北方史を描く楽しさ

北方史を描く愉しさ(続々) 第三話 はたして五葉の松はアム―ル-ウスリ―流域に繁っているのか

※1997年6月21日から書かれた文章です。

北方史を描く愉しさ(続々)

  第三話 はたして五葉の松はアム―ル-ウスリ―流域に繁っているのか  
                                            

 第二話で紹介した絵本『メルゲンとかれの友達』の初めのところに「モミや松の森をぬけていくと」という文章があった。
話はそこへ戻る。

 二谷ゼミの三王さんとの間で、この松を五葉の松ととってよいかどうかで議論が続いた。
三王さんは、ウスリ―やアム―ルのような寒冷の地にそのような松があるはずがないといい、私はチョウセン五葉松ならばあるはずだといった。                                  
朝鮮五葉松は、Collins 版ポケットブックの THE TREES OF BRITAIN AND NOTHERN EUROPE のPINE属の8に5-NEEDLED PINES 中に KOREAN PINEとしてカラ―で説明がある。大修館の『原色樹木大図鑑』一九八五年の 755頁にもチョウセンマツ(チョウセンゴヨウ)として図解および説明がある。
しかしいずれの図鑑にも、アム―ル、ウスリ―流域にそれが生えているかどうかなんらふれていない。

 ナナイの民話『メルゲンとかれの友達』に出てきた松の森に朝鮮五葉松を考えた根拠は、間宮林蔵の『東韃地方紀行』の次の箇所にあった。第二話で触れたナナイの祖先の集落との出会いである。


「夫より又船を出し、二里半許も漕ぎ上りウルゲ―と云処に至りしに、此処よりコルデッケ(コルジ) と名づけたる異俗夷の部落なり。船夷船を買の事有て、其日は此処に滞泊す。

 一 地夷の容貌理髪。其他衣服に至るまで、山旦夷に異なる事なし。其言語は小異ありといへども、

   一日の滞泊中、其詳なる事をしらず。

 一 此夷種総て五葉松の大材を以て船を作る事を業とす。
南方諸夷の用る処皆此地の造り出す処なり。   
故に船夷此処に至て斎し、行処の獣皮を以て船一艘を易得、是より諸雑器を二艘に分積しデレンに趣くといふ。

 一 此辺よりして奥地は気候少しく異にして温暖なる事を覚ふ。
故に草木の形状亦カラフト奥地・サンタン地(黒龍江下流域)の如きにあらず、青々蒼々として繁茂せり。
故に南方諸夷壌に見ざる大材を産す。
天度にさまで隔絶なくして、かかる事ありけるはあやしむべき事の一事なるべし。

 一 地夷の内満州夷のごとく剃頭の者あるを見しかども、其住夷なりや否を問わざりしまま、何者たる事をしらず。」

 佐々木史郎さんの『北方から来た交易民/絹と毛皮とサンタン人』NHKブックス一九九六年は次のように書いている(p 50)。

  「この記述はコルデッケ[のちのナナイの祖先]の最も下流の集落(後にヲレヱ―あるいはイリなど呼ばれる)での観察をもとに記されているが、そこには一日しか滞在しなかったにもかかわらず、コルデッケの言語がサンタンの言語と少々異なること(今日の言語学では、ウリチ語とナ―ナイ語のアム―ル下流方言とは方言レベルの相違があるにすぎず、互いに通じることが指摘されている)、五葉松で船を作ることを得意としていて、カラフトから来た者も彼らから船を買って旅を続けること、彼らの中には剃頭して弁髪を結っている者、つまり満州式に頭の周囲にくるりと剃りを入れ、残りの髪を一本の三つ編みにしてたらしている者がいることなど、後の民族誌でも確認できることが 鋭く指摘されている。」

 ここに出てくる「五葉松」というのは、きっと「朝鮮五葉松」KOREAN PINE であろうというのが、私の推定であった。

 佐々木史郎さんの『北方から来た交易民』は、次のような指摘もしている(p42-43) 。

  「彼らが交易の旅に使う船については、日本の史料ではいずれも『図合船』とあるだけで、具体的な記述はない。その姿は『北夷分界余話』などにある挿し絵に若干残されている程度である。
ただ、それを見ると、その形は、ナ―ナイやウリチ、ニヴフなどのアム―ルの諸民族が今日まで残している川船と基本的には同じ構造である。
つまり、平底で、その上に側板を一枚ないし二枚立て、舳先(へさき) には波切り板を 一枚合わせる。
ただし、底板が舳先の前に反り返るように突き出て水面に顔を出す。そこには彫刻が施されていることが多い。
動力は人力で、車櫂(くるまがい) を使って漕ぐ。小さいものならば一人で漕げるが、交易用に荷物や人を大量に運ぶ大型の船の場合には数人から時には一〇人以上の漕ぎ手が乗ることもある。
また、時にはマストを立て、帆を掛けて帆走することもできる。このような船は基本的には平底の川船であるため、外洋を航行することはできない。
しかし、サンタン人のル―トはアム―ル河とカラフトの海岸沿いであるため、このような船でも十分対応できた。」

 はたしてナナイ族の地域であるアム―ル中流域、ウスリ―流域に、五葉の松は繁茂しているのだろうか。この謎ははたして解けるのだろうか。

 加藤九祚さんの書き物を当たってみた。
かれの『ユ―ラシア野帳』恒文社一九八九年の第二部のユ―ラシア旅行記の三四三頁に五葉松が出てくるが、残念ながらこれは山地アルタイの話である。
しかし同緯度、同条件ではあるまいか。三二九頁に「松や白カバのみごとな林」とあるが、これもシベリアはシベリアだがゼ―ヤ河の河床の砂浜の奥のことである。

 アルセ―ニェフの長谷川四郎氏訳『デルスウ・ウザ―ラ/沿海州紀行』平凡社東洋文庫一九六五年を探しても、エゾマツ、トドマツ、カラマツと並んでシベリアマツというのは至るところにでてくるのだが、五葉松だのチョウセンゴヨウマツなどはみつからない。

 寺島儀蔵氏の『長い旅/わがラ―ゲリの二〇年』中公文庫一九九六年には、一九三五年の赤い広場のクリスマスに高さ十五メ―トルのシベリア松が立てられたという面白いことがあった。
またラ―ゲリで医者から松葉の煮汁を強制的に飲ませる話も出てきたが、五葉松はどこにもなかった。

 これは今日も続いているらしいよい企画なのだが、武蔵野市役所児童婦人室が後援してか<TAMAらいふ21”自然との共生”と”21世紀の環境問題を考えるプロジェクト”というのが東京っ子一〇〇人をつれてハバロフスクからタイガやアム―ル河を下るというフィ―ルドを夏休みに試みていて、東京新聞出版局から『シベリア大冒険―東京っ子一〇〇人、緑の大地を行く』という記録が出ている(一九九四年)。

