日本人の漂着者五〇人を送還した。

 姜在彦氏は、『玄海灘に架けた歴史』朝日文庫.一九九三年.の中にある「円仁の入唐求法と新羅坊」で次のように述べている。

 <比叡山延暦寺を知らない人はいないだろう。
しかし円仁の意志によって赤山禅院が建立され、赤山明神が延暦寺の護法神になっていることを知る人はいくばくいるだろうか。
[中国の山東半島東端にある文登県清寧郷赤山村の岩石が高く秀でる赤山の中に赤山法華院という張宝高が創建した寺があり、円仁は入唐時、まずここの聖琳和尚の世話になり修行する.赤山には新羅坊があり、新羅人の居留地で自治が行なわれていた.]。

 円仁が入唐求法した九世紀は、新羅と日本との関係がきわめて冷却し、事実上国交が断絶していた時期である。
にもかかわらず円仁に対する新羅人たちの献身的な好意は、何を意味するのだろうか。
そこには国家次元の関係を越えて、仏教信仰で結ばれた民間次元のおおらかな交流がある。…新羅人通訳金正南をはじめ、張詠、聖琳和尚、劉慎言らを抜きにして、円仁の入唐求法の成功は考えられないだろう。
このことを円仁は死にぎわまで忘れなかったようだ。>

 円仁の『入唐求法巡礼行記』を読めば、彼がこの入唐求法巡礼行の行く先々でどんなに新羅人や新羅坊の世話になったか、がわかる。
九世紀の初め、新羅人で張保皋チャンポゴ(張宝高)という将軍が唐軍にいたが、新羅に帰り、半島西南海域の莞島におかれた青海鎮 チョンヘジョン 大使に任ぜられ、艦隊を率いて黄海に出没する海賊をとりしまり、一方では唐や日本(太宰府)との貿易もとりしきった。
八四六年張の死後、在唐新羅人はその後も商人組織を作り日本の入唐僧たちが日本に帰国するときには同行して交易することによって、唐・新羅・日本の三国間交易で蓄財した。しかし、八五一年青海鎮廃止後には唐商人が日本にしきりに行くようになり、対日交易の中心は新羅商人に代わり唐商人が担っていくようになった。
 円仁が入唐早々、新羅人の通訳劉慎言からお返しに頂戴した新芽の上茶と松の実、この松の実はもちろん朝鮮五葉の松の実に違いない。
多分、中国東北産のものではなく朝鮮半島の美味良質の松の実であったろう。円仁は保存栄養食糧そして貴重な薬用として有難くこれを頂戴し大事に使用したに違いない。

 E.O.ライシャワ―の『円仁 唐代中国への旅』田村完誓氏訳・原書房.一九八四年の七三頁にはこうある。

 <遣唐使の日本人が、中国で買い求めようとした品物は、香と薬品であったが、しかし彼らが受けた贈物の大部分は、絹織物であった。
おそらく上等の絹と一行の学者が蒐集した写経や絵など、  その他 桃、蜜、松の実など消耗してしまうものもあった。
銅貨やある種の抹茶やナイフなどは日本に持ち帰る値打ちのあったものである。>

 ここにも、松の実が出てくる。



  謎の海東の盛国  渤海国


 渤海という国が、唐帝国と同時代に東北アジアで栄えた。
ツング―ス系の靺鞨(以前の粛慎、後の女真と同系)族や高句麗遺民を統合して、大祚栄が、六九八年東満洲に建てた国である。
唐の官制や文化を移入したいわゆる律令国家で、首都は上京龍泉府、最盛期は中国東北、ロシア極東のプリモルスキイ(沿海)地方南部から北朝鮮までを支配した。
一時は唐と勢力を競い、仏教文化も栄え、「海東の盛国」と呼ばれ、日本の大和朝とは日本海を舞台に七二七年から九二二年にわたって親しい国交(三四回の渤海使船、十三回の遣渤海使船)が続けられたが、九二六年契丹族の遼に倒されている。

 渤海使船は現在のロシア極東プリモルスキイ(沿海)地方のポシェト湾クラスキノ村(クラスキノ土塁跡)から船出し、日本海の冬の北西季節風やリマン海流を利用して朝鮮東岸を敵対する新羅の領海を避けて南下し、越前・能登・出羽・隠岐・但馬・長門・出雲・伯耆・若狭など日本海に面する各地に着いた。
八〇四年能登国には渤海使のための客院が造らされている。

 一九八四年に黒龍江省文物出版編輯室から出版された『渤海史稿』が佐伯有清氏監訳・浜田耕策氏訳、朱国忱・魏国忠両氏『渤海史』東方書店一九九六年として翻訳出版されている。同書の第五章「渤海の社会と経済」の第五節「商業と貿易」にこうある。


 <以上の種々の合法・非合法の経路を通じて[公貿易の他に密貿易・私貿易の意味]、渤海から中国各地(日本へも、と解釈してもよかろう)に運ばれて記録されているものは、主に 虎皮・海豹皮・貂鼠皮・白莵皮・猫皮・革・馬匹・羊・鷹・海東青・鶻・鯨鯢・魚晴・鯔魚・乾文魚・人参・昆布・牛黄・頭髪・松子・黄明・白附子・蜜・金・銀・金銀の仏像・六十綜布・魚牙紬・朝霞紬・靴…などである。>


 松子とあるのは、もちろん松の実、朝鮮五葉松の実である。


 さらに、第八章「渤海の文化」では「飲食」の項目にこうある。


 <渤海の民衆の食物はそれ以前より豊富であって、五穀・雑穀および肉食のほか、史料には魚・鳥・卵などの副食と蜂蜜・松の実・昆布・えび・かに などが記されている。>

 第八章「渤海の文化」には「雪滑り」という項目があり、沿海地方の民族である流鬼人が使っているスキ―の元祖のような器具が記録されており、また、渤海における造船技術・建築技術の発達について特記している。
このような器具、造船、建築それにおそらく車両に、松の実を採取する樹木である渤海国特産の朝鮮五葉松が活用されたのではあるまいか。

渤海の領域である東満洲・沿海地方・北朝鮮は、第一話・第二話・第三話で話したようにまさに連続する朝鮮五葉の世界であった。夫余・高句麗についで渤海国の故地は、後の女真がそうであるように、朝鮮五葉が主要な構成要素をつとめる森林地帯の豊富な土地であった。

 遣唐使と並んで遣渤海使が日本の大和朝廷が試みた唐風な律令国家の基礎づくりに大きな役割を果たしたことであろう。
たとえば、八六二年に採用され、江戸時代まで八〇〇年間にわたり使われた太陰暦は、渤海使がもたらした当時最新の唐の宣明暦がもとになっている。
唐から帰朝する遣唐使が渤海の船に便乗することもあった。渤海はさきに上げた特産以外に「羽のように軽く、透明な光沢があり、色が実に美しい」磁器や鼈甲や碼瑙の杯とともに高価に取引された。
また、渤海国では製鉄の技術もかなり高度であったという。

 ところが、渤海国の丁度中枢部に位置した白頭山(長白山)は多分一〇世紀に何回目かの大爆発をおこし、大量の噴出物、火砕流、溶岩流をともない、森林の破壊は半径五〇キロメ―トルに及び、その火山灰は東方一〇〇〇キロ以上の遠方に達した。過去二千年間を通じて世界最大級の火山爆発のひとつであった。
白頭山をのせている蓋馬ケ-マ 高原地域を中心として七世紀末から九二六年まで栄えた渤海国の滅亡は、この噴火によってひきおこされた可能性がある、と都立大学の町田洋氏は示唆している。

[町田洋「長白火山の大噴火とその環境影響(英文)」『東京都立大学地理学研究報告』第二五号.一九九〇年.] 

この時の火山灰は、遠く東方の北海道や東北地方北部にも降灰し、火山灰層として発見されている。



  北方民族と元帝国


 中国化した元朝の立場で書かれた『元史』や『元文類』巻四十一に、十三世紀「骨嵬」族という北方種族がひたすらサハリンを北上し続けたが、すでに元に降伏していた黒龍江の「吉里迷」族に衝突、「吉里迷」族が東方の「骨嵬」族と「亦里于」族が攻撃してくる旨を元朝に訴えたので、一二六四年、元軍がサハリンを北上しさらに黒龍江へ西行しようとする「骨嵬」族を迎え撃とうとした。この戦いは、四十余年続き、一三〇八年「骨嵬」族の帰順により終結している。

「骨嵬クイ 」族は、戦前の研究以来アイヌ民族をさすと、されており、「吉里迷 ギレミ 」はオホ―ツク文化人であり今日のニブフ・ニグブンの祖先であり、「亦里于 イリウ 」はウィルタとされている。
一三〇八年には「毎年貢異皮」の条件をみずから言いだして「乞降」、まぁ示談、「帰順」という類と想像される。

 サハリン・黒龍江における元軍とアイヌ民族との交戦の理由は、モンゴル人勢力の「世界征服」の特徴からみて、サハリン-黒龍江のル―トを経由して中国・大都に通ずる毛皮の販路を手に入れるためと考えられる。
サハリン-黒龍江(現在のロシア極東)の民族の特産の代表が毛皮であり、毛皮の販売で和商品や中国製品を入手したのである。
モンゴル人の世界帝国の中枢・元帝国は黒龍江水系を軸とする北方地域の「毛皮の道」を獲得しようとして、この地域での「骨嵬」との長期の戦いを敢えて続けのだと思う。そして、「骨嵬」の「帰順」と「毎年貢異皮」という和平協定の締結で、サハリン-黒龍江水系を軸とする「毛皮の道」は維持・安定し、この東北地域の物産は大都の国際市場に集められ、さらにモンゴルの世界帝国の各地へ運ばれてもいったに違いない。
いわゆる<北方水域における「元寇」>とは、このような意味をもったものであったろう。

[大隅和雄・村井章介編『中世後期における東アジアの国際関係』山川出版社一九九七年.中の中村和之「十三~十六世紀の環日本海海域とアイヌ」。海保嶺夫『エゾの歴史』講談社選書メチエ.一九九六年]。



  十三湊とアイヌと山丹人とナナイ

 <津軽半島の十三湖といわれている潟湖の出口にあたる十三湊には、早くから都市が形成されており、たくさんの中国製の青白磁や列島内の各地の焼物が発掘されている。
十二世紀からかなりの量が出ているので、平安時代の末から、十三湊にも中国製の青白磁が流入していたと考えられる。
能登半島の珠洲焼も十三世紀に入ると十三湊に入っており、北海道の上ノ国や余市にも珠洲焼が流入している。このように日本海の交通ル―トは早くから安定していて、十三湊はそのときの大きな拠点だったと考えられる.(網野氏は、十一世紀には廻船のル―ト、廻船人の組織が日本列島全域にわたってできあがっていたと考えてよいと思っている、と言う.)>

[網野善彦『続・日本の歴史をよみなおす』筑摩プリマ―ブックス.一九九六年.九七頁]。


 <ここ十三湊は津軽の安藤氏の拠点であり、十四世紀には都市として最盛期をむかえており、西の博多に匹敵するといってもよいほどの繁栄をしていたことが、最近の発掘によって明らかになった。町並みをもつ都市であり、中国大陸の銭や中国製の青白磁が大量に出土するし、高麗青磁も出てきた。十四世紀から十五世紀にかけて、十三湊が北の国際的な都市になっていたことは間違いない。>

[網野前掲書、一三四頁]。


 <十四世紀に入ってまもなく、四国、西海で熊野海賊の大反乱がおこる。…
しかも同じころ、北でも「蝦夷」の反乱といわれる、北海道の海上勢力と北条氏との大衝突がおこっている。
アイヌはこのころ活発な交易活動をしているのだが、北方の都市津軽の十三湊に根拠を置き、日本海から北海道にいたる商業、貿易のネットワ―クをおさえている安藤氏の一族内部の対立もからみ、アイヌもまきこんだ北条氏にたいする大反乱がおこる。
何回かくりかえし起こったこの反乱を、北条氏は滅びるまでついに鎮圧しきれなかった。>

[網野前掲書.一四三~一四四頁]。

 <十五世紀のごく初頭、象がパレンバンから運ばれてくるほど、この時期の日本列島は、中国大陸、朝鮮半島はもちろん、東南アジアまでをふくむ広い東アジアの貿易圏のなかに入っていた。
このころに確立する琉球王国はこうした交易活動を基礎にしており、琉球の船はこの広域的な貿易ル―トを東西南北に活発に動いていた。
 一方、北方でも、北東アジアとの関係が緊密であったことが明らかになっており、さきにあげた津軽の十三湊は日本海を西方に向かう貿易ももちろんやっているが、北東アジアとの貿易港にもなっていくような状況がみられた。
このように十五世紀の日本列島の社会は、東アジア全体との緊密な関係のなかで理解されなくてはならないと思う。>

[網野前掲書.一五四頁]。


 戦国期につくられたと考えられている『廻船式目』という文書がある(越前内田敬三氏旧蔵文書、『鎌倉遺文』より)。
戦国期の日本列島全域の廻船人のネットワ―クの中から作り出されてきた慣習法の集大成であるが、この自立的な廻船人の全国組織の点である列島全域の有力な港として「三津七湊さんしんしちそう 」が挙げられている。

三津とは伊勢の姉津(安濃津なるべし)・博多の宇津・泉州の境津、七湊とは日本海に面する重要な港であり、越前の三國・加賀の本吉(三馬なるべし)・能登の輪島・越中の岩瀬・越後の今町(直江なり)・出羽の秋田・奥州の津軽十三の湊が挙げられている。


 <十三湊から多くの高麗青磁が出たことについては…報告されると思いますが、関周一さんは、能登の守護であった畠山氏が朝鮮の漂流民の送還を理由に、朝鮮との交易を独自に開こうとしていたことを指摘されておられます。さらにまた、朝鮮国王に対し、若狭以西の海の領主たちが直接関係を結ぼうとして使いを送った事実にすでに確認されており、日本海の海の領主たちは独自に朝鮮と交流していたと考えられます。

[網野善彦「中世の日本海交通」二八~三〇頁.国立歴史民俗博物館編『中世都市十三湊と安藤氏』新人物往来社一九九四年]。

さらに網野氏は、秋田の院内銀山には十七世紀の初め非常に栄えた銀山町が形成されており、全国から商人や職人も集まりかなり大きな都市ができており、この状況を記録した『梅津政景日記』の慶長十八年(一六一四年)四月二十日条に「高麗の吉右衛門」という人物が現われている.この人はまぎれもなく高麗人ではないかと推測できる.つまり、高麗-朝鮮と東北との関係はやはりただならぬものがあったと考えることは十分に可能だと思う、と述べている

[前掲文章.網野氏.三一頁]。

 一五九二年(文禄元年)豊臣秀吉から高麗陣の先将を命じられた加藤清正の軍は、四月十二日釜山に上陸、五月二日には京城を占領、七月二十三日には会寧を攻略、朝鮮の二王子、左右大臣、大官十二名を捕虜にし、さらに豆満江を渡り七月二十六日兀良哈(オランカイ)に攻め入った。
『清正高麗陣覚書』にこうあるという。

「せいしう浦」で「せるとうす」という名の「北国の武者大将」を生け捕りにしたが、その配下に「おらんかい口(女真語)をも、朝鮮口をも、日本口をも、自由につかい申候能よき 通詞」がおり、清正は重宝がって二郎と名づけ召し仕った。
この二郎はもと松前の漁師で、風に流され「せいしう浦」に漂着し、二〇年ほど暮した人だった、と。
[村井章介『海から見た戦国日本』ちくま新書一九九七年.六〇-六一頁]

 一衣帯水というが、オランカイ(のちの間島地方および沿海州地方あたり)と北海道松前あるいは津軽・日本海側の日本とはこのような距離にあったのである。
 
 村井章介氏は、フロイスの『日本史』を引いて、統一権力をうちたてた豊臣秀吉の朝鮮侵略の<判断の背景には、つぎのような地理認識があった。

―朝鮮国征服の次第をよりよく理解するためには、関白当人がかの地から得た情報、ならびにかの地の事情と地勢が印刷されている諸地図にもとづき、まず同国の特質、および同国民について知っておく必要があろう。
この朝鮮地方は…三四か国と隣接し、西方ではシナ人と接触し、朝貢国として彼らに対して毎年貢納している。
北部および北東部ではタルタ―ル人とオランカイ人(の土地)に接している。
オランカイ人(の土地)は、日本の北部と大きい入江を形成し、蝦夷島の上方で北方に向かって延びている突出した陸地である。
―秀吉は日本海の岸が蝦夷地・オランカイでつながる閉じた円環をなしていることをよく知っていた。
かれが小田原攻めの前から再三「奥州・津軽・日の本まで」あるいは「関東・出羽・奥州・日の本迄」仰せつけると広言していたことも、朝鮮侵略戦争の過程で加藤清正が戦略的にオランカイへ侵入したことも、豊臣政権が日本海をとりまく地域のすべてを征服しようという構想をもっていたことを示すのではないか。>

という仮説を述べている。

[村井章介『海から見た戦国日本』ちくま新書一九九七年.五九頁]


 『諏訪大明神絵詞』は南北朝期に作られたものだが、そこには宇曽利鶴子洲(函館)と万堂宇満伊犬(松前)の人々が、安東氏の支配下にあった奥州外ケ浜と往来交易していたことがみえ、鎌倉末期の陸奥の安東一族の合戦に数千の「夷賊」が動員された、と記している。「蝦夷管領」といわれた安東氏の根拠地十三湊とさみなとには、「関東御免津軽船」を始めとする和人の商船の間に、アイヌの船も数多く停泊していたことであろう。

『十三往来』の『蒼海滄々トシテ、夷船・京船群衆シテ艫先ヲ並調ヘ、湊ニ市ヲ成ス』という文章も簡単には捨て切れない(『青森県史』第一巻)[福田豊彦「鉄を中心にみた北方世界」一九二頁.『蝦夷の世界と北方交易』中世の風景を読むシリ―ズ1.新人物往来社一九九五年]。


 十七世紀の初頭に北海道に渡ったイエズス会修道士アンジェリスとカルワ―リュのイエズス会に宛てた報告書がある(H.チ―スリク編『北方探検記』吉川弘文館一九六二年)。

その報告によると、ラッコの皮と鷹や鶴、鷲の羽などを持参したメナシのアイヌが東方から、中国の緞絹に似た織物(山丹錦)等を持参したテンショ(天塩だけでなく樺太に居住する人も含んだ呼称)のアイヌが西方(北方)から、船を連ねて松前に来ている。それは、ラッコを持参したアイヌだけで百艘、一艘に日本の米俵二百石を積める大船もあったという。
西方からの朝貢物には、干鮭・鰊・白鳥・鯨・魚油、それに高価なラッコの皮と安いトドの皮などがあった。彼らが持参したラッコや山丹錦は、彼らの土地の産物ではなく、千島列島や大陸に住む他民族からの交易品であった。
ラッコは千島の猟虎島(ウルップ島か)などから、山丹錦はアム―ル河(黒龍江)を下り、ギリヤ―ク(現ニヴフ)経由でもたらされた品物であるから、ここでのアイヌの役割は中継貿易である。アイヌは後世では考えられない旺盛な海洋交易民であった

[前掲福田豊彦論文、一八四、一八八頁]。

 山丹錦といえば蝦夷錦ともいわれ山丹交易の目玉商品であったが、古くは『中外抄』に出ており、一一四三年、前関白藤原忠実が
「(琵琶などの)宝物は、えぞいはぬ錦などを袋用可ニ、下品生絹を袋縫テ入たるなり」と語ったという。
のち沿海州方面との山丹交易品として有名になる高級織物蝦夷錦が、この頃の京都ですでに知られていたのである。
[海保嶺夫『中世蝦夷史料』『中世蝦夷史料補遺』から]。

実は山丹交易の主役は、アイヌよりもニヴフ(ギリヤ―ク)、ウィルタ(オロッコ)、ウリチ(オルチャ)、ナナイ(ゴリド、ゴルヂ、あるいはホジエン、ヘジェンなど沿海州・アム―ル河地域の人々であったが、日本側からだけ見ると松前藩やその支配下に入ろうとするアイヌにのみ目が偏ることになるのである。

 サハリン(樺太)の諸民族と明朝との朝貢関係の成立と継続は、当然のことながら、サハリンの関係民族に高価な絹織物や衣類をもたらすとともに、これらの絹織物や衣類はサハリンの関係諸民族の手を経て、同島内のアイヌ民族はいうまでもなく、北海道のアイヌ民族にも流入したものとみられる。また、河内良弘氏によれば、成化期(一四六五~八七)以降、東北の女真と明や朝鮮との貂皮交易が盛んになり、女真は、この貂皮交易を通じて鉄製農具を積極的に入手したということである。
とすると、一五~一六世紀には、女真や他の民族を介して、こうした鉄製品の一部や他の中国産製品もサハリンの諸民族にもたらされたと推察される
[榎森進「アイヌ民族と安藤氏」一四九~一五〇頁.小口雅史編『津軽安藤氏と北方世界』河出新社一九九五年]。

 <このころなお北奥地域には多数のアイヌが居住しており、津軽海峡を往来する「狄船」の姿がめずらしくなかった。一五九三(文禄二)年の南部信直書状は、下北の田名部・横浜・野辺地で多くの「ゑぞふね」が建造されていたことを記している。>
[村井章介『海から見た戦国日本』ちくま新書.五六-五八頁]


 「ゑぞふね」といえば、樺太・北海道のアイヌの船がナナイの五葉で造られた優秀な船をモデルにしていたことや、実際にナナイの船を購入していただろうことなどが想起される。
 <モヨロ貝塚(北海道オホ―ツク海沿岸)のアイヌ民族の女性の墓に副葬されている首飾りの下端の円形の透かし彫り文様の青銅製装飾品は、本来アム―ル河下流域やウスリ―河下流域や松花江下流域のナナイ民族が長上衣の裾や胸に縫い付けた装飾品だったろう。
サハリン南部のパ―ルスノエ村の墓やピウスツキ収集の帯飾りに用いられている小型の青銅製装飾品は、本来ナナイ民族のかぶりものやウデヘ民族の長上衣の装飾品だったかもしれない。
またパ―ルスノエ村の墓から出土したガラス玉はナナイ民族の首飾りのガラス玉と同種のものであろう。
ガラス玉はいわゆる青玉として山丹交易の交易品のひとつに挙げられている。
ガラス玉はデレンの交易所で山丹人やニヴフ民族がナナイ民族から入手してこれをサハリンにもたらしたのであろう。
あるいはサハリンのアイヌ民族が自らデレンの交易所で入手したものかもしれない。
他方、透かし彫り文様や小型の青銅製装飾品は山丹交易の交易品に列挙されていない。
しかしながらこのような装飾品を含めて、一七~一九世紀に北海道とサハリンのアイヌ民族は北方交易を通してさまざまな大陸製品を入手していたことだろう。>

[菊池俊彦「アイヌ民族と北方交易」一一一~一一二頁.北方史研究協議会編『北方史の新視座―対外政策と文化―』雄山閣一九九四年]。


 朝鮮五葉の世界を故地とするナナイや女真と山丹人、そしてサハリン(樺太)・北海道のアイヌ、そして津軽安藤氏の十三湊、「中世」「近世」の「日本海交易」とは、以上に見られるような興味深い相関関係にある。



  日本の銀と東北アジア
 

島根県の太田市の山間部に十六世紀に開かれた石見銀山が代表する戦国日本の銀は、世界に出回り、世界経済を一時動かした。
十七世紀前半、日本全体の銀の生産額は四~五万貫、これが世界の銀産の三分の一を占めたといい、石見銀山だけでも世界の銀の十五分の一を産出していた。
 十七世紀実現した、日本の幕藩制国家による生産設備および労働力編成の組織化がなければこのような銀産出額の達成は不可能であったろう。
 この銀は当初は、国内の需要はわずかで、大半が輸入の決済や輸出商品そのものとして海外に流出していった。
 十六世紀の初めまでは、日朝間の貿易で銀はむしろ日本側の輸入物資だったが、石見銀山が発見されるとすぐ、日本銀が流入していった。
倭人が銀の見返りとして朝鮮に求めたものは圧倒的に綿布だった。
公貿易・私貿易におけるこの変動は、朝鮮の経済を撹乱し、朝鮮半島を経由して大陸へ流れ込んだ日本銀は、経済先進地帯の中原ばかりでなく、遼東の辺境地帯にも吸い寄せられた。
十六世紀の遼東地域では、中国中央部のめざましい経済発展にもしげきされて経済ブ―ムが起きており、朝鮮半島をしのぐほどの活気を見せていた。
そこで利益を手中にした実力者たちの代表が、李成梁、毛文龍、そして建州女真から勃興してきたヌルハチである。彼らの手元にも日本銀が蓄積されていたかもしれない。  日本銀の中国流入は、朝鮮半島経由よりも、東シナ海を横断する直航ル―トの方が太かった。倭人や中国人密貿易商は、盛んに東シナ海上のル―トで列島から日本銀を搬出した。十六世紀のことゆえ、この銀の道にはヨ―ロッパ海上勢力も加わってきた。
メンデス-ピントの『東洋遍歴記』によれば、平戸- 州間を往来する中国船の積んでいた日本銀をイスラム海賊が奪い、最後にはポルトガル人が手に入れた、とある。まもなく日本銀の名はヨ―ロッパにも聞こえるようになる。
十七世紀の初め、イギリスやオランダの船によって、日本から上質の銀が多量に搬出された。日本銀を原資として中国や東南アジアから諸種の産物が買いつけられ、ヨ―ロッパやその他の地域に輸出された。
こうして日本銀は、東アジアから世界を駆けた、といってよい。

 十六-十七世紀の東アジアの海面では、唐人・倭人・韓人・それに 達子(女真人)も活躍していた。
建州女真はじめ女真人は海洋民族でもあったのである。
[以上、村井章介『海から見た戦国日本』ちくま新書.第五章/日本銀と倭人ネットワ―クおよび第六章/統一権力登場の世界史的意味によるところ大きい。]


  壬辰倭乱と「清正の虎退治」
 

「秀吉の朝鮮征伐」などと戦前の皇国史観では教えこまれた、豊臣秀吉の野望から引き起こされた壬辰・丁酉倭乱とはいったい何であったろうか。

戦争が終わって百二十年も過ぎた時点で日本に派遣された朝鮮通信使の申維翰 シンユハン の『海游録』の中にある雨森芳洲との問答にこうある。
崔官氏の『文禄・慶長の役』講談社選書メチエ.(五七頁)によって、この問答を省みてみたい。         

 <芳州は中国語もでき、朝鮮語を学ぶために釜山の倭館にも滞在したこともある。
当時としては稀な国際人であった。
師の木下順庵の推挙で若い時から対馬藩に仕えた彼が、外交官として朝鮮通信使を江戸まで随行し、申維翰との数カ月の旅の後での問答である。
 雨森東(芳州)「吾、いつか折があったら言いたいと思っていた所懐がある。
日本と貴国は、海を隔てて隣国であり、たがいに信義をいたす。敝邦の人民はみな、朝鮮国王と寡君が敬礼の書を通じていることを知っており、ゆえに公私の文簿には、必ず崇極を致している。
しかし、ひそかに貴国人の撰する文集を見るに、その中で言葉が敝邦に及ぶところは必ず、倭賊、蛮酋と称し、醜蔑狼藉、言うに忍びないものがある。…」

 余(申維翰)「その意はおのずから容易に知りうるところだが、顧みるに、貴国こそ、諒解していないようだ。
君が見た我が国の文集とは、何人の著であるかは知らぬが、しかしこれすべて壬辰の乱の後に刊行された文であろう。
平秀吉(豊臣秀吉)は我が国の通天の讐であり、宗社の恥辱、生霊の血肉、じつに万世になかった変である。
我が国の臣民たる者、誰か、その肉を切り刻みて食わんと思わぬ者がいようか。
上は薦紳(身分や地位ある人)から下は厮隷にいたるまで、これを奴といい賊といってかえるみないようになり、それが文章に反映したとしても、もとより当然のことであろう。
 しかし、今日にいたっては、我が聖朝は仁をもって生民を愛し、関市(釜山・東莱の倭館)して交易し、かつ日東国(日本)の山河に、すでに秀吉の遺類なきを知る。
ゆえに、信使を遣わして和睦を修め、国書を交換し、大半の民庶がみな、その趣意を仰いでいる。どうして、あえて宿怨を再発させることがあろうか」
(「日本見聞雑録」)>。                              
 戦争が終わって四百年たった今日、申維翰が答えた「その意はおのずから容易に知りうるところだが、顧みるに、貴国こそ、諒解していないようだ」という言葉は依然として生きている。
これは、「秀吉の遺類なきを知る」と申が述べた日本の状況が、数世紀を経た今日、どうなっているのだろうか、ということを憂慮させるものがある。                                 

 <壬辰倭乱の九十一回、丁酉再乱の十八回におよぶその激しい戦闘から壬辰・丁酉倭乱は成り立っているのである。
合計百九回におよぶ数多くの戦いのなかでも晋州城攻防戦は、晋州という一城をめぐって朝鮮・日本の両国軍が二度とも激しい攻防戦を繰り広げた一番代表的な戦いの一つであり、後代には両国で伝説化・作品化された象徴的に戦乱を物語るものである。
 晋州はその地理的要件から、全羅・慶尚両道を結ぶ朝鮮軍の拠点となり、日本軍の集中的な攻撃を受けることになった。
壬辰倭乱が起こった一五九二年十月と翌年六月の二回にかけて、晋州城を囲む日本軍と朝鮮軍との攻防戦が熾烈に行なわれた。
この攻防戦は戦局の流れを左右する重要な戦いにふさわしく、朝鮮では第一次晋州城攻防戦は「壬辰倭乱三大捷(三大勝利)」の一つとされており、それを受けた第二次晋州城攻防戦も、九万人をはるかに上回る戦乱最大の日本軍が一つの城に投入された前例のないものであった。
 当時の記録からも、壬辰戦乱史の一ペ―ジを飾ってきた晋州城戦闘は、両国二回ずつの勝利と敗北、戦乱最大の死者、そして二回の晋州城戦闘から生まれた戦争英雄といった数々の出来事によって、両国民に他の戦いより印象強く位置付けられてきた。>

[崔官『文禄・慶長の役』講談社メチエ.八十二-八十三頁]

 <二回にわたる晋州城攻防戦の熾烈さ、守る側と攻める側の命かけたじつに凄絶をきわめたものであった。第二次晋州城攻防戦の朝鮮側の死傷者だけでも、朝鮮の記録では六万人、日本の記録では二万五千人と記されている。…翌年の第二次攻防戦の時も、日本軍が受けた被害は少なからぬものであったが、晋州城陥落後の朝鮮側は悲惨そのものの状況であった。…
 軍民の死者は六万余にのぼり、牛、馬、鶏、犬さえも残らなかった。賊は、何一つ残さずに城を毀ち、壕を埋め、井戸をうめ、木を切り倒し、こうして以前の憤りをはらした。(中略)軍士であれ民間人であれ、(城から)脱出できた者は数人に過ぎなかった。倭の変乱があって以来、死者の多いこと、この戦いのように甚だしかったことはなかった。(『懲毖録』)>
[前掲書.崔官氏.一三八~一三九頁] 


 晋州城陥落の時、官妓論介 ノンゲ が倭将を抱き寄せて南江に飛びこんで死んだという事実は、現場の目撃者たちによって口承されてきた。
以後、論介は壬辰倭乱の花として、フランスにおけるジャンヌ-ダルクと肩を並べる朝鮮の義妓として、敬われている。
 一方、日本において、この戦争はどのように後世に語り伝えられてきたであろうか。
 軍国主義・侵略主義の風潮にいかにも見合った話で、戦前の日本の子供たちには馴染みの話に、「朝鮮での加藤清正の虎退治」がある。
清正が小姓の上月左膳が虎に殺されたのに腹を立て、三叉の槍でその虎を刺し殺したという話で、子供心には共通の絵柄としても鮮明に刻み込まれてきたものである。
しかし、この話は『常山紀談』という、文禄の役から百四十年以上もあとに岡山藩士湯浅元禎が書いた英雄豪傑譚が元になっているのだが、虎を捕った場所も年月も出典もない話である。
小姓の名を入れていかにも実話らしく作ってあるが、根拠なき作り話であろう。
[朝鮮総督府の教科書編纂に携わっていた小田省吾という人が、昭和九年(一九三四)京城帝国大学医学部考古会で講演した記録が『朝鮮役と加藤清正』として公刊されており、清正の虎退治を作り話として否定しているという。
遠藤公男『韓国の虎はなぜ消えたか』講談社一九八六年.一三二頁]。

 清正の虎退治について触れた、ちゃんとした文献は発見されていない。
『清正記』には帰国した清正が慶長元年、秀吉に進物として虎の皮五枚を持参したとある。部将たちが、虎を塩漬にして秀吉のもとへ送った、とか、秀吉が薬用として虎の皮・頭・骨・肝胆の入手を一部の部将に命じたという資料もある。
虎は、洪積世には日本列島を含めてまさに朝鮮五葉の世界であった東北アジアの各地の密林・山地には生息していたらしい。
梶島孝雄氏の『資料・日本動物史』八坂書房一九九七年を見るとこうある。 

<トラは洪積世前期以降、我が国にも生息していたが、縄文時代草創期までの間に絶滅し(日本の考古学)、…しかし縄文・弥生時代から往来のあった朝鮮半島には多数生息していたためであろう、虎に関する知識は古くから豊富で、…>とあり、日本書紀、万葉集、古事記などの出典例を挙げている。

 そして、さらに
<虎皮は(古代から)中世に入ってもしばしば進物として用いられており…>数例を挙げたうえで、<このあと豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には虎に関する話題が豊富になり、文禄二年(一五九三)には亀井武蔵守が鉄砲で虎を撃ち取り(寛永諸家系図伝)、松浦鎮信等も虎狩りを行なっている(甲子夜話三篇二四-五)。
こうしたことから判断すると当時の朝鮮半島には非常に多くの虎が生息していた事がわかる。…
 江戸時代に入り、朝鮮との国交が修復すると、将軍の代替わりの際に朝鮮から信使が来訪する事が恒例となり、その際には慶長一二年(一六〇七)を始めとして、贈物の中に必ず虎皮が含まれるようになる(実紀)。
虎皮の贈答は朝鮮信使以外にもしばしば行なわれており、敷物や馬具、刀の尻鞘等に広く用いられている。このように需要が多かったためであろう。『雍州府志』によると京都には虎皮の偽物である植虎皮を作る職人が現われている。>とある。
[前掲、梶島孝雄『資料・日本動物史』第二部動物別通史・第一二章脊椎動物・三九、トラ 八坂書房一九九七年.五八一~五八三頁]。


 その後、朝鮮半島の虎はどうなっただろうか。
ずっと時が流れて、昭和十一年(一九三六)版の村岡懋麻呂編『鮮満動物通鑑』という本には次のようにあるという[遠藤惟道『韓国の虎はなぜ消えたか』講談社一九八六年.一二七頁]。


 <…朝鮮といえば、虎を連想させるほどだが、今は江原道、平安北道、咸鏡南道の僻地でなければ、容易に捕ることはできなくなった。
中国東北部では大、小興安嶺から西は内外蒙古、東は吉林、黒龍江省の大森林中に今そうとうの頭数いるようである。…>

 さらに、同書二三一頁にはこうある。

<WWFの日本委員会に、北朝鮮の虎のことを尋ねると、IUCNが出したレッド・デ―タ・ブック(一九六八年版)には、一九五七~六六年にかけて、白頭山で五頭が確認されており、長白山脈の南斜面に残っている可能性があるとのこと。これ以上新しい情報はないらしい。

 国立科学博物館にも寄って、小原巌さんを訪ねた。…

「北朝鮮の虎はわかんないですねえ。しかし、中国科学院は一九八〇年にはじめて、大陸の虎を発表しましたよ。かつては全土にいたのに、今はもう狭い地域に小群で分散、孤立しているらしいですね」

 小原さんによれば、中国の虎は四亜種いて、一番北に分布するものは東北虎(アム―ル虎)で、陜西省、牡丹江省、黒龍江省、吉林省に分布している。
一九七五年の調査では、約一五〇頭である。
このうち何頭かは、吉林省の白頭山北部にいるらしい。
北朝鮮と地続きの地帯である。
中国でもようやく、虎は第一級の保護動物に指定され、密猟者は罰せられ、繁殖地の環境は保全されるようになった。
虎を含む各種動物の自然保護区が、吉林省をはじめ、各省に作られている。>


 一九九八年は虎年だったので、一月七日の朝日新聞夕刊に「種の保存へ/ ”トラ戸籍”/世界の動物園が協力/日本・インドネシア共同研究も」という見出しの記事が載った。

内容は、「今年の干支(えと)のトラが、絶滅の危機にひんしている.百年前には世界中に推定で約十万頭いたが、現在は五千~七千頭台にまで減った.漢方薬の材料になるほねを狙う密猟や、生息地での森林破壊が進行中だ.八つの亜種のうちカスピトラなど三亜種は絶滅し、残された五亜種を絶やすまいと、世界の動物園は「戸籍づくり」を進めている.生息地を追われて保護されたトラを自然に近い環境で繁殖させるとともに生態を探ろうと、日本もインドネシアとの共同研究を計画している」というもので、世界に分布するトラの亜種と生息数についてのIUCN(国際自然保護連合)などによる一九九六年現在の表があり、シベリアトラ(アム―ルトラ)/中国、朝鮮半島、ロシア/四四七頭~五〇五頭とあり、世界中の合計としては五〇七七~七五六〇頭とある。

なお、記事のなかでは。
「増井教授は、トラを自然に返そうとしても、その地域に密猟がなく十分な数の草食獣がいなければ生きていけない.地元の人たちの理解を得ることも現状では非常に難しい.という.…トラは生態系の頂点に立つ.オスのトラ一頭の行動範囲は獲物が豊富なところで数十平方キロ、ロシアでは千平方キロと広大だ.豊かな生き物をはぐくむ森と生態系を守る道を探れと専門家たちは強調する.」とある。
 清正の虎退治からトラにこだわってきたのは、いうまでもない。
シベリアトラ(アム―ルトラ)の生息地の大森林とチョウセンゴヨウとが重なっているからだ。
 朝鮮五葉すなわち紅松の樹海を愛し、その賛歌を書き続けたバイコフが、『偉大なる王』(今村龍夫訳・中公文庫)で、密林の大王であったトラを讃えて、こう書いている。

 <これらの肉食獣のなかに、堂々とした大柄の体格で他を圧している年老いた一頭の牡虎がいた。その広い額に「王」、また後頭部に「大」という漢字が見られた。この二字はその虎が「偉大なる王」であることを意味していた。すべての虎は彼に服従した。彼はタトウティンツの岩場の難所にある洞穴に独りで住んでおり、イノシシやアカシカ、ノロの群れがいる谷を襲っていた。…密林で猟師をしている古老たちは。「王大」の年齢を五十ぐらいと見ており、三親等まで系図を知っている。彼の父親はすばらしい朝鮮虎で、白頭山の頂上にある「龍の偉大なる霊」(大龍王)と呼ばれる洞穴で老衰のため死んだ。その死は地震となって現われた。山の地底に眠っていた巨龍は、石の寝床でのたうち回り、彼の熱い息は灰色の蒸気と有毒ガスとなって、山頂の深い割れ目から噴き出した。噴火口の静かな天池は、たちまち沸騰し、波立ちはじめ、その再生の聖水をスンガリ―河(松花江)へ押し流した。こんな言い伝えがある。
  『新生の輪廻をおこなった偉大な人間の魂は、「偉大なる王」の体内に居を移し、「 偉大なる王」の死とともに、人間に見えない蓮の花に化身し、完全な浄化と宇宙の霊との融合までその中にとどまる。スンガリ―の河の水は、聖山の大龍王の息で豊かに補給され、再生の源と活力をもたらす。黄色い蓮は五十年に一度、三日のあいだ花を咲かせるが、そのとき「偉大なる王」が死ぬという。人間の罪から解放された聖人だけがこの花を見ることができる。四十年ほど前、オモシャン郡の森林で北京野獣動物園向けに、皇帝の狩りが行なわれ、まだ若かった「偉大なる王」が網にかかった。中国皇帝の随員の博学者たちが「王」をみつけ、敬意を払って彼を放して自由にした。この儀式には皇帝自身も出席した。自由の身となった「王大」は、静かに皇帝に近づき、深く頭を下げて、ゆっくりと自分が生れた森へと姿を消した』>

[前掲書.今村龍夫氏訳・中公文庫七六~七八頁]。



  <高麗特産か、本邦自生か>


 序の話で、壬辰倭乱の際、捕虜-奴隷として日本に連行された朝鮮人・中国人のことに触れた。
加藤清正についても、こういう話がある。

 清正は朝鮮在陣の間、しばしば築城・築塁をしたが、朝鮮人の石工の技術が精妙であるのに感心して、目を掛け手厚く待遇した。
帰国にあたり、日本への移住を進めると、応じた朝鮮人が二百人を超えたという。
なかでも、王子の小侍部であった良甫鑑(日本名金官)は清正公の人徳を慕い帰化し、禄二百石を貰い、清正が死ぬと殉死したという。
ここにも奴隷官僚がいたわけである。
清正の菩提寺、熊本本妙寺の第三世住職日通和尚も、十三才のとき清正の兵に捕らえられ、惨殺される寸前に清正の目に留まり、側近として熊本へ連行され、やがて出家したという経歴である。
倭乱の爪跡はこのようなものであったが、侵略者が朝鮮から持ち帰ったもののなかに朝鮮五葉の苗木や種子もあったに違いない。

 そこで、「盛岡の朝鮮松」に象徴されるようなチョウセンゴヨウをめぐる問題が生じたのである。上
原敬二氏の『樹木大図説』全四巻・有明書房一九六一年の「てぅせんまつ」(第一巻・1-一四七~一五一頁)を見ると、次の数行が目につく。

 <岩手県下のものは天然生か人工植栽か疑問とする説がある.伝えるところによれば文禄慶長の頃朝鮮の役に際し盛岡藩主南部信直がこの種を持ち帰り城内に播いたものから繁殖植栽されたのだという.岩手公園にその遺木がある.他の一説では寛永十一年対馬から盛岡に流された方長老という人が種をまいて生育させたのが最初であるともいう.同県岩手郡米内村上田に名木「大道の松」あり、地上一・五メ―トルの周四m以上、高さ二七m(大正元年)に達し、これは盛岡と縁故の深い大道和尚が朝鮮から持ち帰った種子の実生 (みしょう) ものだと伝える.>

 壬辰倭乱に出兵した全国各藩で類似の話が生れているのではなかろうか。
実は、チョウセンゴヨウ即ち朝鮮松は今まで話してきたように、洪積世には日本の南北に生えていた五葉松なのだが、氷河時代が終わるとともに交代して他の針・広葉樹に場を譲り、山地・高地に後退残存したわけで、もともと日本にも自生している松なのであるが、しばらく平地・低地の民からは忘れられ、日本には生育していない樹木と一般には思われてきたというのが真相であろう。
日本史の古代以来、一部に珍重された大振りの松の実(海松子あるいは松脯)が舶来物(主として高麗もの、一部は支那産)だと思い込まれ、日本内部でも山地・高地を探れば、それほどの大振りでなければ採取可能であることなどは気づかれなかったのだと思う。

 ほぼ十九世紀前半に生きたドイツ人シ―ボルトはオランダに帰化し、長崎出島のオランダ商館の医員として一八二三年来日(一八二八年、帰国、シ―ボルト事件、一八五九年再来日、一八六二年帰国)、商館長に従って長崎~江戸間を往復した。
シ―ボルトは長崎~江戸間の旅行に一四三日を要したという。
その間、彼は各地で日本の植物の調査も行ない、医学や植物の研究を志す人たちと会い、指導もしている。
この植物調査の成果は、シ―ボルトの『日本植物誌 Flora Japonica 』として実った。

大場秀章氏監修瀬倉正克氏訳の『シ―ボルト・日本の植物』八坂書房一九九六年の二一一頁にある「116チョウセンマツ」を見ると、こうある。

[チョウセンマツの絵だけならば、木村陽二郎・大場秀章両氏解説『日本植物誌―シ―ボルト「フロ―ラ・ヤポニカ」―』八坂書房一九九二年の九九頁にある。]。


 <おそらく高麗から移入されたこのマツは、日本ではかなりまれに庭や寺の境内で栽培されているだけである。我々が目にしたのはほんの数株であるが、それらの姿形は前種とそっくりである。しかし、高さはどれも三・九メ―トルを超えるものはなかった。我々は高麗の船乗りたちから種子つきの球果も手に入れたが、これは彼らの生国では食用になる。…>
 シ―ボルトが長崎から江戸への調査旅行で見聞した朝鮮松についての情報は、十九世紀の二〇年代のものであるわけだが、やはりチョウセンゴヨウの朝鮮伝来説にまどわされている。日本にも自生し続けているということをまだ把握してはいない。小野蘭山の『本草綱目啓蒙』の講義や盛岡の栗谷川仁右衛門の朝鮮五葉植林の勧めを知っていない。
 人見必大著・島田勇雄氏訳注の本朝食鑑2』平凡社東洋文庫312の「88松子」の項目にも、<近時韓国より移栽しているが、木が高くなければ実らないので、この実ったところを見たことがない。ただ韓人によって対馬の市であきなわれ、それが全国四方に売られている。また長崎の市にも、中華より伝来している。普通の松子は栢子の大きさくらいで、使うにはあまりよくないものである。>とある。
 ただ小野蘭山の『本草綱目啓蒙』平凡社東洋文庫536、同書第二巻・巻之二十七・果之三・夷果類の「松花子」にはこうあるのは注目すべきであろう。


 <…新ナルモノハ種デ生ジヤスシ。禅院ニ栽ルモノ多シ。コノ松、本邦ニモ自生アレバ、カラマツト訓ジガタシ。信州戸隠山ニ多シ。唐松郷ト云ウ地モアリ。又、越後出羽ニモ多シテ器材トス。…>


 この文献では、信州あるいは越後出羽に自生の朝鮮五葉松が成育していることを認識している。
 とにかく、日本にも朝鮮五葉が自生していることを国際的に公認したのは西欧人の学者の手によることになる。
はじめ、日本各地に見られる朝鮮五葉は古い時代、とくに秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮半島から渡来したものと考えられていた。
それが一八八九年ドイツの植物学者ハインリヒ-マイル H.Mayr が群馬県の山中で発見してから、日本にも天然分布していることが確認され、その後、関東、中部両地方の亜高山帯で続々と発見され、福島県南部の枯木山を北限として、栃木、群馬、埼玉、山梨、長野、岐阜、富山、静岡の各県下に野生することがわかった。
そして、愛媛県下の東赤石山にわずかに発見されるに至った。
こうして長年続いた秀吉の「朝鮮征伐の土産」説は崩れた、ということになっている。
さらに、洪積世の寒冷期には、日本の広範囲にわたって繁茂していたことが、化石その他の研究で明らかになったのである。

  江戸時代人の植林の思想


 江戸時代随一の本草学者小野蘭山以外にも、チョウセンゴヨウとその松の実とが本邦にも自生していることを認識していた知識人が日本の東北に住んでいた。
栗谷川仁右衛門という盛岡の人で、山林の民のために尽くした林業家、植林の実践者でもあった。

 ここに盛岡藩士栗谷川(厨川に居るが故にこの氏号を称す)仁右衛門の『山林雑記』という古文書がある。
佐藤敬二氏が「造林業各論には、南に琉球藩蔡温の『林政八書』あり、北には盛岡藩士栗谷川仁右衛門の『諸木植立秘伝抄(山林雑記の別名)』がある」と評価した文献である。
         

 以下、日本農書全集56に収められた『山林雑記』の八重樫良輝氏の「解題」によって、栗谷川仁右衛門と『山林雑記』成立の事情について見てみたい。                       
 盛岡四大飢饉のひとつという天保三(一八三二)年から同九(一八三八)年に及ぶ大飢饉に追討ちをかけたのが、藩財政の窮乏をうめようとした重税政策であった。
そこで当然農民一揆が頻発した。
このとき、天保四年、仁右衛門らは徒かち 目付として役人を連れて、農家が凶作飢饉に備えている備蓄米を徴発する役目にあたり、農民の困窮をつぶさに見たわけである。
天保六年、仁右衛門は田名部(現青森県むつ市)の山林奉行に転じ、三年間の任期を終え、天保九年、大奥御用聞を拝命する。
その三月に江戸城西丸の焼失により、盛岡藩からヒノキ(ヒバ)材一万本の献納を命ぜられたが、四月に田名部山林が大火に見舞われ献納ができず、幕府に陳謝した。
実は、藩財政が逼迫し木材生産に困り、故意に山火事を起こしたという説もあるという。

 天保三年から嘉永元(一八四八)年までの藩主三十八代南部利済は、英才ではあれ計画が杜撰で派手好み、種々の工事などを進め、凶作なのに課税が厳しく、農民一揆が多発した。だが、諌言する家臣もいなかったという。
こういう藩の事情を知り、農民の困窮の実態を熟知した仁右衛門が起草し、献策したのが『諸木植立秘伝抄自序』である。
 弘化元(一八四四)年、南部藩はとくに養蚕を奨励し、諸士・寺院などの屋敷内の差し支えない場所に桑苗木を一戸につき一〇本以上植えるように命じている。
同三年に仁右衛門は養蚕ならびに紙すきの指導を命ぜられており、山林のことのみならず彼の該博な知識が認められてのことだろう。
 盛岡藩は、米穀生産のほか金・銀・銅を産し、馬・木材・海産物の生産も多く、初期においては富裕な財政であった。
山林は当初、武士の知行高に含めて支配させていたが、寛永七(一六三〇)年耕地だけにその支配を限定し、宅地の立木も自由に伐採することを禁止し、山林は一切藩の支配地として山守によって管理することにした。
山守には、元禄年代(一六八八~一七〇三年)には村の古老あるいは有力者を任命して、盗伐・野火・植立・払下などの取締り業務にあたらせた。

 正徳年間(一七一一~一五年)には木材を江戸・加賀・松前などに出荷し、公費を補うとの記録も見られる。
農民が家を建てる際には藩有林または入会林から無料で木材の払下げを受けているが、その材は地域により異なるものの、主として雑木・松であり、許可なくしては伐採できない杉やヒバを使うのは武士階級のみであった。
国中一〇郡は三三通に分けられ、各地の交通の便により二五か所に代官所を設置したが、山林の多い地域には山林奉行が配置された。
寛保元(一七四一)年には盛岡近くの山林はあらかた伐り尽くされ、御用木の調達に差し支え、日常の薪炭にも事欠く様が見られた。
延亨二(一七四五)年には、盗伐や山火事が頻発したことから、藩は「御山奉行はその取締りに、また植立に山守とともに心を尽くすように」と申し付けた。
田名部地方では寛政年間(一七九〇年頃)「近年に至り山林の取締りが疎かとなり、水之目御山(水源林)まで伐り尽くされているので、厳重に取締るように」との命令が再三出されたという。
鉱山業の発達あるいは海岸地方の製塩などのため、燃料として山林が乱伐され、山村農民の生活が脅かされたことや藩政に対する農民の反発もあったことだろう。     

 
 『山林雑記』は、植立吟味役という藩組織のなかの一介の山林役人という職にあってのことで、内容は備忘録的な形式ではあるが、中国古代周礼の林政の例を引き、山林政策の重要性を説くなど意気込んだものであり、一方へりくだって「短才の記する所なれば」という。
長年その職にあり、自ら体験しえたことのみを記述しようという姿勢が見える。

<植林の業務を取り扱うため、基礎的な一〇〇種に及ぶ樹種解説を「繁栄木天・地・人」として述べているのは、いかに著者仁右衛門が山林の実態把握に執拗なまでに意を用いているかが窺い知れるところである。本書はまさに造林学の各論であるが、単に知識の披瀝ではなく、実践者としての記述が評価されるべきであろう。著者の植林に対する功績が最初に公表されたのは、明治十五(一八八一)年の農商務省主催の山林共進会であった。各県から山林関係の功績者の推薦を受けて集まった総数二千四百余件のなかから、履歴・経験・参考の三部門のうちの履歴の二等賞に著者親子が選ばれている。その理由は、当時の『山林共進会報告』によると、天保の初期から志を立て、自ら植栽適地の選定と諸種の苗木養成を手がけ、苗木を毎年広く領内に頒布して植林を奨め、二公八民の「忠信植立」を主体としたことによって植林を願い出るものが増加したこと、一方では藩に対し植林の必要性を建言したことである。また、その子覚蔵も父の職を引き継いでおり、父子二代の功績が称えられている。> [以上、八重樫良輝氏『山林雑記―解題』・日本農書全集56] 注目すべきことは、本書のなかにある「繁栄をもたらす樹木」に「五葉松」としてチョウセンゴヨウがちゃんと挙げられていることである。

 「繁栄木 天号」すなわち藩と人民に繁栄をもたらす植樹すべき木の第一級のもののなかに「松」が挙げられており、そのなかに「五葉松」があり、<…岩鷲山がんしゅうざん霜降り五葉の松あり。是を御山松といふ。じやのめ根岸ふり(松葉の広がりの意)のことくにて、輪付根に白くきわ立て入、吹上松・黒松・赤松ともいふ。葉皆上へ向てかたそき(片削ぎ.神社の屋根のような片流れの形の意)の如しにて、上吹上たる体成故、吹上松と名付ける。葉の長き五葉松あり、大木なり。…>


 また、「五葉松実臥之事」(五葉松の播種の意)として、次のようにある。    
        

 <秋九、十月松かさより実を取、土中へ入かけ囲置候事。畑拵之儀者、秋より小便水をかけ、畑打こなし、是ハ虫付ぬ為なり。春土用近、上畑拵之事。平畦長七間、幅弐尺砂ふり、其上へ松の実一寸位に千鳥にならへ、其上へ猶川砂ふり、其上へ赤土粟通しにて一分程かけ、其上へ川砂壱分余かけ、是者第一の秘法伝なり。但、虫よけ、みみち外虫よりけら虫杯、或ハよろちの虫よけなり。
 杉床之如し菰のせ、松芽出候ハバ棚かき、すたれのせ、雨ふりにハ度々  しろ 水(米のとぎ汁など台所の流し水の意)をかけ、冬囲にハ松葉、三ケ年目一寸余はなし、千鳥植立、植替可申事。五、六年目、又候見合植替可申事。七ケ年目、山植立之事。…>                      

 まさに朝鮮五葉松の植え方である。

                              
 さらに、「植立心附扣」(植樹の心得 控の意)では、「五葉松」として、

<右者 松の実弐ケ年中ニ 千かさお買上、御百姓共ニ実臥被仰付候ハバ、従是拾六、七年之間ニ三京江為御登、御国産極一之御入金不少御儀ニ奉存候。>

(五葉松の実を二か年のうちに松かさ一〇〇〇個分をお買い上げになり、百姓たちに播種を命じられれば、今後一六~一七年の間には京都、大阪、江戸の三大都市に移出できるようになり、わが藩第一の収入源として少なからずお役に立つと考える.という意)とあり、仁右衛門は朝鮮五葉の松の実である「海松子、松脯」の商品価値を熟知していたことを示していて、興味深い。


 「繁栄木 地号」には、<老松>という最後の項目に、こう説明している。            
 <老松  てうせん松ともいふ。葉長き松なり、葉の色雪の如く白く、銀のさい(采配の意)ともいふべし。青き色少しまちりて景気成物(人気のあるものの意)、一名しらか松。>とある。

「ちょうせんまつ-ちょうせんごよう」という言い方も使われていることがわかる。

              
 かつて盛岡の銘菓のひとつに『松実糖』というのがあったと本で読んだが、現在はどうなっているのだろうか。

また、第二話で話した浅川巧が書いた文章に「盛岡の朝鮮松」というのがあったというが、まだ発見されていないようである。
浅川巧は、いかなる機会に盛岡の朝鮮五葉について知り、この未発見の文章のなかで何を物語ったのであろうか、大変興味がある。

 栗谷川仁右衛門のような江戸時代末期の役人に、このように立派な実践的な植林の知恵というか思想があった。
当時の日本人は、現代の日本人が熱帯雨林や北方林の破壊に目をつむりひたすらただただ安い木材・木製品を求め続けている状況とは、異なり、森林の荒廃を気にし、互いに木材の消費を自制しあったのはなぜであろうか。

 タットマン氏の『緑の列島』を訳した熊崎実氏は、当該訳書『日本人はどのように森をつくってきたのか』築地書館一九九八年の「訳者まえがき」で、きわめて重要な、賛成できる見解を述べている。


 <そこで私がふと考えたのは幕藩体制という政治経済のシステムである。当時は藩という比較的小さな経済圏内で可能なかぎり自給することになっていた。人びとの自由な移動は許されず、藩の外に出るのはほとんど不可能であった。つまり孫子の代まで地域の資源の枠内で生きていかねばならない。幸いなことに比較的小さい地域であったから、域内の森林の状況を自分たちの目で確かめることができた。森の木を伐りすぎれば、やがて用材や燃料の不足に直面せざるを得ない。山が荒廃すれば、水の流れが不安定になって、洪水や干ばつに悩まされる。その苦しみが体験的に分かっていた。だから、住民たちは森林が濫用されないように監視の目を光らせ、互いに林産物の消費を自制したのである。
 わが国の森林・林業史研究の礎を築かれた鳥羽正雄氏も、戦時中に出版された『森林と文化』のなかで、中央の幕府と地方の藩が並立する徳川のシステムに注目して、つぎのように述べておられる。「幕府はその領地の産業を起こすことにつとめ、大名は各自の領内の生産を豊富にし、これを以て自給自足し、出来得れば更に自分の領分以外の地方へも売り出して自国に無い必要品を買入れようと致しました。かくて山林の多い国々では、林業が著しく発達し、これを監督し保護助長せしめる林政が、特殊的な進歩をとげたのであります」と。
 明治期になって藩や県の境界が低くなり、日本という国民国家が経済活動の重要な単位となった。さらに七〇年代以降は国の境界を超えて物資や資本が自由に行き来する時代である。何千キロも離れた見ず知らずの国から珍しい木材がいくらでも入るようになった。輸出国の森林が伐採されそこで何が起こっているかまるで分からない。
森を失った先住民の人たちの苦難が時たま報道されても、見て見ぬ振りをする。
それと同時に木材の取引が世界中に拡大したことで資源の限界が実感できなくなった。
となれば誰も消費を自制しようとしない。
 論者によっては「距離による割引」現象に注目する。人びとは自分に近い環境の健康には気を使うが、環境が遠くなるにつれて気にかけなくなる。
遠い将来に得られる収入ほど大きく割り引くのと同じ理屈だ。
その一例として日本の木材輸入が挙げられている。「日本は自国の森林を注意深く保護する一方で、いくつかの国々の処女林を裸にし、そこから伐り出された木材を、使い捨てのコンクリ―ト型枠のようなものに使っている」と。
 よその国の森林なら荒れてもかまわない。
安い木材であればいくらでも使うという島国根性がわれわれのどこかにあるのかもしれない。しかし基本的には市場経済と自由貿易がもたらした帰結というべきであろう。>

[熊崎実「訳者まえがき」.コンラッド・タットマン氏『日本人はどのように森をつくってきたか』築地書館.七頁]。


  通信使の土産物 人参・松子・清蜜
 

日本列島の知識人は、貴重な薬用食物である海松子、松脯つまりチョウセンゴヨウの松の実が採取される松は、高麗、朝鮮からもたらされたもの、日本では採取不可能なものと思い違い、その松をチョウセンマツあるいはチョウセンゴヨウマツと名付けたのであろう。やがて、近代化された日本を足場に、こういう呼称が国際的な学名にまで流用されてしまったのであろう。

 今まで話してきたように、九世紀に入唐した僧円仁が世話になった新羅人通訳劉真言から上茶十斤とともに送られたのが「松脯(五葉松の実)」であったし、海東の盛国-渤海との往来でもたらされた品物のなかに「海松子」があったように、やがて室町時代・江戸時代日本を訪問した朝鮮からの国使が来日の度ごとに持参したのが良質の「松子」であった。本場ものの松子、海松子はやはり朝鮮から、あるいは渤海国から、つまり白頭山北麓を含む「ウスリ―世界」からもたらされたのである。

 平凡社版東洋文庫の人見必大『本朝食鑑 2』にある
訳注者である島田勇雄氏の「食物儀礼史における「菓子」「鳥類」」によると、
大江匡房(一〇四一~一一一一)の『江家次第』に宮中行事の菓子の素材として松実が挙がっており、やはり公家の記録である『類聚雑要抄』(王朝時代の末頃の書物)には公家の食品中に松子があり、鎌倉時代の食物儀礼の専門書『厨事類記』には、干菓子として松実が挙がり、
「松子。五菓子ト云。イリテカハムキテモル。柏子。コレモイリテモル。…松ノキナキ時、シロキササゲヲモル。柏ナキ時、粉餅ノヤウニツクリテ、サクツライレグシテイリテ、カタナニテウヘヲコソゲテモル。」とある、という。
この頃、松の実はどこから入手していたのだろうか。


 『李朝実録』にある朝鮮国王使いの贈答品を見ると、
一四四八年、正使正祐の源義成(政)への贈答品には、大蔵経一部函倶、鞍子一面などに並んで、人参一〇〇斤、松子五〇〇斤、清蜜二〇斗があり、
一四八七年、使節鉄牛の多多良(大内)政弘への贈答品には、人参三五斤、清蜜一六斗、松子一〇〇斤が挙げられており、
一四九四年、正使元菊の源義材(植)への贈答品には、人参一〇〇斤、海松子五〇〇斤、清蜜二〇斗が含まれている。
[上田正昭編・高麗美術館『朝鮮通信使/善隣友好のみのり』明石書房一九九五年所収の仲尾宏「室町時代の朝鮮使節/もうひとつの善隣友好の時代」九五~九六頁]。

 一七一一(正徳元)年の朝鮮通信使については、新井白石との関わりがよく知られているが、同時に、唯一、通信使からの贈答品が日本に遺っている年度である。
それは現在、山口県立山口博物館に所蔵されている。
それまではずっと元長州藩主の毛利家にあり、代々家宝として黒漆の長持のなかに一括して目録とともに保管されてきた。
長持の蓋の内側には一八一一(文化八)年、当時の毛利藩の役人がこの宝物を点検した際に貼った書き付けがある。
 朝鮮国王から将軍への贈品(正徳期)としては、人参五〇斤、大繻子一〇匹(黒色五巻、草緑色五巻)、大純子(多紅色二巻、草緑色四巻、藍色四巻)、色照布二〇匹、黄照布二〇匹、黒麻布二〇匹、虎皮二〇張、豹皮二〇張、貂皮二〇張、青黍皮三〇張、魚皮一〇〇張、色紙三〇巻、各色筆五〇柄、真墨五〇笏、黄蜜一〇〇斤、清蜜一〇斗、駿馬二匹、鷹一〇匹とある。通信使から毛利家への贈品(正徳期)としては、人参一斤、黒麻布五匹、黄毛筆二〇柄、真墨一〇笏、色紙三巻、栢子(松の実)一斗、硯石一面、扇子一五柄とある。さらに、将軍から朝鮮国王への贈品としては、鎧二〇領、太刀二〇把、長刀二〇條、屏風二〇幅、厨子一座とある。

 虎皮、貂皮、蜜、人参、栢子などはすべて、今まで注意してきた「ウスリ―的な世界」、チョウセンゴヨウの世界と切っても切れない縁のあるものである。ちなみに、将軍への贈品にある「人参 五〇斤」であるが、一斤は約六〇〇グラム、すると五〇斤は三〇キロ、乾燥した朝鮮人参三〇キロというのは相当な量である。                                     
 朝鮮からの贈品は、日本のどういう人びとに用意されたのか。朝鮮王朝には『通文館志』という記録が残っている。それはおよそ一七二〇年頃に編纂され、中国そして日本との交流方法とその歴史が記してある。それによると、通信使の贈品関係については、およそ次のようである。                                  
 一 日本への贈品は国王から、禮曹(政府)から、そして三使(正使)からの、三通り   の物があったこと。
 二 国王からの贈品は将軍と若君へ。禮曹からは執政・奉行・対馬島主・対馬にて外交   文書を司る五山の僧侶・護行長老・受職倭に用意されたこと。
 ここでいう五山とは京都の寺院のことで、別格の南禅寺を筆頭にして、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺である。それらの諸寺は、対馬の以酊庵において外交文書を司った僧侶の所属寺である。その制度も、「柳川一件」以来、始まった制度である。「受職倭」とは、朝鮮王朝に功績のあったものとして官職を授けられ、特別に交易を認められた日本人のことである。
 三 三使からは将軍、執政を始め、通信使一行が江戸に至るまでの応対に対する返礼物   として、贈品が事前に用意されていたこと。
 四 上記の贈品は江原道、忠清道、全羅道、慶尚道、すなわち朝鮮半島の南部(現在の   韓国のほぼ全域)から調達して、釜山に集められた物であること。
 五 各贈品には必ず目録が用意されており、その書式は相手の身分に応じて異なり、また伝統的な様式があったこと。                                     [上田正昭編・高麗美術館.前掲書所収第十一章.金巴望「日光への道と正使からの贈り物」三二六~三三四頁]。
                            

  小野蘭山の『本草綱目啓蒙』
 

江戸時代の数多くの本草家のなかで第一人者を選ぶとすれば小野蘭山(一七二九~一八一〇年)をあげるのは当然と思われる、という。
江戸時代に一番通用した本草書は李時珍の『本草綱目』である。
李時珍が中国本草学の代表であり、その『本草綱目』が本草書の代表であることは誰もが認めるところであろう。
小野蘭山の『本草綱目』が日本本草書の代表であることも明らかである、という。

 小野蘭山が『本草綱目』について講義するのを弟子たちが筆記したものが『本草綱目啓蒙』である。
この講義録の定本をつくるべく、蘭山が孫の職孝に筆記させ蘭山自身がこれを推敲したうえ『本草綱目啓蒙』と題して、亨和三(一八〇三)年から文化三(一八〇六)年にかけて四十八巻二十七冊で刊行された。
蘭山が七十五歳から七十八歳の時である。
本書は動植鉱物の種を論じた自然科学的内容ばかりでなく生活文化と密接にかかわり、医薬、食料、農林業、漁業、畜産業、花弁園芸、詩歌、伝説、交易、文化交流がこれらの自然物と密接にからみあっている。
 ここで前にも話した蘭山の『本草綱目啓蒙』巻之二十七 果之三 夷果類[平凡社東洋文庫536小野蘭山『本草綱目啓蒙』第2巻.一九九一年.二七五頁]にある「海松子」の項目をあらためて読んでみたい。全文を引用してみる。

<海松子 朝鮮マツノミ カラマツノミ[一名]位叱 郷薬本草                            樹[一名]新羅海松 通雅 

 凡ソ松葉二針ナルモノハ常ナリ。コノ松ハ五針ナリ。今俗ニ五葉マツト呼モノハ、赤松 メマツ 葉ノ形ニシテ五針ナリ。海松ハ葉燈心草ノ大サニシテ背白シ。朝鮮人来聘ノトキ多クコノ松子ヲ斉シ来ル。名産ナリ。カタチ大ニシテ巴豆ノゴトシ。三稜上尖リ茶褐色、皮アツクシテ破リガタシ。別ニ鉄器アリテ狭ミ按バ破レヤスシ。内ニ白仁アリ。油多シ。味山胡桃クルミ ノゴトシ。生食スベシ。新ナルモノハ種テ生ジヤスシ。禅院ニ栽ルモノ多シ。コノ松、本邦ニモ自生アレバ、カラマツト訓ジガタシ。信州戸隠山ニ多シ。唐松郷ト云地モアリ。又越後出羽ニモ多シテ器材トス。木理ヒノキニ似タル故、ヒノキニ代モチユ。コノ松卵マツカサ ナガサ六七寸、鱗甲モ大ナリ。鱗甲ゴトニ子二粒アリ。時珍ノ説ノ中国松子大如 柏子 コノテガシハノミ ト云ハ尋常ノ松子ナリ。鱗甲ゴトニ二粒アレドモ、形小シテ米粒ノゴトクニシテ白黒斑アリ。薬ニハ海松子、尋常ノ松子トモニモチユ。果子ニハ海松子ヲモチユ。松子ハ、一名、万年豆 事物異名 錬形子 不老丹 共ニ同上      >

 この記述から明らかなことは、十九世紀の初め頃には日本のもっとも信頼されていた本草書のなかで、チョウセンゴヨウとそれから採取できる大粒の松の実が、朝鮮渡来のものばかりではなく、日本国内でもちゃんと自生していることが認識されているのである。
 蘭山の『本草綱目啓蒙』が出版された十九世紀の三〇~四〇年代には岩手の盛岡の山林奉行栗谷川仁右衛門の『山林雑記』が起草されている。
栗谷川仁右衛門は、チョウセンゴヨウという名は使ってはいないが、岩手-盛岡地域に自生するチョウセンゴヨウマツの植栽を提案し、指導している。
彼の植林学と植樹についての実践指導は、明らかに東北に自生するチョウセンゴヨウマツを理解し認識したうえで、「繁栄をもたらす樹木」の主要なものとして山林の民にチョウセンンゴヨウを推薦し、これを植樹し松の実を採取し利益を得るよう啓蒙し、その種の蒔き方、苗の育て方を教え指導している。
 現代の植物学者が(例えば林弥栄氏が朝日百科『世界の植物』24巻88頁の「チョウセンゴヨウ」の項目で)、<はじめ、日本各地に見られるもの[チョウセンゴヨウ]は、古い時代に朝鮮から渡来したものと考えられていた。
しかし、1889年ドイツの植物学者ハインリッヒ・マイル H.Mayrが群馬県の山中で発見してから、日本にも天然分布していることが確認された>と説明するのを常としてきた。これは、江戸時代にすでにあった日本の本草学や岩手地域の植林実践のなかで、十九世紀の初期においてすでにチョウセンゴヨウが日本国内にも天然分布している事実が認識されていたという上述の歴史と伝統を忘れ無視していることになりはしないだろうか。



  朝鮮五葉の大陸へ


 日本列島に住む人々の歴史と密接不可分の関係にあった朝鮮半島・中国東北・ロシア極東はチョウセンゴヨウの生育する世界であった。
そして、日本もまた氷河時代にはチョウセンゴヨウに覆われており、その後も他の樹木に交代したとはいえ、東北から中部地方、四国にかけて亜高地・山地に生き残り、山村の民に恵みを与え続けてきたのである。
江戸時代、東北の盛岡では、チョウセンゴヨウのことを、その松の実が薬用・食品になることから、「料理松」と名付けた、という。
 十六世紀九〇年代の二回にわたる豊臣秀吉の朝鮮侵略は、チョウセンゴヨウが残っていることに殆ど自覚がなくなっていた東北アジア東南端の日本列島に住む倭人が、まさにチョウセンゴヨウの本場であった朝鮮半島へ侵略し、明朝をも討ちチョウセンゴヨウの大陸をおさえた中華帝国を纂奪しようとした最後にして最大の倭寇であった。
この時、朝鮮侵入の土産ものとしてチョウセンゴヨウが倭人の意識にのぼったという事実は、「盛岡の朝鮮松」の話ですでに語ったとおりである。
 さて、それ以後、倭人・日本が、チョウセンゴヨウの本場である東北アジア大陸へ進出・侵入したのは、十九~二十世紀における近代化し国民国家を作った日本、資本主義-帝国主義を成立させた日本としての朝鮮そして「満蒙」、さらに中国本土への進出・侵入であった。二十世紀の三〇年代から十余年、日本帝国はチョウセンゴヨウの世界である朝鮮から満蒙を一時ではあったが独占領有した。
二十世紀の東アジアおよび西太平洋地域における戦争と大量破壊は、日本帝国がこの独占領有の範囲を確保あるいは死守しようとして引き起こされたものであり、これは当然やがては支配下の民族・人民によって抵抗-打倒され瓦解すべき運命にあったといえよう。
 しかし、植民地-半植民地状態を脱しえた朝鮮・「満蒙」-中国は、その後朝鮮の場合は南北分断・内戦の国際化・社会主義と資本主義の異なれる体制の対立を経、中国は内戦、台湾を除く大部分の社会主義化という過程で、それぞれ脱植民地主義五十年に達したが、いまだ植民地・従属国時代の傷跡は癒えていない。
他方、欧米の帝国主義国よりも遅れて植民地支配を開始し、アジア・太平洋戦争での敗北で突如植民地・従属国を失うことにより脱植民地化の過程をもつことがなかった日本人・日本の場合、植民地・従属国支配の責任や補償についての自覚・意識は乏しく、また、そのような自覚・意識を育てる教育や文化も創造できないまま今日に至った。

  植民地主義初頭のチョウセンゴヨウ


 十七世紀半ば、越前の商人たちのポシェト湾近辺への漂着と建州女真の故地を通過した護送、このとき彼ら倭人は明らかにチョウセンゴヨウの本場を通過し、五葉の密林を体験している。
十九世紀初め、幕府の役人間宮林蔵は黒龍江を中流まで遡り、五葉の民ゴリド(ナナイ)に出会い、五葉の世界と五葉の船を印象づけられている。明治十一(一八七八)年、ロシアに赴任していた特命全権公使榎本武揚は一時帰国旅行の途次ウスリ―江岸でゴリド(ナナイ)の村を出会い、ナナイの舟(おそらく五葉製の)も見ていることを彼の『シベリア日記』に記している。
 二十世紀の初め、日露戦争直前、特命を帯びてロシア極東から満洲に潜入した石光真清が残した興味ある手記が、石光真人編で『石光真清の手記』として前四巻合冊して中央公論社から一九八八年出版されている。
そのなかの『曠野の花』で、日露戦争直前の吉林省、ハルビン(哈爾賓)から寧古塔(寧安)そして綏芬河、ウラジオストクにかけてを何度も苦労して往来する場面が展開される。      
 <その日、私は崖のすすめに従って駅(阿什河 アジハ)の宿舎に泊った。翌日、崖は命令によって石頭河子 シタヘ-ザに行くから同行しないかと言うので賛成した。
翌朝、支那馬車で出発、途中は全くの大原始林で二抱えもある針葉樹(引用者註―多分チョウセンゴヨウもあったに違いない)が繁り込んで昼も暗く、枯木の大木が倒れて朽ち果てており、底知れぬ薄気味悪さを湛えていた。
私と崖はこの大森林開発の夢物語に花を咲かせた。
私が日本の資本家を説得し、崖がロシア軍にとり入って権利を獲得する……こんな他愛ない話をするうちにロシア軍の連絡哨舎に辿り着いた。
ここにはカザック兵が三名勤務していた。彼らの話によると、夜が更けると狼の群が集まって来て吠えるので気持が悪い。時折は戸口近くまで進出して来るので、小銃をブッ放して追い払うとのことであった。
だが相手を小国人(韓国人)だと思って、多少お伽話化して大袈裟に話しているようであった。その夜は哨舎に泊った。
 翌日早朝に出発、正午頃石頭河子に着いた。
密林の中の小さい村落であったが、ロシアの鉄道工事が進捗するにつれて、この土地が鉄道用材木の集散地になり、露清両国人が次第に集まって来ている。家も建ち道も出来、ひと通りの田舎町の形をなして来たものであるが、今回の騒動のために馬賊が付近に出没してやや寂れた感があるとのことだった。>

 監禁され命も危うかったのを脱出させてくれたお米さんをウラジオストクまで連れて行き、十分な支度金を与えて日本へ帰してあげようと考えた石光の旅路が次のように描かれている。

 <僅か十里内外の行程に半日を費して石頭河子に着いた。その夜は客桟に身を休めたが、ここから横道河子 ハンダヘ-ザ へ出て掖河 エイホウ を通り磨刀石 モドシ に到るまでは、土工車も通っていない。しかも横道河子との間には老爺嶺の嶮があり、ここは徒歩でゆくより方法がない。女連れで厳寒のこの峠を越すことはやや無謀に近いが、お米は昨夜にも増して言葉少なく「私は大平溝から三姓まで歩いた女ですから」と答えて準備にかかった。こうして翌日の朝早く老爺嶺に向かって出発したのである。
 零下三十度の酷寒であった。眼のとど限り一軒の家とてなく、厳しい峠を越え密林を抜ければ石のように凍りついた平原ばかり、またも峠と密林が続く。四肢は知覚を失い、唇も黒ずんで固くなって来た。お米はとみれば死人のように蒼白の顔をこわばらせ、頭から被った毛布は霜に覆われて白く、杖に寄って今にも崩れそうに見える。私は炊事道具や食糧を入れた大きな包みを肩から下し、枯木を集めて火をつけた。薬鑵を吊り、氷片を砕いてお茶の準備をした。こんな場合には砂糖を沢山入れた紅茶が最良の薬である。私はお米の睫に凍りついた氷を拭きとって、その口に熱い紅茶をそそぎ入れた。二杯三杯と飲むうちに温気が身体の隅々に廻ってくる。私は無理に笑って言った。「どうだ、少しは楽になったか、ロシア人や清国人が越えるこの峠を日本人がへたばってどうする、大平溝から三姓まで歩いたお前じゃないか」と激励するが、お米の顔には絶望と諦めがあるだけであった。「すみません、ご迷惑ばかりかけて――足手纏いになるばかりです。大事なお身体ですから、私を捨ててお行き下さい、無理は申しません――私はとっくに死んでいる身体ですから」。…
 やがて密林の夜が来た。密林の夜ほど怖ろしいものはない。一歩動くにも危険を覚悟しなければならぬ。私は北を崖に受ける場所を選んで野宿の準備にかかった。凍って折れやすい枯枝を支えに粗末なズックの布を張って風を防ぎ、枯草を集めて床に敷いた。…私は火の番をお米に頼んで、おぼつかない足どりで一歩一歩を危ぶみながら枯木集めに闇の中に入って行った。                               
 あちこちと集めた薪が十把ほど出来上がった頃、ふと振り返って見ると今さきまで樹間に見えていた焚火が一面の闇に塗りつぶされている。さほど遠くに来た筈もない。枯木に火を点じて大声にお米の名を叫んだが、耳に入る答えは私の声の反響と遠い樹木の裂ける悲鳴だけであった。時計を出してみると八時半、枯木をとりに出掛けてまだ三十分余を経過したにすぎない。薪が焚きつくされた筈はない。空しく何度か大声に呼んでみたが答えるものがない。これ以上、闇の中を探し歩くことは危険である。夜の明けるまで別々に野宿するより方法がない。心にお米の安全を祈りつつ、枝を折っては火にくべる長い長い一夜であった。鬱蒼たる森林の梢に見えかくれする星の光の冷たい鋭さ、ひしひしと迫る寒気、止んではまた起る狼の声は遠いものであると思われたが、生死の間を何度かくぐりぬけてきた私にも胸の塞がれる思いである。                                    一睡もしない疲れた眼に朝の薄明がおとずれ、闇は密林の間を流れるように去って行った。見廻すと私のいる所は意外にも河畔であった。…私は淡い記憶を頼って暗い林の中を探しまわった。それは僅かに二丁ほど距てた地点であった。ズックの布は昨夜のままに張られており、携帯の品は何一つ失われてはいなかったが、お米の姿がなかった。消えた焚火の傍には薪が置かれてあるし、枯草の床はそのままで狼藉の跡もみられない。虎の仕業であれば血潮も飛ぼう。あまりにも静かすぎるではないか。約一時間もそのあたりを探し歩いたが手がかり一つ得られない。私は長い間、お米のいた場所にうずくまって思いに沈んだ。お米の残したただ一つの杖を手にして、一昨夜から沈んでいたお米の気持を辿ってみた。
 …もともと拉林城で私がお米に救われ、お米の日本への帰国を託された時に、お米は少しも喜んでいなかった。こんな境遇を経て故郷に帰る気はなかったのかもしれない。余計なおせっかいであったかも知れない。しかし私にとっては命の恩人である。私はお米を無事にウラジオストックに連れもどり、出来るだけ多額の金を持たせて乗船させるつもりであった。それならば故郷に帰っても、両親は夢かと悦んで迎えるであろうと考えたのである。>


 なんとか見つけ出さねばならぬと付近を再び探し廻り呼び廻ったが、何の手がかりもない。いつまでもこうしていてもいたし方ないので決心する。


 <お米が残して行った杖に小刀で「お米よさようなら、ありがとう、菊池正三」と刻んで凍った土に打込み、旅具をまとめて、しばらく合掌した後に勇を鼓して歩み出した。またもばらつく粉雪の中を、大きな包みを背負って歩み続けた。
 薄暗い大密林は次第に急勾配になり、二抱えも三抱えもある大樹の蔭を縫って、見失い勝ちの道を細々と辿って行った。もし神あってこれを空高く眺めたならば、樹木の間をはってゆく孤独な一匹の蟻とも見え、必ずや憐れみ給うたであろう。…>                          
 <私は石頭河子で唐と別れポグラニ―チナヤに行き、国境地帯を視察して哈爾浜へ引返す途中、横道河子に着いたときであった。ぶらりとホ―ムへ降りて街の方を眺めていたら、駅の柵外に立っていた馬夫らしい男がつたない日本語で呼びかけた。「菊池先生ではありませんか」「誰だ」「私は増世策夫人の君子さんの側にいる李です。馬夫の李です」…「どこにおるか」「ここから五里ばかりの山奥です。ご案内しましょう。…」
 …李は馬二頭仕立ててさっさと飛び乗った。私は狐に化かされたような気持であったが、李の後へ馬首を向けて、街はずれから南へ南へと山道を走った。辺り一帯は斧を入れたこともない密林地帯で、馬の駆ける道も、道とはいえない谷間であった。人家などは見当たらず、澄み切った山気が肌にしみた。李は時々後を振返って私を見た。「ひどい山奥で驚かれたでしょう。馴れた者でなければこの道は通れません。それだけに我々にとっては安全な土地です」といって道のない道を狼が走るように、ためらう様子もなく進んで行った。>                                  この五里の騎行で原始民族の集落のような五軒にたどり着く。一軒から出てきたのは、男子の支那服で弁髪の、まちがいなくお君であった。お君の話では、<増世策は生きていれば必ずここへ来る筈です。それなのに二年経った今日まで、とうとう姿を現わしません。殺されたのでしょう。さて自分の身をどうしたらよいか、随分考えぬきました。馬賊の女房が尾羽打枯らして郷里へ帰れるものですか。死ぬ機会を失うと不思議に気が強くなるもので、配下の手前、どこまでも生き抜いてやるぞという気になりました。こんな気持で日を過しているうちに、思いついたのが鉄道相手の枕木商売です。横道河子と石頭河子とに鉄道事務所があって枕木を買い入れているので、仇敵のロシアを相手に金儲けをやっています。契約を結んでやって見ると、案外時機が良かったと見えて、出しても出しても間に合わず、代金はその場ですぐ払ってくれますし、足かけ三年目の今日では苦力百人使って、四季を通じて伐り出しています。この五軒の家には番頭や馬夫や苦力の家族持ちの者が住んでいて、独身者は全部、持場持場の山の中に小屋を作って自炊しています。>  

                              
 以上の場面は、日露戦争の起る二、三年前のこと、ここを通る東清鉄道のハルビン~綏芬河の支線を含めて東清(のちに東支鉄道と改名)鉄道が全線開通するのが一九〇三年のことだが、この鉄道が建設中で開通がほど遠くない時期と考えられる。
満洲・ロシア極東の一帯の密林から伐採されるチョウセンゴヨウ即ちベニマツが、ロシアの鉄道建設の際の枕木として使用されたのである。
石光真清が菊池正三なる偽名で、密偵として満洲・ロシア極東を転々と移動していたとき、自分を助けてくれた日本人の「からゆきさん」のお米を恩返しに大金をもたせて日本に帰らせるつもりで、密林の多い峠道を難儀して越えようとする途中の夜、お米を見失ってしまう土地も、ロシア人作家でこの土地に精通したバイコフがさまざまな作品で書き残してくれているように、鬱蒼としたベニマツ即ちチョウセンゴヨウの原生林が続く山地である。石光真清がその『手記』に描いている、東満洲からロシア極東の深山密林は、ロシア資本主義そして日本資本主義の手にまだほとんど汚されてはいない、いわば処女地の時代の自然であった。
この風土、自然がその後どのように破壊され荒廃して行ったのだろうか。
 同時期の、この東満洲の密林を描いたニコライ・A.バイコフはこう書いている。         