 これにはチョウセンゴヨウマツがでてきはしないか。ナナイの村のニルギン村を訪れてはいるのだが、どこにもこのマツのことはでてこない。
見落とされている、誰も注意していないのである、折角の場所を訪れていながら。
間宮林蔵の見聞・情報は忘れ去られているのだ。

 六七頁に、「日本でも健康食としてマツカサの実を食べるが、シベリアでは松の実そのものが大型なので、ハバロフスクの市街で見掛けるものは、ナッツほどの大きさがある。脂肪分もたっぷりで、森を歩く時にはお菓子がわりに摘んで保存するという。」これこそ、のちにわかった<ウスリ―のパン>ではなかろうか。
なぜこのとき、この松の実は何の松の実か誰かが尋ねなかったのか、調べなかったのだろうか。
折角、謎の一角にぶつかっていながらである。

 ユ―リ―・B・プキンスキ―という動物学者の著書、千村容子さん訳の『ビキン川にシマブクロを追って/アム―ルの自然誌』平凡社一九八九年で、チョウセンゴヨウマツに出会うことが出来たのである。

 ビキン川はあのウスリ―河の支流である。そして、地域はナナイの暮すプリモ―リエ地方である

 一七頁に、「プリモ―リエの誇るチョウセンゴヨウ」、一九頁に「ビキン上流でも、マツ・広葉樹林のタイガは、ヨ-ロッパの森林からは信じられないほどうっそうと茂った堂々たるものだ。
このあたりの木は二五メ―トルから三〇メ―トル以上の高さにまで達している。
こういった森は、その三分の二が青銅器時代のチョウセンゴヨウから成る。」

 そして、しめくくりは、町の図書館の児童室でみつけた新刊書、福田俊司さんの『シベリア博物誌/ヒグマ・アム―ルヒョウ・極東のチョウ』偕成社一九九六年である。福田さんは、一九九一年からロシア科学アカデミ―の協力を得て、シベリアの自然と人間、野生動物の調査、撮影を精力的に続けてきた。毎年一五〇日以上をシベリアの取材撮影に費やすという著者は、ウスリ―自然保護区の一部であるウラディオスト―ク東方タイガにかこまれたラゾ自然保護区付近をトラとチョウを探して踏査する。

  「小屋からゆっくり二時間かけてあるくと、太古の時代から人の手がはいっていないウスリ―のタイガになった。なかでもドロノキの大木はみごとだった。
それは、大人が四人かかかってもかかえきれそうもなかった。
地面からもりあがった根と根のあいだに腰をおろして幹をみあげると、武骨な枝が無数の手となって、天空につきだしていた。/


  ウスリ―のタイガにとってチョウセンゴヨウは、とくべつの木だ。
「シラカバ林で人々は陽気に楽しみ、チョウセンゴヨウの森で祈る」と、ロシア人は語りあう。
荒々しい樹皮、そして、まっすぐに三〇メ―トル以上にのびるチョウセンゴヨウは、人間を敬虔な気持ちにさせるなにかをもっている。

  チョウセンゴヨウの一五、六センチもある松ぼっくりには、種(松の実)がびっしりつまっている。
暗紫褐色の大きな種子は、オイル(油脂分)を六〇パ-セントもふくみ、栄養とカロリ―に富み、ノネズミ、リス、モモンガ、イノシシ、ニホンジカ、ノロジカ、アカシカ、ツキノワグマ、ヒグマなど、タイガにすむほとんどの動物たちにとって欠かせない食物だ。
チョウセンゴヨウが ”タイガのパン”といわれるゆえんである。/

  ケドロバヤ・パジ(自然保護区)には ”タイガのパン”と称される、栄養たっぷりな松の実をつけるチョウセンゴヨウ(ケドル)が密生しているので、この渓谷(パジ)には最近まで、ノロジカがたくさんすんでいた。」/

 そして、一六二頁の
<ケドロバヤ・パジのチョウセンゴヨウの森(航空写真)。黒くみえるのは、すべてチョウセンゴヨウ。>の写真。
一二六頁の<タイガのパン。チョウセンゴヨウの松ぼっくり。ひとつの大きさが二〇センチ近くにもなる。>という写真。

 ここで、ついに間宮林蔵の見聞は、実証された。謎は解けたのである。


 アム―ル・ウスリ―流域、ナナイのふるさとに、間宮林蔵が聞いた通り、五葉松は重要な船材、大事なウスリ―のパンとして、そして人間を敬虔な気持ちにさせる聖なる森として今も生き続け、人間と共生し続けているのである。

 チョウセンゴヨウは元々日本列島にも原生していた。
佐々木高明さんの『日本誕生』集英社・日本の歴史1を読んでいたら、五二頁に列島に広く分布していたチョウセンゴヨウの実は小型のピ―ナッツほどあり栄養価も高く重要な食料であったという鈴木忠司さんの推定が同意できるものとして写真入りで説明してある。
北隆館の『樹木大図鑑』一九九一年の[33]にあるチョウセンゴヨウの説明部分を抜粋してみると、本州中部(福島県から岐阜県にわたる山地である)、四国、朝鮮半島、中国東北部の高地、とくにシラビソ、ブナ帯に分布しており、少なく、直径一・八m、樹高三〇mに達し、五葉の葉は長さ六~一一cm,種子は長さ一五mm、食用になる、とあり、ナッツでいう松の実はこれである。
大きな食料品店には置いてあり、近頃は家庭の食卓でも利用されるようになった松の実のナッツは、問題のチョウセンゴヨウの松の実であったというのである。
案外身近に、現代日本の家庭の食卓にチョウセンゴヨウが生きていた。韓国では秋の採果期には松の実が多く売られ、採果のためあまり高く大きくならないように松を仕立てるとも聞くが。

 一九九七年の夏、八月十四~十五日に駿河台の明治大学大学院の講堂で日韓歴史教育シンポジウムの第四回が開かれ、晋州歴史教育協議会の十一人の同学とのよき交流が行なわれた。
このとき、目良誠二郎さんが立派な報告をし、そのなかで日韓関係でのよき日本人で、朝鮮人からも敬愛されたと思われる浅川巧(一八九一~一九三一)のことにも触れていた。
会議の第一日が終って懇親会が始まるのを待っているとき、目良さんと一時歓談した。そのときのことである。

 わたしがチョウセンゴヨウの話をしていたら、目良さんが、「チョウセンゴヨウは 浅川巧と深い縁があるんだよ」と熱っぽく語り始めた。
「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人」であり、「韓国の土とな」った浅川巧とチョウセンゴヨウとの親縁について教えてくれた。
浅川巧は、 チョウセンゴヨウの種子をまいて朝鮮の山々を青くしようとして、チョウセンゴヨウの種子の<露天埋蔵法>を確立させた。
早速、教えてもらった、高崎宗司さんの『朝鮮の土となった日本人/浅川巧の生涯』草風館一九八二年と『芸術新潮』一九九七年五月号<李朝の美を教えた兄弟/浅川伯教と巧>を読んでみた。

  一九二二年の春を迎えて朝鮮総督府林業試験所技手となった浅川巧は、日記に書く。

  <春の働く日は僕の最も得意の日だ。喜ばしき日だ。自然から教はった造林上の多くの知恵を機を得た ら書いてみたく思ふ。従来の砂防造林やその工事には随分自然と縁の遠い仕方が多い。自然が告げた方法 を実験して見たい。>(三月二〇日)

  来たるべきシ―ズンを、手ぐすねひいて待つ巧の気合やよし。ここには、林業家としての彼の方法論も明確に示されていて、それはなにより自然に学ぶということだった。しかし大学出の上司や同僚たちは机上の理論にしがみついて、本から得た知識のみを振りかざそうとする。そうした上司とときに衝突しながらも、林業技手として巧は、難題とされていたチョウセンカラマツの養苗を成功させ、チョウセンゴヨウマツの ”露天埋蔵法”を確立するなどの成果をあげた。露天埋蔵法とは、種子を自然とほぼ同じ状態に埋蔵[秋に砂と混ぜて埋めて種子が早く育つようにする]することで、翌春の発芽を促進させるというもので、いかにも自然を手本とする巧ならではの発想だった。自然の中で働くことは、巧にとって、美を見出し、喜びに満たされて生きることだった。[『芸術新潮』一九九七・五月、三四頁 高崎宗司文]

 こうして、植民地支配のもとではあったが、浅川巧らの努力によって、チョウセンゴヨウやチョウセンカラマツ、シベリアハンノキ、ヤマハンノキなどの植林、造林が試みられ、朝鮮の美しい青山が一面禿山と化することが少しは食止められたのであろうか。

 わたしは、いままで述べてきたようないきさつで、チョウセンゴヨウの木そのものがどうしても見たくなっていた。まず、毎朝散歩している石神井公園にないだろうか。
図書館でみつけた東京公園叢書の一冊『石神井公園』の樹木一覧を見ると、チョウセンゴヨウ 一本とある。
早速、公園の管理事務所を訪ね、その所在をたずねると、その本は大分古い本で、調べてみるといまはチョウセンゴヨウはないという。多分枯れてしまったにちがいない。
深大寺のそばにある神代植物公園ならばあるかもしれないと教えられた。
そこで翌日、神代植物公園へ行き、緑の相談所で調べてもらった。
まずリストには、針葉樹園にあることになっている。
しばらくすると、連絡があり、あの木は枯れていまはないということだ。
残念だったが、一応現場に行ってみると、チョウセンゴヨウの名札はあるのだが、そこには十五センチほどの枯れた切株しか残っていなかった。
帰宅して、やはり最初教えてもらったありそうなところ、高尾・浅川の多摩森林科学園に電話をかけてみた。
ある、どうぞ見にいらっしゃい、という返事だ。


 早速、翌日ほんとに久し振りのことだったが中央線で高尾まで行ってみた。
多摩御陵のそば、廿里(十々里)=トドリという名の場所に、七十年前宮内省帝室林野局林業試験所が設置され、これが多摩森林科学園の始まりである。
トドリという土地は、四百年以上前、小田原城を攻めるため南下してきた武田信玄の軍勢を北条氏照が迎え撃った古戦場である。
いまは林野庁森林総合研究所の一支所である。森の科学館の方が見学のしおりにある図面で、チョウセンゴヨウの位置を教えてくださった。
急な山道を登り、目指す針葉樹の森に入ると、チョウセンゴヨウの大樹が何本もすくすく生えているではないか。
しかも、さきに書いたしめくくり、福田俊司さんの『シベリア博物誌』がしめくくりではなくて、ここにしめくくりがあったのである。
ちゃんとしたパネルが大樹のまえの地中に刺さっている。

 マツ科:Pinus koraiensis S.et Z   チョウセンゴヨウ 一名 チョウセンマツ

 属  分布=本州中部 四国 朝鮮 中国 ウスリ―

        材は耐朽性が強く建築,土木用.

 分布に、はっきりウスリ―というナナイのふるさとが入っているのだ。残暑の汗を拭いつつ、しばらくチョウセンゴヨウの樹陰を吹く涼風を味わっていた。

 チョウセンゴヨウは、車両、船舶、器具、包装、彫刻にも使われてきたという。
この木でつくったナナイの舟は、加藤九祚さんの『北東アジア民族学史の研究』恒文社二六六-二七一頁にあるようにカラフト・北海道のアイヌの舟にも学ばれており、北日本の歴史にかかってくる。アイヌは 津軽海峡を<しょっぱい川>とよび、本州との往来は頻繁だったという。
(赤阪憲雄『へるめす』九七・一 p25 )。]            


 三内丸山遺跡にかつて栄えていた縄文人の大共同体の港湾には、ときにこのようなアイヌの舟、つまりナナイ型の舟が訪れていたのではなかろうか。
そして北方のどんな品物、どんな情報を運んできてくれたのであろうか。


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北方史を描く愉しさ(続)  第二話 ナナイとの出会い、「鎖国」の抜け穴―山丹交易、山丹人、「松林」

北方史を描く愉しさ(続)
     第二話 ナナイとの出会い、「鎖国」の抜け穴―山丹交易、山丹人、「松林」
                                          

 一九九七年から使用された中学社会科教科書には、アイヌ民族がはじめて先住民族として位置付けられ、その記述が拡充されたり、山丹交易の歴史がいわゆる鎖国を破る外の世界との交流としてはじめてとりあげられたり、見るべき改善があった。

 山丹交易の主人公のサンタン人の隣人あるいはサンタン人の一種であるといってもいいナナイとの出会いは、一九七九年初夏、新潟-ハバロフスク経由でモスクワの第四回日ソ歴史学会議に参加するためにアム―ル河とウスリ―河の分岐点ハバロフスクに立ち寄ったとき、ハバロフスクのホテルのキヨスクで売れ残っていた二冊の絵本を購入したことであった。
一冊は内戦期のシベリアの物語「マキシム」、もう一冊がナナイの民話「メルゲンとその友達」であった。どちらも英語版だった。
その後、「メルゲンと友達」の絵本は、上越の二谷貞夫さん、北海道滝川の佐藤明彦さんがそれぞれOHP化されて授業に使ってみたいということになった。


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ソ連の絵本〔英語版)『メルゲンとその友達』表紙・裏表紙  下は絵本の第一場面


やがて一九九二年には、和田あき子さんらがナナイ出身の民族学者でソ連最高会議代議員に選ばれた女性エヴドキヤ-ガ―エルさんを日本平和学会の招待ということで日本へ呼ぶことが実現した。
そして、「ロシアの少数民族とエコロジ―」という講演などが行なわれ、北海道のアイヌの人々との交流も試みられた。