 <東清鉄道(ハルビン~綏芬河)の建設の始まった一八九〇年代、満洲は文字どおりの未開の地で、人口がきわめて少なく、見渡すかぎり生い茂る森におおわれていた。鉄道建設労働者や警備隊員たちの生活は非常につらく、たえず困窮と危険を伴っていた。義和団の残党や野獣がしばしば鉄道線路の近くまでやってきて、労働者たちを脅かすばかりでなく、哨所や集落を襲撃した。ここに紹介する短編は、すでに伝説化し、また昔物語となった、遠く過ぎ去った満洲をめぐる私の思い出である。>[バイコフ・今村龍夫訳『樹海に生きる』中公文庫二二二頁]。                      
 バイコフは傀儡国家「満洲国」崩壊まで満洲のこの地域に住んでいたので、この地域の密林の変貌を次のように概観する。                                     
 <この地方には主として森林企業が集中している。以前ここでは、森林伐採利権企業による開発がおこなわれた。鉄道輸送ができる東清鉄道沿線と、はしけやいかだで河川輸送ができる地方に、森林開発が集中し、森林の総面積は約半分に減ったと推定される。伐採樹木のなかでも紅松(=チョウセンゴヨウ)は、もっとも価値が高く、建築や加工用として素晴らしい用材なので、大量に伐採され、多くの地区で姿を消した。
 かつての森林伐採システムは合理的でなく、現地には大量の廃材や木片、おがくずなどが放置されたため、森林害虫のまたとない餌となり、また山火事の原因となった。乱伐された紅松に代わって、シラカバ、ヤマナラシなど広葉樹が育った地域は、それでも条件のよいところであった。
 大森林は、各所で鉄道線路によって切り裂かれたため、すでに広大な「みどりの海」でなくなった。将来は山脈やその支脈の急傾斜だけにようやく命を保つ「みどりの湖」に姿を変えるだろう。
 大森林のあちこちの伐採地に耕地が出現し、かつて猟師のまずしい掘立て小屋があった場所には、いま移住農民の集落や村が点在している。
 大森林はその産業的な価値のほかに、気象関係でおおきな役割を果たしている。日本海沿岸や、北から南へ長白山系沿いに伸びる大森林は、湿気をたっぷり含んだ東南アジアからの夏のモンス―ンを、その大きなふところに包み込み、スンガリ―全水系の「水門」となって、満洲全体の降雨量を調節している。[引用者註―そしてスンガリ―・アム―ル全水系の水はオホ―ツク海に注ぎ込み、北洋漁業に不可欠の豊富なプランクトンを育む]。 かつての大森林は、神秘的な奇跡や魅惑的なおとぎ話に富む王国で、山と森の霊である「偉大なる王ワン 」が支配していたところである。密林の住人たちは山脈の高い峠や頂に偶像廟をつくり、王に祈りをささげた。しかし、いまではこれらの廟も朽ち果てて、その多くは跡形もなくなってしまった。朝焼けが広がる夜明けにも、野獣の咆哮はもう聞こえない。そのかわり、蒸気機関車のするどい汽笛、斧の打撃音、製材所の甲高いうなり声、処女地を走りまわるトラクタ―の騒音―これらが密林の静寂を無残にも破る。
 こうして、数十年前までは美しかった大森林は姿を消しはじめ、潮騒を思わせた樹海のざわめきも鳴りを潜めなければならなかった。>
[同上『樹海に生きる』一五~一七頁]

 一九〇五年、日露戦争直後の乙已保護条約(第二次日韓協約)以後保護国となり、一九一〇年完全に併合された朝鮮の森林はどういう運命を辿ったのだろうか。

第一話で話した浅川巧が一九二二年一年分と一九二三年の七月・九月分の日記が残されていた。
その中のある箇所に次のような部分があることは、すでに第一話で紹介したことであるが、あらためてその文章を読んでみたい。

 朝鮮総督府の林業試験所技手としての浅川巧が、京城(ソウル)を訪れた王子製紙社長の晩餐会に招待された夜の日記にこう記している。                                                                            

< <彼らはこれから朝鮮の国境の森林をねらって居ることは明らかだ。北海道も彼らによって裸かにされた。樺太だってもういくらも余さないだらう。…兎に角あんな工業は森林を荒らすにきまって居る。此処十数年で朝鮮の森林をも松毛虫の様に食ひ尽すであらう。製紙事業は今の世に必要にきまって居るから利用するのは一向差支へないが、これにともなふて跡地の荒れない様の伐採法と森林が永続する様の造林法が実現されることが必要だと思ふ。>
[『浅川巧全集』草風館版一四八~一四九頁]。

    
 「此処十数年で朝鮮の森林をも松毛虫の様に食ひ尽くすであらう」とあるが、保護国化からすでに十数年経った時点である。これから二十二年、日本の敗戦でようやく朝鮮は植民地状態から解放される。そのとき朝鮮の林野はどのように荒廃していたであろうか。                   
 再び第一話で引用した浅川巧の「窯跡巡りの一日」の一節、三幕寺の老僧の言葉を振り返ってみたい。


 <以前はこの辺一帯は立派な森林であった。それは寺で保護して居たのでよかったが、総督府になってから取り上げられて、寺持ちの森林は寺の周囲僅かの部分に限られたので、此の頃は寺では薪にも不自由する程になった。今、此の山は日本人の金持ちが独りで手に入れて経営して居るが、年々荒れるばかりで有名な冠岳山の松茸も近年は寺の付近だけにしか生えない>
[前掲『浅川巧全集』二八二~二八三頁]。                                        

   
 林野、森林、チョウセンゴヨウだけではない。
林野、森林、朝鮮五葉などと共存共生してきた朝鮮の人々、朝鮮の国土自体がどのように荒廃したであろうか。
一九三一年なくなった浅川巧が夢みたような「ハゲ山」だらけの朝鮮半島を緑化するという事業はどのように進み、どのように挫折したのであろうか。日本資本主義-帝国主義のための用材伐採と森林再生のための植林とはどういうバランスを保っていたのであろうか。すでに浅川巧は王子製紙社長らの発言から、朝鮮半島の林野荒廃の将来を憂えており、この林野破壊は鴨緑江・豆満江を越えて満洲にも進むであろうことを予感していたのではないか。
そういう日本の植民地主義の功罪を日本人自身がどれほど認識・反省できたか。

脱植民地主義からすでに五十年を経た今日においても、残念ながら疑わしい、と自認せざるをえない。

  アリランの歌


 一九〇七年、ハ―グ密使事件を口実に大韓帝国の高宗が退位させられ丁未七条約(第三次日韓協約)の締結、軍隊の解散、保安法と新聞紙法公布、義兵闘争の激化以後、百万の朝鮮人が故国を去って満洲に出た。
「朝鮮に来る日本人一人につき、三十人の朝鮮人が国を出る」と朝鮮人は言った。
朝鮮の人口は大まかに見積もって二千万同胞の住む故国から、二十人に一人が難民として出奔した。
大部分は、満洲とくに北間島・西間島からロシア極東へ行き、北極圏で漁夫になるものもあった。
中国やアメリカ、メキシコ、ハワイに行くものもいた。
日本には三十万の労働者がいた。
外国へ出たものの大半はクリスチャンであったという。

 李恢成氏と水野直樹氏とが編纂した『「アリランの歌」覚書―キム・サンとニム・ウェ―ルズ―』(岩波書店一九九一年)という貴重なドキュメントがある。


以下、ニム・ウェ―ルズが延安で朝鮮人革命家キム・サンから聞き取ったという話を紹介する。

 <
     アリラン、アリラン、アラリヨ
     アリラン、コゲロ、ノモガンダ
     アリランの一二の丘と谷
     その最後の丘と谷をいまわたる

     大空に輝く無数の星
     人の世には報いを受ける無数の罪
     アリラン、アリラン、アラリヨ
     アリランの丘を越えていく

     アリランは涙の丘、涙の谷
     この丘を越えればもう二度と帰れない
     アリラン、アリラン、アラリヨ
     アリランの丘を越えていく

     朝鮮の二〇〇〇万の民よ いまいずこ
     あとに残るは二〇〇〇里の山と河
     アリラン、アリラン、アラリヨ
     アリランの丘を越えていく

     二〇〇〇里の山と河も いまは捨て
     鴨緑江を越えていく
     アリラン、アリラン、アラリヨ
     アリランの丘を越えていく

 ソウルの近くに、アリランと呼ばれる丘がある。[実は「アリラン」は特定の場所ではないが、歌の内容からこう考える朝鮮人が多かった]。李王朝による圧政の時代、この丘の上には大きな一本松が立っていて、何百年という間公式の刑場となっていた。何万もの囚人がこの老樹のごつごつした枝につるされ、なきがらは崖の上にぶらさがった。盗賊もいたし、普通の犯罪者、反政府的学者、国王の政敵や敵対する一門の者などもいたが、多くは圧政に抗した貧農たちであり、暴政と不正に対して起ち上った若者たちであった。この歌はそうした若者の一人が囚われの日々の間につくり、重い足取りでアリランの丘を上って行くとき歌ったことになっている。人々はそれを聞き覚え、やがて誰が死刑になる時にも、その喜びと悲しみへの別れの心をこめて歌うようになった。朝鮮のどこの牢獄にもこの忘れ難い旋律がこだまし、死に際してこの歌を歌う死刑囚の権利を奪おうとするものはいない。
 アリランの歌は四〇〇年前から伝わる民謡である。李朝の時代につくられたが、今では現実となった。すでに二〇〇〇万人が難民として他国へ移住したのだ。「アリランの歌」は朝鮮の悲劇を象徴することになった。歌の意味は、幾多の障害をのりこえた末にあるものはただ死ばかりであることを表わすもので、生の歌ではなく死の歌なのである。ただし死は敗北ではない。多くの死から勝利は生れよう。愛国者・革命家・独立運動家の仲間がこの古い「アリランの歌」に新たな歌詞を書き加えるだろうが、最終の章はまだ書かれていない。一九四五年、日本帝国主義の敗北によって一応の独立は回復したものの、朝鮮は南北に分断され、いまだに統一独立を実現できていない。朝鮮は、アリランの最後の丘をよじのぼり、その首吊り柱を引き倒す日を待っている。

[以上。李恢成・水野直樹編『「アリランの歌」覚書―キム・サンとニム・ウェ―ルズ―』岩波書店一九九一年による。]               

 チョウセンゴヨウ即ち朝鮮松 KOREAN PINE 本場の国、朝鮮が日清戦争後、新興日本の植民地化への道を辿らせる。この動きに反発し抵抗する魂たち。朝鮮松を愛し、朝鮮松の祖国を守ろうとした心をもっとも深くまた繊細に歌い自主独立を闘いとろうとした優れた詩人たちを二、三紹介しよう。


       
 一九〇四年生れの李陸史は、一九二三年十九才のとき来日、一年余滞在し、帰国後抗日結社「義烈団」に加盟、一九二六年北京に行き、帰国後銀行爆破事件に連座、釈放後再度北京に行き、朝鮮軍官学校第一期生として卒業、一九四三年特高に逮捕され、一九四四年北京で獄死している。
享年四十一才。
彼の詩集が安宇植氏訳で講談社・韓国文学名作選で一九九九年出ている。
その詩集から二篇引用してみたい。


  絶頂
     厳しい季節の鞭に追い立てられ
     ついに北方の地に来てみれば

     いまはただ空もくたびれ果て 倦める高原の
     霜柱白く研ぎ澄まされたうえに立つ

     いずこにひざまずくべきか
     歩を進めて踏みしめるところとてなく

     眼を閉じて思うよりほかになし
     冬は鋼鉄の虹かと

 民族の苦難の道で詩人は呻吟する。

  曠野
     遥かなる遠い日に
     天が初めて開かれ
     いずこよりか鶏の啼く声が聞こえただろう

     なべての山なみが
     海原を恋慕ってひた走ろうとも
     ここばかりは犯すことができなかっただろう

     絶え間のない光陰を
     勤勉な季節が咲かせては散らせ
     大河がようやく道を開かせた

     いま雪が降り
     ひとり梅の香が満ち満ちて
     ここに貧しい歌の種を播こう

     ふたたび千古ののちに
     白馬を駆って現われる超人あり
     この曠野で声も高らかにうたわせるとしよう

 詩人李陸史の行動する魂は永遠に生き続ける。たとえ「千古ののち」であろうとも、祖国光復の日はきっとやって来るに違いないと固く信じてやまない。彼が日本帝国主義の監獄の中で故国と民族のために殉じた明くる年、祖国解放の日がやってきた。                                                                              韓龍雲は、一八七九年生れ、書堂で漢文を学び、一九〇六年得度、一九〇九年『朝鮮仏教維新論』を発表、一九一三年『仏教大典』を編纂、一九一九年三・一運動で逮捕された。一九二六年詩集『ニムの沈黙』を発表、一九三七年卍党事件で再逮捕され、一九四四年死去した。[以下、韓龍雲、安宇植氏訳『ニムの沈黙』講談社・韓国文学名作選一九九八年による].

 無題
     李舜臣を船頭に仕立て
     乙支文徳[六世紀の高句麗の武将]を御者に仕立てて
     破邪剣を高く振りかざし
     南船北馬 駆け巡ろうか
     どうやらニムに巡り逢う道は
     それをおいてほかになし。

     海は深いというけれど
     測ってみれば底があり
     山は高いというけれど
     測ってみれば頂上がある。
     海や山より深くて高いのは
     ニムをおいてほかになし。

     蛙が鳴く声に
     雨が降ると承知していたが
     ニムが来られると聞いて
     衣服を着替えて出てみたら
     ニムより先に雨が降り
     寂しい気持ちにさせられた。

     山中に陽は長く
     せせらぎのうえに花ぞ散る。
     草むらに独り寝転び
     万古の興亡を忘れていたら
     どこからか声が二つ三つ
     「かっこう かっこう」と鳴く

     この川の流れ具合は
     豆満江が干上がるきざしか。
     この山の聳え具合は
     白頭山の崩れるきざしか。
     その間を行き交う人になんぞ
     告げても詮ないこと。


あなたは見ました
   あなたが行ってしまわれてから あなたを忘れることができません。
   そのわけは あなたのためというよりも わたしのためのほうが大きいでしょう。
   耕し植えつける田畑がないので わたしには秋の収穫がありません。
   夕べの糧を欠き 粟かじゃが芋を借りようと隣家を訪ねたら 主人から
  「物乞いには人格がない 人格のない者には生命がない お前を助けるのは罪悪だ」と言われました。
   その言葉をきいて踵を返したとき こぼれ落ちる涙の中にあなたを見ました。

   わたしには家もなく ほかに事情もあって戸籍がありません。
  [日帝に対する抵抗の生き方として彼は戸籍をつくらなかった]
  「戸籍のない者に人権はない。人権のないおまえに何が貞操だ」と言って辱めようとした将軍がおりました。
   将軍に抗った後で激昂がおのれの哀しみと化した瞬間 あなたを見ました。
   ああ 倫理、道徳、法律などのあらゆるものが剣と黄金を祀る演技だと知りました 永遠の愛を得るか 人類の歴史の最初の頁にインクでしるすか 酒を飲もうかと
   ためらっているとき あなたを見ました。

 この詩は、韓龍雲が、主権を奪われ祖国を喪失した日本の統治下で、倫理も道徳も法律もすべてが剣と黄金、いや「帝国主義」によって煙と化してしまった暗澹たる植民地の現実に、抵抗の心情をこめて詠んだものである。


   論介 ノンゲ の愛人となってその墓に 
   昼となく夜となく流れて流れる南江は 行かず。
   風雨のけぶる中にたたずむ矗石楼チョクソンヌ は 矢のごとき光陰を追いて疾駆する。
   論介よ、われに涙と笑いを同時にもたらす愛する論介よ。
   そなたは朝鮮の墓所の中に咲けるよき花の一輪。よってその芳香は腐臭を放たず。
   われは詩人としてそなたの愛人となれり。
   そなたはいずこにおわす。死することなきそなたの姿が この世にはなしとは。

   われは 黄金の力もて切られし花のごとく香り高く痛々しき そなたの当年を
   回想してやまぬ。
   酒の香にむせりつつ口ずさむ静かな歌は 獄舎に埋れて錆びつける刀を響かせり。
   踊る袖を孕みて舞う恐ろしく冷たき風は 幽鬼の国の花の茂みを経て
   沈みゆく陽を凍えさせり。
   か弱きそなたの心は落ち着きはらえども 震えるよりさらに恐れおののきしぞ。

   美しく邪気なきそなたの眼は笑みを浮かべしが 涙するよりなお哀しみを
   漂わせたり。
   紅に染まれしかと思えば青ざめ 青ざめしかと思えば蒼白にして 微かに震わせる
   そなたの唇は微笑みの朝雲ぞや、歔欷の暮雨ぞや、有明の月の秘密ぞや、
   露草の象徴ぞや。
   茅の新芽にも似たそなたの掌に手折られざりし 落花台の残れる花は
   羞じらいに酔いて顔を赤らめたり。
   玉のごときそなたが踵もて踏まれし 川岸に生す古き苔は驕衿にあふれ
   青き紗灯篭もて おのが名をさえぎれり。

   ああ、われはそなたなき虚ろの墓にもひとしき住いを そなたの家と呼ぶらん。
   たとい名ばかりといえそなたの住いなかりせば そなたの名を呼ぶ機会を呼ぶ
   機会を逸するゆえなれば。
   われは草花を愛すれど そなたが家の庭に咲けるを手折ることは叶うまじ。
   そなたが家の庭の草花を手折らんとすれば わが腸こそ まず引き裂かれるゆえに
   われは草花を愛すれど そなたが家の庭に植えることは叶うまじ。
   そなたが家の庭に手植えんとすればまず わが心に野いばらぞ植えられるゆえに。
   許されよ 論介よ、金石にもひとしき約束を違えしはそなたにあらじ われなり。
   許されよ 論介よ、もの悲しくうら寂しき寝屋に独り身を横たえ わが身に及びし
   恨 ハン に涙するはわれにあらじ そなたなり。
   わが心に「愛」の金文字刻みつけ そなたが祠堂に記念の碑建立せしとて
   そなたのいかばかりの慰めとなろうや。
   わが歌に「涙」の調べもて烙印し そなたの祠堂に祭鐘を打ち鳴らすとて
   われにはいかばかりの贖罪たりえようや。
   われはひたすら そなたの遺言を守り そなたに尽くし得ざりし愛を 永遠に
   他の女性に捧げまじ、これぞそなたが顔とひとしく 忘れ得ざる誓約なれば。
   許されよ 論介よ、 そなたの許しを得るならば わが罪は神に懺悔せずとも
   消ゆるならん。

   千秋に身罷ることなき論介よ、
   一日とて生きられざる論介よ、
   そなたを愛するわが心のいかで愉しく いかで哀しきぞ。
   わが笑いは高じて涙となり 涙は高じて笑いとなれり。
   おお 許されよ わが愛する論介よ。

 論介は、前に話したように、壬申倭乱当時、晋州役所お抱えの芸妓であったが、城が豊臣軍の手に落ち矗石楼チョクソンヌ (晋州城の主将台の高楼)で倭側の侍大将らが祝宴をはったとき、その席にはべらされた論介は、倭将の毛谷村六助の首を抱えこんで南江の淵へ身を投げ、自らの命をすてて敵将を水死させた、という。
 論介は身を捨てて朝鮮の主権と尊厳を守り、侵略者を震撼させてくれた。それから三世紀余、論介の子孫である二〇世紀初頭の朝鮮民族は、固有の誇るべき歴史と高度に発達した文化を民族の主権と尊厳すべてとともに根こそぎ日本帝国主義に奪われ、その刀と黄金の力によって組み敷かれ、植民地化した朝鮮は日本の拡張戦争の兵站基地として使われ、朝鮮の資源と労働力は日本のアジア・太平洋戦争に奉仕させられた。
そういう傾向と展開に対して容易に抵抗を持続させ得なかった自民族を自己批判し、鞭打った詩である。
 以上の詩篇は、前に挙げた間島の生んだ青年詩人尹東柱の詩篇とともに、加害者である日本と日本人にいまなお自己批判と反省を迫るものがある。

  豆満江を越えて

 「豆満江の歌」というのがある。この歌の歌詞は一九三七年延安でキム・サンとニム・ウェ―ルズにより翻訳されたものであり、岩波書店版のキム・サン/ニム・ウェ―ルズ『アリランの歌』に載っている。

     きのう川を渡してやった客なのに
     きょうは悲しい知らせが届く
     豆満江を渡る老船頭の繰り言
     ふかく青い流れをものうげに漕ぎ行く船頭

     船をおりながら
     悲しげに振り返る客には
     なぐさめの言葉をかける
     意気揚々と帰ってこいよ

     一年たち二年たち十年たち
     それでもあれからまだ四十年
     こうした様をみながら年とった
     豆満江を渡る船の上

 ニム・ウェ―ルズにキム・サンは次のように説明している。

 <豆満江の歌は一九二八年ある朝鮮人革命家がつくった。この年、一〇〇〇人もの労働運動指導者や知識人が「危険思想」の持ち主ということで日本人に逮捕された。他の人々も豆満江を渡ってシベリアや満洲に逃げのびなければならなかった。ここで「客」といわれているのは政治亡命者の意味だが、この言葉は朝鮮では禁止用語にあたるので使えない。この歌はその後、朝鮮の学生たちの愛唱歌になった。豆満江は朝鮮とシベリア、満洲の国境を流れる。源は朝鮮最高の山、万年雪におおわれた白頭山脈である。この山を境として鴨緑江と豆満江にわかれる。一九一〇年の日本による朝鮮併合以来、二〇〇万人近い朝鮮人がこの二つの河を渡って亡命した。現在朝鮮人の数はシベリアに八〇万人、朝鮮とシベリアの間にある満洲の間島三角地帯に五〇万人、その他五〇万人が満洲の奥地に亡命している。朝鮮の革命指導者の多くが重大な危険にさらされるとこの豆満江をひそかに越える。忠実な老船頭らはそのために苦境に立つことが多いが、決して革命家を裏切らない。小型の船でひそかに河を渡ろうとする現場がみつかれば、逮捕・投獄は免れない。なんの証拠がなくても「危険思想」の持ち主とみなされるからである。>[李恢成・水野直樹編『「アリランの歌」覚書―キム・サンとニム・ウェ―ルズ―』岩波書店一九九一年による]。
 ここで「シベリア」とされているのは「ロシア極東」であるが、「間島」(北間島)が出てくることに注目したい。すでに間島地方のことは大分語ってきたとおりである。
 日本の参謀本部は、ロシアの十月革命勃発直後から、北満洲とバイカル以東のシベリア(ロシア極東)を占領する作戦計画を立てており、これを容認する日中軍事協定も結んでいた。一九一八年八月に開始された「シベリア出兵」は、ロシア社会主義革命に対する連合国の干渉戦争に乗じたものであるが、同時に植民地朝鮮およびこれに隣接する間島地方・ロシア極東(ウラジオストの新韓村)における民族独立運動に社会主義・共産主義思想とその勢力が合体して強化されることを恐れ、これを封殺しようという作戦であった。
 豆満江を越えて、北方にはみだすように移住あるいは亡命した朝鮮人は、(北)間島地方とウラジオストクを中心にロシア極東地方に移り住んだ。中国東北部であった間島地方への移住朝鮮人と比べて、ロシア極東へ入った移住朝鮮人はロシアに帰化し、ロシア革命に際しても、ボルシェビキに入党するものも多く、社会主義・共産主義にも影響されやすく、その影響力は間島の朝鮮人社会から植民地の本土にも及び、日本帝国主義の支配を脅かした。「シベリア出兵」の目的には、当初から植民地朝鮮の支配の安定と朝鮮半島内外の朝鮮人社会への抑圧という問題があったのである。
 <日本のシベリア戦争における朝鮮問題の大きな比重は、(一九二二年)いざ撤兵という段階になって軍部のますます痛感するところとなった。撤兵に最後まで反対した参謀本部は七月二三日づけで「撤兵後ニ於ケル西伯利政情ノ予想及其帝国ニ及ホスヘキ影響ニ就テ」と題する調書を作成したが、その中に見出される「撤兵後最モ脅威ヲ感スルハ朝鮮ニ対スル宣伝陰謀及之ニ伴フ朝鮮内外ノ騒擾トス」との一節に、問題の本質がよく現わされている。>
[原暉之『シベリア出兵/革命と干渉 1917-1922』筑摩書房一九八九年.五六六頁]。

 ウラジオストクの新韓村の朝鮮人社会に対する攻撃を頂点とする、ロシア極東における「朝鮮人狩り」から、中国東北部の間島地方に対する「侵略と虐殺」に参加するという事実が「シベリア出兵」の見落とされた重要な本質を現わしている。そして、この関連、この問題構造は、ついで日本帝国主義が「満蒙」全体を狙うとき、さらに芋づるのように拡大していった。
 朝鮮駐屯日本軍である朝鮮軍の参謀であり、柳条湖の鉄道爆破の協力者、朝鮮軍の満洲への越境進撃の画策者であった神田正種という軍人がいる。


 <神田正種らは、満洲事変の直前、朝鮮軍が朝鮮北部の会寧 ホエリョン から豆満江対岸の竜井村 ロンジンチュン に通じる鉄道を故意に爆破し、それを機会に日本軍を間島に越境進撃させ、「朝鮮としては鮮内鮮人の不平の安全弁を与える意味で、間島を朝鮮に編入すること」を考えていた。この計画は実行寸前にまでことがすすんでいたのである(神田正種「鴨緑江」、みすず書房『現代史資料・7・満洲事変』所収)。ひとあし先に満洲事変がひき起こされたため、この計画は未遂に終ったのであるが、神田らの計画を全満洲までおしひろげて実行したのが満洲事変であったといってよい。>
[中塚明『近代日本と朝鮮』三省堂一九九四年]。

 植民地化された朝鮮。
その朝鮮に一人の日本人が入れば三十人の朝鮮人が朝鮮からはみ出ていく。
まず、朝鮮人が故国から追い出された先は、豆満江・鴨緑江を越えて間島・満洲でありロシア極東であった。
植民地朝鮮の安定を計るためには日本帝国主義は、越境して間島から全満洲を、そしてロシア極東に進撃せざるを得なかった。
そして、この朝鮮・間島から満洲・ロシア極東は、すべて連結するチョウセンゴヨウが生い茂る生態であったのである。
 一九三七年九月、日本人に追われソ連に新天地を得ていたロシア極東の朝鮮人は、日本軍の侵攻を警戒したスタ―リン政権により中央アジア・カザフへ丸ごと移される。


                 
  満洲事変からアジア・太平洋戦争へ

 <満洲事変は、日本帝国主義が長年もくろんできた中国から「満蒙」を分離し、これを日本の植民地とかえようとする計画を、大恐慌によって国の内外の矛盾が極度に先鋭化したとき実行に移したものであった。戦争は関東軍の独断ではじめられたが、三年前の張作霖爆殺のときとちがって、日本政府も軍部の中央も、出先の軍隊の行動をおさえて戦争の拡大を阻止することはしなかった。ここに日本帝国主義はみずから新たに第二次世界大戦の発火点をつくるとともに、一九四五(昭和二十)年八月十五日の敗戦に直接つながる長い戦争の一歩をふみだしたのである。>


 <満洲事変は、それまでの日本の朝鮮に対する植民地支配の矛盾を深くむすびついていたことを忘れてはならない。植民地朝鮮のさまざまな矛盾が満洲におよび、満洲における朝鮮人の独立運動は朝鮮の内部に影響し、したがって満洲での朝鮮人独立運動の息の根をとめなければ、日本の朝鮮支配も安定しないと考えられていたのである。
 日本では、第二次世界大戦後、満洲事変にはじまり敗戦にいたる長い戦争をどうみるかという場合、それ以前の朝鮮支配の問題、朝鮮侵略の問題と満洲事変がどう構造的に関係しているのか、往々にして忘られがちである。
 それにはさまざまな理由が考えられる。極東国際軍事裁判は過去の植民地支配の問題はとりあげず、一九二八(昭和三)年一月一日から一九四五年九月二日までの戦争犯罪を問題にしたこと、天皇をはじめ日本の支配層が朝鮮などに対する植民地支配を当然のことと正当化しつづけてきたこと、また日本の敗戦という未曾有の体験を考える場合、アメリカの圧倒的な軍事力の印象が日本の国民に強かったこと、そのうえ戦後、アメリカの対日政策によって、ことさらに「日米戦争」というイメ―ジが強調されたこと、そうしたもろもろのことを背景として、学校教育や思想界でも、日本の植民地支配の問題が日本の近・現代史のなかでもつ意味についての論及を長らくさけてとおってきたことなど、さまざまな理由があるだろう。
 しかし歴史的な事実として、満洲事変と日本による朝鮮に対する植民地支配は構造的・有機的にかたくむすびついてはじまったことを忘れてはならない。この問題は、朝鮮侵略の問題をどう見るかということにとどまらず、近代日本の歴史をどうみるかという日本人の歴史認識の根幹にかかわることである。満洲事変は満洲占領という目的と同時に、朝鮮の植民地支配をより強化することをもめざしていた。このことは、満洲事変の首謀者たちの回想からも明らかである。>
[以上、中塚明『近代日本と朝鮮』三省堂一九九四年] 


<関東軍の作戦主任参謀で満洲事変の首謀者の一人であった石原芫爾は、満洲占領を含めて、戦争の見通しを次のように述べていた。―将来「米国ノミヲ敵トスルコトニ努ム、コレガ為満蒙ヲ領有シ「フィリッピン」「ガム」等占領以外支那本部ニハ成ルベク兵ヲ用ウルヲ避ケ、威嚇ニヨリ支那ノ排日及参戦ヲ防止ス」(『対米戦争計画大綱』)。
 中国の民族運動は、「威嚇」によって沈黙させることができるというのである。そして「満蒙」を占領しさえすれば、「朝鮮ノ統治」もおのずから安定すると彼も考えていた。>
 <「満洲国」は「独立国」の体裁をとっていたが、まったく日本の傀儡国家にすぎなかった。国家の実権はすべて日本人によって独占され、議会はもちろんおかれなかった。そして連帯責任の保甲制を実施し、民衆から武器を没収し、治安の確立をはかった。武器の没収は一九三一年から三六年末まで銃器九九万挺、弾薬四五四万発に達した。とりわけ朝鮮との国境地方ではもっとも徹底しておこなわれ、料理包丁すら十戸に一本だけ許されるというところもあった(宇佐美誠次郎「満洲侵略」、岩波講座『日本歴史』現代3,一九六三年)。このことは国境付近での朝鮮人民の抗日武装闘争に日本側がどれほど手を焼き、おそれていたかを裏書している。>
 
<満洲事変後の朝鮮「工業化」政策―朝鮮の鉱工業への日本資本の投下―恐慌の打撃からのがれようとする日本資本の要求と、満洲侵略戦争にともなう戦時経済建設の必要をみたすためのもの―満洲事変後、金本位制がふたたび停止され、金価格が騰貴するにつれて、日本政府が朝鮮の金の収奪を強化し、さらに全面的な中国への戦争の拡大にともなって、鉄・石炭・明礬石・マグネサイト・タングステン・黒鉛・重晶石・蛍石・その他雲母・モリブデン・石綿・燐鉱など、直接間接に兵器生産に役立つ朝鮮の地下資源の開発をはかった結果にほかならない。
 このように朝鮮を中国との戦争の兵站基地とし、朝鮮の資源を日本帝国主義の侵略戦争に奉仕させようとする傾向は、中国との戦争が長期化するとともにますます強められた。>
[いずれも、中塚明『近代日本と朝鮮』三省堂一九九四年による]。

 以上のことから、次のような大江志乃夫氏の指摘もうなずける。


 <朝鮮。日本は、固有の歴史と高度に発達した文化をもつこの民族全体を丸ごと植民地として支配してその文化を根絶しようとし、その民を日本の次なる新しい戦争の道具として使い捨てた。その傷はいまだに癒えずその怨恨はいまだに深い。>[大江志乃夫『日本植民地探訪』新潮選書一九九八年]。
 以上の説明で明らかなように、朝鮮問題、植民地としての朝鮮をいかに安定した状態で統治していくかという問題が中核をなして、朝鮮問題の拡大・延長としての間島-満洲、ロシア極東の制圧・可能ならば植民地化という欲望、こうして、かつて同様にチョウセンゴヨウの世界であった日本がチョウセンゴヨウを生態の主要構成要素とする朝鮮を占領支配下に収め、これと構造的・有機的に連関する、やはり生態的にチョウセンゴヨウの世界である間島-満洲、そしてロシア極東に侵略していく。
そして、そういう侵略・占領は敗れ、チョウセンゴヨウの世界の征服戦争は瓦解するが、その敗北・崩壊から五十年経た今日いまだに日本・日本人は、日本-朝鮮-満蒙-中国-ロシア極東の構造的・有機的連関、その連関を支える生態、そのなかでのチョウセンゴヨウの重要性と意味を理解していないし、理解しようともしていない。


  朝鮮南北分断に責任はないか

 ポツダム宣言の受諾、日本の降伏の結果は、突如とした植民地朝鮮の解放であった。

植民地朝鮮は、日本の降伏受諾とともに突然日本の手から失われたわけで、そこに欧米諸国が植民地主義本国として味わったような脱植民地主義との長く苦しい摩擦と闘争の体験などは経験しなかったわけである。
ある意味では、そういう苦労を味わなくて済ませたことが逆に日本・日本人に植民地主義とか脱植民地主義についての自覚や認識を欠落させ、いまだ解決しない禍根を残したことになろうか。

 朝鮮分断が決まる当時のアメリカは朝鮮問題をあまり理解していなかったといえよう。トル―マン政府内の政策樹立者の側に朝鮮問題を理解できる人はいなかったために、朝鮮問題は無視されがちで、ル―ズベルト大統領が任意に作った対韓政策を無批判に追随するだけで、ソウルだけはアメリカ側で確保できるという意味合いだけから三十八度線を提案した。
できるだけ北方を占領したいというアメリカの政治的要求と、その政治的要求を実現できる当時のアメリカの軍事的能力の問題であった。
 ソ連軍による朝鮮半島全域の軍事的占領を阻止し、ソウルをアメリカの占領支配地域に置くことにより、戦後のソ連の朝鮮・東アジアへの影響力を限定化しようという、戦後最初のテストケ―スとなった対ソ封じ込め政策の発動であった。
 一方、スタ―リンにとって朝鮮は完全にソ連軍が軍事的に占領支配できる力をもっていたのに、なぜアメリカに対して三十八度線についての共同行動を許容したのであろうか。 和田春樹氏の解釈が妥当であると思うので、ここに紹介しておきたい。

[和田春樹「韓国情勢と私たち」『世界』一九八七年三月号、三五頁]。                                       
 <朝鮮の分断占領は八月一五日のアメリカ提案でそのまま決まったのである。ソ連としては、日本本土はアメリカ、南サハリンとクリル諸島はソ連という分担とセットにして、自明のことと考えていた占領方式であった。つまり、ソ連が参戦すれば、自動的に朝鮮は分断占領される運命であったといえるのである。だとすれば、ソ連参戦以前に降伏して戦争を終えることのできなかった日本には朝鮮分断占領、ひいては南北分断の責任があることになる。敗戦国日本の領土のうち、分断占領になったのは唯一朝鮮である。これが懲罰であるのなら、朝鮮ではなく、日本の本土が分割占領されるべきであったろう。日本が積極的にしたことではないが、結果的には、対立する米ソの分割用に放棄する朝鮮をさし出すことによって、自らは分割の運命を免れたことになったのである。>      

            
 かつて日韓歴史教育の対話でソウルを訪問したとき、李元淳先生がわざわざ私たちを江華島の歴史遺跡巡りの案内を引き受けられ、きわめて有意義なフィ―ルド学習が実現した。このとき李元淳先生が雑談の中で、「本当は日本が分割占領されるべきだったのです」という意味のことをおっしゃられたことを記憶している。
この言葉を聞いていたのは数名であったが、私たち日本人の盲点をついてショッキングな発言であった。                       

               
 日本本土の分割占領は、トル―マン大統領の対ソ冷戦政策遂行の観点から回避され、他方、朝鮮半島の分断占領は、その代償として、ソ連の対日戦参加と日露戦争以来のロシア人の日本に対する民族感情に応えるものとして行なわれたと言えよう。
いずれにしても、このような決定に米ソ両国とも応じたことは、日本よりも植民地であった朝鮮に対する無理解と軽視ひょっとすると蔑視があったのではなかろうか。
朝鮮という国の歴史と国土、統一された民族共同体の価値と尊厳に対するいくらかの理解・認識・尊敬の念があったならば(もっともソ連軍はいちはやく三十八度線以北から撤退し、あとは朝鮮民族の自主独立にまかせた)このような南北分断を固定するような政策をとらなかったのではなかろうか。

 日本・日本人は、かつて植民地としてこき使い、戦争の道具としても荒廃させ、そのうえ後始末もろくにせず放棄した朝鮮の分断に対して、どのような反省と認識を行なえたであろうか。米国の占領政策と日本本土分割占領の回避によって、戦後の日本人は自らのアジア・アジアの諸民族に対する侵略戦争への反省と戦争責任・植民地支配責任の自覚とそれに対する補償問題を軽視ないし無視することになった。
東京裁判や公職追放は占領軍のアメリカがおもにアメリカに対する日本軍の戦争犯罪、捕虜虐待に対して行なったものであり、アジア・朝鮮の人々に対する日本の戦争犯罪責任・植民地支配責任の追及はほとんどなされなかった。日本人自らの戦争責任・植民地支配責任の明確化、引責をも求めなかった。
そして、多くの日本人もそれまでの歴史を忘却しようとした。
こうして、日本人は戦後一貫して朝鮮・アジアへの戦争責任・植民地支配責任を一切放棄してきたといえよう。わずかに、一九五二年の日本の独立回復後のアジア諸国との国交回復時に経済援助という名目で各国政府へわずかな無償・有償の援助金を与えた。
こうした日本政府の政策は、アメリカの冷戦政策の一環として実施され、そしてその後の日本のアジアへのいわゆる経済外交、経済進出の足掛かりとなった。
[大沼久夫『朝鮮分断の歴史1945-1950』新幹社一九九三年]。

 一九九九年五月一七日の朝日新聞に、韓国国民会議副総裁の金槿泰氏のインタビュ―記事が載っていた。
韓国で軍事独裁政権と闘っていた一九七〇、八〇年代、北朝鮮のことをどう見ていたか、という朝日記者の質問の答えが勉強になった。
 <北が南の民主化に意味のある役割を果たしたことはなく、北のほうが民主的だと考えたこともない。
ただ、北は日本帝国主義下で民族解放運動をした勢力が指導部を形成し、韓国はそうではないことに一種の挫折感があり、北の指導部に正当性がよりあるのではないか、と苦悶していた。(いまはどうですか、という問に対して)理解が相当に難しい。
政策決定の予測ができず、交渉に臨んでも、こちらが困惑することが多い。
抗日遊撃隊方式の政治性向があるのと同時に、経済危機にあって体制維持に苦しむ不安定さからきていると思う。北の立場からすれば、国際社会に入ってそこの慣習を自分のものとする機会がなかった。米、日、西欧の主要国が北と国交を結んでいないから、北自身が国際社会で行動して物事を決めることができなかった。>

 日本人も、民主化闘争の経験のある金槿泰氏に学んで、脱植民地主義の日本人としてこの韓国人の理解に照応するような独自の北朝鮮理解を一日も早く持たなければならない。
             

  朝鮮戦争がらみの高度経済成長

 アジア・太平洋戦争における日本の敗戦-戦争終結の仕方は、多くの点で戦争責任および植民地支配責任のけじめをつけなかった、後世に大変な宿題を残すものとなった。
そういう放棄された諸問題のなかに、南サハリン(樺太)の朝鮮人を虐殺し「棄民」したこと[角田房子『悲しみの島サハリン―戦後責任の背景』新潮社一九九四年]、
敗戦後も在日していた朝鮮人(それに台湾人)約六〇万人を、平等が保護されない、権利が保証されない、差別された不安定な「外国人」として疎外し続けたこと[記録映画『戦後在日五〇年史・「在日」』],あるいは、満洲=中国東北で戦時中に行なわれた化学兵器の製造・実験と敗戦時その兵器の隠匿・放棄の問題などがある。
                
 しかし、ここで注目したい事実は、敗戦で崩壊・解体された日本社会と経済・産業がまたしてもかつての植民地朝鮮の内戦に始まる朝鮮戦争という大悲劇を下敷きにして復活・再生したことである。
荒廃した生産・輸送施設、占領軍によるさまざまな経済規制などで沈滞していた日本資本主義は、朝鮮戦争によって復活と再生、新たな発展の条件を獲得した。
アメリカの軍事力の根拠地、補給・兵站基地として、アメリカのアジア政策-冷戦政策に従属させる形で日本資本主義は復活し、未曾有の高度経済成長を開始した。いわゆる「朝鮮特需」による独占の復活である。
こうして、またしても朝鮮が踏み台になったのである。

  戦後経済成長後の森林危機
 

アジア・太平洋戦争は戦略資源の乏しい日本にとっては松根油まで採取するような消耗戦に陥り、列島の林野の荒廃も最低レベルに達した。
しかし、戦後日本人はふたたび植林に励み、林野の緑は回復していったが、奥地の天然林や里山の薪炭林まで次々と成長の早い針葉樹に切り替えられていった。
わずか二、三〇年の間に杉林ばかりの森林景観に列島は一変した。
高度経済成長とバブル景気は、木材需要を激増させ、木材資源の枯渇にともなって材価の急騰が進み、他の資材による木材の代替と外国産木材の輸入が本格化し、コスト高から国内の森林の伐採のテンポは落ちていった。
戦後進行した猛烈な森林略奪は、植林によってではなく非木質系の代替資材と外材により救われた。
 しかし、これは復活した日本資本主義を含めた世界資本主義の進展のなかでは、化石燃料の大量消費と地球規模の森林破壊という深刻な代償をともなった。
地球環境の悪化と引き換えに、列島内の森林があまり切られなくなった。
伐採圧力が国内の森林から国外の森林に移ったのである。東南アジアの熱帯雨林、北米やロシア極東の北方林、オ―ストラリアの天然生ユ―カリ林はじめ、世界のあらゆる森林に破壊の嵐は及んでいる。
世界中のこれほど多くの地域から、これほど大量の木材・木製品を集めている国はほかにはない。
[熊崎実「訳者まえがき」、コンラッド・タットマン『日本人はどのように森をつくってきたか』築地書館、所収]。


 <七〇年代以降は国の境界を超えて物資や資本が自由に行き来する時代である。何千キロも離れた見ず知らずの国から珍しい木材がいくらでも入るようになった。輸出国の森林が伐採されそこで何が起っているかまるで分からない。森を失った先住民の人たちの苦難が時たま報道されても、見て見ぬ振りをする。それと同時に木材の取引が世界中に拡大したことで資源の限界が実感できなくなった。となれば誰も消費を自制しようとしない。‥人びとは自分に近い環境の健康には気を使うが、環境が遠くなるにつれて気にかけなくなる。遠い将来に得られる収入ほど大きく割り引くのと同じ理屈だ。…よその国の森林なら荒れてもかまわない。安い木材であればいくらでも使うという島国根性がわれわれんどこかにあるのかもしれない。しかし基本的には市場経済と自由貿易がもたらした帰結というべきであろう。>[前掲書中の熊崎実「訳者まえがき」から]


 一九九九年三月六日、朝日新聞夕刊に次のような記事が載っていた。
               
 <森林乱伐やめさせて/ロシア極東・ウデゲ族/来日し技術援助要請
 ロシア沿海地方に住む少数民族・ウデゲ族のアルカジ―・カザさん(三六才)が来日し<無謀な森林伐採で生物資源が減少し、自然環境も汚染されている。毛皮猟など伝統的な生業は、ロシア社会の混乱で破綻した。環境に合った民生用発電やキノコ加工などの面で、日本からの技術援助や協力がほしい」と訴えている。ウデゲは、ツング―ス満洲語派の狩猟民族。カザさんは先月末、ハバロフスクにある森林資源保全極東同盟のアンドレイ・ザハレンコフ理事長(三三才)とともに、非政府組織(NGO) 「地球の友ジャパン」(本部・東京)の招きで来日した。現地では近く、猟師五十二人で合同組織を設立し、少数民族に優先権のある森林の利用に乗り出すという。しかし、毛皮販売やウコギ、ワラビ、ハチミツなど林産物の加工にしても技術や経験が乏しい。このため、「地球の友」は技術指導や新製品開発の協力者を探し、環境を保護しながら少数民族の生活を守りたい、としている。>

            
 来日したウデゲ(ウデヘ)族の住む土地はかつてチョウセンマツの世界であった。
チョウセンゴヨウ、北洋材ではベニマツは、建築用主要木材の一覧表の19番目に挙げられている。
[上村武氏『棟梁も学ぶ木材のはなし』丸善一九九四年、二四二頁付表「建築用主要木材の性質一覧表」]。
韓国・中国、とくに日本が買い付けている北洋材の主産地、ロシア極東の森林荒廃の実情については、すでに第三話で話したとおりである。

 では、しばらく休息していた列島の森林はどうなっているのか。最近(1998.10.20)朝日新聞の「声」欄に次のような投稿があった。                           
 <日本の森林がいまピンチだ―前橋市・宮下正次氏(営林局員 54才)
 高度成長を支えるため、日本の森は伐採されてしまった。わずかに残った自然林は三割を切っている。人工林の半分近くは杉で四十五万ヘクタ―ルに及ぶ。力を込めて育ってきた、その杉に価値が無くなってしまった。育てた原価さえ回収できない杉林に、農家の人たちは見向きもしない。売れない山に相続税がかけられ、今や山は厄介者だ。国有林では、営林署が来年三月には六割近くもカツトされる。これでは、山を管理する組織は無いに等しくなる。今ですら、山がどういう実態にあるのかつかみ切れていない。
 日本の森は、酸性雨のpHが5を切り、微生物との共生が出来なく成りつつある。各地で森が枯れ始め、奥地の自然林に被害が目立ち、早急に対策を取らなければ、せっかく育ち始めた幼樹まで失ってしまう。杉の人工林を、照葉樹などの、ふる里の木に戻してやることも、二十一世紀に向けて重要になる。元気な森づくりを急がなければ、だれも生きられなくなる。>


| | コメント (0) | トラックバック (0)

朝鮮五葉松への旅 第三話 こぼれ話 その二 「大和民族終焉の地」―通化デルタ地帯

朝鮮五葉松への旅 第三話 こぼれ話 その二


「大和民族終焉の地」―通化デルタ地帯
 

児島 襄氏の『満洲帝国』全三巻(文芸春秋社一九七六年)の第三巻に<通化「デルタ地帯」長期持久作戦>についての興味ある叙述が展開されている。
未知未見の事実多く、同氏の叙述によってこの部分の話を補足しておきたい。
詳しくは原著に当たられたい。
文庫にもなっている。

 戦争末期に入ろうとする一九四四年(昭和十九年)九月十八日、参謀本部は大陸命第千百三十号により「帝国陸軍対蘇作戦計画要領」を関東軍に示達した。

 これは、フィリピンを決戦場と見定める「捷」号作戦計画に伴って関東軍に提出させた対ソ作戦計画六条のうち第四条「通化省を中心として、京図線(新京-図們)と連京線(新京-大連)間に顕在して持久する」を採用したものであった。
このころ、関東軍の兵力は他の戦線に転用されて、歩兵六個師団、戦車一個師団に減少していた。この兵力でソ連に対する方策は当然限定されざるを得なかった。

 「対蘇作戦計画要領」の内容は次のような趣旨のものであった。
 …ソ連軍侵入の場合は、満ソ国境においてこれを撃破し、満洲の広域を利用してその侵入を阻止妨害して持久を策し、少なくとも満洲東南部(通化 トンホワ 地区)より北鮮にわたる地域を確保して、長期持久をはかる。
 つまり、ソ連軍が来たらできるだけ抵抗して、あとは籠城せよというものだった。
 通化 トンホワ は吉林省南部、渾河 フンチァン 上流沿岸の都市であり、石炭・鉄鉱石産地にありワイン産地でもあり、現在は鉄鋼コンビナ―トが立地しているが、当時は人口も少ない僻遠の町にすぎなかった。

 一九四四年十一月七日、ソ連革命記念日の演説でスタ―リンは、日本を「侵略国」と規定した。
日ソ中立条約下での露骨な敵意の表明である。

秦彦三郎参謀次長(中将)は首相の小磯国昭大将に「ソ連は中立条約を当然破棄するであろう。
ソ連としては条約存続の必要性がない。」と延べると、小磯首相は、それではソ連が攻撃してくる可能性があるわけだが、防衛上の不安はないか、と尋ねた。

秦中将は、「対米作戦のため満洲の国防は犠牲にしているから、欠陥があるのは当然だ」と答えている。

関東軍では、十月上旬から十一月中旬にかけて、東部・北および北西・西正面のそれぞれについて防衛対
策を検討しており、どの正面においても、主として既設陣地を利用してできるだけ持ちこたえ、あとは通化を中心とする鮮満国境地帯で持久する以外に方法はない、という結論が出されていた。
小磯は、再度秦中将に対し、満洲の国防に欠陥があるならば満洲軍備を徹底的に強化してはどうか、と示唆したが、秦は「陸軍全般の軍備の実情より不可能だ」と答えた。

満洲の防備を強化したくても、満洲はいまや日本内地と南方戦線に対する兵力と資材の供給地となっており、逆に満洲に軍備を送る能力は日本に残されていなかった。

 一九四五年(昭和二十年)一月十七日、関東軍は「関東軍作戦計画」を作成した。
竹田宮中佐が策案したというこの抗戦計画は次のようなものだった。

 日ソ開戦となれば、まずは第一方面軍の国境守備部隊が玉砕抵抗をおこなったのち、その残兵と関東軍総司令部、第三方面軍、在留邦人が、通化地区を中心にした「連京線以東、京図線以南の三角形の地域に集結する。
「長期大持久」する要域は、大連―奉天―鉄嶺―四平街―新京―吉林―敦化―図們を結ぶ線を二辺とし、鴨緑江を他の一辺とする三角形の地域である。
いわば最後の籠城を試みる「デルタ地帯」である。
吉林省南部の通化地区の山岳地帯は、「満洲のチベット」の通称をもった、山稜が重畳と入り組み渓谷も深い土地である。

思えばヌルハチが生れた建州女真の故地がこのあたり一帯なのである。
そしてこの一帯は、鴨緑江から長白山、図們江にかけてチョウセンゴヨウの密林のひろがる地帯でもある。

 関東軍の軍人たちは、この地こそがソ連軍の空からの攻撃、地上の戦車攻撃を回避しやすく、十分な縦深をもつ陣地を構築できれば長期間の持久抵抗が可能だと想定したのである。
在留邦人約二百万人も含めての自活と抗戦のために、あらかじめ兵器、燃料、食糧の自給に必要な工場を移転し、物資も集積しなければならないので、関東軍、国民勤労奉公隊の総力をあげて陣地築城にあたるほか、苦力十万人を動員する。

 第三方面軍高級参謀末広勇大佐の回想によれば、通化地区を最後の抗戦拠点とする作戦構想は、いわば「大和民族再発足」を目標にしたものであったという。
当時、参謀本部の見通しは、ソ連軍の満洲侵入は、日本の非勢を見極めたときだろうというものだから、そのときは既に日本本土も中国大陸も米英連合軍により席捲されたあとということになる。

つまり関東軍が最後の日本軍、通化地区に集まる邦人が最後の日本人となり、通化「デルタ地帯」がその「腹切り場」となること、通化「デルタ地帯」が「大和民族再発足」の地ではなくて「大和民族終焉」の地となる可能性のほうが強かったのである。
一九四五年という土壇場になって、関東軍の作戦計画にそって、満洲国政府は通化基地建設を指示する。

一、通化省の重要性に鑑み、特に大物の省次長を置き省政の機能を強化する。
二、通化地区で最小限度の自給ができるように、兵器、弾薬、燃料、食糧関係の施設の移転と集積をおこなう。
三、鉄鋼年産十万トンの地下工場を設け、鞍山から小型溶鉱炉一基を移転させる。

もう七か月でソ連の大軍が満洲に全方面から侵入するという土壇場でこのような基地建設計画が成功するはずがない。
そのうえ当時、関東軍には十分な兵力がないどころか歩兵銃も十人に三挺しかないという部隊もあり、
いざというときは東寧、新京、吉林は放棄地区にするということであり、通化持久計画とは、実は通化避難計画であった。
その際、国境地帯の玉砕地区の開拓民、放棄地区の住民はどうなるのか。


 七月五日、関東軍総司令部は、最終的に「対蘇作戦計画」を策定して、指揮下の各部隊に通達した。内容はすでに示達、協議ずみのもので、要は「通化、臨江周辺の要域」で「長期持久」するというものである。
いわば、その通化にむかう各部隊の後退要領を指示したものであった。
有力なる一部で国境正面で防戦しつつ、主力は「通化省南部及び北朝鮮」要域で持久する。しかし、後退と持久の作戦といっても、ソ連軍が侵入してきたら、一部だけ残って大部が通化めざして走り出すわけにはいくだろうか。

 関東軍作戦班長草地貞吾大佐は、数回にわたり通化の山岳地帯を視察していた。
総参謀長秦彦三郎中将は、おそらく日本本土、朝鮮も焦土となり、あるいはこの通化だけが「大和民族再発展の基地」として残るのでないか、と述懐していた。
草地大佐は、そういえばなんとなく通化の山々は高天原のような感じもする。
自分らもやがては高天原民族になるのかもしれぬと洩らしたという。

 一九四五年八月九日午前零時ソ連対日宣戦、満洲で全面的侵入開始。
八月十四日未明、満洲帝国皇帝溥儀一行も通化に到着した。しかし、落ち着く先は通化でも臨江でもなく、さらに奥地の大栗子になる。
臨江から鉄鉱石運搬の引込線に鉱業所があるという。
大栗子は鴨緑江に臨み、遠く朝鮮の山々が見える。少し歩けば鴨緑江に着く。
溥儀は大栗子を描いて、「朝は白霧が山々にたちこめ、太陽が上ると青い山、緑の谷に鳥は鳴き花はにおい、景色はこの上なく美しい」と。
鴨緑江は濃紺の水をたたえて流れ、はるかに虎が棲むという長白山が見える。

この地で満洲帝国皇帝溥儀の退位式が行なわれた。
溥儀のはるかな祖先は、長白山麓に拠って清朝を樹立した。
その清朝の末裔である溥儀が、その祖先発祥の地の長白山麓で退位し愛親覚羅溥儀にもどる。

日本帝国主義の謀略に乗せられて建国以来わずか十三年五カ月余の短命の帝国であった。
東北アジアのいわばヘソにあたるようなこの長白山麓のチョウセンゴヨウの樹海はこの王朝の興亡をずっと見守ってきたのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

朝鮮五葉松への旅 第三話 こぼれ話 その一

朝鮮五葉松への旅 第三話 こぼれ話 その一


 大森林の争奪戦としての日露戦争


 現代中国の経済動向についての研究者である小島麗逸氏が、次のような分析方法を提起している。
[小島麗逸氏編『日本帝国主義と東アジア』アジア経済研究所一九七九年/梗概および第5章小島氏論稿]。
 
<重商主義的経済侵略では、その拠点を原料集荷と製品貿易の輸出入貿易港に求める。その点(そういう輸出入貿易港)を基軸にした商権の広がりを支配下にする。
 鉄道が侵略の杆槓となってからは、点から面への広がりを作る。
 帝国主義的支配が被支配地の産業化とりわけ重工業化を伴うときに、法的・行政的一定地域の広がりを確保する。面の確定といえよう。
 そのさい、林業資本はその資源の所在地(大森林)から、大きな役割を果たす。
 また、木材の運搬は技術的に河川と鉄道を使うことから、内陸河川航行権、鉄道利権の設定を誘う。
 さらに、木材そのものが軍用資材であるが故に、軍事支配と切り離すことができない> [前掲書.「梗概」Ⅴ頁]。

 <森林は(帝国主義の)軍事的進出と最も密接に関連していたからである。
日本は東アジア諸国にたいし、まず軍事的進出をもって、その支配範囲を確定してきた。この軍事的支配区域と密接にしかも局部的でなく、ほとんど重なって存在するのが森林地域であった。
経済の分野で軍事支配の範囲を固めるのが林業開発の範囲であるとさえいいうる。
 港湾や商工業中心地は面積的に点に限定される。
農業支配があって始めて、地域的な拡大を伴う。

 森林支配と鉱山支配によって、軍事的に画定された区域の支配が経済的に完成される。この意味において、各々の時点における森林調査の区域的拡張は、日本の帝国主義的進出の範囲を確定するとさえ言える。>

[前掲書.第5章二一八頁]。

 木材が最も重要な軍事物資であった、というのはこういうことである。
 
<日露戦争開始の前年、一九〇三年一二月、日本陸軍は日露の交渉(ロシア軍の撤退問題)の行き詰まりから戦争勃発の可能性を予想し、京釜鉄道の建設を促進しはじめた。
戦争の開始直後、さらに臨時軍用鉄道監部を編成し、ソウル-義州間の軍用鉄道の建設に入った。日本軍が五月に鴨緑江を渡河すると、今度は安東から奉天へ向けての軍事物資輸送軽便鉄道を建設し、一二月に開通させている。
これらの鉄道建設になくてはならない枕木や橋梁用材木、さらに兵舎その他の軍用材として狙われたのが鴨緑江材である。
 軍は鴨緑江まで兵を進めると、直ちに何びとのものとにかかわらず木材を、日本軍の許可なくしてはいっさいの売買・輸出を許さないようにした。
日本軍が一手に鴨緑江材を抑え、軍用に転用することによってどのような事態が発生したか…(一年後にそこを調査した報告書によれば)職を奪われた中国人の運材業者は日本の木材監督官を殺害し、これみよがしに川に流したという。>
[前掲書.第5論文二三二~二三三頁]。

 前掲書中の小島麗逸氏の第5論文は、「満洲林業調査史」という論稿であり、一九三二年の「満洲国」成立以前の、日本帝国主義の満洲への経済的・軍事的進出を林業調査史という視点で分析を試みていて、興味深いものがある。

 この論文のなかで、小島氏は、次のような興味ある仮説を提示している。

 <日露戦争の発端は、鴨緑江上流地域の森林資源の争奪戦がひとつの要因となっているらしい。
日本のこの期の森林調査の性格づけを行なうのが軍であるが、これは戦争発端が森林資源の争奪によるためのようだ。>として、次のような事実をあげている。

 <一八九六年八月、ロシアは韓国と森林契約を結んだ。この契約によってロシア側は豆満江上流および同江右岸の官民地、茂山地方、日本海鬱陵島の官有地において二〇カ年の木材伐採の独占権を取得した。
ロシア側といっても、ロシア政府でなく、「プリ―ネル」というウラジオストックに住む伐木資本家である。
前文には、これを契機にヨ―ロッパの林業経営と植林事業を韓国林政に導入するためとある。
 ロシア政府が満洲に本格的に進出するのは三国干渉以後である。
日本の、のちの二一カ条要求に基づく南満洲および東部内蒙古に関する条約に匹敵するような強圧的条約は、一八九六年のカッシ―ニ密約と言われている。
これによって、満洲を横断する鉄道敷設権を獲得した。
同時に日本をして遼東半島を清国に還付させ、その代償として清国側は日本に三〇〇〇万円を支払うことを約束させた。
ロシアはこの賠償金支払いに対し、借款を与えるべく露清銀行を設立した。
同銀行に東清鉄道の敷設権が与えられた。
鉄道建設は一八九八年四月に着手された。
しかし、一九〇〇年五月義和団事件の影響が瀋陽にも出始め、中国軍が義和団と呼応してロシアの鉄道建設隊を襲撃した。
これをとらえ、ロシア軍は本格的全面的に東北地方へ進入した。
これ以後ロシア軍は東北地方から撤退をしぶり続けた。
 このロシア軍の進入が、鴨緑江流域にはつぎのようにあらわれた。
鴨緑江の最大支流渾江流域の通化地域にまでロシア軍が進駐、マドリロフ中佐がその地方の ”馬賊”を買収し、森林伐採権を得た。
さらに、朝鮮側の鴨緑江河口の龍岩浦に三〇万六七五〇坪を買収し、挽材工場の設立を企てた。河口を抑えるものがその流域全体の木材を抑える。
鴨緑江の増水を利用して運ばれる木材、とりわけ停滞材の買収、漂流木の収集整理を、兵隊を使って行ないはじめた。
このため、一九〇三年から日本人と清国人との合弁で設立した日清義盛公司との間に度々木材争奪戦が繰広げられた。
その結果は次のように記されている。  

 「其影響ハ忽チ鴨緑江木材集散地タル大東溝ニ波及シ遂ニ木材売買杜絶ノ悲境ヲ呈シ 翌年ヨリハ少数ノ清国人ノミ僅カニ伐木事業ヲ営ミ朝鮮人ノ如キハ更ニ従事スルモノナ キニ至レリ.彼ノ鴨緑江流域露韓森林条約ヲ妥協締結セシモ当時ノコトニ属シ遂ニ日清 義盛公司ハ露国森林会社ノ為メニ其計画ヲ妨ゲラレ事業ノ成功ヲ見ルニ至ラズシテ止ミ タルハ真ニ痛惜ニ堪ヘザル所ナリ.此ノ如クシテ鴨緑江森林問題ハ端ナクモ日露戦役ノ 導火トナリ」

 ポ―ツマス条約を清国に承認させた一九〇五年一二月の「満洲ニ関スル条約」の付属協定第一〇条で、日清合同の鴨緑江伐木事業を行なうことが、取り決められた。
鴨緑江の森林利権獲得が日露戦争の一つの契機であったということはこれをみても検証されよう。>
[小島麗逸「満洲林業調査史」(小島氏編『日本帝国主義と東アジア』アジア経済研究所一九七九年.所収/二三一~二三二頁)。

 鴨緑江流域および豆満江流域、それぞれの支流流域の大森林地帯で最も重要な樹木は、紅松即朝鮮五葉である。
日露戦争の結果は、長白山の北および東斜面の大樹海(朝鮮五葉の世界である)はまだロシア側に残された。
日本が欲しかったこの樹海や大・小興安嶺の大森林、紅松の世界が手に入るのは第一次世界大戦・二一カ条要求以後のことであった。                         
 


 日露戦争後の満洲の大森林


 日露戦争の停戦ラインが長白山より西南方の帽児山から奉化(奉天と長春の中間地点にある)の線に決まったように、日露戦争の結果では、大・小興安嶺麓にある大森林地帯はもとより吉会線沿線の松花江・牡丹江・豆満江上流にある大森林地帯もロシア軍の手に残り、日本軍が抑えられるまでには至らなかった。
日本軍が抑えられたのは鴨緑江河口であった。
もっともこのことで、鴨緑江上流地域の木材の多くを掌握することにはなった。
 小島麗逸氏が着目したように、森林・林業調査はじめ調査というものは、

<統治者にとっては、統治対象の情報や知識は統治軍の武器であり、統治地域の「鉄道」であり、「石炭」や「石油」でさえあった。>

 <日本は明治維新以後、海外諸国・諸民族につき、種々な調査を行なってきた。これに費やされた金と人材は莫大なものにのぼろう。
日本の帝国主義的進出あるいは植民主義の研究には、この調査そのものの研究―調査研究がどうしても欠かせない。
それは調査結果の知識は一つの力であるからである。
いかようにも使いうる独立した武器として機能さえもちうる。…
帝国主義統治は近代科学(社会科学を含めて)を応用した壮大な調査なくしては成立しなかったとさえいえる。>
[小島麗逸「満洲林業調査史」/アジア経済研究所・研究参考資料二七七.小島氏編『日本帝国主義と東アジア』一九七九年.所収.二一七頁]。


 日露戦争期には、渾江流域を越えて向う側の松花江流域(そこの吉林省東南部の大森林地帯がある)はロシア軍が抑えており、日本軍ないし調査隊は入りたくても入れないので、満洲義軍を作ってに情報収集を行なっている。
ここに日本側の調査の手が伸びるのは、第一次世界大戦期のことである。

 しかし、いずれにしても、軍事行動で確定した範囲を飛び越えて、森林資源の調査に担当者をかりたてているものは何であろうか。
ここで調査活動と経済侵略との関係が問われてくる。

 <日露戦争は、朝鮮と満洲(中国東北地方)を狙うロシア資本と同地を狙う日本資本との戦いであったが、個別産業的にみると、日本の資本進出と中国人や朝鮮人の資本進出との闘争と競争がみられる。
東アジア北部の木材商業権の推移はその代表的な例の一つであるかも知れない。
日露戦争で、東アジア北部の最も重要な木材市場の拠点、鴨緑江河口を日本が奪うことによって、この地域の商権主体が大きく変化することになった。>
[小島氏前掲論稿二四四頁]。


 大資本による大樹海の伐木事業で高利潤を上げられそうなところは、当面鴨緑江上流以外には見つからなかった。
当時の日本側の軍事力と調査力ではその地の実地調査はできなかったが、すでに情報として大樹海があることが知られている吉林省の松花江・牡丹江流域については聞き取りで概略の森林実勢図が作成されている。
大樹海を持つ吉林省南部を狙う日本伐木資本は日露戦争期に次期を目指す調査活動を始めているのである。
 一九〇五年九月、日露講和条約が締結され、日本は東清鉄道の長春以南と大連・旅順のロシア租借地を手に入れた。
同年一二月に、清国政府と協定を結び、この新利権は完全に日本のものとなった。林業関係では一九〇八年五月、鴨緑江戸日清合同材木会社の協定を清国と結び、鴨緑江河口を抑えることによって、同江上流地域の木材を掌握することになった。満鉄付属地は着々と開発される準備が整っていった。

 三井物産は満洲に独占的伐採権をもつ山林の物色を開始した。
しかし、最初は長白山大樹海についても松花江流域についても、「馬賊」やロシア兵の反抗、さらに日本軍により木材利権を奪われた中国人伐木・運材業者などの反抗で容易には立ち入ることが不可能であり、中国側の主権を形の上で尊重しつつ実地の踏査を行なうという手法が続けられた。
 一九一四年以降の満洲の森林・林業の調査は、従前の調査が密偵ないし一旗組・陸軍・農商務省によって行なわれたのに対し、日本の植民地経営の直接担当者である満鉄・東洋拓殖株式会社(東拓/一九〇八年八月設立)・朝鮮総督府などにより進められた。
また、これ以前の調査は日本軍の支配地域のみで行なわれたのに対し、第一次世界大戦期にはこの地域にはまだ日本軍の進攻がなかったにかかわらず、中国の主権を無視する形でいわば平和裡に資源調査が進められたのである。

こうして紅松=朝鮮五葉の世界である間島東半分琿春地方や東支鉄道東部沿線の横河子―海林間の大森林の林業調査が行なわれた。
後者は、バイコフの作品に出てくる樹海だが、間島の樹海とともに、朝鮮総督府時代から「満蒙進出、鮮満経済一体化論者」であった寺内正毅の内閣(一九一六~一八)の下に機構改革され満洲に関心を示した東拓により調査が行なわれている。

 一九一九年の五・四運動以後、中国の民族主義は高揚し、日本側の森林調査に対しても中国政府の圧迫は次第に強まった。
この間における日本側の森林調査地域の広がりは、いくつかの政治的・軍事的侵略事件と密接に絡み合っている。
とくに、一九一五年の二一カ条要求と一九一六年五月二五日の「南満洲及東部内蒙古ニ関スル条約」が重要な契機となる。
条約の第二条で、農業経営のための日本人が土地商租できること、第三条で日本人の南満洲への自由なる往来と各種の商工業に従事することを中国政府に認めさせた。
これで法的に、日本の民間企業が中国の南満洲と東部蒙古で、農業と商工業に従事できるようになった。
二一カ条要求の延長線上に、一九一七年から利権獲得のための借款提供が行なわれる。西原借款である。
そのなかの一つが「吉黒両省林鉱借款日支契約」である。
これは一九一八年八月二日に調印された。
契約の内容は、日本円三〇〇〇万円を中国側に貸し付け、その担保として、吉林省・黒龍江省の金鉱と森林を設定するというものである。
三千万円を貸し与えるから、吉・黒両省の金鉱採掘権と森林伐採権を与えよという日本側の要求を中国側に承認させている。
 吉林省東部には、ハルピン―ウラジオストック間の鉄道沿線にそって大森林地帯が(バイコフさんが愛し描いたように)存在する。
東支鉄道東部沿線森林地帯と呼ばれていた森林地帯である。
ロシアは、この地帯に東支鉄道建設以来多数の独占的林場を設置してきた。
鉄道建設以後、一九二二年まで同鉄道の機関車は木炭蒸気機関を使用していた。
また、鉄道の枕木の需要が巨大であったために、一九〇三年から強圧的に鉄道沿線森林地帯の伐木権獲得の交渉に入った、一九〇七年八月に、吉林省中国当局と「吉林省林地経営に関する条約」を締結した。
東支鉄道の東部の森林地帯については、利権獲得の先導役の東支鉄道について進出した私的資本が一九〇五年から次々と林場権を設定していった。
 スキデルスキイとかポホフ兄弟商会、カクルスキ―などがそれである。

 N.A.バイコフさんは、新妻朗訳『ざわめく密林』中の「森の王者」のなかでこう書いている。

<東清鉄道建設当時から、多くの林業家が(吉林省東部の)この森林に注目し、鉄道沿線に多くの林区を設置した。
こうして満洲の森林伐採事業が創始されたのであるが、就中貴重なのは紅松(朝鮮五葉)の類であって、この山脈ならびに支脈の北側に広大な地域を占めていた。…
当時の多くの林業家中、最も有力とされていたのは、細鱗河、代馬溝、葦沙河、烏吉密及び帽児山等に林場を擁するロシア人、スキデルスキイであった>

 彼が所有する葦沙河林場の高さ五十三メ―トルに達する紅松の話は前に紹介したとおりである。
 ロシアの公的・私的資本による満洲の森林資源調査は、きわめて近代的で、近代林学を駆使した優れたものであった。
日露戦争以前のことになるが、V.L.コマロフ教授が黒龍江省、ウスリ―地方、吉林省、北朝鮮、遼東地方にわたる地域を苦労をなめながら画期的な調査をしたのは一八九五年から一八九七年にかけての三年間であった。この大調査の苦心の結晶が、有名な『満洲植物誌』全三巻である。
「満洲植物区は朝鮮松植物区と呼ぶのが正当である」といったのは、このコマロフ教授である。

 しかし、第一次世界大戦中に、ロシア内部の矛盾の激化、ソヴィエト革命などで、ロシアは、この地域にもっていた森林支配権を失い始めた。
ロシア勢力の衰退に代わって登場するのが、日本の公的・私的の伐木資本である。公的資本は満鉄・東拓、私的資本は第一次世界大戦中に蓄積を強めた三井・大倉系がその主役となる。日本は、満洲の森林調査に近代的な先鞭をつけたロシアの森林資源の調査資料を引き継いで、満洲森林統治の基礎資料として利用することができたのである。

[以上<日露戦争後の満洲の大森林>の節も多くを小島麗逸氏「満洲林業調査史」二三〇~二六〇頁/小島氏編『日本帝国主義と東アジア』アジア経済研究所研究参考資料二七七.一九七九年によっている]

 二〇世紀が終ろうとしている今日(一九九九年八月一二日)、中国経済において大きな難題は物材バランスの問題でみると、材料部門であり、中でも木材の不足は驚くべきほど深刻だという。

「数千年の歴史をもつ高き中国文明」が森林をほとんど破壊しつくしたのである。
消滅過程の森林として残っているものが、わずかに東北地方の大小興安嶺、吉林省東部と雲南・貴州・四川省の山岳の二か所だけである。
その東北地方即満洲の森林も日本の統治下では随分伐採し去った。
日本およぶその前のロシアおよびソ連による東北地方(旧満洲)における乱伐によって、それぞれどのくらいの森林が破壊されていったのだろうか。一方、森林回復への努力はどれほど行なわれてきたのか。

これが、わすれてはならぬ問題、宿題である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

朝鮮五葉への旅 第三話 中国東北と朝鮮五葉

朝鮮五葉への旅
第三話 中国東北と朝鮮五葉
                                    
  韃靼漂流記
 

七七八年(宝亀九年)渤海の使節が漂着難破した遣渤海使を護送して越前三國湊に到着したという記録が続日本紀にある。
渤海は、唐と並んで中国東北・ロシア極東・北朝鮮にまたがり海東の盛国とよばれた勢力である。
かつて三國湊は北國第一の大湊として殷賑を極め、蝦夷松前貿易は三國湊の商船にとっては、晴れの舞台、腕の見せどころであったであろう。

 一六四四年(寛永二一年)三代将軍家光の晩年、越前三國浦新保村の船頭竹内藤右衛門、その子藤蔵および国田兵右衛門ら総勢五十八人は、松前貿易を目的に三艘の船に分乗して四月一日三國浦を出帆、佐渡島に至ったが、五月十日佐渡出帆の際から大嵐に遭遇、海上を漂流すること十数日、現在のロシア極東・沿海地方のポシエット湾の一角あたりに漂着した。
そこで船底の破損を直し流失の船具の若干を補い、船出しようとしたが、その晩から再び嵐に遭い漂流して最初の漂着地から西方に約五十里ほど隔たる海岸に吹き流された。
海岸から一里余の沖合に碇泊していると、その海岸の部落民が三尋余の小舟に一名づつ乗り、六十隻ばかり漕ぎ寄せ、倭船を取り巻き大声で何事かを叫ぶのだが、言語不通を悟り、一時全部海岸に引き上げた。
次いで三隻の小舟に一名づつ乗り再来したので、船に上げ手まねで意思を通じ酒・食などを与えたところが、部落民は自分たちの小舟から朝鮮人参三把を持参し、鍋との交換を望んだので、その請いに応じた。
そこで船頭たちはにわかに欲心を起こして、この土地には朝鮮人参がたくさん取れるに違いない、この連中をだましてもっと沢山朝鮮人参を手に入れて帰国するほうが得策だ、と衆議一決し、米などを与えて歓心を買い、人参のあるところを教えてくれ、と三人の部落民に頼んで、その道案内を承知させた。
そう、彼らをだませたものと日本人たちはうっかり早合点したようだ。

 翌朝未明、船に十四人残し、その他の四十四人は皆丸腰のまま上陸し、前日の村人を道案内に十町余り萱原の山を進んだところ、突然四方から弓矢を持った連中に襲われ、たちまち三十一人が射殺され、十三人だけは萱原に逃げ込んで命拾いした。
彼らは、海岸に残る三艘の船も襲い、国田兵右衛門と竹内藤蔵召使の少年の二人を除き、十二人を殺害した。
積み荷や器具類は略奪され船は松明を投じて焼き捨てたらしい。
命拾いした国田兵右衛門ら十五人は、捕虜となり奴隷として、一人ずつ部落民の家に連行され、畑の草取などに酷使された。

この事件は、当時満洲・東北海岸の辺境に起こった出来事なのに予想外に早く李朝朝鮮の京城政府は第一報を接受していることが李朝実録七月九日の条に記録されていることは面白い。
漂着上陸しようとした日本人の一団の目的を専ら朝鮮人参採取にあるとしていること、いかに人参が貴重なものであったかを想像させるものがある。
事実、当時朝鮮人参をめぐって起きている葛藤は、漢人・女真人・朝鮮人間に文献にもいろいろと見られる。
京城政府への報告は也春居住の胡人得春が語ったと記され、生け捕りにした日本人と若干の銃剣は瀋陽に献ずべし、とある。
日本人を襲った部落民は多分、朝鮮から見ればオランカイの土民、野人女真ではなかっただろうか。

 この年、一六四四年三月には李自成軍が北京を占領、崇禎帝が自殺し、明王朝が滅んでいる。
四月には明の武将呉三桂が清軍と講和、山海関で李自成軍を撃破、五月には清軍が北京に入城している。
明朝から清朝に劇的に転換しつつある時機である。
越前の船乗り、国田兵右衛門ら十五人は惨殺を免れ捕虜となり、遭難地・抑留地から後の奉天(瀋陽)に護送され、さらに北京に転送される。
北京滞留一年の後、朝鮮を経て漂流三年目に日本に生還することができた。
正保三年(一六四六年)六月であった。
生還者十五人中、国田兵右衛門、宇野与三郎の両人は漂流人を代表して越前から江戸へ出府し、幕府当路者に謁し漂流顛末を逐一陳述し、かつ審問に答えた。
その記録が『韃靼漂流記』[園田一亀『韃靼漂流記の研究』東洋文庫・平凡社一九九一年]である。

 琿春南方の海岸から瀋陽(奉天)に到達するまでの行程約一千五百里、長白山脈の深山地帯を東から西へ越えた大旅行、連日騎馬旅行を続け、その間宿るべき人家もなく、到るところ山野に露宿し、多大の困難を嘗めて瀋陽に到着する。
この間の描写が興味がある。
                    
『韃靼にて日本の者共被殺候処より同都迄三十五日路の間に、田は一切無御座候。
粟稗其外雑穀は、日本の如くにて候。
山路斗ばかりにて其内に深山も有之候。大木共大かた日本に有之木にて、但し松は五葉にて候。
又日本にて見不申木も御座候。
深山の外はよし原野山にて候。
山の間に広き所も御座候。
右の所より五日路出候間は、道も慥に無之候。萓原を分て通り候所斗にて候。
道筋に宿も無之候ゆへ、大かたは山に泊り申候。
食物は馬に付候て、泊り泊りにて賄仕候。
人数何程多候ても、上下共に馬に乗り申候。
都へ着候三日路前方より、道筋の脇も百姓の家御座候。
 人の体日本の人よりは大に候。
上下共に頭をそり、てっぺんに一寸四方程頂の毛を残し長くして三つに組置候。
上髭は其まま置、下髭は剃申候。大名小名下々百姓までも其通にて候。』
[『韃靼漂流記』東洋文庫・平凡社二〇~二一頁]

 この漂流者たちが護送された通過路がどこであったが謎である。
園田一亀氏は、次のような説を提起している[前掲・東洋文庫版『漂流記』一二〇頁]。

 『由来元明二朝を通じて此方面は野人女直の割拠地域である、開原方面に通ずる女真人の道が唯一の通路であった。
即ち奉天・開原から東行し海龍付近に至り、東北に進み長白山の北方を迂廻して間島に至り、更に朝鮮会寧方面に達する道があった。
之れ元明時代の交通路である。此の交通路が清代に至りにわかに変改さるる理由もなかった。
清代に於ても依然そのまま之を利用された。
…我が越前漂流人の通過せる道筋も亦此の山道であらう。
然も此の山道に就て近代の文献に見るに森林蓊鬱として満山を覆ひ延吉庁より夾皮溝に通ずる鳥道此間に通じ清朝初期に於ける交通の孔道であったと記して居る。』

 間島地方、そして豆満江流域の山地で越前の漂流者たちが見た五葉の松、それはいうまでもなく朝鮮五葉である。                                                    
 ヌルハチ

 さて、この通過路のほぼ中間に当たる地域から勃興し、明朝に代わって清朝を建てたのは女真人でありその中でも建州女直の勢力であった。
建州女直は三姓から南下して長白山脈の北西方面に拠を置いた女真人の一派であり、やがて清の前身である后金を建てたヌルハチは、越前の商船の漂
流事件より九〇年足らず前の一五五九年、満洲の遼寧の興京老城(ホトアラ)に生れた。彼は建州女直の部将の家に生まれた。
                       
ヌルハチの少年時代についてこういう話がある。
彼が生れ育った興京老城(ホトアラ)は山岳重畳する周囲の環境にあってはただ一つの平野らしきところである。
少年時代のヌルハチは、付近の山地で採れる朝鮮人参や海松子、ときにはクロテンの毛皮を持参して、しばしば撫順の馬市に行き、これらをそこに集まる商人たちと駆引しながら売ると、予想外の利益を手にすることができることを経験して成長した。
朝鮮人参や海松子つまり朝鮮五葉松の実はそれほどかさばらず重くもないのに、意外な高値に売れるのである。
そういう体験を通じて、自分たち女真人が生きる山地が生み出す富みの値打ちを彼は幼いながら自覚し、そのうえ市場での駆引きから当時の文明語である漢字・モンゴル文字に通じるようになった、という
。女真人の物産といえば、クロテンを最上とする様々な毛皮類・淡水真珠・木材・蜂蜜・茸・海松子(朝鮮五葉松の実)・麻布・馬匹などがあった。
馬市というのは官設であり、利用期間・利用者については厳しい規制があり、ヌルハチの属する建州女真の場合は、今の撫順市郊外の撫順関の馬市だけが利用できた。
女真人はこの馬市で彼らの山地の物産を明朝下の漢人・蒙人に売却し、一方からは鉄製器具・鍋・耕牛・布帛・食塩・穀物などを購入した。
とくに女真人のクロテンの毛皮は明人に異常なほどに愛好されたので、朝鮮人参・海松子とともに莫大な利益を生み、貂参てんじん の利という言葉ができたほどである。
女真人の特産、朝鮮人参や松の実、蜂蜜、クロテンなどが採れる環境は朝鮮五葉を主木とする山地・森林である。

九十年足らず後、越前の漂流者たちを護送する騎馬隊がこの道を通過したのだろう。
 明から清への激動期の遼東から仮島を舞台に、平戸の桂庄助という人物が偶然漂着した女真人の貴女を護送してヌルハチの王子ホンタイジ、ドルコンも絡んで数奇な運命をたどる波乱万丈の物語、司馬遼太郎の『韃靼疾風録』はどういう資料によったものか知らないが、
とにかくこの時代をうまく描いていて興味深い。

  倭降
 

さてこの時期、興味があるのは、明から清への交代期における日本の役割である。

実は朝鮮への日本の侵略に際し、救援要請で明軍が日本と戦うのに忙殺されている間に建州女真・ヌルハチ勢力はさらに勢力を伸ばしたのである。

一五九二年のいわゆる壬辰倭乱に際し、朝鮮王宣祖は難を鴨緑江畔義州に避け、さらに対岸の寛甸に宗社を移そうとした。
その年の九月、建州の首長ヌルハチから、朝鮮に対する出兵入援の申し出が明の兵部に向かってなされた。明側は協議のすえ、これを受諾するか否かは朝鮮側に任せた。
朝鮮側は侵略を憂えて建州来援を拒絶した。
日軍対建州女直軍の会戦は回避された。
この時、日本側は建州ヌルハチのこのような動きについては何ら知るところはなかった一方、女真側は日本の存在に関する確たる認識を持っていたと考えられる。
    
 次いで、一六一九年のサルハの会戦の際、明は新興勢力建州女直・ヌルハチに対して致命的打撃を与えようとし、まず朝鮮に対して徴兵入送を要請した。
しかし、朝鮮の光海君は、スルハチの強さについての的確な認識と壬辰・丁酉の役(文禄・慶長の役)における明兵の実力に鑑み、婉曲に明からの救援要請を断わった。
しかし、執拗な救援要請で、やむなく約一万余名の将兵を遼東に送った。
この朝鮮軍中に降倭一百名が含まれていた。
降倭とは、秀吉の朝鮮侵略のとき降伏した日本人将兵のことである。
降倭という名称で、日本人を軍事的方面に使用した事実は、李朝においては既に太祖・太宗朝から存在したが、壬辰・丁酉の役にさいし降倭が激増したことは、降倭鎮の出現をみたことでも明かだ。
さらに注目すべきは、サルハ会戦参加の一万余名の朝鮮軍中に約五千余名の砲手が存在していることである。
光海君日記に「それ貴国の銃は天下に鳴る、いずくんぞこれを知らざらん。実に倭銃の賜たり」とあるという。
朝鮮軍が柳成竜の献策を容れ訓練都監を創設し砲手を養成したとき、砲手養成訓練の中心になったのは実に降倭であったという。
同じく光海君日記に「いわゆる火手(銃手)はもとよりわが国の特技ではない。
乱(壬辰・丁酉の乱)を経たのち、唐人(明人)および降倭がはじめて教練したのである」とあるという。
そこで、サルハ会戦に出陣した降倭百名は銃砲手を主とする部隊ではなかったかという推定が行なわれる。
[以上、壬辰倭乱に関する部分は、若松寛『奴児哈赤』人物往来社一九六七年.一八九~一九三頁によった]

 救援に赴いた朝鮮軍は、ヌルハチ軍に投降したが、ヌルハチを殺そうとし失敗、部下、降倭は全員処刑されたという。
朝鮮側はサルフ戦役前後の半島および遼東の情勢については日本側に知らせることを極力防止したので、しばらくは半島から大陸の激変に関する情報には疎い状態が続いたようである。
なお、日本史年表などを見れば明らかなように、一六四四年(正保元年)、明国から救援のための出兵要請が来たが、三代将軍家光の幕府はこれを断わっている。
次いで、一六四六年(正保三年)、明の遺臣鄭成功らの援兵要請も幕府は断わっている。

  封禁制と皇帝の狩りの森

 この時より少し遡るが、一六二七年に国号を后金から大清に改めたホンタイジ(太宗)は、明と藩属関係にある朝鮮に攻め入り、朝鮮との間に「江都会盟」を結んだ。
両国は鴨緑江と図們江を国境とし、それぞれ封境を守って、互いに犯さないことを誓いあうものであった。

一六七七年には、清朝発祥の地・長白山周辺を保護する目的で、興京(新寳)から東、伊通州から南、図們江からの地区を封禁地にした。
その後、この長白山封禁区に南荒狩猟場を設け、宮府だけがここで蚌珠(カラス貝の一種の貝―蚌―から採った真珠)、朝鮮人参、海松子、テン、シカ、ヤマネコ、トラなどをとることができるようにし、すべて皇室に納めさせた。
を封禁制度という。