 「メルゲンとかれの友達」とは、次のような物語である。


[絵 その1]
昔むかし遠い昔、はるか遠くの北の土地、雪におおわれたシベリアの渓谷にメルゲンという勇気があり 腕のよい狩人が住んでいた。
彼の食卓には魚や肉が欠けることはなかったが、彼は自分の必要以上は獲物 を獲ろうとはしなかった。

  ある日、彼は狩りにでかけ、偉大なアム―ル河にまで出た。だが、獲物はみつからず、シベリアの密林 (タイガ)の奥深く、年老いたおそろしい虎の住む領分にまでふみこんでいった。

  モミや松の森をぬけていくと、黒ずんだ沼に一頭の鹿がはまりこんでいるのに突然でくわした。メルゲンは矢をつがえて放とうとしたとき、その鹿があわれな声で叫んだ。

  「射ないで、メルゲン。どうかこの沼から引き出してくれ。」

  メルゲンは鹿がかわいそうだと思い、沼から引き出してやった。助けられた鹿は、泥をふるいながらいった。

  「メルゲン、何か必要なときは、呼んでくれ。」

 [絵 その2]

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 そういって、鹿は森のなかへ姿を消した。
メルゲンは密林のなかを獲物を注意深く探して進み続けた。 
すると、大きなブナの樹の折れた枝の下敷きになってつぶされそうになっている一匹のアリをみつけた。 
そのアリがたのんだ。

  「メルゲン、どうか私を助けてくれ。」

  アリがかわいそうで、メルゲンは折れた枝をもちあげて、アリを助けてやった。

  「ありがとう、メルゲン。用があれば、すぐ私を呼んでくれ。」

  アリとわかれて、メルゲンはアム―ル河の岸辺までたどりつき、青い色をした浅瀬の水たまりに出会った。
そこで一休みしようと、矢づつをおろそうとすると、息もたえだえであえぐ声を耳にした。

  「メルゲン、助けてくれ。死にそうだ。もう三日間もここでバタバタしてるんだ。」

 [絵 その3]

  よく見ると、巨大なチョウザメが一匹、浅瀬に乗り上げているのだ。
かれはチョウザメの脇腹に自分の 肩をあて押し続けて、河までもどしてやった。
チョウザメは、尾ひれをひとふりして、アム―ル河の冷たい淵にもぐっていった。


 メルゲンが岩に座って、一休みしようとしたとき、チョウザメは河面に顔を出していった。

  「ありがとう、メルゲン。なにか用があるときは、必ず私を呼んでくれ。」

  一休みしてから、狩人は歩き続けると、見知らぬ村があらわれた。
がっしりしてちょっとずる賢い目をした老人が、一番大きな立派な小屋のまえに立っていた。

  「あんたは誰? 」老人はしたしげにたずねた。

  「狩人です。密林(タイガ)を狩りしていましたら、あなたの村をみつけたのです。ちょっと休ませて いただけませんでしょうか。」

  「どうぞどうぞ、客人よ。おはいりなさい。」老人はメルゲンを家にまねきいれた。

 [絵 その4]

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メルゲンが家のなかのすばらしさに見とれているとき、ブロンズのイアリングをリンリンと鳴らせてき れいな乙女がしきいのところにあらわれた。
乙女は浅黒い顔を輝かせ、両眼はきらきら光り、編んだ漆黒の髪はつやつや光り足までとどく長さであった。

  「どうだろう。私の娘をどう思う? 」老人はたずねた。

  「アム―ル河の岸辺には美人がたくさんいますが、こんな美人は見たことがありません。」とメルゲンは白状した。
  「私の妻にくださるならば、私の立派な若者ぶりをお見せしましょう。」

  「メルゲンよ、そんな簡単なことではないぞ。」
ずる賢そうな老人はいった。

 「百人もの勇ましい若者 がこの娘を嫁にほしがったが、みんないまはわしのドレイになっている。
おまえに三つの宿題を出そう。 
それをやりとげられたら、結婚を許してやろう。
しかし、できなければ、ドレイになるまでだ。
よいか、 よくて考えて返事しろ。」

  「いいとも! 」
メルゲンはよく考えもせず、さけんだ。

  「召使ども、わしの鉄の長靴をもって参れ! 」

 [絵 その5]

  召使たちはすぐあらわれ、重い鉄の長靴をえっさえっさ運んできた。

  「この長靴をはいてみろ。一晩中この長靴をはいて歩いて履きつぶしてこい。
そしたら、二番目の宿題を出してやろう。」老人はいった。

  メルゲンはその長靴をはいて、タイガ(密林)にふみこんでいった。
「こんな鉄の長靴をはきつぶすなんて、いくら命があってもたりゃしないぜ。」
かれはしょげきってこぼした。
そのとき、突然あの鹿のことを思い出した。

  「わたしの友達の鹿さん。どうか助けにきてくれ!」かれは森の奥に向かってさけんだ。

  叫び声が終るか終らないうちに、狩人の前にあの鹿があらわれた。
メルゲンが不幸な運命を語ると、鹿は一言も言わずに、鉄の長靴を前足にはいて丘のほうへかけこんでいった、夜空にきらめく星のような電光のひらめきを残して。
いっとき、メルゲンは草原に横になり眠りに落ちた。
かれが明け方目を覚ましたとき、鹿はもう眼のまえにいた。あの新品の鉄の長靴は、はきへらされて、ボロボロにすりへって靴の先を残すだけのボロくずになっていた。

  メルゲンは大喜びで、鹿の暖かい鼻にキスをし、ボロになった靴を下げて村へ帰っていった。
首長の家に帰り着くと、ドンドン壁をたたくと老人が飛び出してきた。

  老人の足下にボロくずになった長靴をほうりだして、メルゲンは叫んだ。

  「さあ、二番目の宿題の番ですよ。」

 [絵 その6]

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しばらくの間、老人は黙ったままだった。気を取り直してから、老人は叫んだ。

  「召使たち、アワの入った大袋を五袋運んでこい! 」

  老人は運ばせた大袋からアワをまきちらしはじめて、とうとう村中のそれこそ隅から隅までにアワをまきちらした。それから、老人は含み笑いを浮かべていった。

  「どうだ、一粒残さずアワを全部袋に拾い集めてみよ。一日以内にだ。」

  メルゲンは草地にいって、地面に横になり叫んだ。

  「わたしの友達、アリ君よ。助けにきてくれ。」

  すぐ、あのアリが姿を見せ、狩人の話に耳を傾けてくれた。
それから、アリは仲間たちを呼び集めると 、たちまち大地は、それこそ村中の隅から隅までビッシリ埋めつくすほど、アリたちでいっぱいになった。
メルゲンがタバコを一服するまもなく、一瞬のうちにアワは一粒残さずもとの袋に納まってしまった。
メルゲンはアリたちにお礼をいい、老人のところへゆくと、かれはまえよりももっと驚いて、頭をかきながら、こういった。