 この封禁区、宮府狩猟場について、二〇世紀二〇~四〇年代旧満洲の白系ロシア人作家バイコフが彼の作品『樹海に生きる』[今村龍夫訳・中公文庫]の中で面白く記述した。 <大昔から満洲は野獣の多いことと狩猟でその名が広く知られていた。
野獣のすみかである広大な森林は今も尚、スンガリ―河(松花江)と興安嶺シ-ンアンリ から東へ朝鮮国境までの広大な地域にわたって昔のままに残されている。この森林は紅松(朝鮮五葉である)・モミとカラマツを主体とした針葉樹林である。
清朝の満洲領有までは、この森林のなかで遊牧民族のツング―ス人たちが狩猟と毛皮猟を生業としていた。

クロテン・リス・アライグマ・キツネ・カワウソ・シベリアイタチ・袋角ジカ・虎などの毛皮用の野獣を狩猟するほかに、生命の根、朝鮮人参を採っていた。
イノシシ・アカジカ・ノロジカ・ヘラジカ・クマなどの野獣は彼らの食糧となり、また衣服や住居を作るために欠かすことができない材料となった。
その後、満洲は北中国からの移住者による入植化が進み、やがて南満洲地方では農耕が行なわれるようになり、野獣の住む森林は伐採され、また草食動物の餌場である原野は畑に姿を変えた。

 伝統と古くからの風習によって、歴代の清朝皇帝は毎年北京から満洲へ狩猟のために訪れ、王族、宮廷人、大臣のほか、外国の大使・公使たちが随行した。
警護には満洲八旗軍の兵士数千があたった。この狩猟地として東満洲の吉林省の果てしない森林が当てられた。
この一帯は「皇帝の狩りの森」と呼ばれ、満洲八旗軍の特別部隊の警備下にあった。まわりは深い壕とヤナギの垣根で囲まれていた。
今でも樹齢数百年のヤナギとその林が残っている場所があって、当時の名残をとどめている。
この皇帝の狩りの森の境には一定の広さの空き地が設けられ、そこには銃眼と見張り塔のある頑丈な警備所が各所に置かれ、歩兵と騎馬兵で編成された警備軍が詰めていた。
皇帝の狩りの森の中では樹木の伐採、草刈り、住家の建設、狩猟が禁止されていた。
ただ薬用植物と朝鮮人参の採取とクロテン狩りは許可されたが、そのためには北京の宮廷から許可をうる、つまりパテントを買わなければならなかった。

警備軍は森林警備と行政管理の職務を義務づけられていた。
規則を破ったものは、死刑を含む厳罰が科せられた。
法律の執行者と法律の番人は警備軍の高官や中級幹部であった。

 皇帝の狩りの森は同時に自然保護林の役割を果たし、ほかの地方ではすでに絶滅した動物・植物界の貴重な標本がそのまま保存されている。
この森の総面積は広大なもので、ほぼ四万平方キロメ―トル、北緯四一~四四度、東経一二七~一二九度にまたがり、スンガリ―河(松花江)、牡丹江ム-タンジヤン、鴨緑江 ヤ-ル-ジャンの上流まで含まれる。
この地帯のほぼ中心に火口湖(天池)をもつ休火山の長白山 チャンパイシャン(標高二七四四メ―トル、朝鮮側では白頭山)を主峰とする長白山脈がある。
この火口湖はスンガリ―河、鴨緑江、図們江 トウメンヂャン の満洲主要河川の水源となっている。
 皇帝の狩りの森はその特徴から言えば、原始林と呼ぶことができる。
樹種からいえば、ほぼ亜熱帯的で、満洲の典型的な植物相をみせている。
高・中緯度の代表的樹種のほかに、ここでは熱帯地方や太平洋諸島の樹種に出会うこともある。
満洲の密林の動物界もまた多種多様で、しかも豊富である。

これらの森で普通九月に催された皇帝の狩りは絢爛豪華で高位高官でにぎあう。
勢子として満洲八旗の兵士数千が参加する。
ときとして勢子が数千キロメ―トルに及ぶ広い地域を囲むことがある。>

  樹海の詩人 バイコフ
 

一八七二年キエフでロシア帝国の世襲貴族で陸軍法務官の家に生れたニコライ-A.バイコフは幼少の頃から動物好きであったが、
幼年学校のとき黄河流域を踏査した地理学者N.ブルジェヴァリスキ―と出会い
「若き友ニコライへ、森の漂泊者より」とサインした著書『ウスリ―探検記』を贈られ、終生満洲の動植物相に対して強い関心を抱かせる機縁となった。

幼年学校を卒業すると一時ペテルブルグ大学博物学科に入学したが二年で退学、トビリシの士官学校に入り、卒業後歩兵連隊に任官、
はからずも皇帝ニコライ一世の甥で昆虫学者であった当時の連隊長の紹介で、極東・アム―ル地方研究の権威でもあるカフカス博物館長G.ラッデ教授の指導の下にカフカスの自然を研究するとともに、極東地方、とくに満洲への関心を深め、動物剥製術や動植物の整理法を体得した。

この年、ロシアは満洲領内に鉄道敷設権を取得、翌年から東清鉄道敷設に着手している。

一九〇二年、東清鉄道はほぼ開通、二月にバイコフは大公の口添えで満洲経由ハルピンへ、進んで鉄道東部線警備の第三旅団(綏芬河スイフエンホ )勤務を志望、
東は綏芬河から西は二層甸子に至る旅団の兵器管理官を拝命、
軍務の傍ら東満各地の動植物の調査や狩猟を行ない、資料は科学アカデミ―へ送ると共に、論文、報告をロシア諸雑誌に発表、功績によりアカデミ―通信員の称号を受け、ウスリ―地方の土地五百ヘクタ―ルをニコライ二世から下賜された。

 帝国主義の進出・拡大は、文化・学術の上でも進行するのが常である。
バイコフの満洲赴任より少し早く一八九五年、植物学者のV.L.コマロフ教授による満洲地方についての画期的な大調査が行なわれている。
コマロフらは同年から一八九七年にかけての三年間、大変な苦労をしながら黒龍江(アム―ル)地方、
ウスリ―地方、吉林省、北朝鮮、遼東省にわたる地域において詳細な調査を行なった。

この苦心の結果は、東北植物研究の珠玉編となった『満洲植物誌』 Flora Manshuriae 全三巻となり、所蔵の植物種類は実に一六八〇余種に達し、その中新種六〇種が含まれている。

 有明書房版『樹木大図説』全四巻を著わした上原敬二氏は、その第一巻の「てぅせんまつ」の項目で、コマロフに触れてこう述べている。

 『(朝鮮五葉松は)朝鮮では全南以外の全道、主に智異山、金剛山、北朝鮮諸道に分布する。更に東満洲、鴨緑江沿岸地帯、中国東三省、アム―ル、ウスリ―沿岸地からハバロフスクに分布し、大体温帯中部より寒帯中部を郷土とし、北緯五一度までに及ぶ。コマロフ氏は満洲植物区の名称は朝鮮松植物区と呼ぶのが正当であるといっている。』

 満洲とくに東満洲、つまり中国東北三省の東半部が朝鮮松=紅松植物区であることは、社会主義中国の大変革を経た今日においても大局において変化ないことはのちに語りたいが、FAO編の『中国の森林資源と林業』を見る限り、いえそうである。

  紅松への賛歌

 さて、古今東西誰よりもこの紅松=朝鮮五葉を愛し、この紅松=朝鮮松を歌った文人はニコライ A.バイコフをおいていないのではないだろうか。

彼の著作で中公文庫に入っている三冊『牝虎』『偉大なる王』『樹海に生きる』、単行本の中田甫訳『バイコフの森―北満洲の密林物語』集英社一九九五年で、朝鮮五葉即ち紅松(中国語では hongsong ホンソン ロシア語では kedr ケドル、ケ―ドラ)に触れているところを拾えば、枚挙に暇ない。                              
 『峠の分水嶺上に、一本の紅松の巨木があった。誇り高い頂きは空高くそびえ、小さな森の茂みの上にかすんで見えた。
嵐も、春の暴風もこの植物の王・密林の勇者である紅松の巨木を打ち負かすことはできない。
花崗岩の割れ目にその力強い根を食い込ませて、山の荒野に一本だけ威容を誇っている。』『偉大なる王』

 『ここはとこしえの薄闇が支配していた。太陽の光はここまでほとんど届かない。
壮大な円柱を思い出させる、幾世紀を越す紅松やモミの木の幹は、人間を寄せつけないほどの高さまで背を伸ばし、太陽も風も通さない円天井を形成している。
原野や密林の空き地を一メ―トル近くおおう雪でさえも、ここでは針葉樹の茂った葉にさえぎられて、地上まで届かない。
ここはコケと地衣類が支配している。
ここへは野獣もめったに立ち寄らないし、鳥も飛んでこない。
ただ、リスとシマリスをねらうクロテンだけがこの針葉樹林に住いを持っている。
この密林の静けさを破るのは、
ワシミミズクとクマゲラの鳴き声、キツツキが木をうがつ音、
大木の頂きのエゾライチョウの人間を誘い込むような鳴き声だけである。』
 『樹海に生きる』

 < 偉大なる王の死          [王とは額に王の文字の虎のこと]
          鬱蒼たる密林 タイガ
          亭亭たる紅松の森
          千古の姿をとどめる
          人跡未踏の地。
          新雪に見る虎の足跡。
          いま、脳裏に閃く
          行くべきか、否かと。
          虎は猪を爪にかけ、
          繁みの奥へ運んだ。
          山は深閑とし、耳に入るは、
          樹木の凍裂する音ばかり。
          …        
          密林 タイガ の放浪 さすらい 人 N.バイコフ>   

  [中田甫訳『バイコフの森』集英社二五九頁]


 『密林は静かであった。
紅松の木の頂きで、エゾライチョウがさえずっていた。
どこか、谷の下の方で斧の音がした。
/嵐で倒れた紅松の大木に近づいて、それを乗り越えてゆくか、避けて回り道をするか、迷って足を止めた。
/山脈の峠にたどりついたリ―シャンは、紅松の幹につくられた偶像神の前で礼拝したあと、数日前銃を固定した場所へ、虎の古い足跡をたどりながら向かった。
/陽気なワシミミズクでさえも、枯れた紅松の頂きの上で沈黙を守り、真っ白な雪を背景に浮び上がる肉食獣のぼんやりした影に、その大きな光る目をじっと注いでいた。
/キツツキはその大工仕事を止め、松の枯れ枝の上でじっと動かず、いつもと違う密林の響きに耳を傾けていた。
/高所だけに見られる松の矮林は、スミレ色の陰影をおびて、花崗岩の岩場を覆っているコケと地衣類の色調に溶けこんでいる。』 `
『偉大なる王』

 『荒涼とした松林のなかでは、太陽の光もかろうじて差し込む程度で、とこしえの薄闇が支配している。一帯の湿気でじめじめしており、コケとキノコの匂いが漂う。ここにヘビを思わせる、すばやくて、ずる賢い、残忍な小獣―クロテン一家がすんでいる。無毛の鼻がピクピクする尖った顔は絶えず動く。視力のいい茶色の目は、ネズミのようにせわしなく、大好物のリスを捜し求める。その敏感な耳は、巨木のてっぺんの小さな音でも、とらえることができる。ちょっとぼんやりしていて、軽るはずみなところがあるゲッシ目のリスにとって、不運なことにはクロテンににらまれると、身がすくんで逃げられないことである。このことからクロテンは、密林のことばで、リス殺しと呼ばれる。』
『偉大なる王』

 朝鮮五葉松とタイガのパンであるその松の実。そ
れに共生するリスとクロテン。
 バイコフほど紅松への賛歌を繰り返した作家は稀であろう。
そこで紅松をめぐる数奇な物語をバイコフは幾つも描いている。
その三つを少し長くなるがぜひとも紹介したい。

 <若い時分老人は満洲の『旗』の軍隊に勤めていたし、皇帝の狩猟にも加わったのだから、老人はいろんことを知っていて、深いしわに刻まれた年老いた山男の頭の中に、歴史的事実や追憶が少なからず保たれていることは、驚くに当たらない。
 ある時、朝鮮松の巨木の傍を通るとき、老人は足を停めて、苔に覆われた外皮を杖で叩いて、ようやくそれと判る切れ込みと凹みを指し示して話し出した。木の根もとには石塊が積んであって、それに苔や草が生えていた。
 「丁度ここの」と密林の古老は言った。
「木の根もとに、ある『旗』の軍隊の士官と、知名の官吏の女房が、法を犯した咎で縛りつけられて、虎の餌食に与えられたことがある。
二人は愛し合っていたが、皇帝は死刑にせよと、命令した。
虎は夜中に引き裂く筈であった。
朝になって、刑罰が終ったかどうかを確かめに、裁判官と証人が、現場に来てみると、罪人はすでにその場になかった。
だが、木の根もとに縄切れと、血の痕と、それから雪の上に虎の足跡が見つかった。
…これは、罪人達がその罪に相当する刑罰を受けて、虎に引き裂かれたことを語っている。その印に偉大なる山と森の霊に祈りが捧げられ、慣習に従って、石塊が積み上げられたのである。しかし、実際はそうではなかった。
狩猟が終ると、皇帝は従者をみんな引きつれて北京へ帰り、『旗』の兵隊達はそれぞれの兵営へ別れ別れに帰った。
そのとき我々は、士官と官吏の妻は怪我もなく生きていて、ウラジヴォスト―クへ行く途中だ、ということを知った。
あの晩二人は縄を解かれて逃れ、血の痕を残すために、ナイフで自分の身体に傷をつけたのであった。
これは皇帝みずからの命によって行なわれたことを、我々は知っていた。
皇帝は善良な人で、若い者達を死なせたくなかったのである!
 しかし法はどういうことがあろうと守らねばならなかった!
 皇帝でさえも法を曲げることは出来なかったのである!」>
  『牝虎』


 <今(一九三八年)から二十年前の東部満洲は、その殆ど全部を原始林で覆われていたといってよいが、殊に松花江 ソンホウチャ と牡丹江 ム-タンチャ との間に存在して、幾多の支流を持っている老爺嶺 ラオエ-リン 山脈は植物の豊富さと種類の多い点で卓越していた。
土着の支那人はこれを「樹海シュ-ハイ」と呼び、ツング―ス族は「偉大なる森林」と称した。これらの森林の面積は実に八万平方キロに及び、南満では公式に「皇帝の御猟場」と呼んでいた。…東清鉄道建設当時から、多くの林業家がこの森林に注目し、中国政府はまた鉄道沿線に多くの林区を設置した。
こうして満洲の森林伐採事業が創始されたのであるが、就中貴重なのは紅松の類であって、この山脈並びに支脈の北側に広大な地域を占めていた。
…当時の多くの林業者中、最も有力とされていたのは、細鱗河、代馬溝、葦沙河、烏吉密及び帽児山等に林場を擁するロシア人スキデルスキイであった。
中でも葦沙河林場は、その面積といい、製材の規模といい、傑出していたが、葦沙河駅の南方、俗称虎山テイグロワヤ-ガラ- という山の麓には、往々高さ五十三メ―トルに達する紅松が発見された。
概ね樹齢五百年に達するもので、その直径約三メ―トル乃至四、五メ―トルに達し、こういう木材の運搬には特別製の台車か無蓋貨車が利用された。
林区の持ち主の計らいで、こんな巨木の若干が記念に残されてあったが、その中の一つは支線の十七露里地点の事務所の傍にあり、高さ四十三メ―トルくらい、根元の胴回りは約六メ―トル半に達した。
都合のよいことにはこの樹の一番上は三本の太い枝にわかれていたので、そこに手摺りつきの見晴らし台を設け、地面から梯子が掛けられた。
林業主や支配人は、鳥の交通整理でもするようなこの高い露台に登って、自分の持ち物たる森林を一目で眺めて悦に入っていた。
また、屡々この露台で酒宴も催された。
はるばるハルビンから招かれたお客さん達は徹宵痛飲して日の出をここで迎えることさえあった。
ところで、この樹に登るには普通の心臓の持ち主では駄目だ。気の弱いものは、途中で人手を借りなければならない。ある弱虫は登降に際し目隠しをしたほどである。
殊に降りるときは目が回ってしまう。強風で密林が海のように荒れそして森の王者が葦のごとく揺れる時などは、余程の者でない限り登はんは困難だ。
ある凄い雷鳴の時、この森の王者に落雷し、露台の一部が焼けたが、まもなく修理され、その上に屋根が葺かれた。物好きが随分遠くからやって来、自分の心臓の強さを試そうとして樹に登りかけては中途で断念して退却した。
中国の苦力は、ヨ―ロッパ人より心臓が強いと見えてよく登った。
しかし、森の王者の最後は哀れをとどめた。
ある時、ひどい暴風の襲撃に耐えかねて折れて地上に臥し、結局薪にされて事務所のペ―チカの灰になってしまった。「かようにして浮世の光栄は過ぎ去る!(ラテン語で)>
     [新妻二朗訳『ざわめく密林』世界動物文学全集二八巻・講談社]


 <この年は松の球果が豊作であった。松林には北西の季節風にあおられて落ちた球果が厚い層をつくっていた。
リスやシマリスなどゲッシ類動物の主要食糧であるこれらの実はまた反すう動物から肉食動物まで多くの獣に好まれる。
脂肪分をたっぷり含んだこれらの実は消化がよく、すべての森の獣達が大量に食べる。
イノシシやクマ、それにオオシカも普通二年おきにやってくる豊作の年に食べて栄養をつける。
もちろん放浪の旅を続けている王(虎)は食べ物には困らなかったが、この球果が好きで、その鋭い前歯で割り、中から種を上手に取り出してしばしば賞味した。>
  『偉大なる王』

 <あくる朝、射撃の腕比べが行なわれた。
その時パポ―シンは「ロシア人の名を辱めず」一番高い朝鮮松の梢の松笠を一つ一つ撃ち落して射損じがなかった。
その褒美として斧石の吸い口のついた煙管を「一張鏡」が記念にくれた。
小屋の方へ帰る途中、梅林ハイリン 盆地にある深い松林で、実を採るために松笠を集めている満洲人の「松笠採り」の野営場所が見つかった。
松笠を採るだけの目的で巨木を切倒していることを労働者達の口から聞いて、私の友はカンカンに憤り、「凶暴な虎のごとく」突進して行った。
労働者達が昼飯に集まったとき、パポ―シンは即座に仕事を中止して立ち去れ、さもないと鋸、斧などの道具を叩きつぶしてやると脅かした。
労働者たちは抗議したが、彼はてんで相手にしなかった。
とうとう彼らは二つの銃口を突きつけられて、渋々ながら松の実を出した後の松笠を集めて焚火を作り、その中へ道具類をほうり込んだのである。
…労働者達は二十人ぐらいだったが…山道伝いに寧古塔ニンクタ のある南東の方角へそそくさと帰って行った。
「丁度好い時に奴等を捕まえて好かったよ!」パポ―シンは空の袋に松の実を詰めながら言った。
「でないと、でかい木を随分切倒したことだろうぜ! 好かったよ! 俺の領地内の木を切ることならん、ということが、これで奴等に判かるだろうよ!」
「だがね、奴等がもし武器をとって抵抗したら、どうするつもりだったんだ?」
「どうするつもり? そんなことは判り切っている。
シャコみたいに片っぱしからぽんぽん殺っちまっているさ!
奴等はそれを知ってるから、コソッとも音を立てなかったんだ!
 さあ帰ろう。
小ロシア人の言い草じゃないが、ハ―ク(小屋のこと)まで夜になる時分には戻れるだろう!」と彼は言って、松の実を詰めた袋にシナ人の残した袋を結びつけて肩に担いだ。
松の実の入った袋がまだ五つ野営地に残っていたが、これは後で寧古塔に運ばれた。>
  『牝虎』    

                       
 バイコフは第一次世界大戦前、鏡泊湖、大頭頂子(虎の生息地として有名)などを探査・測量し、一九一〇~一九一四年の間は石頭河子鉄道警備隊長となり、指揮下の中隊は虎狩りを行い、「虎中隊」の異名を受けた。
世界大戦ではガリシア戦線に従軍、負傷、大佐にまで昇進、ロシア革命での内戦ではデニ―キン将軍の南部白衛軍に参加、ウクライナでチフスにかかり、転送、一九二一年シベリア出兵の際、メルク―ロフ「沿海州共和国」政権樹立に当たり、ウラジヴォスト―クに上陸するも同政権崩壊、亡命してハルビンに至り牙(亜)布洛尼ヤ-ブロニから横道河子にかけての森林利権を持つカヴァリスキ―会社に就職、のち東清鉄道土地部森林利権林区監督官、第一鉄道中学校で博物教師などを経て、還暦を迎える頃、「満洲国」の建国宣言、ハルビンの白系露人社会に寓しロシア語にて樹海・自然・動物を描く多くの作品を生み出した。

 <軍人であり、かつ探検家。自然科学者であると同時に文学者でもあり、フィ―ルドワ―カ―であると同時に書斎人。狩猟家として知られるうえ、小説、エッセイを書き、それに巧みなスケッチで自分で挿し絵もつけるという器用さ。しかし、日本の読者に知られるようになった当時のバイコフは、白髪の混じった髭を蓄えた鼻眼鏡の老人であり、家では蜜蜂と鉢植えの花を育てて暮している老学者、老文学者だったのである。>

[川村湊『満洲崩壊―「大東亜文学」と作家たち』文芸春秋社.「樹海の人」]


 この満洲の自然・森林・動物、そこに生きる諸民族、普通の人々、純朴で素直で、原始的でもある。
自然と一体になり、紅松やその間に住む動植物を愛する寡黙の人間たち。
こういう過去と現在を愛し静かに晩年を迎えようとしていたハルビンのバイコフを密林の静けさの中から喧騒の街頭へ、イデオロギ―とナショナリズムに酔っ払う醜い人々のなかへ、引っ張り込んだのは誰であったか。
とにかく、日本の敗戦と崩壊後、バイコフはどういう晩年を送ったか。病床で口述速記させた『回想』にはこう書いている。

 <五十年間満洲で暮らし、誠心誠意、祖国ロシアに尽くしてきたこの私が、いま老残の身で飢えに苦しみ、寒さに凍える生活を送ることになろうとは、夢想だにもしなかった。…私は、凍えた手で懸命に原稿を書いたものの、まったく本にならなかった。
私は完全にボイコットされていたのだ。
私の著書は、エミグラント作家の手になるものだということで、図書館から没収、焚書に付されてしまった。
つまり、私という存在は抹消されたわけである。>

 一九五八年バイコフは、オ―ストラリアのブリスベ―ンの病院で八十五年の生涯を閉じた。樹海から引っ張り出され静かなるべき晩年を大東亜文学の狂想曲により躍らされた詩人は、朝鮮五葉の深林、クロテンや朝鮮人参など皆無な荒涼とした南海の大陸にその生を終えた。

 バイコフが太古の原始林のままに描いた、東満洲の樹海、密林には抗日のパルチザン、抗日遊撃隊が三十年代から一時活躍した。
 抗日遊撃隊が密営を置き、隠れ、潜行し、戦闘した深山密林は長白山系、老爺嶺、小興安嶺、大興安嶺と大体東満洲に集中しているが、その中でも有名なのが間島カンド 地方であった。
大体、今日の吉林省延辺朝鮮族自治州に当たる。

ここはもと夫余、高句麗そして渤海の旧域であり、渤海滅亡後もその遺民女真族が支配していたが、李朝中期、建州女真が興京老城地方に勃興、后金から清を創り、この地方一帯を清朝発祥の地として重視、人民の居住を禁止する封禁地域とした。
例の越前の漂流者が護送された土地でもあった。


  
  日本が売り渡した間島
 

しかし、清朝の封禁にも拘らず、朝鮮人の冒禁越江は止めることは不可能だった。
清側の要請で国境貿易が再開されると公私にわたり、朝鮮人が国境を越えて中国側に入ることを厳重に取り締まることは難しくなった。
また朝鮮北部の農民が「朝耕暮帰」と江を越えて芝や草を刈りに来る、鴨緑江・図們江両江の上流を越えて山間の渓谷に沿い内地に入ってくる,
やがて「春来秋去」と清明節のころ耕畜や農具を携え越江し、収穫後の秋に帰ったのが、後には家族とともに越江し家を建て住みつく.少しぐらい厳しい取り締まりでは駄目で、越江潜入する朝鮮人農民は次第に増えていった。
清朝側からみても、八旗制の確立、入関して中国の支配者になってから人手不足になった満洲では奴隷としても農業労働力としても朝鮮人は歓迎され荘園の農奴や小作人となった。

李朝側も、日本と中国のそれぞれ二度の相次ぐ侵略による荒廃からの復興の過程で生じた人口急増と流民増加が、流民を国境を越えて押し出していった。こうして、朝鮮人が人口の上でも主要民族となった間島地方が生れた。
 間島地方がもつ経済的条件と地理的条件とがこのように朝鮮人の越江をまねきこれをとどめることは出来なかったので、一七一二年李朝朝鮮・清朝(中国)国境を画定するため恵山鎮から白頭山に登り山頂近くに定界碑を建てた。
一八七五年、そして一八八五年と清朝は満洲封禁令を解除-全廃し、越墾局を設け、朝鮮移住民による開墾を奨励した。一八九〇年には越墾局を撫墾局に改めた。
 清朝が招墾政策に転じてから満洲に移住した朝鮮人農民にとって、新しい居住地である間島は朝鮮北部よりも農耕に適した土地であり、間曠地など中国の行政機関がない所に入ったものは税をはらうこともなかった。
朝鮮人農民の勤勉と丘陵地でも湿地でも耕作できる農耕技術によって経済的・社会的地位も向上させる可能性は朝鮮よりもはるかに開けていた。
その朝鮮人農民に中国への帰化をためらわせたのは、清朝の差別・抑圧の政策であった。鴨緑江対岸では土地所有権はもとより居住権も保証されなかった。
図們江対岸では朝鮮人にも土地所有を認めることがあっても、その条件として髪型や服装を中国風に直すことが強要された。
朝鮮の風俗・習慣を大切にした朝鮮人は、ごく一部のものが帰化して、多数のものはその一部のものの土地所有権を利用する習慣を作り出した。
政治が不安定で治安が悪いことに加えて、経済的・社会的差別・抑圧があった。政治的・経済的・社会的差別・抑圧と封建的土地制度が、新天地での朝鮮人農民の農業発展と生活安定を阻む最大の障害であった。

 定界碑設置から一七〇余年を経た一八九八年間島国境問題が生じた。
定界碑の碑文のうち「西為鴨緑東為土門故於分水嶺」が論争の中心であった。
朝鮮側では松花江の上流にある土門江が国境であるから同江の以東は朝鮮の領土であると主張し、清朝側は土門と図們は同一(同音)で豆満江であるから、同江以北は清国の領土であると主張し、議論がかみ合わなかった。
 土門江と図們江とは明らかに別流であり、豆満江の発源地は朝鮮国内にあり、一九一六年の地形測量からもそれは証明されている。
朝鮮側では魚允中らの代表を出して土門江流域を実地調査したが、朝鮮農民が子々孫々代をついで農業に励み定着していて既に専有して朝鮮の領土であると主張した。清国側は大国主義で話がつかず、永い間未解決のまま放置されていた。

 ところが、外交権が日本に移り、総監府が置かれた一九〇七年、間島に派出所を置き日本官吏によって一時この地は管理されたが、日清間に安奉鉄道改築問題がおこると、清国は日本がもし間島で譲歩するならば、右の問題のほかに撫順煙台墨坑還付要求、営口支線撤退要求、関外鉄道法庫門延長問題など、満洲諸懸案に対する日本側の主張を承認することを提案した。
当時、満洲市場の支配を意図していた日本は、間島問題は末端枝葉のこととして、ついに一九〇九年清との間に間島協約を結び、清国側の提案と交換条件で、この間島を清領と認めたが、これは一八九八年以来間島地方の朝鮮領なることを外交上も国家としても主張してきた朝鮮人の意思を全く無視したものであった。
事実、土門江以東の地域は古くから朝鮮人が定着しており、世界の稲作の北限線で水田開拓したのは朝鮮人だった。

  抗日独立の基地 間島

 日本は満洲における利権獲得のために朝鮮が自国の一部であることを主張していた間島を清国に引き渡した。
その反面、間島に居住する朝鮮人に対する支配権をひきつづき維持することによって、民族運動に対する弾圧を強めた。

 鶴島雪嶺氏の『中国朝鮮族の研究』

関西大学出版部一九九七年は、貴重な労作であるが、間島問題に触れた箇所で次のように間島地域の重要性とその歴史的役割を評価する。

 <間島は、早くから抗日の基地であった。
江華島条約とその後の朝鮮政府の対日政策に反対する人達が移住して反日愛国の教育を始めたのも、義兵闘争を戦った将兵が移り住み反日武装闘争を準備したのも、朝鮮併合後の
朝鮮独立運動の最大の基地も間島であった。

反日愛国の思想をもった儒生が移り住んで私塾を開くにも、反日独立運動の指導者や活動家が移り住んで化啓発・政治活動をするのにも、間島に朝鮮人の共同体(朝鮮人村)があったことが大きな助けであった。
中には一家を上げて移住して、開墾しながら思想活動や政治活動を始めるものもいたが、大部分はすでにある朝鮮人村に依存した。
また乙巳条約後に日本の朝鮮統治政策によって移住を余儀なくされた農民にとっては、反日はまだ生々しい辛い経験を通して共感し、支持できるものであった。
ロシア革命の影響がいち早く及んで、共産主義が間島の朝鮮人に広く深く浸透したのも、間島に反日運動の伝統があったからである。

朝鮮共産党は、朝鮮では激しい弾圧のために党として大衆闘争を指導することはほとんどできなかったが、間島では朝鮮共産党満洲総局は、厳しい弾圧に抗して、激しく大規模な大衆闘争を何回も組織することができた。
満洲事変の勃発にたいして中国共産党の指導下に遊撃戦を激しく活発に展開できたのは間島の農村部であった。
ロシア革命直後に革命政府が発した帝国主義反対、植民地革命の呼びかけは、日本の侵略で朝鮮を追われて異国に生活する朝鮮人農民には強くアッピ―ルするものであった。>


 <日露戦争後日本は、この地域の移住朝鮮人にたいする統制のためにいわゆる「間島問題」をこじらせ、それを中国東北地方への侵略に利用しようとした。
統計資料による一九一二年(大正元年)の北間島移住朝鮮人は一六万三千人であるのにたいし、中国人は四万九千人であったのだが、一九二六年末の朝鮮人は三五万六〇一六名にたいし、中国人は八万六三四九名となっている。>


<いうまでもなく、一九一〇年八月に朝鮮が日本の植民地になって以来、日本の勢力が及んでいなかった東満地方は朝鮮独立運動の主要な根拠地となっており、満洲軍閥および地主の誅求があったにもかかわらず、各種民族団体は極力中国人との摩擦を避け、あるいはそれを極力少なくするために努力してきた。
というのはそういう民族間の摩擦が日本軍警の介入を誘発して中国東北地方への、その侵略および朝鮮人運動弾圧の口実に利用されたからである。>

<しかし、一九三一年九月十八日からはじまる満洲事変と、三二年三月のカイライ「満洲国」の成立は、状況を一変させた。
つまり満洲軍閥が崩壊した代りに、日本帝国主義が東満地方における中国人と朝鮮人にたいする直接的な圧政者として登場したからである。
つまり「反満抗日」のスロ―ガンのもとに両国民衆が民族的に連帯する客観的条件が成熟したのである。>

<しかしそういう可能性を現実性に転化させることは、また別次元の問題になる。
というのは東満地方の人口比例において、植民地朝鮮から流入してきた朝鮮人移住民が大多数を占め、しかもその「保護」を名目にした日本官憲の介入は、朝鮮人が日本帝国主義の東北侵略の尖兵であるとする民族離間のデマゴギ―が、中国民衆のなかに容易に浸透しうる可能性をもっていたからである。
しかも朝鮮人農民の大多数が中国人地主の小作農であったことによって、階級的な対地主闘争が、民族的な対立にすり替えられる可能性も大いにあった。>

[姜在彦氏『満洲の朝鮮人パルチザン』青木書店一九八三年.一七~二〇頁]


 こうして間島における惨劇が頻発した。たとえば、一九二〇年に起きた「間島虐殺」である。
 一九一九年の<三・一運動の前後には、満洲と沿海州地方では三〇余の武装抗日闘争団体が組織されていた。
こうした団体の構成員は、キリスト教・儒教・大 教などの宗教を信奉する場合が多かった。そして満洲と沿海州を夫余や高句麗の故地と認識して、自分たちが国権回復と民族解放の基地を建設するのだという自負心に満ちていた。
それゆえに、この地域の同胞社会が、国権喪失前からすでに主権在民の原理に基づいて共和主義の自治政府組織をもつようになったのは、至極当然のことだった。

このようにして、満洲と沿海州地域で養成された独立軍は、三・一運動を契機に熾烈な独立戦争を展開した。
独立戦争の究極的目標は、日本軍を打ち払い、国内に進攻して民主的民族国家を建設することだった。>

[鄭在貞氏『新しい韓国近現代史』桐書房一九九三年.一二八~一二九頁]


 洪範図が率いる大韓独立軍は、一九二〇年初めには崔振東の軍および安武の軍とが連合して日本軍を撃ち、一部が黄海道地方まで浸透した。
越境して追撃する日本軍と戦い、鳳 洞(琿春県)の戦闘(一九二〇・六)では日本軍一個大隊に集中砲火を浴びせて戦果をあげた。              

 日本軍は劣勢を盛り返そうと、満洲軍閥張作霖に圧力を加え、合同で独立軍討伐を試みた。さらに間島侵略の口実を設けるために、琿春事件(一九二〇・一〇)をでっちあげる一方、二万五〇〇〇余名の兵力を入れ、間島一帯の独立軍部隊および非武装の独立運動家たちを探しだし壊滅しようとした。この情報を入手した独立軍部隊は、深山密林の有利な地域に移動しながら日本軍と交戦を繰り返した。

 北路軍政署・大韓独立軍・国民会軍・義軍府・光復軍(合計二一〇〇余名)は、一九二〇年一〇月青山里(吉林省和竜県)の戦闘で五千余名の日本軍(東支隊)と一週間一〇余回の攻防戦を交わし、圧勝した。
こういう独立戦争を戦った朝鮮人の部隊は常にここ間島の深山密林を利用した効率的な遊撃作戦を行ない、また間島朝鮮人大衆の献身的な協力援助がこれを支えた。深山密林には、もちろん世紀を生き抜いてきた朝鮮五葉の樹海があった。

[韓祐欣著『韓国通史』平木実訳・学生社一九七六年五七一頁にもこの二つの戦闘が指摘されている。]

青山里の戦闘に敗れた日本軍は、二か月余にわたって間島地方の朝鮮人に対する報復虐殺を強行した。
独立軍掃討の名目で一万余名の朝鮮人が殺され、二五〇〇余戸の民家と三〇余棟の学校を焼いた。
 三・一運動弾圧後の独立運動は次の新しい難しい段階に入った。
その中で、一九二七年一月には左右両派の合作団体である「新幹会 シンカンフエ 」が創立された。

<総督府がこれを許可した意図は、あたかも韓国人に結社の自由をあたえているかのようにみせかけて、秘密結社による民族運動を防止する一方、他の一方では、それによって韓国の民族主義者と共産主義者とを相互に牽制させようと、両面的な効果を狙ったのである。

要するに、民族運動を表面化させて、単一的な抑圧体制をとろうとしたのである。
…「新幹会」が結成されてから二年後の一九二九年末には、ふたたび全国的な学生の抵抗運動が展開された。
その端緒となったのは、全羅南道光州で起こった事件である。
同年一〇月三〇日、通学列車内で日本人の男子学生が韓国人の一女子学生をからかい、あざけったことから、韓国人学生と日本人学生との間に衝突事件が起こり、日本の警察が韓国人の学生を一方的に検挙・弾圧したために、韓国人の学生らの激憤を買ったのである。

そこで光州の韓国人たちは不法検挙に抗議する示威運動を展開したところ、このうわさがひろく伝えられて、学生の示威運動が全国にひろがった。…
翌年の一月から参月までには、平壌をはじめとする全国の各都市に波及していった。…
この示威運動は、三・一運動以後に起こった最大の抗日運動であった。
光州が事件の発端となったところから、これまでこの運動を「光州学生運動」とよんできたが、実態は「全国学生抗日示威運動」とよぶべきであろう。>
[韓祐欣著『韓国通史』平木実訳・学生社五七四~五七六頁]

 本土における学生抗日運動のほとぼりも冷めぬ一九三〇年五月一日メ―デ―記念を合図として、龍井の数百名の労働者が同盟ストを行ない、学生もストに入った。
頭道溝・子洞・明東・北蛤嶼塘・平崗・石門・六道溝などの農民が続々集会をもち、デモを行なった。(北)間島の町村十余か所


 一九二〇年、日本軍ガ間島に侵入したときも真っ先に討伐したのは明東学校である。明東学校とその近くにあった独立運動家所有の空家一棟が焼かれた。
独立運動家の養成所のように明東学校はみられていたのである。

 しかし,一九二〇年を境に明東学校の声望は,交通の要地であった竜井ガ北間島教育の中心地にかわり
一九二四年には深刻な経営難におちいり,幼き詩人ユンドンヂュ 尹東柱が明東学校に入学したときには明東中学校は閉鎖され小学校だけが存続を続けるという状態であった。

しかし、この学校は,衰えたりとはいえ,名門であった。
この学校は一九一〇年代にすでにプラスバンドをもちテニコートもあった。
一九一九年三月十三日に竜井で血に染まった独立運動が展開されたとき,明東学校のプラスバンドが先頭にたったという。

〔 宋友恵『尹東柱 ユンドンヂュ 青春の詩人』筑摩書房 1991 による 〕

  青春の詩人 尹東柱

 さて、抗日独立運動の基地である間島(北間島と西間島があってここで間島と言っているのは北間島のほうだが)が生んだ<青春の詩人>こそ尹東柱ユンドンヂエ であった。

  <   愛の殿堂        一九三八・六・一九

    順 スン よ おまえは 我が殿堂にいつ入ってきたのか?
    おれは いつ おまえの殿堂に入っていったのか?

    ふたりの殿堂は
    古風な習いのこもる愛の殿堂

    順よ 雌鹿のように水晶の眼を閉じよ。
    おれは獅子のごとくほつれた髪をととのえる。

    ふたりの愛はひたすら沈黙だった。

    聖なる燭台に 熱い炎が消えぬまに
    順よ おまえは正門から駆けてゆけ。

    闇と風がふたりの窓を叩かぬうち
    おれは 永遠 とわ の愛を胸に
    裏門から遠くへ立ち去ろう。

    いま おまえには森の静かな湖があり
    おれには嶮しい山脈がある。                  >


 <      月を射る   一九三八・一〇

  …
  わたしのむさくるしい部屋が月光に沈んで美しい絵になる、というよりむしろ哀しい 船倉になる。
窓格子が額から鼻先、唇、そして胸にそろえた手の甲にまで揺れて、わた しの心をくすぐる。となりに寝ている男の寝息で部屋はうす気味わるくなる。
子どもの ように胸を高鳴らせて外を眺めると、秋の空は澄みわたり、生い茂った松林は一幅の墨 絵だ。
月光は松の枝にそそぎ、風のように音をたてんばかりだ。
聴えるのは時計の音と 寝息とこおろぎの声だけで、ざわついていた寄宿舎も寺より静かなのではあるまいか? …                                     >
 <東柱はまた祖国への永遠の想いを抱き死んでいった詩人である。
彼は異郷に生れ、また大きくなるまで異郷で育ったために、祖国の地に対する想いは人一倍つよかった。
しかし祖国に足をふみいれたとき、そこは祖国ではなく日帝の植民地だった。
彼はこの祖国ではない祖国で、もうひとつの祖国に想いこがれた。
「もうひとつの祖国」はこのとき書かれたものだ。…東柱はこのように祖国への想いを胸にいだいて育ち、生き、そして死んだ。
彼がいちばん好きだった歌は、「ふるさとへわれを帰せ…」(ジェ―ムス・A・ブランド作曲 Carry me back to Old Virginy なつかしのバ-ジニア)だった。>

[伊吹郷訳『空と風と星と詩 尹東柱全詩集』影書房.七〇~七一、一六七、二〇一頁]


 <        序詩   一九四一年十一月二十日

     死ぬ日まで空を仰ぎ
     一点の恥辱 はじ なきことを、
     葉あいにそよぐ風にも
     わたしは心痛んだ。
     星をうたう心で
     生きとし生けるものをいとおしまねば
     そしてわたしに与えられた道を
     歩みゆかねば。

     今宵も星が風に吹きさらされる。                  >

 この一編を残しただけでも、「まことわれらに一人の詩人あり」と言わしめた尹東柱はこの詩を書いた翌年、日本の京都同志社大学文学部文化学科英語英文学専攻選科に学んでいたとき特高により逮捕され、なにもしていないのに治安維持法違反懲役二年の判決で、福岡刑務所に収容され、一九四五年二月十六日獄死している。
享年二十八歳。
 三代前の当主が北間島=間島に移民し、一九〇〇年明東 ミヨンドン 村に移った。一九一七年尹東柱は間島省和竜県明東村に生れた。
「一九〇〇年代の北間島明東―そこは新たに拓いた土の香あふれる所で、祖国を失い忿怒に満ちた志士たちが集り、学校や教会が新しく建ち、大人も子供も熱と意欲の気風がたぎっていた所」だった
[伊吹郷訳『空と風と星と詩―尹東柱全詩集』影書房二〇五頁]。

 前に話したように、三・一運動のときから、一九二〇年六月鳳 洞 ポンオドンの戦闘、同年十月日本軍の大規模な満洲出兵、青山里 チョンサルリの戦闘を経て、間島虐殺が起るまで、その二年間はまちがいなく間島全体が独立軍の社会だった。
そのころ、とりわけ明東学校出身者の役割は大きかった。

そのため日本軍の間島討伐で報復を受けることになる。
一九二〇年十月二十日日本軍は明東学校の見事な煉瓦造りの建物に火を放ち灰にしてしまった。
この学校はやがて復旧されたが、一九二五年満八才の尹東柱は明東小学校に入学した。
一九三一年この小学校を卒業、翌年竜井ヨンヂョンの恩真 ウンヂン 中学校に入学、一九三五年九月平壌 ピヨンヤンの崇実 スンシル 中学校三年に編入するが、翌年三月故郷に戻り、竜井の光明 クワンミヨン学園中学部四年に編入、一九三八年光明中学五年を卒業、四月ソウルの延禧専門学校文科に入学、一九四一年卒業、一九四二年日本に渡った。

 一時、平壌やソウルの学校に通っても、長期の休みには故郷の間島へ帰ったので、彼が間島の環境から受けた影響は大きいと言わざるをえない。
そこ明東や竜井はかつて越前の日本人漂流者が護送されて通過した地域、当時の深山幽谷密林はそのまま残るわけはないが、この地の自然、その林に生い茂る朝鮮五葉はこの若い詩人の成長を見守っていたに違いない。
彼が一時、学生生活を送ったソウルの延禧専門学校文科の石造りの建物は、いまも延世大学文学部の建物の一部として使われているという。
「むかし西山ソサン 大師が暮していたようなうっそうとした松林のなか」(「終始」)にぽつんと建っていた三階建ての建物―かれらが生活した寄宿舎の建物もやはりそのまま残っているという

[宋友恵『尹東柱―青春の詩人』伊吹郷訳・筑摩書房一九九一年.七二頁]。

 尹東柱を育てた(北)間島、いまの延辺朝鮮族自治州の自然・生態についても少し探ってみたい。                                   

  白頭山の大樹海

 戦前の一九四〇年の夏、京都にあった第三高等学校の山岳部の学生だった梅棹忠夫氏ら三名は、朝鮮側から白頭山に登って四、五日分の食糧をたよりに、地図では白紙の大樹海をぬけて満洲側におりようとした。
白頭山の朝鮮側の森林は密度の低い朝鮮カラマツの明るい林ばかりだが、天池から落ちる満洲側の二道白河ぞいでは、高地は黒々した常緑針葉樹林、すこし高度がさがると朝鮮五葉と落葉広葉樹のまじった森林で、どちらもぎっしり密生し、樹木が地面に折り重なった原生林そのものであった。
木々の高さは三〇メ―トルにおよび、目標の丘などはみえもしない。
けもの道や猟師道らしいものには出会うが進行方向とあわない。
彼らが工事事務所で見てきた地図は間違っていて、二道白河の東側を流れる三道白河を天池につないでいたから、いっそう三人の判断は混乱した。

河と同名の開拓集落二道白河の村に出るまでに、三日のつもりが一週間かかり、食いのばした食糧がとうとう尽きたその日に、やっと魚釣りの村人に出会い、地図の間違いを確認、彼らの方向感覚はたしかで、二道白河の村はもうすぐそこだった。
この三人の記録は、梅棹忠夫・藤田和夫両氏編『白頭山の青春』朝日新聞社一九九五年として出版されていて興味深い。

東北アジアを中心に行なわれた探検、自然・生態・民族の調査で代表的な業績を残した日本の科学者の門出となったのが、この一九四〇年の白頭山登はんであった。
 同書にくわしく載っているのだが、この朝鮮側から登り中国側に下った三高生の白頭山登山から四十四年目に偶然、中国科学院林業土壌研究所の招聘で、長白山つまり白頭山に四十四年前の日本人学生の登山と下山の経路とちょうど逆のコ―スで登山を行なう幸運に恵まれたのは植物生態学者の吉良竜夫である
[前掲書中、吉良竜夫「四四年めの長白山」および吉良竜夫・梅棹忠夫対談「長白山と朝鮮族」]。
彼は、今日における間島地方の植物生態の一端をよく捉えている。

 大分伐採されているが、二道白河から長白山へ上る道は大部分自然保護区になっており切らないでおいてあり、二道白河の朝鮮人集落のすぐ横の丘の上に立つ四〇メ―トルぐらいの火の見櫓のてっぺんまで昇ってみると、
「圧巻でしたな、長白山まで全部森林や」(吉良)

「あれはすごいね、はるか地平線まで森林、ゾ―ッとするようなね.どこまで歩いて行ったらいいのかわからへん.へたしたら、ひと月ぐらい歩いても、出られへんかもわからん」(梅棹)
「長白山頂から北の眺めは、たいへんすばらしいと思う」(梅棹)

「あれが針葉樹ばかりあったんでは、またもうひとつでね.針葉樹があって、それから秋になると紅葉する林があるでしょう.すばらしいですね.むかしはトラなんかもたくさんいたんでしょうけど、いまはほとんどおらんという話です.ウスリ―トラというやつですね.」(吉良)

「白頭山は、まったくウスリ―なんや…東へ行けば行くほど植生がまったくウスリ―的になっていく」(梅棹)

「長白山では、森林限界が海抜二〇〇〇メ―トルちょうど、それから一七〇〇メ―トルまで高度差三〇〇メ―トルほどのあいだ、ダケカンバの林がある.その下は、エゾマツ、トウシラベの常緑針葉樹林帯で、一一五〇メ―トルまで、そこでチョウセンマツ(朝鮮五葉)と落葉広葉樹がまじった林になる.これが海抜七五〇メ―トルの二道白河までつづくわけです.チョウセンマツにあらゆる木がまじってるね」(吉良)「ナラが多い」(梅棹)

「多いけれども、モンゴリナラばかりと違って、じつにいろんな木がまじっている.カエデの種類が多くてきれいやった.」(吉良)

 「小興安嶺も、高いところは針葉樹林になりますけど、大部分はチョウセンマツ、モンゴリナラの林です.それがそのままウスリ―へつながっています.中尾佐助さんあたりは、照葉樹林文化に対してナラ林文化を考えるんだけども、その本拠地が、どうももうひとつはっきりしない」(吉良)「朝鮮半島の北部、豆満江原流というのにむしろ近いと思うな」(梅棹)

「古くは有史以前から、日本海をわたって日本に伝わった文化要素がたくさんあって、そのなかには、北方大陸系の製鉄技術だとか特別な作物の品種群などがあるらしい.そのオリジンとしてナラ林文化というものが想定されているわけだけれども、どうもその実態がつかみにくい.たとえば、渤海国の住民の生活はどんなものだったのか.ナラ林地帯に行ったら、すこしはイメ―ジがわくかと思ったけれど、だめでしたね.ただ、二道白河の市場をみると、野生のナシやブドウ、サルナシの実など、山の幸がいっぱい並んでいて、中国のほかの地方とはだいぶん違った感じがする.ウスリ―的なゆたかな自然をとりこんだ、毛色の違う文化があったかもしれません」(吉良)

 吉良氏は、「四四年めの長白山」でまとめて次のように見聞を語っている。

 <安図からここ(二道白河)までの沿道では、ときどき火の見櫓を見た。
山火事へのそなえであろう。(長白山森林生態系研究)ステ―ションに近い丘にも、ひとつ立っている。四〇メ―トルく
らいの鉄塔からみた樹海と長白山の展望は、圧巻の一語につきた。
日本人の感覚でいえば、ほとんど凹凸も傾斜も感じない大平原のむこう六〇キロメ―トルの距離に、巨大なアスピ―テ(楯状火山)がもりあがっている。
山頂にざっくりとなたを打ちこんだようなV字形の割れめは、天池の水の流出口である。数日前にふったという新雪のとけのこりが、かすかに白くみえた。
[この長白山行は一九八四年九月下旬のこと]
 足もとから長白山まで、樹海にまったく切れめはない。
九分通りは黄と赤にもみじした落葉広葉樹の地色に、針葉樹の常緑の樹冠がちらばっている。近景でみるかぎり、その大部分はチョウセンマツ(朝鮮五葉松)のようだ。
ここの海抜七六〇メ―トルでは、もうチョウセンモミはなく、まれにトウシラベやチョウセンハリモミがまじっているという。
塔をおりて林に入ると、研究所の人たちが測定をつづけている調査定点のひとつがある。平均樹高三〇メ―トルという、りっぱな林相である。
 じつに木の種類が多い。
チョウセンマツのほかに、ヤチグモ、アム―ルシナノキ、マンシュウボダイジユ、モウコナラ、イタヤカエデ・オニメグスリ・マンシュウカエデなどのカエデ類などが、まったく一様に混じっている。
この林とおなじ温度条件にある本州の冷温帯林を代表するのはブナ林だが、ブナだけが圧倒的に多いブナ林とちがって、ここの林は、みるからにゆたかな変化に富んだ自然である。北海道の札幌以東の低地の林は、樹種構成も、針葉樹(トドマツ)が混生する点でもかなりよく似ているが、やっぱりこちらが本家という感じがする。
下生えの低木や草本類も、かくだんに多彩である。
 二道白河の町の自由市場や道ばたでは、いろいろな山の幸を売っていた。日本にもナッツとして輸入されているチョウセンマツの実を筆頭に、ヤマブドウ、サルナシ、ウスリ―ヤマナシの実など。
キウイ・フル―ツのなかまであるサルナシのあおい実は日本でも食べるが、ここのは、口に入れるとびっくりするほどよい味だった。
 町はずれでは、スグリの赤い実をつみにきた小学生たちに会った。
ステ―ションの前庭には、やはり赤く熟したチョウセンゴミンの小さな実を集めて干してあったし、研究材料とおぼしいたくさんのチョウセンマツの松かさから種子をとりだす作業が、毎日つづいていた。
自然のあまり残っていない中国の大部分の地方では、こういう山の幸にであうことはめずらしい。
 中国東北地方の東部から、北朝鮮、ウスリ―地方にかけてひろがる冷温帯林は、そのひろがりの大きさ、ゆたかな生物相からみて、東アジアの落葉広葉樹林帯の中核といってよいだろう。
モウコナラやチョウセンマツが代表的な樹種となり、チョウセンニンジンが野生し、ウスリ―トラがすみ、川にはサケがのぼってきた地帯である。
[そしてクロテンが潜み、蜂蜜が採れた。]
その自然界の開発以前のすがたは、帝政時代末期のロシアの探検家たちの記録のなかに、いきいきと描かれている。
黒沢明監督の映画の原作であるアルセ―ニエフの『ウスリ―地方探検記』や『デルスウ・ウザ―ラ』は、四〇年前の私たちの愛読書だった。
 アジアの原始農耕文化や先史時代文化の研究者たちは、日本古代の農耕文化の母体として中国南西部につながる「照葉樹林文化」を考える一方で、それに北方から影響をあたえた別系統の文化複合として「ナラ林文化」を想定している。
朝鮮半島の農耕文化の基盤をナラ林文化に求めている人もあるし(中尾佐助氏・上山春平氏)、日本の縄文文化をナラ林文化の一部と考える人もある(安田喜憲氏)。もしナラ林文化があったとすれば、その中核としては、やはり中国東北・朝鮮・ウスリ―の落葉樹林帯とそこの原住民ツング―ス系民族を考えざるをえないだろう。
しかし、漢族文化が浸透するまえのツング―ス諸族の生活は、作物栽培の有無をふくめて、ほとんどわかっていない。
 もちろん、いまの吉林省をあるいてみても、遠い昔の片鱗もうかがうことはできない。しかし、アルセニエフの紀行に二道白河の市場の印象をかさねてみると、少なくとも山間の森林地帯にすんでいた古代ツング―ス族が、この山の幸を利用しなかったはずはないという気がしてきた。
ナラのどんぐりやトチ・クリなどの木の実に大きく依存していた縄文人のような、かなり独特な植物採集・利用生活は、ひょっとするとこの落葉樹林地帯にもひろがっていたか、あるいはここで生れたのかもしれない。
[中国の史書に記された渤海の産物の品名、ヌルハチが撫順の馬市に運んだ建州女真族の産物、白系ロシア人の詩人バイコフが観察した動植物・自然など、すべて吉良が二道白河の市場で見たものと一致している。]東アジア大陸の落葉樹林の島嶼型の変型ともいうべき日本の落葉樹林帯では、チョウセンマツの実は利用されていない。>

[前掲書『白頭山の青春』朝日新聞社.吉良竜夫「四四年めの長白山」二一二~二一七頁]


  中国朝鮮族と東北抗日聯軍


 中国朝鮮族が活躍した満洲における東北抗日聯軍の活躍の経過の概略を間島・長白地区を中心に語ってみたい。
以下、鶴嶋雪嶺氏の労作『中国朝鮮族の研究』関西大学出版部一九九七年と和田春樹氏の『金日成と満洲抗日戦争』平凡社一九九二年の二著書によるところが多い。
 満洲の東半部、東満地方は中国領土でありながら、人口比例は朝鮮人が中国人を圧倒していた。この地方が、国権回復をめざした朝鮮独立運動の根拠地になりうる基盤があった。日露戦争後、日本の満洲侵略が露骨になり、反帝反封建闘争が中国の重要な課題になった時、満洲で抗日闘争を大規模に果敢に行なったのは朝鮮人であった。
ロシア革命の影響下に共産主義者の指導する大衆闘争を満洲でまず展開したのは朝鮮人であった。中国共産党が満洲で活動を開始すると、その活動を推進したのは、数でも力量でも、中国共産党に入党した朝鮮人であった。
日本の降伏で第二次世界大戦が終わり、東北地区で国共が戦った時、朝鮮族を引きつけることではじめて、共産党の勝利が可能になった。
解放に続く革命の中で、土地改革に始まる社会主義建設の中で、朝鮮族居住区は模範的な成果をあげた。中国革命ののために朝鮮族居住地区は根拠地の役割を果たし、多くの朝鮮族青年が革命戦に従軍し、食糧など多くの軍需物資が全線に送られた。
朝鮮戦争(祖国防衛戦争)にも中国朝鮮族は抗米援朝の戦いに参加し、中国の防衛のため貢献した。

 私が小学生の頃、流行した歌で印象に残る歌がある。オ
ペラ歌手の藤原義江が歌った「討匪行」という歌である。
一九三二年(昭和七年)、藤原が在満日本軍将兵の慰問に行き、関東軍嘱託の八木沼丈夫から預かった作詞に曲をつけてレコ―ドにふきこんだら売れた軍歌風な流行歌である。

「どこまで続く泥濘でいねい ぞ」ではじまる「討匪行」は、マッチも濡れ果てる小興安嶺の雨の中で飢えと寒さに苦しむ日本兵の姿を伝え、敵の死体に花を手向けるという人間性も漂い、いまでもこの歌に愛好する日本人は年配者にはよくあるのではなかろうか。
しかし、「賊馬もろとも倒れ伏し/焔はあがる山の家」という歌詞の「匪賊」というのが日本軍に追われ東満洲に流亡する朝鮮人貧農の遊撃隊ゲリラ であったこと、「山の家」が山塞とよばれる抗日遊撃隊ゲリラ の隠れ家だとは今日でも気付いていない日本人が大多数ではないだろうか。
「亜細亜アジア に国すわが日本」という「討匪行」全体に流れる大アジア主義的情緒も今日の日本人年配者は卒業できていないのではあるまいかと思う。
第一、匪賊というイメ―ジ、「満洲馬賊」というイメ―ジはいったいどんなものであったろうか。
[「討匪行」を想起させて頂いたのは、林郁『大河流れゆく/アム―ル史想行』朝日新聞社一九八八年.一六八~一六九頁のおかげである。]

 中国東北の朝鮮人の抗日運動のはじまりは、保守的な儒者や義将兵の民族主義者によるものであった。
民族主義者の反日運動は、大韓帝国の光復を願う復古主義者から民主共和国の朝鮮をめざす民権主義者へと、運動の主導権が移行していった。
民族主義運動の中に民権主義が芽ばえ育っていったことが、中国に住む朝鮮人の大多数が貧しい農民であったことと相まって、反日・抗日闘争が共産主義者の指導下におかれることになる基礎である。
しかし、民権主義者が多くなったといえ、民族主義者の反日・抗日運動の指導者と活動家の大多数は、朝鮮ないし満洲の社会の上層とつながっていた。
中国東北の朝鮮人の間にあった階級的・階層的分化は、中国政府や満洲軍閥あるいは中国共産党と複雑な関係をもった。
反日・抗日闘争を中国政府・満洲軍閥とのつながりで展開しようとする動きは、民族主義運動の初期からあった。
共産党の指導下に入らなかった組織の中には最後まで朝鮮独立をめざしたものもあった。中国東北における朝鮮独立運動のすべてが中国防衛のための反日・抗日闘争に吸収されたわけではない。
社会上層の民族主義者や朝鮮独立を放棄しない反日・抗日運動にたいする共産党の方針は、時により変り一貫したものでなかった。
「一国一党の原則」のもとに解散を余儀なくされた朝鮮共産党満洲総局の解散宣言と反ファッショ統一戦線路線に沿った八・一宣言はその両極端である。
朝鮮独立運動の放棄と、それとの連帯・統一戦線の追求がみられ、民族主義反日闘争を指導する地主・富農・中農上層との敵対と連合がみられる。
 また、東満洲の反日・抗日の運動では、初期においてはキリスト教徒が果たした役割は大きい。
そのために間島出兵に際しては多くの教会が焼き打ちされ、そのことを報じた牧師の手紙が国際的反響を呼んだ。
満洲の朝鮮人の反日闘争の激しく巨大な爆発が一九二九年から一九三一年にかけて生じるが、その最も重要な原因は、コミンテルン第六回大会で「一国一党の原則」が採択され、朝鮮共産党総局を解散して、個人の資格で中国共産党に入党しなければならなくなり、朝鮮人共産主義者が共産主義にたいする忠誠を示す機会として必死の思いで闘争に参加したことがある。
また、一九三〇年から一九三一年にかけて満洲に爆発した巨大で激しい朝鮮人の反日闘争とそれに続く満洲事変、満洲国建国を契機にした朝鮮人の武装闘争は、日本帝国主義を脅かす効果は十分に上げたものの、それまでの反日・抗日運動が蓄積した反日組織を消耗し尽くすことになった。
しかも、地主・富農にたいする階級闘争が、日本の侵略に抗して燃え上がった民族主義の火に水を差すことにもなった。
 一九三五年八月一日、中国共産党中央は、抗日救国のために全同胞に告げる書(八・一宣言)を発表した。
「全中国の統一的な抗日聯軍を組織しよう」というアピ―ルである。七月二五日から八月二五日までモスクワで開かれたコミンテルン第七回大会で採択された反ファッショ人民戦線戦術に沿ったものであった。
というよりは、すでに満洲の抗日闘争の経験などを総括して中華ソヴエト第二回大会で出されていた路線に沿ったといえよう。
 こうして、一九三六年二月には東北抗日聯軍統一建制宣言が発表され、抗日部隊が抗日聯軍に参加し、被圧迫民族が抗日聯軍に参加して民族統一戦線を結成して共同で日本侵略者を攻撃すること」が宣言された。

 一九三六年三月、安図での会議で東北人民革命軍第二軍を東北抗日聯軍第二軍に改編し、救国軍部隊を合せて三師団二千人とした。
第二軍第二師は第五軍とともに、寧安、穆稜、東寧一帯に遊撃区を建て、軍部と第一、第三師は撫松、臨江、濠江(靖宇)、長白に移ることを定めた。
第一師の大多数が朝鮮人、第三師は師長金日成、四団のうち二団は大部分が朝鮮人であった。七月、河里での会議で、第一、第二軍は合同して東北抗日聯軍第一路軍となり、東満、南満の党組織は合併して共産党南満省委員会となった。
第一軍、第二軍がそれぞれ三師もっていたので、通し番号で第一師から第六師とし、金日成の第三師は第六師になった。
河里の会議では、在満韓人祖国光復会の創立をめざす宣言、光復会綱領案が発表された。これは後の延辺朝鮮族自治州にいたる考え方の出発点となる。

 和田春樹氏の『金日成と満洲抗日戦争』平凡社一九九二年は、「実際に在満韓人祖国光復会という中央組織ができたわけではない。
金日成の第六師が満洲側の長白県の朝鮮人と鴨緑江対岸の朝鮮側の咸鏡南道甲山郡の住民に働きかけてつくるのが唯一の組織実態となるのである。」としている。

 「革命の聖地」となる長白山遊撃根拠地は次のような経過をたどる。第一路軍は、長白山西麓に遊撃区を築いた。
朝鮮人抗日武装闘争の中心は、東満から長白山区を中心とする南満地区に移った。
長白山区は、長白、撫松、濠江、臨江県を含み、深山密林、抗日聯軍は長白山密林に密営を設置して遊撃戦を展開した。
まさに朝鮮五葉の世界である。
 長白遊撃根拠地は、東満のそれが敵占地区に大衆的な反日組織と共産党の基層組織を秘密につくり満洲国政府の下級機関を工作し地下の党活動と抗日聯軍部隊の活動を援護するものであったのと異なっており、第二軍第六師は長白遊撃根拠地の朝鮮人その他の人民の積極的な支援と援護の下で南満抗日遊撃戦争を発展させた。
第二軍は、長白山の南満遊撃区を作るために、一九三六年八月に大規模な攻撃を撫松県城にたいして行なった。
第六師と第四師から成る主力部隊が東山砲台を占領し、日本軍は警察大隊とともに反撃を試みたが撃退され、関東軍本部に救援を要請した。
日本軍が飛行機とともに救援に赴いた時には第二軍はすでに撤退した後だった。
第六師は黒瞎溝と紅頭山に密営を作った。

また、権永壁などを祖国光復会を組織させ、一九三七年初めには八道溝から二十一道溝の間に祖国光復会を設立した。党組織も組織された。
第一路軍は一九三六年秋には一万人に達し、活動範囲は長図線以南、南満洲鉄道以東、西は遼沈、南は安東、鴨緑江、東は牡丹江、寧安以南、北は永吉に至る一帯であった。
 第二軍第四師は、安図、敦化、撫松遊撃区の深山密林に密営を築き、遊撃戦を展開した。一九三七年六月、第二軍の第四師と第六師は、鴨緑江を渡河して、朝鮮の茂山郡と甲山郡の警察署を襲撃し、農事試験場、郵便局などを襲った。
有名な普天堡作戦である。日本軍は第十九師団第七十四連隊の部隊に討伐を命じたが、長白十三溝間三峰で抗日聯軍の第二軍第四師と第六師、第一軍第二師の連合軍に敗れた。
普天堡と間三峰の戦闘は、金日成を抗日戦の英雄にした。
他方、普天堡に近い恵山鎮警察署は、関係者の逮捕に全力をあげ、朝鮮と長白県で多数を逮捕し祖国光復会の組織も壊滅した。
抗日聯軍第一路軍は一九三六年秋から翌年夏にかけての日満軍の大討伐と戦った。

 一九三六年七月の河里会議では、共産党中央の「東征」に呼応して「西征」も決定されていた。
一九三五年十月に共産党の長征軍が陝西省に達しここに根拠地を作り、一九三六年には「東征抗日宣言」を発表して山西省への進出をめざした。
「西征」は関内の第八路軍と打通することをめざした作戦計画であったが、一九三六年六月以降、いろいろと試みられたが多くの兵力を失って失敗に帰した。

 一九三七年までに抗日聯軍第八、九、十、十一軍が作られた。
この組織にも朝鮮人幹部が大きな役割を果たした。
これら共産党の武装組織のほかに、満洲事変後の満洲には、完全に朝鮮人大衆が自発的に組織した抗日武装隊が二つある。
北満洲の「独立軍」で、一九三二年初め、義勇軍の老風林部隊を共同してハルビンの日本軍を攻撃し一時は双白保を占領した。
やがて、北牡丹江地区に移り、鏡泊湖、東京城および間島の羅子溝一帯で活躍した。
もう一つは、南満洲の「朝鮮革命軍」がある。

 一九三八年後半から満洲の抗日闘争は、きわめて困難な段階に入った。
一九四一年には、関東軍は一九三八年の五十万人から七十万人に増強された。
一九三八年秋から翌年春にかけて、日本軍は十万の兵力で東辺道にたいする大討伐を行ない、引き続き「三省連合大討伐」を行なった。
北満では、一九三八年冬から日本軍は七師団、三混成旅団に戦車・飛行機を配備して「三江省大討伐」を行なった。
日満軍は緊密に共同して、「集団部落」を修築し、遊撃区にたいする包囲・封鎖を厳重にし、「特別工作団」、「宣撫班」を動員し、抗日聯軍幹部に賞金をかけて、抗日組織の壊滅を図った。
 抗日部隊と大衆との分断をはかるため、とくに朝鮮族貧農層への管理・監督を強化する政策として、「集団部落」構築を代表とする日本の工作を、後の延辺朝鮮族自治州の延辺人民出版社が一九八六年出版した『朝鮮族簡史』(高木桂蔵氏訳『抗日朝鮮義勇軍の真相』新人物往来社一九九〇年によって読んでみたい。


 <一九三二年八月、関東軍は「朝鮮経済調査会」に「在満朝鮮人移民対策綱領」をつくらせ、統制と安定をはかる基準とさせた。
そして抗日部隊と大衆との分断をはかるため、朝鮮族貧農層への安撫をはかろうとしたのである。
このため同年から五年間にわたり、南北満洲の朝鮮難民を営口県田荘台、鉄嶺県乱石山、柳河県三源浦、黒龍江省烏吉密河一帯の河東綏化付近に入植させて安全農村をつくったのであった。
また「東亜勧業会社」は九千八百五十町歩の土地を買い入れて朝鮮族農民を収容し、三千五百四十六戸の農民に水田開拓をさせている。

 一九三三年から、日本は延辺抗日根拠地の周辺地帯と山岳散居農民を集めて「集家並屯」政策を始めた。集団部落とも呼ばれるもので、ゲリラと農民の間を分断するためであった。最初に始めたのは東洋拓殖株式会社で、朝鮮総督府の指示により、まず指定地域の土地を入手し、ここに朝鮮族など各民族の小作農を入植させて集団耕作をさせた。
一九三四年には満洲国政府も関東軍の要求を入れて集団部落建設の通達を出している。
このため三年間に六十五万七千二十円を使っている。

一九三五年の満洲国民政部拓務司第二科の「間島省集団部落建設概況」によれば、延辺各地で百四十四の集団部落がつくられ、一万二千三百六十二戸を収容している。
三五~三六年にかけて遼寧・黒龍江両省でも集団部落がつくられている。

 一九三六年八月、「在満朝鮮人指導綱要」が制定され、延辺五県と東辺道の十八県が朝鮮族居住区に指定された。
中ソ辺境、中蒙国境地区に居住していたものや各地に散居している朝鮮族は指定地域への移住が命じられた。
一九三七年には中ソ辺境にいた非定住難民千十六戸、四千三百二十八人が、営口・柳河・懐徳・王爺廟・大 廠など十か所の集団部落に移された。
 その集団部落は四周を堀で囲み、高い塀をつくり、有刺鉄線を張ったばかりか、警察と自衛団が送られて住民の行動を監視した。
良民証を持たせ、連座制にして一家の反日犯罪を防止しようとしたのである。
 彼らは、朝鮮族農民の赤化反日を防ぐには、貧農をなくせばよいと考え、「自作農創設」政策に出た。> 

[前掲書.一〇〇~一〇一頁]。

 一九三八年八月、第一路軍総部の決定に従い、第一路軍第五師第四、第六団は第四師と会い、第二軍第四、第五の両師を第一路軍第三方面軍に編入し、その下に第十四、第十五団を置いたが、その三分の二は朝鮮人であった。

 一九三九年十月、関東軍が吉林独立守備隊司令官野副昌徳少将を長とし、間島地区討伐隊、吉林地区討伐隊、通化地区討伐隊の三隊に分かれ、日満両軍、それに警察隊七万五千の兵力で東南部治安粛正工作を始めた。
「冬季降雪期を利用し、あらかじめ目標匪を定めて、積雪上に敵の足跡(偽足跡を看破して)を辿り、山奥の炊煙を発見せばこれを覆滅し、敵影を発見せば一挙殲滅を期し、残余を急迫また急迫、敵に一刻の休息の余裕を与えず疲労困憊せしめ(いわゆるダニ戦法)、飢えと寒さにより投降または帰順を余儀なくせしめる」という戦法である。

目標匪は、楊靖宇、曹亜範、金日成、陳翰章、崔賢にそれぞれ一万円、その他二名に五千円、さらに二名に三千円とされた。飛行機からの監視も行なわれ、集団部落の建設や長島工作隊などの特殊工作隊も併用された。
この作戦は、一九四一年三月まで一年三か月の予定で予算三千万円で始められた。そこで、十月初め、第一路軍高級幹部緊急会議が開かれ、困難な情勢を分析して、「化整為零」、つまり完全に姿を消すこと、小部隊に分散遊撃戦に転じることに決定した。

 こういう困難な状況の中で、金日成の第二方面軍は戦果をあげた。
一九四〇年三月二五日、安図県大馬鹿溝西方の高地で追跡してきた和龍県警防大隊前田中隊を待ち伏せし事実上全滅させた。
前田武市警正はかねがね「金日成の首級は俺が挙げる」と白頭山の密林に分け入った人物である。三月一一日、金日成部隊は和龍県紅旗河の日本人製材所を襲撃した。
森林警備隊は寝込みを襲われ、大量の銃弾と大量の米を奪われた。
前田以下一四五名がこれを追跡した。追い付かれそうになった金の部隊は、反転待ち伏せ攻撃した。
前田隊は一二〇名余が戦死し、生き残りは二十数名だった。
この警備隊の一四五名中、日系が九人、一部満系も居たが、あとは殆ど朝鮮系だったという。
金部隊のほうからは投降者は殺さぬと声をからして呼び掛けたが、前田隊の朝鮮人警察官は一人も降伏しなかった。
天皇陛下万歳を唱えて全部倒れたという。
抗聯の朝鮮人大隊員の思いは複雑であったろう。

 しかし、東北抗日聯軍の闘争は中央から断絶し孤立したものであり、日本側の「アメとムチ」の鎮圧作戦の狡智が遊撃隊員を精神的に苦しめ、その耐久力を崩壊させていった。 そのうえ、「コミンテルンでは最近われわれに連絡員を派遣し、ソ満国境一帯で緊張を緩和し、日本帝国主義侵略者に対ソ侵略戦争の口実を与えないため、満洲一帯で活躍する抗日遊撃部隊の大部隊作戦を当分中止するよう勧告してきました。
われわれは日本帝国主義者が抗日遊撃部隊の闘争をソ連の<敵対行為>とみなし、これを対ソ侵略戦争挑発の口実にしようとしている状況のもとで、コミンテルンの勧告を考慮に入れないわけにはいきません。」
和田春樹氏は、コミンテルンからの勧告が実際に行なわれた可能性は乏しいとし、魏拯民からの連絡による金日成らの方針転換であろうと解釈している。

 とにかく、一九四〇年と一九四一年、ハバロフスクで吉東、北満、南満の共産党と路軍の代表者会議が開かれ、大部隊活動を停止してソ連国内に移動し、小部隊だけを満洲に残すことを決めた。
一九四〇年冬から、第三路軍の小部隊を黒龍江、嫩江平原に残して遊撃活動に従事させるだけで、路軍は小部隊に分かれて相次いでソ連領内に移動した。
一九四一年、東北抗日聯軍は、ソ連に野営旅(後に教導旅に改編)を成立させ、四歩兵営と三直属連を置いた。
朝鮮人は第一歩兵営に集中し、その他の営と連に分散した。
日ソ不可侵条約の締結の結果、シベリアに集められた指導者などの帰満が許されなくなり満洲の抗日闘争はほぼ終息させられた。
 一九四二年二月一六日、ヴャ―ツコエの野営で、入ソ以前に金日成と結婚していた金正淑は長男の金正日を生んだ、と和田春樹氏は解釈している。
今日、北朝鮮では金正日は白頭山の東南側、朝鮮領内の小白山の西側の密営で生れたとされている。
ここに白頭山密営の史跡建造物が建てられ、その背後の山が正日峰と命名されコンクリ―トでその文字が嵌込まれている。
案内パンフレットには、金日成が朝鮮人民革命軍の主力部隊を率いて至り宿営した最初は一九三六年九月のことと説明している。

和田春樹氏によれば、六〇年以来北朝鮮の文献によれば、ここに遊撃隊が入ったのは一九三七年五月茂山地区攻撃をしたあとの第四師、崔賢らの部隊が最初であり、ペゲ峰一帯を経て小白山付近でも野営して長白地区へ出たのであった。
次に、金日成が率いる第二方面軍が三九年五月に青峰の近くから入り三池淵へ抜けて行ったのである。白頭山東南側に密営が維持されていたという主張は八〇年代半ばまでの北朝鮮の文献には見られなかった新しい主張である。
一九九一年、最近発見されたいう立木の幹に書かれたスロ―ガンがいくつも保存された。

 白頭山裾野斜面で中国側にカラマツの樹海の中に院池という小さな湖がある。
この湖畔に降りた天女が赤い実を摘んで食べるとみごもって、生れたのが清朝の開祖ヌルハチ(太祖)だという神話伝説がある。

吉良竜夫氏の実地見聞によれば、院池のほとりにある植物で食べられる赤い実のなるのは、まずクロマメノキだけという。
清朝はクロマメノキから生れたことになると同行の中国の先生たちに力説したが全面的支持をとりつけるには至らなかったと吉良氏は書いている。
遊撃隊国家として精神・伝統を大事にする北朝鮮の指導者たちが、白頭山東南側の深山密林に自らの誕生の聖地を夢見る気持は分かる気がする。                                           
  ソ満国境の民 ホジェン(ナナイ)

 林郁氏は、一九八七年新春、黒龍江省チチハルの出身で厦門 アモイ大学日本語科を卒業後、黒龍江省外事弁公室に勤める青年とともにハルビンから黒龍江のほとり、黒河からはじまり黒龍江と烏蘇里ウスリ- 河流域と中ソ国境を旅し、国境の少数民族の部落を訪ね、時にはそこに残留せざるをえなかった、つまり「棄民」された日本人婦人を探し聞き取りを試みるという、貴重な作業を試みた。
その結果が、『大河流れゆく/アム―ル史想行』という形で一九八八年朝日新聞社から出版されている。

 林氏が訪れたとき、赫哲 ホジェン 族、つまりナナイ、川の民は、中国東北で千四百人に減少しており、主に二つの地域に住んでいた。一つは同江トンチャンから黒龍江にそって下った街津口 チエチンコウ 。
もう一つは、もっと下流の撫遠 フ-ユアンに近い下八岔 シアパチャである。林氏が実際に訪れることができて、ホジェン族の住民から次のような聞き取りを試みることができたのは、街津口の方であった。

 <一九四一年のことだった。晩秋の寒い日に日本の特務たちが川辺の部落にきた。春節のあと、六台の馬車とトラックが部落に入ってきた。銃をもった日本の特務が沢山降りてきて、各戸を回り、「移住だ」といった。
「お前らはロシア語がわかり、親類が一万人以上もソ連にいる。もう何人もソ連へ逃げた。だから移住させるのだ」
 黒龍江(アム―ル河)および松花江(スンガリ―河)流域に住んでいたホジェン族(ロシア側ではナナイ)は、国境という考えは薄く、「あの向こうの山は私のおじいさんたちの山だ。なぜ薪刈りに行ってはいけないのか」
とこれを抑える日満軍警に幾度も問い返したものだ。
「うるさい奴らだ」とどなられても、国境の危機、「赤ソの恐ろしさ」を話しても、ホジェン族の人々は「自分たちには向う側にも親類がいるから大丈夫」という。
こういう国境地帯にまたがって生きてきているから、昔、満洲族の八旗の下に入れられたときには満洲語をしぜん覚えたし、そして漢語も覚えさせられた。次に、日本人が進出してくるまではロシア語が公用語になる時代があった。
そこで普通の庶民でも、生活上バイリンガルにならざるをえなかったのである。
満洲国ができて、アム―ル河が緊張するソ満国境になっても、この河を越えて同族とつきあっていても不思議ではなかった。
だから彼らには河の越境が大きな犯罪だという日本特務の言葉は納得できなかった。
長老も働きざかりの若者も「ここで漁をしないと生きていけない」とがんばり、強制移住をしないよう低頭して頼んだ。
女たちは大声で泣いた。
しかし特務たち、日満軍警は容赦しなかった。「
早くしろ」と怒鳴り、銃尾で叩き、ホジェン族の部落の全員をトラックと馬車の上に追いあげた。

 「私たちは親について荷台に乗りました。寒風の中をトラックが発車し、馬車も山の方へ進みました」

 ホジェン族の人々は三つの部落に分けられ、三十五キロほど先の山奥の湿地帯へ送られた一団もあった。
人々は五、六人ずつテントに入れられ、地面にじかに寝かされた。
翌日から木と土で小屋を作る作業をさせられた。
暖房がないので、翌日から下痢に苦しむ人が続出し、神経痛やリウマチになる者も多かった。
食糧の配給は脱脂大豆と粟だけ。それも一年目だけで、二年目からは自活命令が出たが、近くには魚のいる川がない。
百余種の鮮魚の生食で生きてきたのに、急に山菜と野草だけになったので、多くの人が栄養失調になった。畑を作っても、急には作物もとれない。
 山で狩猟をするには特務許可証と猟銃借用証を警察でもらわなければならない。
やむなく警察署に行くと、抗日分子を摘発したり、ソ連側の情報をとるスパイを命じられる。断われば敵側と見なされ、拷問される。
スパイになると、アヘンで給与が支払われた。
福、禄、寿の三種のアヘンのうち、なぜか禄膏がなくて福膏と寿膏が渡された。
二重スパイになって漁の許可証をもらい、下八岔に住んだ人たちも少数いる。

 それ以前からホジェン族の間ではアヘンは金銭がわりに使われていたし、アヘン吸食の習慣があった。
住慣れた川辺を追われた人々は、山地生活の苦しみを忘れようとアヘンと多用した。
栄養失調で飲んだ結果、心身の衰弱がはなはだしかった。
日本人警官は「アヘンは生活扶助料だ。それで食糧を買え」といったが、山地の集団部落を出るにはいろいろ許可が必要で、大変遠い市場まで食糧を買いに行ける者はほとんどいなかった。
三つの部落はそれぞれ四〇キロも離れていた。
町は最も近い部落からでさえ六〇キロもあり、外部との交流は皆無に等しかった。
近くに医師はいなかったし、薬品入手のあてもなく、病人やけが人にはいつもアヘンが与えられた。                        
 川魚を獲りに川まで遠出することは不可能だった。
許可より何より、そもそも交通手段がない。山住みのホジェン族がこうして魚肉の一片にもありつけなかったころ、アム―ル河や松花江のサケは、日系企業の満洲興農合作社の手で缶詰めや塩鮭にされて運び去られていた。
一九四四年、四五年には栄養失調や病気で死ぬ者がふえたが、葬式をして泣く気力もなかった。毎朝、冷たくしなびている人をみた。

[以上、林郁『大河流れゆく/アム―ル史想行』朝日新聞社一九八八年.二九一~二九四頁による]。

 一九九八年、出版された日本ビクタ―映像プロデュ―サ―の
市川捷護・市橋雄二両氏の『中国の少数民族を訪ねて』白水社には、
全四十巻に収録された中国五十五民族の民間伝統芸能を探る旅の中で、出会ったホジェン族の貴重な歌の歌詞が紹介されている。

 日本人の監督が、
「日本人に対して何か言いたいことはありませんか。日本軍の侵略を歌った歌はありませんか」という問に答えて、老人は「『シダリ・モルゲン』という歌がある」と答え、「歌ってもらえませんか」「歌ってやろう」というので、老人は河岸に座って次のように歌い始めた。
老人が歌ったのは、侵略者に追われた苦難に満ちた過去とそれに立ち向かった英雄シダリを讃える物語の冒頭の部分である。

 <わがホジェンの人々は、日本人が侵略してきたとき、「三部落」まで追い払われた。  婦人たちは子供を背負い、老人たちは杖をついて故郷をあとにした。沼地を渡るとき  に深みに足を取られて這い上がれない婦人がたくさんいた。
いくら老人が泣こうとも 婦人が叫ぼうとも、天も地も誰も助けてはくれなかった。
食べるものといえば木の実や皮しかなく、体はむくんでしまった。
日本人はわれわれにアヘンを吸わせた。
「三部落」では、人が死んでも外へ運ぶこともできず、一家族一家族と次々と死人が出たので、遺体を積み上げて燃やしてしまうしかなかった。…>

 老人はここまで歌うと涙があふれ、悲しみのあまり声が出なくなってしまった。
撮影中は歌の内容を理解することができなかったが、その表情からだいたい察することはできた。ス
タッフ全員いたたまれない気持ちでカメラを回し続けたが、ここで撮影を中断した。

[前掲書『中国55の少数民族を訪ねて』白水社一九九八年.一七四頁]。


 志賀勝氏は、
『アム―ル 中ソ国境を駆ける/満洲・シベリア鉄道紀行』研文出版一九八六年』という著書の中で
「2 被抑圧民族としてのナナイまたはホジェン/ある中ソ国境民族の歴史」という章を設けている。
その中で次のように述べ、『中国少数民族』という中国の文献の内容を紹介している。

 <さて、ここまで筆を進めながら常に念頭にあった主題に移ろう。
それは日本とナナイとの現代史における関係である。
日本帝国主義の満洲侵略がナナイにもたらした影響は筆舌に尽くしがたく悽惨であり、ジェノサイド以外の何物でもなかった。
漢族、ロシア人のあとにやってきた日本人が民族抹殺的であったのは理由のないことではない。
何故か。そ
れは、ナナイの生きる地方がソ連との国境地帯だからであり、生きる地方自体が抗日聯軍をはじめとする抗日運動の舞台だったからである。
中国側の資料は、例外なくナナイが受けねばならなかった破滅的実体を明らかにしている。

例えば『中国少数民族』をみてみよう。

日本帝国主義はホジェン族に対し抹殺政策をとった。
彼らに「吸烟証」やいわゆる「福寿膏」(つまり膏薬状のアヘン)を支給して彼らをだましアヘンを吸わせた。
日本帝国主義の人民を毒する政策は、ホジェン人の生活を極度に貧困化させただけでなく、人口減少の主要な原因の一つとなった。
最も悪らつなのは、抗日力量が大きくなるのを阻止するために、ホジェン人と抗日聯軍の密接な関係を断ち。
一九四二年に「家を集めて村にする(集家井屯)[いわゆる集団部落―東満でも南満でも日満軍警が実行し、民衆と抗日聯軍との連係を断ち、民衆を一括して容易かつ厳重に監視下に置いた]を実行したことである。
富錦、撫遠等のホジェン族人民を漁撈に適した故郷から引き離し、荒れ果てた密林に集め、彼らをいわゆる「一部落」「二部落」「三部落」に合わせ、外界と隔絶した。

その出口なしの人間地獄である「集団部落」で、狩猟は厳重な監視と統制を受け、捕獲品は全部日本と「満洲国」に渡さねばならなかった。
彼らは暗く湿っぽい穴ぐら(「地窖子」)に住み、食べるものは配給のどんぐりをひいた粉やひろい集めた野菜であり、着るものはノロジカの皮や「更生布」、ひどいのは麻袋の薄片であり、成年に達した多くの娘が衣服を着られず、加えて疾病が蔓延して多くの人が死に、「三部落」一つだけで移った時には百二十余人であったのがわずか三年間に五十余人が死に、死者は四一・七%に達した。
民国初年の資料によれば、ホジェン族は二、三千人いたが、解放前夜わずか三百人余に減じ、民族滅亡の悲惨な境遇に瀕していた。>