  「では最後の宿題だ。もしこれに成功したら娘をお前にあげよう。
ずっと昔のことだが、わしが若かった頃、わしのおやじがアム―ル河に金の指輪を落してしまった。夜までにあの指輪を見つけてほしい。」                                           

 [絵 その7]

  また、メルゲンはガックリして、家を出た。
しかし、あの娘が窓から白いハンカチをふり、メルゲンに胸のうちを示すの気づくと、元気づき大股でアム―ル河の岸辺へと向かった。

  「チョウザメさんよ、魚の女王様よ。出てきてわたしを助けておくれ! 」

  三度、アム―ル河の深い淵に向かって呼びかけると、河面がザワザワと波立ち、チョウザメの大きな頭が水面に飛び出した。メルゲンが例の難題をうちあけると、一言もいわず、チョウザメは河底にもぐっていき、アム―ルの河底に住む魚族たち全部を呼び集めた。
大きな魚も小さな魚も河底をくまなく探しまわり、指輪を見つけてくれた。

 [絵 その8]

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狩人はうれしさいっぱいで、金の指輪をもって老人のところへ戻った。老人は指輪を受け取ると、家の奥へ姿を消した。まもなく、老人は微笑む娘をつれてメルゲンの前にあらわれた。

  「さあ、いらっしゃい。わしの勇敢な元気のいい狩人よ。わしの娘をお前の嫁にあげよう。そしてよければ、わしも、わしのドレイたち、わしの召使たち、そしてこの村全部、お前にゆずってやろう。」

 [絵 その9]

  [ありがとうございます。今日から以後この地ではドレイもなければ召使もいりません。わたしたちみんなが友達として平和に暮しましょう。」

  このときから、村人みんなが幸福に暮すことになった。そうして、アム―ル河の岸辺のナナイ族の村の狩人たちの幸福な暮しは永遠に続いた。

 
[註 Progress Publishers Moscow 1973 "MERGEN AND HIS FRIENDS / A NANAI FOLK TALE " の英語版を私訳してみた。
その際、二谷ゼミの三王昌代さんの訳、ヴィクトル・ガウァ―ク編渡辺節子さん訳『ロシアの民話 Ⅱ』恒文社 
一九七九年 p 281-288 「メルゲンとその仲間たち」のドイツ語訳からの和訳の二つの訳文も参照させていただいた。]

 絵本のそれぞれの頁を占める絵の額縁にあたる部分には、シカ、トナカイ、ミンク、キツネ、クロテン、イノシシ、クマ、トラ、イヌからカメ、カエル、ヘビ、トカゲ、そしてコウモリ、さまざまな鳥、チョウなど、それに龍と、実に多様な面白い獣・昆虫類のシンボルが並べられている。また特徴的なものは、人物の背景の森林部分にまた奇妙に造形化された「生命の木」が描かれていることである。
このことに関わって、北海道開拓記念館が一九九五年に出した『「北の歴史・文化交流研究事業」研究報告』には、手塚薫さんの「アム―ル川流域におけるナナイとウリチの象徴表現―世界樹と動物をめぐる信仰―」という報告がある。

 ナナイとウリチ両民族はウスリ―・アム―ル河流域に住むトゥング―ス・満州語族に属するが、現在もその伝統的な民族衣裳である花嫁衣装の背面には、ユ―ラシア世界に普遍的な世界樹信仰を具象化した「生命の木」が刺繍され、かれらに固有な世界観を刻み続けている。

 ユ―ラフロアジア世界の世界樹信仰のひとつであるナナイの「生命の木」は天と地と地下界の三界を結び、狩猟動物の「再生」という信仰を深くかかわっている。この「生命の木」は氏族の繁栄を願い、かれらの独自な世界観の中心をなしている。

 「生命の木」にかけて、食ベたあとの動物の骨が描かれているのは(絵その3)、動物が骨から再生される「骨儀礼」の表現であり、やはり大事な信仰を示している。

 サンタン人とされたウスリ―河流域に暮すナナイの場合にも、アイヌに似て、天・大気と大地そして大河と密林(タイガ)に抱かれ、植物や動物と共生し、ともに生と死と再生のサイクルを送る、命ある万物という世界観が生きていた。

 絵というと、二谷貞夫さんのウラディオスト―クのお土産に、ロシア科学アカデミ―極東支部極東諸民族歴史・考古・民族学研究所博物館発行の『ロシア極東先住民』という二四葉から成る絵図版集がある。
これは『メルゲンと友達』という絵本と並んで、子供たちに早い時期から北方世界史のなかで自国・自民族の歴史に目を開かせていくためには好適のすばらしい教材になると思う。
二四葉の絵図版は、ナナイが三枚、ウリチ三枚、チュクチ二枚、ウデヘ二枚、ニブヒ二枚、エベヌ、オロキ、アイヌ、ニギダリン、エベンキ、エスキモス、アリユト、イテルメヌ、ユカギル、チュバンシ、コリャキ各一枚の以上である。
カラ―で自然環境・服装・狩猟漁撈・その道具・住居・家具調度・工芸品・家畜家禽・鍛冶・育児・老人と女子供たち・子供のおもちゃ・シャ―マンとその儀礼・交易の模様・そり・くつ・舟・雪原など、きわめて生き生きと具体的に北方の民族の営みが描かれている。

 ウスリ―河流域の探検調査の記録であるアルセ―ニェフの『ウスリ―紀行』は、黒沢明の映画『デルス―・ウザ―ラ』で有名だが、残念ながら映画はその自然と民族をとても満足には描いてくれなかった。

 ナナイ族は、アム―ル河中流からウスリ―河、松花江流域にかけて住むトゥング―ス・満州語族系の民族である。その住む領域は、今日のハバロフスク州、プルモリスキ―地方(沿海州)、中国領黒龍江省にまたがっている。ナナイは自称の一つで、「土地の人」を意味する。ナナイはサケ類、マス類、各種淡水魚、チョウザメなどを漁し、シカ類、クマ、キツネ、テン類、リスなどを狩る。

 一八世紀から一九世紀にかけて、アム―ル河下流域とサハリンを舞台に「絹」と「毛皮」という二大商品が盛んに交易された。中国東北地方からアム―ル河・沿海州・サハリンを抜けて北海道に達する北方のシルクロ―ド兼ファ―ロ―ドである。
南方の諸帝国の富貴の人々は、美しい光沢と柔らかい肌触りのクロテンやミンクの毛皮を喉から手が出るほど欲しい高級品として、そういう毛皮の産地であるシベリアや北米北部を窺い狙いつづけた。
本田実信さんの『モンゴル時代史研究』東大出版会は重要な名著であるが、その貴重な付図のひとつに、「モンゴル時代後半のユ―ラシア」がある。
そこにある北京から発して遼陽を経、ヌルガンそしてカラフトに至る道は「朝貢路」であり、毛皮の道であったに違いない。
 
 いわゆる元軍と骨嵬との関係も、モンゴル帝国のアム―ル・カラフト地域の人々が獲る毛皮を欲する「収貢頒賞」政策[佐々木史郎さんの好著『北方から来た交易民/絹と毛皮とサンタン人』NHKブックス六九、七三頁を見よ]が結論であった。
この北方交易活動の主役が、「サンタン人」とよばれ、この交易が「サンタン交易」といわれたのである。
 それが山丹人、山丹交易である。サンタン人を含むアム―ル河下流域とサハリンの住民が、中国(清朝)や日本(松前藩)を相手に絹と毛皮の二大商品を中心に取引したのが山丹交易なのである。

 サハリンと大陸との間を陸続きではなく海峡として確認した最初の日本人は松田伝十郎のほうであるが、かれがともに調査に従事した間宮林蔵が、一八〇九年と一〇年(文久六年と七年)に行なったアム―ル河探検は大変重要である。
かれの調査と記録は、アム―ル河下流域の民族の姿を的確に伝えており、加藤九祚さんが『北東アジア民族学史の研究』で近代の民族誌と比較してその内容の正確さを立証しているように、今日の民族研究においても大きな意味をもっている。
間宮林蔵の口述書『北夷分界余話』と『東韃地方紀行』とそれぞれの豊富な図版である。

 サンタン交易にはサンタン人以外にもさまざまな人々が参加していた。
たとえば、サンタン人[アム―ル下流域およびサハリンのウリチ]の川下の隣人であり、サハリンの中部・北部にも住んでいた「スメレンクル」と呼ばれたニブフ(ギリヤ―ク)、やはりサンタン人の川上の隣人であった「コルデッケ」[正確にはゴルドック、ゴルドまたはゴリドと呼ばれるナナイ]、サハリン中部山岳地帯のトナカイ飼育民「ヲロッコ」(オロッコ)、そしてサハリン南部のアイヌなどである。

 『東韃地方紀行』巻の上で間宮林蔵が、コルデッケの最も下流の集落であるウルゲ―に達し、そこでのわずか一日の滞在で、面白い見聞・情報を記録している。
ここで、おそらく最初の日本人として間宮林蔵は、今日のナナイの祖先コルデッケ族に出会っているのであり、このナナイの祖先たちも絹と毛皮の道を通って日本と中国の間の交易に従事していたわけである。

 間宮林蔵の一行がアム―ル河流域の探検に河を遡行するため、コルデッケすなわちナナイの祖先のもとで船を購入している。船はどんな船で、何で作られていたのだろうか。それが次の謎である。


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北方史を描く愉しさ ―ソバの故郷、山丹交易、ナナイ、五葉松― 第一話 北方系ソバの故郷は バイカル湖のほとり 

※1997年6月21日から書かれた文章です。


北方史を描く愉しさ
  
      ―ソバの故郷、山丹交易、ナナイ、五葉松―

                                            

 第一話 北方系ソバの故郷は バイカル湖のほとり

 宮本常一さんの『日本文化の形成 講義2』(そしえて一九八一年)を読んでいると(p80-81) 、ひとつ面白い謎にぶっかった。
ソバの故郷のひとつかもしれないバイカル湖地域という仮説とシベリア-沿海州-サハリン-北海道-東北-関東にまたがる北方文化圏(ナラ林帯あるいはブナ林帯)の意味である。

北見の常呂(ところ) の住居跡について、加藤晋平さんがいうには、発掘で土調べをしてみると、土のなかにソバの花粉が見つかっている.
北の方では栽培植物としてのソバは、縄文期に植えられていた.
北方の縄文期はずっと千何年まで下ってくる.
北海道の北見を中心にして見られたアイヌ文化というのは非常に古い時期にソバの栽培を始めていたのではないか.
ソバというのは野生ではなく、もう日本に来たときには栽培されるようになっていた。

  中尾佐助さんはソバの原産地は中国雲南省というが、最近のシベリアについての考古学的・民族学的調査では、バイカル湖を中心に両側につながる森林地帯の北側にソバがすごいほど野生している。
ソバの花で真っ白になる。
栽培種の野生化したものだと考えられる。
ソバベルトというものがある。
それが北海道の北にまで来ているということになる。


 宮本常一さんは、同じ箇所で[同書p82-86] 北海道のアイヌ文化というのは非常に原始的で遅れたものだというように考えられていたが、今から一五〇〇年以前には本州の農耕文化と比べて遜色があるどころではなく、非常にレベルの高い文化があったのではなかろうか、と注意している。


 今の沿海州の辺り、黒龍江(アム-ル 河) の河口から南にかけて、かなり高い農耕文化を持っていた。アワを作りキビを作り、それからソバを作る。それの一端が北海道の北側へ、南側ではなくて北見のほうへ、天塩から北見にかけてずうっと出てくる。

  どうしてかというと、あそこでは魚が非常にたくさん獲れた。
魚が多いし、それから動物では熊が多い。
かなりの程度早くから交易が発達したのではなかったか。
その交易というのは、夏になって樹木が繁っている中を往復するということは難しいことだけれども、冬凍りつくと橇でいくらでも行ける。
そこでトナカイの文化というものが考えられていいのではないか。
例の大黒屋光大夫がカムチャッカへ流れついて、それからラックスマンに連れられてモスクワに行くが、冬になって土が凍るのを待って行く。
当時は馬に引かせて非常に短期間でモスクワに着いている。
ゲンダ-ヌさんのトナカイ遊牧の話もある。

 また、普通知られている南方からの稲作の渡来論に対してシベリアを経由しての北方系の農耕の伝来論を宮本さんは力説しており、ほぼ次のように北方世界史を素描している。(同書p136-141,p142-148)


 農耕において南方だけを注目するのではなく、もひとつ北方を重要視する必要があるのではないか。
北方的なものにしても、シルクロ-ドを経由して黄河流域に農耕文化があり、それが朝鮮半島を経由して日本に入ってきたのではなかろうかと、そういう見方をしていたわけだが、それだけではなくて、それよりもうひとつ北にル―トがもうひとつあって、それがシベリアから満州に入ってくる文化になり、ひとつは黒龍江( アム-ル) 筋というか、沿海州まで来ている。
その沿海州からず―っと海を渡って北海道、さらに東 北-関東へつながる文化になる。