 …抗日勢力との結合と共に、日帝が恐れたのはソ連との結合であった。五九年王炳 論文では、通ソを名としたナナイ弾圧があったことを述べている…

[志賀勝『アム―ル 中ソ国境を駆ける/満洲・シベリア鉄道紀行』研文出版一九八六年.一五四~一五六頁]


  いま中国東北で朝鮮五葉は

[大興安嶺では]
 

朝鮮松すなわち朝鮮五葉松のことを中国では紅松 hongsong と呼ぶ。
二十世紀もあと二年で終るといういま、中国東北でかつての森林、東北抗日聯軍が密営を置いたような密林、またバイコフが賛歌を捧げたような樹海はそのままの形で残っているはずはなかろう。

一九八五年、国立民族学博物館の民族学者大塚和義氏は待望の大興安嶺のオロチョン族やトナカイ飼養のエヴェンク族の調査を許され、中国内蒙古の学者たちと共同で大興安嶺を訪れることができた。
この調査紀行が大塚和義氏『草原と樹海の民/中国・モンゴル草原と大興安嶺の少数民族を訪ねて』新宿書房一九八八年として出版されている。

 大興安嶺の最北端のソ連との国境を流れる黒龍江(アム―ル)に接するオルグヤ地区、その地にトナカイの群れを飼養しながら丸太を円錐形に組んだ天幕で暮らすエヴェンク族の調査が一つの目的であった。
このオルグヤの地は、一九四二年に京都大学の今西錦司を団長とする大興安嶺の学術探険隊が、トナカイを連れたかれらとめぐりあえた地点と、また時期も、奇しくもほぼ同じであった。

 <(バスの)車窓からの景観は、郷を出発してからしばらくは、道の両側とも太い樹木はほとんどなく、左手遠くに、緑一色の大興安嶺の低い山脈が続く。
その山裾と道路のあいだには、カラマツとシラカンバの平坦な疎林である。
急に、開けた草地に出たと思ったら、山火事の起きたところだ。
黒々と焼痕を残す枯れ木がたちならび、寂寥の風が吹く。
木株の根元には、けなげにも若木が密生している。その若木の育ちぐあいで、何年くらい前の山火事が分かるということであった。
陽光を受けて輝く、若葉の緑がまぶしい。
そのなかに咲く、イソツツジの紫紅色が印象的だ。
まっすぐにのびた針葉樹が、幹の皮をぬいで白い肌をさらしている。
これが樟子松(チョウセンマツ)である。
大興安嶺の代表的な樹種のひとつだ。…>

 [前掲書『草原と樹海の民』一八五頁]。

 なお、ここでも旧日本軍の記憶が残っていた。

<学校教育の経験のないお年寄りたちは、ほとんど漢語を解さず、エヴェンク語―漢語―日本語という二重の通訳を通しての会話であったが、しだいに盛り上がってきた。
そのうち、
「前にも日本の人が大勢来ました。兵隊さんでした。四〇年以上も前でした。
ノノガキといいます。知っていますか」という言葉が出てきて驚いた。

一九三八年に、満洲国治安部参謀司調査課の永田珍馨(はるか )らによる調査にもとづき、関東軍は、北満の国境地帯を六つの地域に分けて、地区ごとに満洲国軍の日系将校を派遣し、エヴェンク族やオロチョン族の一五歳以上の男子を集めて部隊を編成して、対ソ戦に備えた謀略部隊をつくって訓練をした。
そのとき、トナカイ地区の責任者が野々垣真三であったことは、書物でもよく知られている。
お年寄りたちは、わたしという日本人に再会し、記憶のなかの「ノノガキ」を思い出したのだった。史実が重く、わが身をとらえた。> 

[前掲書、一八九頁]。


[小興安嶺では]

 NHK特集<秘境・興安嶺をゆく>取材班は中国黒龍江電視台クル―の協力を得て、一九八六年から丸二年かけていまなお太古の原生林の生い茂る秘境「興安嶺」の奥深くテレビカメラを持ち込んで取材を行なうことが許された。
この取材記録が、『秘境・興安嶺をゆく』Ⅰ.Ⅱ 日本放送出版協会一九八八年として出版されている。その中に、小興安嶺の森林における朝鮮五葉のことが出てくる。

 <南東の季節風はまず長白山脈からチェルノボイ山脈を雨を降らし、次いで小興安嶺に達する。
小興安嶺は地形的にも気候的にもいわば大興安嶺の前山として働き、実際、ここで雨の大部分が消費されてしまう。
小興安嶺の森林にはチョウセンゴヨウが多い。
かつてはもっと大きな樹木も少なくなかったというが、今でも私たちの目には相当立派に見える。
たとえば、小興安嶺のほぼ中央部、五営の付近で西に向かって森林に分け入ってみると、たちまち高さ二〇メ―トルから三〇メ―トルに達する樹木に囲まれることになる。直径は一メ―トルから一メ―トル二〇センチくらいはあろうか。
チョウセンゴヨウというのはそれほど葉が密ではないから、昼なお暗いという感じにはならないが、それでも亭亭たる森林がほとんど無限のおももちで続くのは壮観であった。森林の中に、これも相当に巨大なモンゴルナラの混じっていることがある。
モンゴリナラは日本のミズナラとカシワの間に位置するような種類で、この山脈を含めて東北部の東側にかけてきわめて多い。
小興安嶺では山裾をめぐって発達しているが、時としてチョウセンゴヨウの森林の中に出現するのである。この他の樹種としてはナナカマドやイタヤカエデ、それにヒロハノキハダなど北海道や東北地方に産する種類も少なくない。
それは私たちにとって親しみやすい景色であろう。

ただ、そこにはもちろんササがなく、そして日本の山だったらもっと多いはずの大型の草本類が少ないのである。林の下には時折チョウセンゴヨウの種子かたまって落ちている。これは種子を集めているものらしい。
日本で売られている松の実の中には、ここ小興安嶺をその産地とするものがあるのではないか。> 
[前掲書『興安嶺をゆくⅡ』二三二~二三三頁]。


黒龍江省では]

 同じく『興安嶺をゆくⅠ』には狩猟の民としてオロチョン族、漁撈の民として黒龍江のほとりに住むホジェン族が取材されている。
そして、ホジェン族を訪問する中で、間宮林蔵がすでに出会い購入した「ナナイの五葉松の船」を発見している。
同江市街津口赫哲族郷、北緯四八度、東経一三三度に位置し、千島列島の中部やサハリン南部、カナダのバンク―バ―、フランスのブルタ―ニュ地方などとほぼ同じである。

 <蓮花河の川辺を歩く。
黒龍江への出口をふさぐように、厚い氷塊がたえまなく流れている。
春の漁が始まるのは、この流氷が消えてからである。
みんな船の修理や網の手入れに追われている。冬の間、破損しないように自分の家の庭に船をだいじにしまっておいた家も多く、車に載せて川辺に船を運ぶ姿も見受けられる。
船を降ろす時の、イ―アルサン!という威勢のよいかけ声があちこちから聞こえてくる。船は、長さおよそ七メ―トル、幅二メ―トル、うしろに船外機のついた木造船である。
材質は、腐りにくくて、水に強いという紅松(チョウセンゴヨウ)が使われている。
船一隻の値段は、四〇〇〇元から五〇〇〇元だという。
船は全体で一五〇隻あるが、ホジェン族の持ち船は六五隻である。>

[前掲書.『秘境・興安嶺をゆくⅠ』一六四~一六六頁]。


[吉林省では]

 一九九八年三月四日の朝日新聞に「広がる一方<南北格差>/中国改革・開放20年」という見出しの記事で、片や広東の大企業と対比して、吉林の林業校のことが紹介されていた。
 
<ロシアと朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に接する吉林省延辺朝鮮族自治州の州都、延吉市にある全寮制の延辺林業学校は二日、名残雪のなか新学期を迎えた。
<みな元気に戻ってきた>。

二か月間の休みを終えた千三百人の学生を見て、教職員は胸をなで下ろした。学費に事欠き、就学が容易でない学生が少なくないからだ。
延辺は林業が盛んだった。
だが、乱伐で伐採量が減り、国有加工場の仕事も少なくなった。他の国有企業同様に失業は珍しくない。> 
チョウセンゴヨウも多分乱伐されたに違いない。


[遼寧省では]

 京都大学農学部の森林科学科の教授、川奈辺三郎氏が遼寧省森林経営研究所に招聘されて、
瀋陽市と丹東市の中間に位置する本渓県草河口にある研究所を訪ねた紀行文が、
土井林学振興会発行の『随想 森林』一九九七年七月号に掲載されていた。

 
<研究所は丘陵にとり囲まれた農業地帯にあり、標高は約二〇〇mで年平均気温は六・一C,年降水量は九四〇mm、最低気温はマイナス三〇c以下になることもあるという。
緯度は青森あたりと同じであるが、気候は釧路の北方の標茶町にある京大北海道演習林の気象とほぼ似た値である。
農地に適した丘陵の斜面の下部は放牧地や採草地で、その上には広葉樹の二次林が広がっている。
この地域の本来の森林はチョウセンゴヨウ(紅松)やモミなどの針葉樹と、ミズナラ、イタヤカエデ、クルミなど広葉樹との混交林であったと考えられているが、伐採が繰り返されたためほとんどが若い二次林になっている。
国有林の割合は少なく大部分が集団有林で、いわゆる村有林として経営されている。…
研究所は本渓、撫順、桓仁、丹東などに合計二六〇〇haの試験林を持ち、その使命は二次林の林相改良による生産力の増強と国土保全機能の向上であり、施業の方針は人工林の拡大によって林業を活性化し、農山村の生活を向上させることであるとの説明を受けた。
研究テ―マは、チョウセンゴヨウ、カラマツ(大部分はニホンカラマツ)などの人工林の造成、二次林の択伐とチョウセンゴヨウの樹下栽培による針広混交複層林の育成などである。

なかでも、特に材質の優れたチョウセンゴヨウを二次林内に植栽して針広混交林を造成し、より豊かな自然林への回帰を目指すと共に種の多様性を確保するための研究を重視していることが強調された。
研究所の近くの傾斜の緩い丘陵地にこの地域で最も古いチョウセンゴヨウの人工林がある。一九三五年に植栽されたものといわれ、面積六 ha 、林齢五十九年生での平均直径は三三cm、樹高二三m、ha当たりの本数四六六本、林積四五一平方mで…貴重な見本林になっている。…
試験林のなかには、樹下植栽されたチョウセンゴヨウの周囲に細辛や朝鮮人参などの薬草が栽培されていた。…
研究所の運営費の多くは、試験林で伐採された材の売却や、チョウセンゴヨウの採種園から得た種子の販売などで得ているという。…
なお本研究所は一九九七年に、鴨緑江に面した丹東市に移転する予定になっている。>

  和漢方生薬 海松子

 高麗産を最良とはするが中国東北となった満洲でも採取されたベニマツ即ちチョウセンゴヨウの松の実は食料、ときには救荒食物として食用されたばかりでなく中国でも古来五臓を養い、肺を潤し、胃腸を暖め、滋養豊富で強壮、スタミナをつけ、カラセキによく、白髪にもよいとされてきた。
また、良質の植物蛋白質が豊富で、若さのビタミンといわれるビタミンEも多く含み、肌に潤いと張りを与え若々しく美しくしてくれ、健脳によい、美肌、老化を防ぎ、不老長寿の妙薬ともいわれてきた。
そこで「仙人の食べ物、仙人食」として、和漢方生薬として珍重されてきた。

『列仙伝』に出てくる犢子は漢代の人だが、若いころ河南省黒山で松の実や茯苓を採取し、団子にして服用し、数百才も生きた。 
は松の実を食べ疾走する馬と競って勝ち、二、三百年も生きたといわれる。

 和漢薬を研究する薬学者たちが執筆した『漢方実用大事典』学習研究社一九九〇年を見ると、チョウセンゴヨウ即ちベニマツから採取した「松の実」が種々の薬膳に「海松子」として随所に登場している。
 母乳の出をよくする蒲公英江米飯 ブ-クンインジアンミ-フアン という炊き込みおこわに、新陳代謝をよくする天麻胡桃松子カユティエンマ-フ-タオスンズジォウ というカユに、糖尿病によい茯苓一品豆腐 フ-リンイッピンドウフ という豆腐の蒸し物に、老化を防ぐテハチムという車えびのあえものに、同じく牛肉のス―プに、同じく五目おこわに、同じく薬飯に、また松子肚巻スインツ-ト-シャン という豚の胃袋の詰め物に、鶏の松の実入りナッツ炒めに、総じて薬膳料理によく用いられている。松の実酒という薬草酒もある。
 こうして、海松子、チョウセンゴヨウの松の実は、朝鮮半島および中国東北から中国全域、ロシア極東から日本列島まで、東アジア―環蒼海(東海―日本海)世界に生きる人々に薬用あるいは食用として共通に古来役立てられ珍重されてきたのである。


     
  FAOの中国森林資源報告から


 国連食糧農業機構(FAO)から依頼されて、一九七六年から一九八〇年にわたって、行なわれた中国へのFAO林業派遣団ならびに研究旅行者によって得られた情報を総合、要約して取りまとめられたのが、
『中国の森林資源と林業』という報告書であり、
野村勇氏の監修・訳で一九八八年に農村文化社から出版されている。[原書は英文で、Forestry in China 1982 ]

 まず、第二章 森林資源 の 4 針葉樹・北部広葉樹混交林 に (1)位置と一般概況 として<この地域は小興安嶺と長白山山脈(万年雪をもつ)に広大な面積を占めている。このタイプの森林は標高四〇〇~一〇〇〇mの低い地域にみられる。>とあり、
(2)構成 では<このタイプの森林は Pinus koraiensis (チョウセンゴヨウ)と多くの落葉広葉樹から構成されている。>とある。また、一九八〇年三月現在の中国自然保留地域 という表には、チョウセンゴヨウに関係のありそうな指定地域としては、1に 北京省 ウェイチァン Wei-chang自然保留地 ウェイチァン皇帝狩猟地、北京北方約六四キロ 面積不明 目的-天然林、北部中国サルの最後の自然棲息地 一九五八年設立 所管-林業部、森林保留局、北京 があり、4に 内モンゴル省 ハンマ―フジン Hamma-Hujin 大興安嶺自然保留地 ハンマ、ならびにミイド・レミンハ―
Mid Reminha 河 四八〇〇〇ha 目的-自然生態系(カラマツ優先の針葉樹林) 一九五八年の国家会議により承認され区画された、一九六〇年設立 とあり、7として 吉林省 長白山自然保留地 安図 撫松 長白山 面積-二一五一一〇 ha,厳格な保護地は一三二二三五 ha 目的-自然生態系、アルタイトラ、日本ジカ 一九六〇年吉林省人民委員会により承認、区画 所管-吉林省、林業部、長白山自然保留地管理局 職員数-二五〇名 とある。
 一九八〇年三月現在中国において指定された森林保留地(表3―3)という表には
8 黒龍江省 豊林森林保留地 伊春市 一八四〇〇 ha 目的-チョウセンゴヨウの原生林、母樹林 一九五八年に区画、一九六三年に設立 所管-黒龍江省森林研究所、豊林森林保留地管理局 職員数-五六名 とある。
 さらに、第六章 造林・伐木および木材輸送 の (1)東北地域 にはこうある。
<東北地域は中国の森林資源の六〇%を占めている。現在、ほとんどの大型木材加工工場が同地域または近くの都市に依存している。原始林は、人の近づきにくいモンゴル高原、小・大興安嶺および長白山脈により形成された馬蹄形の高地に賦存している。低地は潅木林と薄い植生に覆われた傾斜地に退化している。この地域の平原は集約的に耕耘されていて、しかも、人口が稠密である。
 東北地方のおもな造林問題は、これらの老齢林の伐採と更新である。ベニマツ(チョウセンゴヨウマツ)はこの地域でもっとも重要な商業品種である。それ以外に、少なくとも二〇種類の針葉および広・針葉タイプの商業樹林がある。「択伐」伐採が実施され、多くの地域では「天然更新」に依存している。しかし、択伐伐採は不採用になってきている。その原因は択伐の誤用と森林タイプがこのような造林システムに適合しないことに起因している。ときどき非商業樹種が優良な商業樹種よりもむしろ優勢になる傾向をもっている。したがって、のぞましい方法は皆伐してそのあとに植林をすることである。>
 第六章には、チョウセンゴヨウについてさらに詳しい言及がある。
<(4)ベニマツ Pinus koraiensis (チョウセンゴヨウ、朝鮮松) 中国人は Pinus koraiensis のことをベニマツ(紅松)ないしアカマツ(赤松)と呼称している。ベニマツの天然分布は東北部省の東部に限られている。この樹木は、大きな食用種子で広く知られている。
 原始林の中でベニマツは樹高四〇m、直径一・五mで、樹齢五〇〇年以上である。この樹木はまっすぐで、きれいな樹幹が他の混交北部広葉樹の林冠を超える特徴をもっている。これらの混交広葉樹としてはモミジ、カンバ、シナノキ、クルミ、トネリコなどがある。 天然分布と差異―ベニマツの天然分布はほぼ白頭山と小興安嶺の山岳地帯と一致している。それは東部黒龍江省の49°20′から遼寧省の40°45′までにわたっている。 その広い緯度範囲の中で、立地条件ならびに地理的な種生産地条件において相当の差異が存在している。北部の黒龍江省大嶺地区で年平均気温は―2°Cであり、そして成長期間は五月から九月までの一五〇日である。南部の遼寧省カンフォカオ(Canhokao) 地区では年平均気温は5°Cから8°Cであり、成長期間は四月から一〇月初頭までの一八〇日である。二つの場所における二〇年ベニマツ造林地において、南部造林地の樹木は北部造林地の樹木に対比して樹高は五〇%高く、そして直径は三〇%ほど太くなっている。
 人工更新―過去三〇年間に、新しい道路が開設されてきたので、多くの原始林が伐採されている。伐採跡地はほとんど人工的手段によって更新されている。ふつうの方法としては二~三年生苗木を一haあたり四四〇〇本(近接しづらい地域では三三〇〇本)の間隔で植栽されている。
 ベニマツは多くのさまざまな植林立地に植栽される。しかしながら、ベニマツは水が充満した土壌には育てられない。そしてまた浅い、岩の多い土壌あるいはカルシウム分の高い土壌でも良く成長しない。ベニマツは最低一〇〇日以上の無霜の成長期と最低五〇cmの降雨量を必要とするが、冬の極端な寒さには耐えることができる。
 北方地域において、ベニマツ苗木は―50Cといった厳しい冬の気候にも害を受けない。頂芽ならびに若芽は厳しい霜がくる前に十分かたくなっている。もっとも重大な被害はネズミなどの齧歯類動物によってもたらされ、適当な防御をしないと若い植林は破壊されてしまう。
 樹高ならびに直径成長―中国人は八〇年以上にもわたってベニマツ造林の管理をおこなってきている。この経験によると三〇~四〇年生で製材用材がとれるという。
 ベニマツ造林の成長は当初一〇年間は遅く、年平均樹高成長は〇・四m以下である。樹高成長は一二年目から成長を開始し、樹高成長率が減少を示す三〇年目まで、年平均樹高成長は〇・五〇m~〇・六五mである。最高樹高成長は一六年目に起こる。
 直径成長は同じように当初一〇年間は遅い。一一年目から二六年目までの年平均直径成長は〇・七五~一・四〇cmである。最高直径成長は一二~一四年目に生ずる。直径成長は二六年目以降減少を示し始める。
 人工林対天然林―人工林と天然林のベニマツの間にはその成長ならびに樹形などにおいて顕著な相違が見られる。次の表6―4は四〇年生での両者の比較である。

       表6―4 ベニマツの人工林と天然林の対比
 (項目)        (平均樹高m)  (平均直径m) (ha当たり材積 ) 
四〇年生のベニマツ人工林
遼寧省カンフォカオ      15.6     20.9    255.71
haあたり1020本植栽

四〇年生のベニマツ天然林
黒龍江省の小興安嶺       5.57     4.98    44.09


以上の数量的成長での対比はきわめて概算値のものである。
種生産地ならびに環境条件の相違なども参酌されていない。
しかしながら、天然林のベニマツの初期成長は厳しく抑えられていることは明白である。
 樹形―バニマツの樹形の差異は著しい。
人工林の樹形はまっすぐで、きれいな樹幹をもっている。
しかし人工林においても初期には多くの枝分かれが発生する。遼寧省のカンフォカオ人工林のベニマツは一一年生のとき、叢状化( multiple forking )を示し始めた。叢状化樹木の割合は二一年生のときに13.1%、そして三一年生で48%にまで増加した。この割合は樹齢とともに増加している。

叢状化状況は頂芽および頂枝の傷害に原因がある。
その傷害要因としては病虫、齧歯類動物ならびに不規則な気候条件などがあげられる。
この状況はアメリカ東部の東部シロマツが松象昆虫の感染を受けた場合と全く類似している。>[
翻訳書.一九〇~一九四頁] 

<叢状化>といえば、東京の小石川植物園に一本あるチョウセンゴヨウマツは樹高は低く叢状化>している。また、新宿御苑の管理事務所の所員がチョウセンゴヨウだという割と大きな、しかし樹高は小石川の五葉松よりはずっと高いが、それほど高くはないチョウセンゴヨウも完全な<叢状化>している。このことを知らなかったときは、これが本当に朝鮮五葉松なのか、と疑ったものである。

 なお、一九八四年出版の『華北樹木志』中国林業出版社の四一頁にある<ベニマツ>の項目の説明を読むと、次のように説明している。       


 ベニマツすなわちチョウセンゴヨウの主産地としては中国東北をあげ、ほかに北京、河北承徳、山東泰安、青島でも植栽されていると書いている。
とくに承徳のマオジンハ森林保留地のベニマツは成長が比較的良く、将来に期待がもてる、と指摘している。
 なお、ベニマツつまりチョウセンゴヨウの材質は、軽く柔らかく木目細かで、筋目はまっすぐで、加工しやすく、ひびがはいることなく、そらず、腐朽しにくく、強い圧力に耐えるので、建築・橋梁・造船・車両・枕木・電柱・鉱坑の棟柱・家具などに用いられる、ともある。             
 これは長い数千年の歴史を通して、中国およびその影響を受けた世界では、人々がチョウセンゴヨウ=ベニマツの材木で建築物や橋梁・車両をつくり、枕木を敷き電柱を建て鉱坑を保全してきたり、様々な家具をつくってきたことを示している。
チョウセンゴヨウは、東北アジアを中心に世界の数千年の歴史を通じて、各地域の民族、人々にこのような恵みを与え続けてきたのである。
その上に、例の「海松子」の幸がある。ベニマツつまりチョウセンゴヨウの松の実は、「不老長寿の妙薬」として、この松林の合間に潜むチョウセンニンジンとともに、数千年間諸民族の生命にその恵みを分かち合ってきたのである。

 また、岡田英弘氏の『皇帝たちの中国』原書房一九九八年の一九頁を見ると、
中国人はどこから来たのかという節で先史時代の説明のところで、
<洛陽盆地の北方では、山西高原がモンゴル高原から南に突き出して、黄河の北岸に接している。山西高原は、古くはカエデ、シナノキ、カバ、チョウセンマツ、カシ、クルミ、ニレナドの森林におおわれ、陰山山脈や大興安嶺山脈の森林に連なっていた。
この森林地帯に住む狩猟民は、毛皮や高麗人参を平原の農耕民にもたらし、農産物を手に入れる交易を行なっていた。
この狩猟民を「狄てき 」といった。
「狄」は交易の「易」と同じ意味で、北方の住人なので「北狄 ほくてき 」ともいう。>

 [岡田英弘『皇帝たちの中国』原書房.一九九八年.一九頁]。

 ここを読むと、ヌルハチの話のところで述べた、女真族という狩猟採集民、そのなかから勃興した建州女真、そこから生れたヌルハチ、後の太祖だが、彼が少年時代深山密林に囲まれたふるさとの特産である毛皮、その中で最も貴重なのがクロテンの毛皮だったのだが、朝鮮人参つまり高麗人参やチョウセンマツつまりチョウセンゴヨウの松の実など、あまりかさばらずしかも重くはない品物をもって、はるばる西方の平原の撫順の馬市に運んで商売を覚え、平原の「文明語」であった蒙古語や漢語も自然と身につけたという伝承めいた話を思い出す。

とにかく、かつては(いわゆる先史時代という有史時代)華北の山西高原も密林地帯でそこにはチョウセンゴヨウが生い茂り、そのかたわらには朝鮮人参が潜み、クロテンも、おそらくウスリ―トラの親類のようなトラもかけめぐっていたのではなかろうか。つまり、ここ山西高原も<満洲生態系>あるいは<ウスリ―生態系>つまり<ウスリ―的世界>あるいは<間島カンド的世界>の延長線上にあったのではなかろうか。

 それは、今度は離れ小島の列島である日本列島に戻ってきて、そこにチョウセンマツ=チョウセンゴヨウを尋ねるとき、同じ生態があったのではないかを予感させるものがあると思う。
 「中華」から見れば、海を隔てた「蛮(ばん 」の辺境僻地、「南蛮(なんばん)」の外地である日本列島へそろそろ<チョウセンゴヨウへの旅>を移さなければならない。

  黄土高原/失われた森の文化を求めて
 

一九九九年五月二日、NHK衛星第二放送で<地球に好奇心>シリ―ズとして
<黄土高原・失われた森の文化を求めて>というドキュメントを見た。

 春秋戦国時代頃は、黄土高原の五〇%は緑の森林地帯であったという。
前漢時代に農業化が進み、森林破壊が進行し、逆に黄土高原化が始まったという。
黄帝廟のある地域に残る森林が写り、貴州省のトイ族か、植林する木の文化人の部落が興味深く取材されていた。
また、再び黄土高原に木を植えて再び緑を取り戻そうとしている研究およびその試みも取り上げられていたが、画面に写るあの膨大な荒涼とした黄土地帯が緑化する日は近い将来に本当に訪れる可能性はあるのだろうか、と思わせ、ある意味で絶望的な感想を抱かさせられた。
中国の古典『詩経』や『楚辞』には、黄河の水が澄み、黄色ではなかった、緑と森の中原が歌われているという。

農耕、農業というものがどんなに緑と森を破壊してきたか、今までの農耕中心主義の文明観・文化観では無視されていた価値がいまや荒廃しつつある地球の歴史を見直すものとしてせりだしてきている観がある。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

朝鮮五葉松への旅 第二話 北方民族ナナイと朝鮮五葉松

朝鮮五葉松への旅
第二話 北方民族ナナイと朝鮮五葉松
 

第二話の舞台は、ロシア極東、行政区だとアム―ル州・ハバロフスク地方・沿海地方(沿海州)へ移る。
ここでの朝鮮五葉の有無と所在、その生態である。  

  アム―ルを遡る間宮林蔵

 常隆出身の幕吏であった間宮林蔵は、一八〇〇年蝦夷御用雇となり、同地の探検と測量を任務とした。
この数年前、一七九二年、ロシア帝国使節ラクスマンが伊勢の漂流民大黒屋幸大夫らを護送して根室に入港、通商を求めた。
これには、漂流民護送を謝し、通商に関する国法を伝えて長崎に廻航させ一応帰ってもらえた。
一八〇四年には、再びロシア使節レザノフが長崎に漂流民を護送、貿易を求めた。
これも拒否して退去させたが、一八〇六年、一八〇七年、ロシア船は相次いでカラフト(今のサハリン)・エトロフに来航、松前藩会所を襲い番人を連行、利尻島を侵し幕府の船を焼くなどの行為を重ね、連行の番人を通じて通商を要求、拒否の場合は攻撃を予告したりした。

 このように北辺の情勢が急を告げるなかで、カラフトなど北辺にロシア勢力や中国(清)などがどのように進出しつつあるか、といった情勢把握が急務となり、蝦夷地測量家の間宮林蔵と北方警備の任にあった松田伝十郎にカラフト検分の幕命が下る。
当時の世界は、そこに住む先住民のほかは、カラフトが島なのか半島なのかをまだ知らなかった。

 文化五年(一八〇八年)、まず松田次いで間宮はカラフト西岸北部のラッカ岬に至り、「山丹地(沿海州)マンコウ川(黒龍江)吐口等もはきと見分しゆへ、カラフト離島に相違なし(海峡のさし渡し四里程にして)」カラフトが島であるということをほぼ確認できた。
カラフトと大陸の間の海峡を最初に確認したのは、実は松田伝十郎のほうであり、林蔵がアム―ル探検の際同行してもらうコ―ニという名のスメレンクル(ニヴフ)と最初に信頼関係を開いたのも伝十郎のほうだった
。間宮林蔵の「海峡発見」も実は伝十郎に案内されたものであり、上役である伝十郎がそれ以上は危険であると進むのをやめた砂州をあえて進もうとした林蔵に伝十郎は「迷惑ながら拠よんどころなく…再度ラッカ岬に至り」と記している。  

 しかし、測量により確かなカラフト地図を作成しようと不満な林蔵は、同年、単身で再度カラフトに赴く。
翌一八〇九年、カラフトの北端に近いナニオ―で林蔵はカラフトが島であることを再度確認し、さらに、彼は予定外の見聞であるが、既に北蝦夷地と改称されたカラフトを出発し、東韃靼(のちの沿海州)へ渡航し、黒龍江(アム―ル河)下流域のデレンにまで至り、いわゆるサンタン人や北カラフトの先住民が貿易する様を見聞し、これを『東靼地方紀行』『北夷分界余話』なる探検記録に書き残した。
彼はその前書きの凡例で「自ら見ざる処の事は、大抵口述することなし」と書いている。

その『東靼地方紀行』の一八〇九年月十日の記録にこうある。 
                        
 『夫(ジャレ―と称する処)より又船を出し、二里半許も漕ぎ上りウルゲ―と云処に至りしに、此処よりコルデッケ(コルジ)と名づけたる異俗夷の部落なり。
船夷船を買の事有て、其日は此処に滞泊す。
 一 地夷の容貌理髪、其他衣服に至るまで、山丹夷に異なる事なし。
其言語は少異ありといへども、一日の滞泊中、其詳なる事をしらず。
 一 此異種総て五葉松の大材を以て船を作る事を業とす。
南方諸夷の用る処皆此地の造り出す処なり。故に船夷此処に至て齎し行処の獣皮を以て船一艘を易得、是より諸雑器を二艘に分積しデレンに趣くといふ。
 一 此辺よりして奥地は気候少しく異にして温暖なる事を覚ふ。
故に草木の形状亦カラフト奥地・サンタン地(黒龍江下流域)の如きにあらず、青々蒼々として繁茂せり。故に南方諸夷壌に見ざる大材を産す。
天度にさまで隔絶なくして、かかる事ありけるはあやしむべき事の一事なるべし。
 一 地夷の内満洲夷のごとく剃頭の者あるを見しかども、其住夷なりや否を問わざりしまま何者たる事をしらず。』
[『東靼地方紀行』東洋文庫.平凡社.一三一頁]

 「自ら確かめた事実のみを真実とした」間宮林蔵のこの見聞で注目するところが三つある。コルデッケ即ナナイという北方民族に日本人として初めて出会っていることと、ナナイたちの住む黒龍江(アム―ル河)中流より上手の地域が下手とは異なる気候と風土であるとの情報をもたらしていることと、五葉松の大材を産する青々蒼々として草木繁茂するアム―ル・ウスリ―両河という地域、同時にそこはナナイなど北方民族の住む土地である、についての情報を入手していることである。
 林蔵の同行者で案内人兼通訳でもあったろうスメレンクル(ニヴフ)は川下の隣人であり、川上の隣人がコルデッケである。
コルデッケは正確にはゴルドックで、ゴルドあるいはゴリドと関係があるだろう。後のロシア人が呼んだナナイの祖先である。

佐々木史郎氏は『北方からの交易民―絹と毛皮とサンタン人―』
NHK ブックスで次のように指摘する。
                        
『そこ(ウルゲ―即コルデッケの最下流の集落)しか滞在しなかったにもかかわらず、コルデッケの言語がサンタンの言語と少々異なること、五葉松で船を作ることを得意としていて、樺太から来た者も彼らから船を買って旅を続けること、彼らの中には剃頭して弁髪を結っている者、つまり満洲式に頭の周囲にくるりと剃りを入れ、残りの髪を一本の三つ編みにしてたらしている者がいることなど、後の民族誌でも確認できることが鋭く指摘されている。』

 林蔵の見聞こそ現代日本人も学ぶべき観察力を示している。
 林蔵が出会ったナナイの祖先もまた、北方の絹と毛皮の道を通って日本と中国の間の交易に従事していたわけである。
デレンの交易所でもそこで働くナナイの祖先たちに林蔵は出会っているはずである。
彼が黒龍江下流を探検した当時は、清朝の「満洲仮府」が開かれていたデレン(北緯五一度一五分)の手前約四里のウルゲ―が最北のゴルジ部落であった。
ゴルジ即ナナイの祖先は、ウルゲ―から上流、松花江(スンガリ―)との合流地点付近までの黒龍江本流域と、ウスリ―河中下流域、松花江下流域に広く分布していた。
このゴルジの居住地に接して、黒龍江の下流域には、サンタン人オルチャが居住していた。清初におけるサンタン・ゴルジの居住区の境は、ウルゲ―よりもっと上流の北緯五〇度に位置するウチャラ付近だった。
中国人はゴルジ即ナナイの祖先をゴルジの自称族名ヘジェンをとって、黒金・黒斤・黒津・赫哲・和真などと意訳した。
ゴルジは早くから満洲化して剃髪(弁髪)していたので、剃髪黒金・短毛子などの称もあった。
また、魚皮を衣服あるいは靴の材料としていたので魚皮部・魚皮韃子などともいわれた。
 ゴルジ即ナナイの祖先の生業は、魚撈・狩猟であったが、林蔵が見聞し、購入したように五葉松の大材から優れた船を作り、これを近隣―時にはカラフト・北蝦夷のアイヌにまで―売る船大工であり、サンタン人と並ぶ商人でもあった。
林蔵はゴルジ即ナナイの五葉松を材料とする船の作り方について『北夷分界余話』巻之九で述べているが、この船は元以後の中国文献に見えている黒龍江流域で使われた五板船と呼ばれたものであるらしい。
これはアイヌの板綴船(渡海船)のように、丸木船を敷として側板を縫いつけたものではない。底も板である。
コルデッケ船即ナナイ船は、底に一枚、側板として左右各二枚、あわせて五枚の板で作った構造船である。舳には鹿角状の木根をつけていたという。
 ナナイの住む黒龍江即アム―ル河からウスリ―河、松花江にかけての地域は、今日、ロシア領ハバロフスク州、プリモルスキ―地方(沿海州)、中国領の黒龍江省にまたがっている。
間宮林蔵がこの地域を踏査した時は、この地域は清朝の吉林省部分に属し、まだロシア領にはなっていない[『簡明中国歴史地図』中国地図出版社一九九一年、六五~六六頁.「清時期全図(一)」]。
この地域がロシア領に併合・編入される経過は次のとおりである。
英仏のアロ―戦争下の一八五八年の愛琿(現黒河)条約でまずアム―ル河以北をロシアが合併、沿海州(プリモルスキ―地方)を露清の共同管理地域とし、これ以後ロシア人勢力がこの地域をわがもの顔で乗り込んでくる。
同戦争下の天津条約(英仏露米対清朝、一八五八年)、さらに北京条約(英仏露対清朝、一八六〇年)でロシアは沿海州、英国は九龍を獲得した。
今まで先住民+満洲人+漢人の世界であった沿海州地域に新たにロシア人勢力が乗り込むことによって起る葛藤を中国の作家李克異(哀犀)『歴史的回声』(森脇英夫氏ほか訳『大地の谺』徳間書店)という小説が、ロシアのシベリア鉄道建設綺譚として書いていて珍しいのだが、残念なのは抄訳でしかないことだ。

  ナナイの民話絵本

 さて、私が少数民族、なかでも北方、東北アジアから北方ユ―ラシアの少数民族に興味を抱いてからもうどれほど時が経ったことだろうか。

一九七九年、ハバロフスク経由でモスクワに飛んだ時、ハバロフスクのホテルのキオスクに偶々売れ残っていた英文のナナイ民話の絵本を買い求めた。
『メルゲンと彼の友達』という奇麗な絵本であった。 
                            
その絵本の冒頭の一行が、ナナイと朝鮮五葉との深い縁をたどるキッカケになろうとは、絵本を手にしたときは全く予想もつかなかったことだ。

 新たに北方史への興味が涌いてきたのは、日本人が食べている野菜に意外に北方伝来、北方系統のものが多いこと[青葉高『野菜―在来品種の系譜』ものと人間の文化史43.法政大学出版局]に気づき、ソバを栽培しその種子を煮たり、粉にして食したりする食生活の源流のひとつにバイカル湖地域(バイカル湖を中心に両側に広がる森林地帯の北側)もあるという加藤晋平氏の説を知ったときであった。

そして、大昔の沿海州から北海道が案外に栄えた農業地帯であったという説[宮本常一『日本文化の形成 講義2』八〇~八一頁]を知るにつけ、しまっておいたナナイ民話の絵本がふたたび思い出されたのだ。

 それは、ナナイの民の間では若者、そして勇気ある者の代名詞であるメルゲンを主人公とし、彼をいざという時に現われて難題を解いて助けてくれるメルゲンの友達であるシカとアリとチョウザメの物語である。

平原、森林、山岳、河川を自らの世界として自由な狩猟漁撈に生きる若き勇者メルゲンは、生死の危機にあったシカ、アリ、チョウザメに偶々出会い、彼らを救ってやり、敬愛される友達となる。

今度メルゲンが何かの事で助けを求めたら何時でも現われてメルゲンを助けてくれるという誓約が結ばれる。
部落の首長から美しい娘を嫁取りたいなら次の難題を一日中に解けと言われて、ちょうどあの<竹取り物語>の公達たちが課せられた難題が次々にメルゲンに担わされる。

とてもひとりの人間が一日では解決不可能な難題を救いを求められたメルゲンの友達たちはいとも簡単に解決してしまい、めでたしめでたしという民話である。

 この絵本の最初の頁に、メルゲンが獲物を求めて密林の王の住む樹海の奥深く踏み込む場面があり、「モミやマツの森林を抜けて…」という箇所がある。
このウスリ―・アム―ル両河流域に暮す狩人メルゲンが通り抜けたマツの林のマツとは、何の松なのだろうか?
ひょっとすると、これこそチョウセンゴヨウ 朝鮮松なのではないだろうか? 
こういう疑問・問題が湧き起ってきたのである。

 ナナイの故里ウスリ―、アム―ル流域に朝鮮五葉が繁っているかどうかを確かめる作業は、だいぶ回り道をせざるを得なかった。
加藤九祚氏の『ユ―ラシア野帳』、アルセ―ニェフ『デルスウ・ウザ―ラ』、『シベリア大冒険―東京っ子一〇〇人、緑の大地を行く』などいろいろ探してみるが、見当たらない。
ユ―リ―・B・プキンスキ―という動物学者の『ビキン川にシマブクロを追って/アム―ルの自然誌』千村裕子氏訳.平凡社一九八九年でやっとウスリ―・アム―ルの朝鮮五葉にたどり着くことができた。
ビキン川とはウスリ―河の支流であり、プリモ―リェとは沿海地方のことである。

「たとえばプリモ―リェの誇るチョウセンゴヨウ…」という文句や、「ビキン上流でもマツ・広葉樹林のタイガは、ヨ―ロッパの森林からは信じられないほどうっそうと茂った堂々たるものだ。
このあたりの木は二五メ―トルから三〇メ―トル以上の高さにまで達している。
こういった森は、その三分の二が青銅器時代のチョウセンゴヨウから成る。」が 広大なタイガ、太古の自然のままの原生林の素晴らしさを踏査したこのルポの各所でチョウセンゴヨウが飛び出してきた。
そして、この疑問にとどめをさしたのが、写真家福田俊司氏のロシア極東地域とのここ数年継続された取組みを知ったときであった。
彼は、一九九一年以降ロシア科学アカデミ―の協力を得て、シベリア・ロシア極東の自然と人間、野生動物の調査、撮影を精力的に続けてきた。
毎年一五〇日以上をロシア極東での取材撮影に費やすという著者は、すでに『ウスリ―虎を追って』偕成社一九九五年、『シベリア大自然』朝日新聞社一九九五年、『シベリア博物誌』偕成社一九九六年、『シベリア動物誌』岩波新書一九九八年という一連の作品を発表してくれている。

 『沿海地方やハバロフスク地方の自然にとって、チョウセンゴヨウは特別な存在だ。
 「シラカバ林で陽気に楽しみ、チョウセンゴヨウの森では祈る」と語られているように、三五メ―トルにもまっすぐ伸びる大木は、人々を敬虔な気持にさせる何かを具えている。 
そしてチョウセンゴヨウと広葉樹が混合したタイガは、沿海地方やハバロフスク地方のすべての森林の中でも、環境に対して最も大きな影響力を持っている。
チョウセンゴヨウが健在なタイガでは、
「タイガはすべてを養い、すべてが満ち足りる」と言われている。
長さ一五センチ以上もあるチョウセンゴヨウの松ぼっくりには、暗紫褐色の大きな種子がビッシリ詰まっており、実りの多い年には、一本のチョウセンゴヨウから一〇〇キロもの種子を収穫できる。
栄養とカロリ―に富むその種子は、タイガにすむツキノワグマ、ヒグマ、アカシカ、ニホンジカ、ノロジカ、イノシシ、クロテン、モモンガ、リス、シマリス、ノネズミ、野鳥などの生き物には欠かせない食物である。
それが「タイガのパン」と称される由縁だ。
 ところで、チョウセンゴヨウの木材は、別称ベニマツと呼ばれ、国際市場で高い値がつく。
そのために、チョウセンゴヨウは各地で伐採が盛んに進められ、沿海地方の森林に占めるチョウセンゴヨウの混合林は僅か数パ―セントになってしまった。』
[福田俊司『シベリア動物誌』岩波新書二四~三〇頁]


 ナナイの故里、ウスリ―・アム―ル両河流域に朝鮮五葉松(ロシアでは別称紅松 ケドル 複数 ケ―ドラ)が特別の樹木としてあることは、わかった。
そのことは、日本の中で森林学・植物学の文献を見ていくなかでもでてくることがわかっていった。
種々の図鑑類で朝鮮五葉を当たって行くと、分布として朝鮮・中国東北・日本中部・ウスリ―というふうに記してあるものが割とあるのである。
近辺実在の朝鮮五葉を探すフィ―ルドを試みるなかで、JR中央線で高尾で降り北へ十分ほど歩いたところに多摩森林科学園がある。
林野庁森林総合研究所の一支所である。急な山道を上り、針葉樹の森に入ると朝鮮五葉の成樹で二〇メ―トル以上の木が二本だけ立っている。
大樹の前に刺さるパネルには次のように書いてある。