  シベリアではソバだけではなくて、黒龍江を過ぎてアワ、コムギの花粉が出てくる。アワも北方系のアワがある。
四〇〇〇年ぐらい前からで、そのころに今の沿海州のあたりでアワやコムギを作っていた。オオムギの花粉が出るのは紀元前一〇〇〇年、今から三〇〇〇年ぐらい前なのだ。
キビもそのころ作られている。
そればかりでなく、今から二〇〇〇年ぐらい前の遺跡が沿海州まで広がっている。
つまり、沿海州というのは、今から二〇〇〇年から三〇〇〇年ぐらい前には、農耕が非常に盛んだったといってよい。
それからバイカル湖の東へ行くと、キビが作られている。
やはり二〇〇〇年ぐらい前、漢の時代だ。ブリヤ―トの遺跡からは、キビとソバが出てくる。
バイカル湖の東部からはソバが出ている。
今から三〇〇〇年ぐらい前のものだ。同じバイカル湖の東部で、四〇〇〇年前の青銅器が出始めている。

北方の文化というのは、我々が考えているよりははるかに高いものがある。紀元前二〇〇〇年の南には、そんな文化はない。
そういう高い文化の中心はバイカル湖の東部の辺りではなかろうか。
スキタイ文化というのは農耕文化だった。狩猟文化ではない。
それが黒龍江、アム―ル流域に進出してきた。
これらの文化を持った民族はどんな民族だったかというと、ツング―スだと見てよい。北方ツング―ス、つまり満州族だ。
その西に遊牧をこととする匈奴だとか鮮卑だとかの先祖がいて、それが次第に東に移動を始めた。
だいたい西部シベリアの平原地帯、ステップにいたものだろう。
それが東に移動し始めると、それにつれて、農耕文化を持ったツング―スが東へ移動し、さらに南へ移動したと見てよいのではなかろうか。

  それでは、それが日本へどんなかたちで伝わったのだろうか。
縄文の前期・中期ぐらいには、そういう文化が北海道へはすでに伝わっていたのではなかろうか。
それまでは日本で猪と鹿の区別がついていない。
岩などに刻みこんでいる線画を見ると、大半の動物が角のあるように見えるが、普通の鹿だとみな角が枝が開いているように描かれるのに、枝の開かない、耳と見ても差し支えないような動物が無数に描かれている。ひょっとしたら、鹿ではなく猪ではなかろうか。
これが縄文晩期になると、はっきりと猪になってくる。それが猪だとわかるのは、北方では猪の土偶がたくさん出てくる。
猪というのは南の方に多かったと思うかもしれぬが、そうではなくて、北の方に 多かったのだ。
北方で猪の土偶がたくさん出てくる。
人間の子供が死んでそれを埋めると、そのそばに猪の子が埋められていることが非常に多いのだそうだ。
自分の子供に乳を飲ませるが猪にも乳を飲ませる。
そうすると子供が丈夫に育つという。
関東から北の方での猪の落とし穴は二〇〇〇を超え、猪の土偶地帯と重なる。猪を飼っていた。

  シベリア-沿海州を経由して、多分間宮海峡を通って北海道へ入ってきた北方系の農耕(および作物)というものを考えざるを得なくなる。
北見の常呂(ところ) の町だけで住居址が一万五〇〇〇ぐらいあるのだという。長い歴史のなかでそれだけあったという。
それにしてもひとつの町でそれだけの遺跡があるというのは、かりに一〇〇〇年なり一〇〇〇年で割ってみても相当な家数になる。す
ると、それは狩猟だけで生活がなりたつだろうかいうことになってくるわけだ。常呂だけではないのだから、あの辺りばあっと町があって、遺跡、住居址だらけということになってくる。動物を捕って食うだけでは生活できないだろうと思う。
これから先の北海道文化の見直しというのは、非常に大きな問題を提供してくるのではなかろうかということがわかってきた。そうすると、縄文文化というものをもう一遍見直しする必要がある。

  

ソバは日本に野生していなかったかとみんなに聞いてみたが、ダメだという。野生のソバはない。
けれどもソバというのは、開墾したとき、土が肥えていないうちにまいても、ちゃんと良い実ができる。そうすると、そこら辺に火をつけて焼いて、あとへパ―ッとソバをまいておけば、もうそのまま実が獲れる。
いわゆる半栽培ができるわけだ。そして大いに食糧を供給することができる。

  加藤晋平さんに、日本でソバの花粉が出ている所を教えてもらいたいというと、岩手県にある縄文晩期の大洞窟遺跡からソバの花粉が出ているという。
関東ではこれも縄文晩期の真福寺遺跡からソバの花粉が出ている。津軽の古墳からも出している。
非常に奇妙なことは、東北地方で弥生時代の遺跡からソバの花粉が出ているのは二か所くらいしかない。
すると、稲作が発達するにつれ、一応ソバは止まったのではないかという感じさえする。
北海道の場合には、擦文文化、すなわち奈良時代から平安時代へつながる文化だが、そのころまでソバの花粉が出てくる。
そして、それらが北海道では全般にわたっていることがわかるのは、まず天塩、豊富、天塩の河口から千歳、その辺にかけてずうっとあるのだが、北海道では全面的に縄文晩期まで、あるいは奈良-平安ぐらいまで、ソバは盛んに作られていたのではなかろうか。
それから本州のほうがだんだん稲作になって、そのときに北海道ではずうっとソバが主食だった時期があったようだ、というのが 加藤晋平さんの話だった。

  北海道というのは、意外なほど農耕が盛んだったのではないか。というのは、[『松浦武四郎日記』を見よ]加藤晋平さんの指摘によると、ヒエ、アワ、ソバなど、その外側では、タバコ、カボチャ、ゴショイモ、シソ、トウガラシ、ナス、センダイカブ…、かなりの作物を作っていることがわかる。
カブも作っている。しかも、カブだけ作らないで、カブとアワを混ぜて種をまいている。非常に作物の種類が多い。
このなかには日本の本土のほうから種子が行ったものもあるが、たとえばセンダイカブとかタバコやトウガラシとかいうものは、むしろシベリアから入ってきた。つまり沿海州を経由して入ってきたものではなかろうか。
今では沿海州というところは、ずっとレベルが落ちてしまったけれども、かつてはそこに理想的な、一時は非常に栄えた農耕文化があったのではなかろうか、そう見られる。

  沿海州と北海道とが深い関係にあったということは、日本のほうの歴史でいえば、ちゃんと明らかであった。蝦夷征伐のときにミシハセ(粛慎)まで行ったとある。
沿海州である。『続日本紀』(元正天皇養老二年八月条)を読むと、渡嶋(北海道南部)の蝦夷が馬一〇〇〇頭を朝廷に献上したという記事がある。
ほかの地方とはケタが違う。それだけの馬を今の北海道南部のアイヌが飼って持っていたのだ。野馬の放牧ではなかったかと思われる。

  日本という国は、北の方は開けていないという考えを、我々は見事に強く持っていた。そこで、エビスの国というのはほんとに開けていないと見ていた。
ところが、実は決して南の方の稲作文化に劣らないような文化が、少なくとも稲作の起きてくるまでのあいだ、栄えていたということがわかってきた。そしてそれは関東まで及んでいた。
関東の文化の中には、北方的な色彩というものが非常に強いのだと、これから先、関東文化を見ていく場合の、ひとつの大事な視点になってくるのではなかろうか。