 Pinus Koraiensis S.et Z. チョウセンゴヨウ 一名 チョウセンマツ
  マツ科:属  分布=本州中部 四国 朝鮮 中国 ウスリ―
         材は耐朽性が強く建築、土木用

 分布にウスリ―とはっきり書いてあるのは、小石川にある東大理学部付属植物園にある朝鮮五葉松の標識も同じであった。
 ここで、朝鮮五葉とナナイ、両者の世界ウスリ―にたどり着いたわけであるが、朝鮮五葉の恵みに与かったのはナナイだけではない。
おもだった北方民族だけでも、ナナイのほかにウデヘ、ネギダ―ル、ウリチ、オロチ、ニヴフなどが居り、山丹交易にかかわりをもち山丹人といわれていたのはウリチ、ニブフ(ギリヤ―ク)である。
これらにカラフト(サハリン)のウィルタ(オロッコ)、アイヌが加わるのである。
松田伝十郎と間宮林蔵の北辺探索の経過に見られるように、北海道・カラフトの住民であったアイヌ・ウィルタの隣人が山丹人(ウリチ・ニヴフ)、その隣人がナナイらであった。アイヌの隣人の隣人がナナイである。

  デルス-ウザラ―

 ナナイで有名になったのは、沿黒龍州総督庁の役人でありロシア帝国地形測量将校であったヴラジミル・K・アルセ―ニェフが出会った狩人のデルス―-ウザラ―であり、
黒沢明がロシアで映画に撮った物語の主人公である。
黒沢は学生時代にアルセ―ニェフのウスリ―紀行そしてデルス―の物語を読み、いつかはぜひ映画にしてみたいと思ったらしい。
森の民そして川の民であったナナイの魂をよく教えてくれる珍しい作品がある。

 アム―ル・ウスリ

―・松花江のほとりに今も暮すナナイの家庭では今でも、母親たちは煮たコクチマスやフナの頭から軟骨類の小骨を取り出して、子供たちにこう教えるという。
「これが槍を背負っている猟師、これが鳥、そして、これは斧」と。

 ある記憶力のよい老婆が、アリ―ナ・チャダ―エヴァにどこにも書き残されていないユニ―クなナナイの昔話、伝説、謎々の「全集」を語ってくれた。
オンドルの上に布製のクッションやむしろを敷き、炉のそばに老人で主人で父親である像を置き、火がついているはずのキセルを彼に渡すために母親、妻、娘の人形をその側につれていき。

これがまとまって、かわいい労作『シベリア民族玩具の謎』斉藤君子訳.恒文社一九九三年になった。

ジャリ村のナナイの初等学校の教師たちはナナイの古い民族玩具の小博物館を開き、子供たちを時々陳列棚の前に連れてゆき、遠い祖先の想像力のなかで世界がいかに昔話風に作られているか、奇妙な彫像がどれほどの詩情と厳しい人生経験を内に秘めているかを語っているという。
日常のなかでの見事で芸術的な、自民族の魂の伝承である。
 ナナイたち、彼らにとっては、万物は生きている。
岩や石のように、外見は動かず口をきかなくても、ざらざらした、あるいはつるつるした被膜の下には神秘的な生命が宿っている。
人間ができることといえば、自分と対比しつつ推測することにすぎない。
人間一人ひとりの皮膚の下でも、病気、老化、死といった、目に見えないプロセスが本人の意志や希望とかかわりなく進行しているのである。
/肉体を支配しているのは魂である。物質、すなわち外見上は生きものではないものにも魂がある。/
人間は誰もが獣であり、獣はみな人間なのであって、違うのは衣服だけである。

「なぜイノシシを人と言うんだい」というアルセ―ニェフの質問に対し、ナナイのデルス―・ウザラ―はどう答えたか。
「どっちも同じ人間だ。シャッが違うだけさ。だませばわかる。怒ればわかる。まわりのことがわかる。いずれにせよ、人間なのさ。」


彼らの衣服の端に模様が刺繍されたり、魚皮製の服に模様が貼りつけられる。
衣服の開口部を呪術的な模様で守る。
最も一般的なモチ―フである植物あるいは草は、聖なるものである。
カラマツやヤナギやイチイが諸民族の祖先や守護神として崇拝されてきた。

/風は奥深い洞窟に住む。
/ある氏族にとっては出自はクマである。彼らにとってはクマはト―テム動物であり、祖先である。祖先の霊魂はクマの体内に移り住んでおり、自分はクマと姻戚関係にある。猟師はクマの歓待ぶりをみんなに話し、クマは人間の歓待ぶりを仲間に話す。
そこで得た恩は、互いに何倍にもして返さなければならない。
クマはタイガの主であり、ウスリ―トラはタイガの王である。
/イヌはあらゆる魔力を身につけている。
イヌは人間と違って眠っているときでも魂が抜け出さない。
イヌは睡眠中に悪霊を感じ取り、人間の子供を悪霊から守る。
子供たちをただ守るのではなく、彼らのためにには死をも辞さない覚悟で命を救う。
イヌが人間に変身する昔話はたくさんある。

昔話の中のイヌが人間の言葉を解し、人間の子供たちから母親と慕われ、悪霊と対決して子供たちを守る役目を終えて、女に変身することができる。


 口承文芸学者である斉藤君子氏はこう言う。

『(彼らは)人間を取り巻くありとあらゆるものに生命が宿っていて、それぞれが意思をもち、人間にさまざまな影響を及ぼしていると考えた。だから人々は原野を歩くときも、聖なる場所にうっかり足を踏み入れることのないように、聖なる動物と目を合せることのないように、絶えず気を配っていなければならなかった。女たちは悪霊が家族の体内に入り込まないようにとの思いから、衣服の裾や袖口に魔除の模様を刺繍し、抵抗力の最も弱い子供には魔除のお守りをつけさせることによって、子供の魂を悪霊に奪い取られないようにした。…自然界と心を通わせ、ひとつになること、まさにそこにこそ人間の営みの原点がある…』

 『シベリア民俗玩具の謎』を開き、ナナイら北方民族の魂を示す民話・伝承の一つ一つを読んでいると、ウスリ―流域の兵要地誌作成のため踏査を行ない、数々の記録文学を残したアルセ―ニェフが出会い、その人間性に打たれ、親交を結んだナナイの猟師デルス―・ウザラ―の言動をほうふつとさせる。
デルス―、かれこそナナイを代表するような人間であったのだろうし、またナナイの世界ではごく普通の人間だったのだろう

 黒沢明の映画『デルス・ウザ―ラ』にデルス―が

「金、食べ物、要らない。カピタン、わし、クロテン、探す。クロテン、カネと同じ…フ―ジン。わし、きいた、そこ、なんでも、たくさん。クロテン、いる、シカ、いる」
と言って、一時アルセ―ニェフの部隊と別れていく場面がある。

原書では、初めてデルス―に出会えて話し込むなかで出てくる話がやはりクロテンの話だ。
冬にクロテンを二匹とり、中国人に毛布・斧・やかん・茶わかしに代え、残金で中国製の麻布を買い新しいテントを手ずから縫い、ロシア人の猟師から弾薬入れを買ったという。
また、デルス―はロシア人の実業家と知り合いになり、持ち前の素朴さでクロテンとりで儲けたことを話したら居酒屋で一杯やろうということになり、一杯機嫌の彼はその新しい友人に金を全部預けたという。

翌日、彼が目を覚ますと実業家は消えていたが、デルス―にはこれがどうしてもわからなかった。
彼の民族の人々は互いに毛皮や金銭を預け合い、決してなくなることはなかったからである。

朝鮮五葉の松の実がタイガのパンとよばれるのだという話をして、その恵みに与かる森の動物をあげたとき、クロテンもいれておいたが、クロテンは朝鮮五葉とともに生きたタイガの宝の一つである。
人間が欲しがった毛皮の中でも珍重され高価に取引されたものだ。
クロテンを追って、あまり欲張らない土地の先住民、しだいに欲を膨れ上らせていった中国人、ロシア人、朝鮮人、そしてクロテンの毛皮を欲しがった欧米日のいわゆる「文明人」たちによるタイガの宝であるクロテンの乱獲、現在では次の朝鮮人参と並んでレッドブックに記載される稀少生物だ。

ナナイの隣人ウデヘの民話に<クロテンの魂>というクロテン狩人の兄弟がクロテンの王を探して天界に上り帰れなくなる話がある。
乱獲人類をいましめる民話である。
[『アム―ル地方の民話』ナギシキン再話.小檜山奮男訳.新読書社一九九七年]


 もうひとつ、デルス―の映画にも出てくるが、アルセ―ニェフの部下のロシア人兵士が、密林の小道に生える、ミザクラの潅木に丸く結んである小さな枝を悪気なしに鞭で弾き飛ばす。
デルス―は駆け寄って叱る。

「兵隊、なに、するか! これ、朝鮮人参、無い、目印! これ、無い、みんな、朝鮮人参、探す。無駄に働く! これ、こわす、悪い!
お前、悪い人!」

 デルス―の兵士への怒り方は異常であり、兵士たちはあっけにとられる。このような場面である。
はじめてこの映画をビデオででも見る人は、意味が分からず見過ごしてしまいそうな話であるが、これは朝鮮人参の貴重さ、またこれを探しあて、掘り出すまでの労力と日数を考えると、まことに面白い朝鮮人参を採集する民族同志の相互扶助の目印の話なのである。

 『中国本草図録 巻三』中央公論社一九九三年の「朝鮮人参」の頁を開くと、分布の項目に「野生品は、チョウセンマツを主とした針葉・広葉の混交林や広葉樹林に生える」とある。
チョウセンマツ即朝鮮五葉の生えている、吉林省など中国東北、アム―ル・ウスリ―などロシア極東、そして朝鮮半島には、貴重な朝鮮人参が野生・栽培の様相で生きていたし今も生きている。
クロテンと並ぶ朝鮮人参は、朝鮮五葉松と共生してきた生き物なのである。
福田俊司氏の『シベリア動物誌』によると、<この植物は、現在ではロシア版レッドブックに記載されて採集禁止
だが、盗掘があとを絶たない。

ちなみに、現地における闇取引の値段は、一九九五年で一グラム二〇ドルと聞いた。
年代物の二五〇グラムともなれば五〇〇〇ドルになる。近年、特に激減している植物だ。」(三八頁)とある。
 朝鮮人参、それにクロテンについては、また今度語り足したい。

  ナナイと抗日聯軍

 さて、ナナイのナとは土もしくは地であり、ナイとは人の意であるから、<土の人>ということになる。
中国側では、ナナイをホジェンと呼ばれ、山間の密林を意味し森林民族の通称だという説もある。
人類学者の鳥居龍蔵が七十数年前すでに調査したので有名だがアム―ル河中流にナナイの部落でシカチアリャンというところがある。
やはりナナイの部落から始まったと考えられるハバロフスクから北東に七〇キロ、現在の人口八〇〇人ほどのナナイの村であるが、<イノシシの丘>と呼ばれるシカチアリャン村の近くの河岸に新石器時代のものと思われる岸壁画がある。
夏場、村の浜辺からボ―トに乗り五分ほどで大きな岩が転がる岸辺に着く。
黒々した岩にはトナカイ、人面、猿の顔、意味の分からぬ文様など様々な文様が一〇三点、点在していることが確認される。
この河岸から二、三〇メ―トルほど陸に上がった所では一万二〇〇〇年前のアジア最古の土器が発見されたガ―シャ遺跡がある。
問題は、このシカチアリャンの対岸、河をはさんで、いわば右岸(北側)にあるヴャッコエ村のことである。

 タイガに囲まれていたこのヴャッコエ村には二〇戸ほどの丸太小屋が散在していた。
朝鮮人と中国人の抗日遊撃隊 パルチザン ―亡命者たちが極東の戦争続く二〇世紀の四〇年代、この地で対日戦争に備えてソ連赤軍による教育訓練を受けていたのである。

ソ連極東軍は、一九四一年一月末から二月にかけてハバロフスクで亡命していた朝中遊撃隊幹部を参加させた会議を開き、第八八特別旅団(正式名称は第八八独立歩兵旅団)という国際旅団を創り、ヴャッコエにA野営(一名北野営)、ヴォロシ―ロフ(現在のウスリ―スク)にB野営(Bはロシア文字、英語ではV野営)が置かれ、抗日聯軍の戦士が収容されることになった。金日成はB野営(一名南野営)であった。
しかし、一九四二年八月には、東北抗日聯軍部隊はソ連籍ナナイ人の部隊とともに赤軍第八八狙撃旅団に編成され、全部隊ヴャッコエの北野営に集結した。
そして軍事訓練を始めるとともに、満洲の情報収集活動も行なった。
総兵員は二〇〇余名、朝鮮人隊員は夫人までも合わせて約六〇名、中国人が約百名、その他はソ連軍の兵員で充当された。
この旅団の役割は、満洲を占領し中国全域を睨んでいた日本軍の軍事情報を収集することを目的とし、これに合せて狙撃・無電・落下傘訓練なども行なった。
この旅団の第一大隊長に金日成大尉、第二大隊長には中国人がなり、それぞれの大隊にはナナイ人の将兵が参加した。
[和田春樹『北朝鮮』岩波書店一九九八年.四八頁など。
恵谷治『金日成の真実』毎日新聞社一九九三年]

 朝鮮人・中国人の抗日遊撃隊の亡命者たちとともに、アム―ル河のほとりのタイガの中で、ナナイの将兵がソ連赤軍の下で対日戦の軍事訓練をしていたという歴史と対称的なのが、日本の占領・支配下の「満洲国」のアム―ル(黒龍江)・スンガリ―(松花江)流域に住んでいたナナイ、中国側の呼び方で言えばホジェン(赫哲)が嘗めた苦難の日々であろう。
これについては次の第三話でぜひとも語らなければならない。

  北洋材としての紅松

 一九七六年に出たアジア経済研究所・紙谷貢氏編『世界の森林資源と日本』の中にある赤羽武氏の
「シベリア、極東の森林資源と林業」(ソ連-ロシアではウラル山脈以東の地域を西から西部シベリア、東部シベリアおよび極東の三地域に区分、極東はアム―ル州・ハバロフスク地方・沿海地方・サハリン州およびクリル列島・カムチャツカ州・極東北部の六部分から成る)に、針葉樹はカラマツ・ベニマツ・エゾマツ・トドマツの順で多いが、「ベニマツはプリモルスク地方(沿海地方)、ハバロフスク地方に集中している」「いずれにしても極東地区は森林資源の宝庫であることがわかる」とし、「単位面積当たりの蓄積はha当たり一四一m2 と比較的大きい.そのうちで最も大きいのは、プリモルスク地方である.雨量が多いこと、植物の生育が旺盛であることによるものである.
樹種ではベニマツが最高であり、わけてもプリモルスク地方のベニマツ林は良好である」と記している。
丸善から上村武氏の『棟梁も学ぶ木材のはなし』という本が出ており、その三九頁に、「その他ロシアからは、日本とおなじようにエゾマツやカラマツが多く輸入されていますが、量は少ないもののマツ類のベニマツ、オウシウアカマツは材質がよく、喜ばれます」と針葉樹の項目で記している。

もちろん、ここでベニマツとあるのは、朝鮮五葉のことである。
これは北洋材といわれ、常に世界の木材輸入国の上位を占めている日本の日本海側の諸港、新潟・富山・金沢新港・敦賀・舞鶴・境港などにはプリモルスク地方(沿海地方)のナホトカ・ヴラジオスト―クからハバロフスク地方・アム―ル州・沿海地方から伐採された北洋材が毎年一定量陸揚げされている。

[農林統計協会・年度別『図説林業白書』<我が国の産地別木材供給量と自給率の推移>の図解が数字を占めしており、日本林業調査会編『総合年表・日本の森と人木との歴史』一九九七年から北洋材の輸入がどう進んだかを拾い読むことができる(一九五四年~一九八七年)。]
 <輸入ソ連材(北洋材)の三分の一弱がベニマツ(すなわちチョウセンゴヨウ)とオウシュウアカマツPinus sylvestris LINNAUES (ピヌス-シルベストリス)である。>
 <輸入ソ連材にほかなり経が大きいものもあるので、建具材を始め建築、土木、船舶、器具、家具(仏壇など)、包装、木型、楽器、彫刻、集成材原料などと用途が広い。>
[平井信二『木の事典』第一集第七巻四二枚目.かなえ書房.一九七九年]。

  ロシア極東の朝鮮人

 話はもう一度二〇世紀の〇六年から〇七年、アルセ―ニェフとデルス―のタイガにおける交友の時代に戻る。

『デルス―はゴリド人やウデヘ人ばかりで他の人々のいなかった昔の、自分の子供の時のことを思い出した。
ところがそこへ中国人が現れた。
やがてロシア人が。
生活は年毎に難しくなる。
その後、朝鮮人がきた。
森の火事がよくおきて、クロテンは遠ざかり、他の色んな野獣も少なくなった。
そして今は海岸に日本人までやってきた。
どうしてこれから生きていったらいいのか。
黙りこんで、デルス―は考えこんだ…私も考えこんだ。
実際、沿海地方は速やかに植民された。人跡未踏の原始林など、やがてなくなる時がくるだろう。
野獣は消滅し、大道が森林を通り。
以前のトラが吠えていたところに機関車が走るだろう。
私はこの土地の運命について考えた。』
[東洋文庫版『デルスウ・ウザ―ラ』一四頁]                                            

 近代日本の圧力もあってウスリ―地方への貧しい朝鮮人の移民は甲午戦争で火をつけられ、日露戦争はそれに拍車をかけた。
[志賀勝『アム―ル中ソ国境を駆ける』研文出版一九八六年.3.ウスリ―地方朝鮮人移民史―豆満江を渡った人々]
 ロシア革命の勃発後、シベリア戦争に介入した日本軍は、ロシア極東でパルチザンの抵抗に直面すると同時に、植民地朝鮮の独立運動に衝突した。
韓国併合から九年目の三月一日、ソウルで開始された三・一運動はロシア極東にも飛び火した。
ここでの朝鮮独立運動の最大の拠点は、ウラジオストクの新韓村であった。

 一九一一年頃、ウラジオストク市内に在留するアジア第三民族の約六万人、中国人が五万人、朝鮮人が八四四五人、日本人が約二五〇〇人、出身地は中国の山東省、朝鮮の咸鏡道ハムキョント 、日本の九州諸県がきわだっている。
朝鮮人居住区はコレイスカヤ-スロポトカ(略してコレイカ、新韓村の名で知られた)と呼ばれた。アム―ル湾岸の山の上にあるスラム街である。
韓国併合前夜から、韓国統監府(併合後、朝鮮総督府)の派遣員が駐在し、新韓村の動静を監視した。
 ロシア革命後のシベリア戦争で沿海州に駐留を続けた日本軍は、一九二〇年四月、沿海州ゼムストヴォ臨時政府軍に対する「革命軍武装解除」と称する大規模な作戦行動を起こし、セルゲイ-ラゾはじめ革命派指導者を白衛軍に引渡し、虐殺させた。
同時に新韓村に突入し、「排日鮮人」の家宅捜索、多数の逮捕、朝鮮人のセンタ―である韓民学校の焼き打ち、民族団体の解散を断行した。
韓国併合から十年を経て、朝鮮独立運動の有力な海外拠点の壊滅に成功したわけである。

 ウスリ―地方などロシア極東に移民した朝鮮人・中国人で、ロシア革命に際してボルシェヴィキの立場で戦ったものは少なくなかった。
また、日本の干渉軍にたいする朝鮮人ゲリラ隊の戦いは凄まじく、シベリアと間島の国境地帯の「掃討作戦」に参加した日本陸軍第十一師団は、師団長は病死し、参謀長は朝鮮人のゲリラの待ち伏せ攻撃に受けて戦死している。
日本の軍事介入を恐れたソ連は、日本との条約の締結と引き換えに、朝鮮人ゲリラに解散を命じ、朝鮮人共産主義者を日本に引き渡した。

 スタ―リン政権は、一九三七年になると、「モスクワ裁判」のさなか、「盧溝橋事件」を契機として日本が中国本土への本格的全面戦争を開始した二か月後、日ソ戦争の可能性が高まった九月にロシア極東に住む朝鮮人の強制移住を開始した。
 <さらに一九三七年には、ロシア極東に住む朝鮮人数十万人が、一挙に中央アジアやカザフスタンへ強制移住させられて、朝鮮と満洲との直接のつながりを断ち切られた。
ロシア極東における朝鮮人の独立運動の可能性はこのようにして断ち切られ、朝鮮と満洲における朝鮮独立運動は重要な根拠地を失った。
三・一独立闘争がロシア極東と間島に波及した時には、両地域の闘争に密接なつながりがあったが、満洲事変後の抗日軍がロシア極東へ逃げ込んだ時にはそのようなつながりはほとんどみられず、ロシア極東の朝鮮人の強制移住でその可能性はまったくなくなった。
さらに、一九四一年四月、日ソ不可侵条約の締結によって、ソ連は、ロシア極東に招集していた東北抗日聯軍の指導者の帰満を許さなかった。
満洲の抗日闘争は、このようにしてほぼ息を断たれた。>

『コミンテルンとソ連への信頼と忠誠は、朝鮮人共産主義者の最近あるいは現在も維持されている特性である。そのコミンテルンとソ連のために満洲の抗日闘争が犠牲にされたことは、まことに痛ましい。』

[鶴島雪嶺『中国朝鮮族の研究』関西大学出版部.一九九七年.二六頁および三四頁]。                          
  森林破壊すすむ

 一八九一年からヨ―ロッパ-ロシアとロシア極東を結ぶシベリア鉄道の建設が始められた。
森林が伐採され大道が通り機関車が走る。
ロシア帝国主義の東アジア進出の動脈シベリア鉄道は、東北アジアの苦力的労働者の血と汗で建設され(李克異の『大地の谺』)全線の枕木は極東のベニマツ即朝鮮五葉が使われた。一九一七年、ヴラジオスト―クとモスクワが鉄道でつながったのである。それからほぼ一世紀が経とうとしている二〇世紀の世紀末、ロシア極東の自然と生物、河川と森林はどうなっているのか。
福田俊司氏の見聞がある。
<一方、すばらしかったツムニン川の印象とは裏腹に、野生動物をとりまくシベリア(+極東)の自然環境は、残念ながら予想以上に荒廃していた。
人間が汚していない原始そのままの大自然のなかで、野生動物を心ゆくまで撮る―そんな甘い期待は、たちまちに吹き飛ばされた。
通常の手段で行ける場所、つまり人々が住む近くには、ほとんど野生動物の気配が絶えていたのだ。
とくに沿海地方はひどい。
例えば、ウラジオストクからハバロフスクまで七四〇キロを車で走破しても、森らしい森をほとんど見かけなかった。
牧草地、畑、湿地、荒野、そして小さな村々が点在するだけだ。
幹線道路から外れても、森林伐採の傷跡は痛々しく広がっている。
シベリア(+極東)は起伏にとぼしい地帯だから、道あるところ、森林は余すところなく皆伐される。伐採は広大な面積におよび、森林が天然更新する可能性をも断わっている。現在も、山道は猛烈な勢いでタイガの奥へ奥へと切り込んでいる。
そして、山道の開通と伐採は両輪となって、うっそうと茂る樹木の壁を次々に切りくずしている。
伐採した後、植林など森林の再生に手をつけた様子もない。
 …この大規模な森林伐採は、野生動物だけでなく、森に生きる少数民族にも影響を与えている。
経済が極度に疲弊したこの国では、原木の輸出が外貨獲得の重要な役割を果たしているから、森林破壊はますます深刻な問題になるだろう。
 沿海地方の森を歩いて、不思議に思ったことがある。
日本の原生林で見かけるような樹齢数百年といった見事な巨木が、非常に少ないのだ。
飛行機から見下ろして感嘆した広大な樹海でさえ、じつは二次林、三次林である場合が多い。
その主な原因は、山火事にあるようだ。
頻発する沿海地方の山火事については、七〇余年前にも、探検家アルセ―ニェフが著書『デルス・ウザ―ラ』で何度も触れている。
山火事が頻発した背景には、チョウセンニンジンとワラビにまつわる由来を聞いた。
…昔は春になると、はるか遠くからも大勢の人々が沿海地方を訪れ、チョウセンニンジンをはじめ貴重な薬草を求めて、タイガの奥深くへ入ったそうだ。
そして、雪が降るころになると、森を焼き払ってから故郷へもどった。
山火事で日あたりのいい斜面をつくり、翌年のワラビの大発生を促すためである。
これが何世紀にもわたって行なわれてきたので、太古からの純然たるタイガは沿海地方では少なくなってしまった。
森林がカラカラに乾燥した状態になると、不用意に投げ捨てたガラス瓶がレンズの役割を果たし、太陽の熱を集めて発火することもある。毎年、春の山火事発生件数は驚くほど多い。
社会の急激な変化にともなう人々のモラルの低下も、事態をさらに悪化させている。
間宮海峡をのぞむソビエッカヤ・ガバニでは、車で四時間以上も走る間、山火事が焼きつくした荒涼たる山肌がえんえんと続いた。人間の業の深さに、気分はすっかり落ちこんでしまったものだ。>

[福田俊司『シベリア大自然』朝日新聞社一九九五年.末尾・「シベリアの豊かな生物相と森林破壊」から]

 スンガリ―・ウスリ―・アム―ルの汚染その他がこういう様相に加わってこよう。

  森の王・シベリア虎を救え

 一九九八年五月二日のNHK衛星放送第二で<森の王者・シベリアタイガ―を救え>というドキュメントを見た。
絶滅寸前にある貴重な動物である虎であるシベリア虎を密猟者から守ろうとする特別捜索隊の努力を描いたもので、ハバロフスクからウスリ―スク、ビキン川の森林地帯とそこに出没する密猟者を根気強く追跡し、密猟した虎やその他の小動物を押収する活動が密着取材されていた。
虎は、毛皮とともにその骨が漢方薬の稀少な材料として高価に中国側で買い付けるので、経済危機のなかのロシア人や密入国中国人がそれこそ数年間の収入が一挙に手に入る商品として、禁制・禁猟は承知のうえで、監視の目を潜って密猟を続けているのである。
監視し取り締まる方も、ロシア国家の解体・弛緩の状態から、資金も資材・人員もわずかで、国際的な自然保護団体の支援の下に最低限と等しい活動を行なっていると見える。虎の頭骨や骨は、高価な漢方薬として今日でも中国でアジアで、そしてもちろん日本で珍重され、需要があるのである。
その医学的な効用は、証明されていないのにかかわらず。「こういう虎の骨の漢方薬を買う人や国がなくなれば、虎を密猟するものも需要がなくなるのだから虎狩りをやめるだろうに」とのことばが現地の人から聞こえた。
 また、このアム―ル・ウスリ―・ビキン等流域の森林の乱伐が進行している状況も写され、この地域で狩猟生活で生きていたウデヘ族が森林が破壊され、動物が減り、毛皮の値も落ち、森林伐採労働に転業している状態も描かれていた。
乱伐された木材は、韓国・中国、とくに日本に運ばれているという。
ロシア極東の森林と生き物の破壊の進行と、それをかぼそく防ごうとしているロシア人と組織もあることが印象に残るドキュメントであった。





                     
朝鮮五葉松への旅  第二話 こぼれ話 その一


  張鼓峯事件

 一九三七年九月に突如開始されたロシア極東地域に多かった朝鮮人を中央アジアおよびカザフへ強制移住させたスタ―リン政権の政策は類似の他の民族丸ごと強制移住政策とともに今日は批判されている。
[木村英亮『スタ―リン民族政策の研究』有信堂高文社一九九三年]。

 ロシア極東の朝鮮人の場合は、明らかに対日戦勃発、日本軍のロシア極東への侵攻に備えて、その際の日本の朝鮮人利用と撹乱を恐れて、安全を図ろうとしたものと考えられる。
それにしても非条理であり、民族無視の姿勢といわざるをえないことである。
しかし、スタ―リン政権のロシア極東における朝鮮人共同体に対する恐怖や警戒は、まったく杞憂に過ぎなかったともいえない。

 日本陸軍の対ソ情報参謀であった林三郎は、おそらく亡命者リュシコフ(朝鮮人の強制移住の直接の責任者)から得た情報として、
「すなわちスタ―リンは朝鮮人を極度に信用せず、彼らが極東ソ連国境近くに住むかぎり、日満側の朝鮮人スパイの投入は続けられるものと考え、防諜上の見地から強制移住を命令したというのである」(「関東軍と極東ソ連軍」)と述べている。
[金賛汀『シルクロ―ドの朝鮮人』情報センタ―出版局一九九〇年]。

 事実、翌一九三八年七月二九日から八月一一日にかけて、朝鮮半島東北端にある朝鮮・ソ連・「満洲国」の交差点にある国境未確定の「張鼓峯」(ハ―サン湖西岸、豆満江東岸の小丘)で日ソ両軍が衝突し、僅かな小丘をめぐって相当な兵力を繰り出し短期間だが激戦が展開された。
「もうひとつのノモンハン」と呼ばれる日ソの戦争である。
 これは最初は境界の不明にもとづく単なる国境紛争であったが、この付近の防衛に当たっていた日本の朝鮮軍の積極的な攻勢から戦争が拡大し、関東軍の増援部隊も参加した。
日本軍は機械化されたソ連軍により手ひどい打撃を受けつつ、一度奪取したこの小丘を守り切ったが、八月一二日からの停戦協定でこの小丘はソ連に帰属した。この戦争は、同年五月の近衛内閣改造による日華事変の解決、とくに英米との妥協、対ソ強硬策が採られた時期に起こったものであった。
 頂上が二つあるこの丘は、土地の朝鮮人には中央部がくびれて両端を手で叩く長い小太鼓の「チャンゴ」を思い出させた。満洲人がここへやってきたとき、「ぴんと張った太鼓の峯」を意味する文字をあてはめ、チャンク―フエンと発音した。
日本人はこの呼び名を採用したのである。ロシア人は東部の要衝として、ザオゼルナヤ(湖の裏手の丘)と呼んだが、ソ連軍兵士はその形から砂糖菓子を連想したという。

 日本側の戦記にこうある。
『斥候たちは朝鮮服をまとって時には牛を引き、張鼓峯地区を縫うようにして、くまなく通り、時にはソ連軍の移動、土壌や地形、明るさを調べるために、夜の間穴に隠れたりした。こうして集めたデ―タを基に中野藤七少佐は突撃に必要な参考資料を作成した。』

 朝鮮人の強制移住から張鼓峯事件という日ソ戦に至る事態の背景を見てみよう。
さきに、一九三六(昭和一一)年、日本軍は「帝国国防方針」を改定し、ソ連を主敵と定めた。
一九三五年頃から「満洲国」とソ連国境では武力を伴う紛争が頻発し、両国の緊張状態は厳しくなった。この年の国境紛争は実に一七六件に達する。
(林三郎「関東軍と極東ソ連軍」)。                   

 一九三七年六月には黒龍江上の中洲である乾岔子カンチャ-ズ 島をめぐる衝突では、ソ連砲艦一隻が撃沈させられている。
いつ日ソ戦が起きてもおかしくない緊張のなかで、日ソ双方の情報機関は多数のスパイを相手陣営に送り込んだ。
ロシア極東の沿海州で在ソ朝鮮人の人口比率が最も高い(約九五%)ソ連領ポシェト湾地区(張鼓峯から二〇キロ)には朝・満・ソの国境に近いという地理的条件もあり、日本軍の対ソ工作の機関が置かれていた琿春などから多くの朝鮮人情報員が送り込まれていた。
彼らは、同民族というつてを頼って、沿海州の朝鮮人社会で情報を集めて、それを持ち帰った。
一九三七年七月七日の盧溝橋事件に発端とする日本の本格的な中国本土への侵略戦争の開始はソ連に与えた衝撃は大きかった。
現在でも日本ではそのことへの認識が弱い。

プラウダは、この戦争が「単なる日本帝国主義の対中国侵略戦争ではなく、中国革命の進展を阻止せんとする反革命侵略戦争」とし、「一九三七年八月の中ソ不可侵条約締結以降は、ソビエトの軍事的・財政的援助も中国は受けられる」ことを強調している。
 日本側にも、スタ―リン政権のロシア極東に居る朝鮮人を恐怖・警戒させるような種があったのである。スタ―リンだけに朝鮮人の中央アジア・カザフへの強制移住の責任をかぶせるわけにはいくまい。
[アルヴィン・D・クックス/岩崎博一・岩崎俊夫訳『張鼓峯事件』原書房一九九八年]。

 『中央アジアの朝鮮人社会を歩き回り、この日本から見れば世界の山奥のような辺境で、近代朝鮮をとりまく歴史的な大事件に関わった人々が実に多いのに、改めて驚かずにはいられなかった。対日独立運動の志士たちの遺族。
そして、シベリアの日本侵略軍とのパルチザン戦争の参加者たちとその遺族だという人々。さらに、ソ連の対日戦に従軍し朝鮮に入った人々や、八月一五日以降、朝鮮の社会主義建設の時代、ソ連政府の要請で朝鮮国内で要職に就き働いた人など、実に朝鮮近代史のドラマが凝縮して、ここに集まっているような気さえしたものである。』
[金賛汀『シルクロ―ドの朝鮮人/スタ―リンと日本による一九三七年秋の悲劇』情報センタ―出版局]。

一六万七四〇〇人が移住したのだ。
スタ―リン政策と日本帝国主義の双方の犠牲、双方が責任を追うべき悲劇がここにあるのである。



朝鮮五葉松への旅 第二話 こぼればなし その二
  国語読本の間宮林蔵

 尋常小学校六年生の国語読本巻十二の第十七課に『間宮林蔵』という文章がある。

これは、大正リベラリズム期を反映した第三期国定教科書の一部であるが、この教科書全十二巻は、南洋諸島・山東省青島チンタオ も併せた大日本帝国確立・発展期の帝国意識を形成する世界認識・日本認識を具象化・形象化したもので、その意味においてはよく出来た優れた国語教科書である、と思う。

  第十七課  間宮林蔵 

樺太 カラフト は大陸の地続なりや、又は離れ島なりや、世界の人は久しく之を疑問としたりき。
然るに其の実際を調査して此の疑問を解決したる人、遂に我が日本人の中より現れぬ。
間宮林蔵これなり。
 今より百二十年ばかり前、即ち文化五年の四月に、林蔵は幕府の命によって、松田伝十郎と共に樺太の海岸を探検せり。
樺太が離れ島にして大陸の地続にあらざることは、此の探検によりてほぼ知ることを得たれども、更によく之を確かめんがために、同年七月林蔵は単身にてまた樺太におもむけり。
 先づ樺太の南端なる白主といふ処に渡り、此処にて土人を雇ひて従者となし、小舟に乗じていよいよ探検の途に上りぬ。
それより一年ばかりの間、風波をしのぎ、飢寒と戦ひ、非常なる困難ををかして樺太の北端に近きナニヲ―といふ処にたどり着きたり。
これより北は波荒くして舟を進むべくもあらず、山を越えて東海岸に出でんとすれば、従者の土人等ゆくての困難を恐れて従ふことをがへんせず、止むなく南方のノテトといふ処に引返し、酋長コ―ニの宅に留りてしばらく時機の至るを待ちぬ。
 網をすき、舟を漕ぎ、漁業の手伝などして土人に親しみ、さてさまざまの物語を聞くに、対岸の大陸に渡りて其の地の模様を探るは、かへつて目的を達するに便なることを知りぬ。たまたまコ―ニが交易のため大陸に渡らんとするに際し、林蔵は好機至れりとひそかに喜びて、切に己をともなはんことを求む。
コ―ニは「容貌の異なる汝が彼の地に行かば、必ずや人に怪しまれ、なぶりものにせられて、或は命も危かるべし。」とて、しきりに止むれども林蔵きかず、遂に同行することに決せり。
 出発の日近づくや、林蔵はこれまでの記録一切を取りまとめ、之を従者に渡していふやう、「我若し彼の地にて死したりと聞かば、汝必ず之を白主に持帰りて日本の役所に差出すべし。」と。
 文化六年六月の末、コ―ニ・林蔵等の一行八人は、小舟に乗じて今の間宮海峡を横ぎり、デカストリ―湾の北に上陸したり。
それより山を越え、河を下り、湖を渡りて黒龍江の河岸なるキチ―に出づ。
其の間、山にさしかかれば舟を引きて之を越え、河・湖に出づればまた舟を浮かべて進む。
夜は野宿すること少なからず。
木の枝を伐りて地上に立て、上を木の皮にておほひ、八人一所にうづくまりて僅かに雨露をしのぐ。
キチ―にて土人の家に宿る。
土人等林蔵を珍しがりて之を他の家に連行き、大勢にて  取囲みながら、或は抱き或は懐を探り、或は手足をもてあそびなどす。
やがて酒食を出したれども、林蔵は其の心をはかりかねて顧みず。
土人等怒りて林蔵の頭を打ち、強ひて酒を飲ましめんとす。折よく同行の樺太人来りて土人等を叱し、林蔵を救ひ出しぬ。
  翌日此の地を去り、河をさかのぼること五日、遂に目的地なるデレンに着せり。
デレンは各地の人々来たり集りて交易をなす処なり。
林蔵の怪しみもてあそばれるること此処にては更に甚だしかりしが、かかる中にありても、彼は土地の事情を研究することを怠らざりき。
  コ―ニ等の交易は七日にして終りぬ。
帰途一行は黒龍江を下りて河口に達し、海を航してノテトに帰れり。此処にて林蔵はコ―ニ等に別れを告げ、同年九月の半ば、白主に帰着しぬ。
  林蔵が二回の探検によりて、樺太は大陸の一部にあらざることは明白となりしのみならず、此の地方の事情も始めて我が国に知らるるに至れり。


 以上であるが、第二話の冒頭の話と読み比べられれば分かるように、実にくわしく生き生きと書かれている、見事な教材と言える。
コ―ニ等が交易のためアム―ル河地域にでかけること、デレンという交易場の重要性、あとは林蔵が見聞し記録したこと、その見聞の意味、そこへすぐ入っていける入り口がちゃんとつけられているのである。

この時と比べると二十世紀末現在の我々日本人の認識・知識はぐんと遅れてしまったと嘆かざるをえない。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

第一話 韓国-朝鮮 の補 

第一話 韓国-朝鮮 の補

韓国古時調(古典短歌)に出てくる<松>

    裴成煥氏編著『韓国の古典短歌―古時調のいぶき―』国書刊行会一九八六年から

    ペェソンホァン

    崔冲 チェチュン (九八四-一〇六八)

          生きて恨むは 伏義の世生(あ) れざる

          草を衣に 木の実くらふも

          こころ厚きを こよなく羨(とも)す

    崔瑩 チェヨン (一三一六-一三八八)

          雪に垂(しだ)れり 屈(く) す松笑ひそ

          春に咲く花 つね香(か) ぐはしや

          風雪(かぜゆき)頻(しき)れば なれわれ羨(とも)さむ

    成三問 ソンサンムン (一四一八-一四五六)

          この身死にゆき 何たらむとに

          蓬莱高嶺(たかね) に 聳ゆる松たり

          天地(あめつち)雪満つ 独り青みぬ                                                            兪応孚ユウンプ  (?=一四五六)

          ゆきし夜の風 霜雪(しもゆき)はらひ

          聳ゆる松も 傾(かたぶ) きてしや

          咲きやらぬ花 言ひて何せむ

    金麟厚 キムインフ (一五一〇-一五六〇)

          ついの日伐りしは 喬松(たかまつ)ならずや

          しばし留めなば 棟梁たらむを

          宮傾かば なにもて支へむ

    李珥 イイ (一五三六-一五八四)

          一曲いづく 冠岩陽させり

          野に霧はれて をちこち絵のごと

          松かた緑樽(さけ)おき 友の来る見む

          三曲いづく 翠屏葉しげし

          樹に山鳥の 百千(ももち) に啼きて

          松風わたりて 夏の気もなし

          四曲いづく 松崖陽は越ゆ

          岩陰淵に 光沈めり

          林泉深きに 想ひぞ潜む

    鄭撤 チョンチョル (一五三六-一五九三)         澂

          松にゆきふり 枝みな花さく

          ひともとたをりて きみまゐりたし

          めでにしのちは とけておしきや

    求之 クジ  平壌の妓生

          松くりし舟 大同浮かべ

          柳一枝 かたく結ひしを

          いづく禍(まが)つ女 淵入れとふや

    松伊 ソルイ 名妓九人のひとり

          松が松がと なにの松とや

          切り立つ壁の 高松ぞわれ

          木樵りの鎌や 掛くべきものかは

    権好文 クォンホムン (一五三二-一五八七)

          日の暮れゆけば さらにことなし

          松の戸とざし 月に横たふ

          塵の世の思(も) ひ ひとかけらなし

    麟坪大君 インピョンテグン (一六二二-一六五八)

          風に屈(こご)めり 松を笑ひそ       
          
          風とは清の十万の大軍          
          
          春風(こち)にさく花 つねかぐはしや

          風雪すさぶ日 なれわれ羨(とも)さむ

    尹善道 ユンソンド (一五八七-一六七一)

          わが友いくたり 水石松竹

          月山にのぼる なほよろこばし

          これ五つなり 足してなにせむ

          ぬるめば花さき さむさに葉ちるを

          松よ汝(な) はなぞ 霜雪知らぬ

          九重(ここのへ)根かたき それもて知らる

 松は常緑樹で、平和な時には長寿を、試練の時には志操の象徴としてよく歌われた。

 松は多くの時調作者の心にも根をはっていたのである。


    李廷盡 イジョンジン  英祖代の人             薹

          門(かど)とぢ書(ふみ)よむ いく年過ぎしを

          手植えし松に 竜麟老いぬ

          園の咲き散る 桃李いくたび

    よみびとしらず

          行手(ゆくて) 遠くも やま越えわが家

          松の細道 月ものぼりく

          ひもじきろばを 駆るべきものか


          竹植ゑ垣とし 松伐り草屋

          白雲うく谷 われある誰しる

          庭を鶴(たづ)ゆく わがともとする


          山にふす松 なれども寝(い) ぬる

          猛(たけ)りの風に 根こじ倒れり

          良工(たくみ) にあひなば ここぞと告(の) らせ


猛(たけ)りの風は圧制の狂風ともとれる。
そうととればこの松は暴圧の犠牲であり、良工は改革者または審判者と読める。
<ここぞと告らせ> 無念の叫びに聞こえる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)