  これは南の照葉林文化に対して北方の落葉林文化、すなわちナラ林文化あるいはブナ林文化という広がりでもある。

 宮本常一さんの『日本文化の形成 講義2』は、一九八〇年に語られたものである。その後、一九九二年青森県の三内丸山遺跡の発掘が始められ、宮本の北方史のイメ―ジを裏づけるような事実がいろいろあらわれきたと思う。

 最近、一九九七年六月二十一日TBS テレビの<世界・不思議発見/古代縄文王国の謎>という三内丸山遺跡を主題にした番組をたまたま見ていたら、最後の質問に,この遺跡から発見されたアサ[加藤晋平説では繊維としての麻と幻覚を起こさせる麻薬としての麻]やゴボウなどは北方渡来のものであるが、もうひとつ今でも常食されている食べ物で北方渡来のものがある.それは何だろうか? という問が出ていた。
答えは、ソバである。
もちろんそれは麺類のソバではなかろうし、ソバの花粉だろうが、ここではソバが北方渡来、つまり沿海州-シベリアから来たものであることが公認された知識として登場しているのである。                      

[註:岡田康博・小山修三編『縄文鼎談/三内丸山の世界』山川出版社一九九六年を見ると、八六頁に岡田談として「ほかに栽培植物では、ヒョウタンやゴボウ、アカザ、マメなどが出ています。それと、ソバは花粉が出るのですが、種子がほとんど出ず、殻もみつかっていないんです。」石毛直道さん談としてニガソバつまりダッタンソバだろうとし「もしソバを食べていたら、ソバゴメとしての粒食でしょう。カラをはずして煮てしまうのです。」一三六-三七頁には佐藤洋一郎さん談として「ヒエの種があまり出てこない。これは栽培の可能性があったことになる。もし野生だったら、種がうじゃうじゃ出てきますよ。…種がないというのは、[栽培のため種がまかれて]種が消費されているということなんですね。…[ソバについても]栽培化が進んでいたんでしょう。」とある。]

 ゴボウといえば、野菜.野菜といえば青葉高さんの『野菜/在来品種の系譜』(ものと人間の文化史 43 法政大学出版局一九八一年)は、生活科の教材が一杯つまった宝庫である。
この本を開くと、たとえば東日本のカブはシベリア原産の北方渡来の作物であることややはり北方渡来のものとしてはオオムギ、コムギ、ダイズ、シベリア-キュウリ、ゴボウ、それにネギなどがあげられている。
わが国の野菜はほとんど全部が外国から渡来したもので、日本原産の野菜といえば、フキ、セリ、ミツバぐらいなものしかない (p 309)とあるのだが、だとすれば野菜の系譜は世界史と日本史をバラバラにとらえていたのでは理解できないことになろう。
生活科のなかでよく作物を実際に栽培してみる授業例が出てくるが、そういう実践のなかで子供の目を早くから日常的に広い世界に開かせる対象がゴロゴロ転がっていることになる。
北方大陸からやってきた栽培作物についての最新の研究成果としては、山田悟郎・椿坂恭代両氏の「大陸から伝播した栽培植物」があり、参考文献も便利である[『「北の歴史・文化交流研究事業」研究報告』 北海道開拓記念館一九九五年.所収]。
ソバの原産地については、いろいろ出ているいわゆる<ソバの本>では、ソバの原産地を諸説無差別にそれほどの吟味もせず羅列してすませているものが多く、不満である。
例の新宿の日清食品本社ビルの三階にあるFOODEUMの図書館でも当たってみたが、雲南説、シベリア-バイカル説どちらが有力なのか、まだまだ謎は解けない。
新島繁さんの『蕎麦史考』錦正社一九七五年を一例として要約しておくと、まず食用にする普通種の原産地は、寒帯地域を除く東アジアの北部、特にアム―ル河(黒龍江)の上流沿岸・満州・ダウリア・バイカル湖にわたる地域である.とし、次にドゥ-カンドルの説を経て、中尾佐助さんの雲南・北サハリン・西南ヒマラヤ説、山本重太郎さんの雲南-ブ―タン・ネパ―ル説、佐々木高明さんの雲南高地部説などを列挙している。
私は、中国西南部雲南省、そしてバイカル-アム―ル-沿海州を含む北方アジア-シベリアの二つを筆頭にした多元説をとる。ソバの歴史を探っていく過程で、シベリア-バイカルの民話を調べていくと、斉藤君子さんの『シベリア民話の旅』平凡社一九九三年で、蕎麦の起源という民話に出会った(p 152-153)。

  南シベリアではすでに紀元前に農業がはじまっている。農業の起源が古いことはショル(バイカル西方 の民族の儀礼からもうかがい知ることができ、蕎の穂や蕎粉、あるいは蕎で作った料理がどの儀礼にも欠 かせないものとして顔を出す。
一例を挙げれば、春祭りでは山や川や森の霊に蕎で作った飲み物を与える。
祖先を供養する祭りのときには墓の上で蕎粉を焼いて、その煙で悪霊を追い払い、そこにいる人々の体 内に入りこまないようにした。
蕎麦と麻の実を煎って作るアルバという民族料理も有名だ。

  この蕎麦を人間がどのようにして手に入れたのか、その由来をショル族は次のように言い伝える。


  ・ソバの由来・
 

コ―ブィ―氏族の祖先の一人でテビル-キリシャ(鉄の弓弦)という人のへそから蕎麦の穂が出てきた。
この穂からはじめて、コ―ブィ―氏族の人びとが蕎麦の実を収穫し、ムラス川の上流に住む隣人たちにもこれを分け与えた。それと同時に、火を切り出す方法も教えた。
それまでは獣の肉もゆり根も生で食べていたのだ。

  蕎麦の栽培と火の獲得が結合して語り伝えられてきたことは、蕎麦が焼き畑耕作によって作られることと無関係ではないだろう。

 さきにあげたテレビの<世界・不思議発見>の場合でも、三内丸山遺跡で暮していた縄文人が食していたソバは麺類のソバだとスタッフたちは勘違いしているらしいが、黒柳徹子さんがいう「オソバ」だっただろうか。
そうではなくて慶長年間(一五九六―一六一五)に蕎麦切りが現われるまで、ソバ粒食の時代はかなり長く続いたのである。
ロシア-東欧のス―プ仕立てのソバ-カユも粒食の一種である。
映画『コルチャック先生』で自由になったら一番に食べたいものにコルチャック先生が挙げたのが、<キイチゴとソバの実のオカユ>(字幕)だった。
オカユつまりカ―シャという。
加藤九祚さんのアム―ル紀行日誌(『ユ―ラシア野帳』恒文社一九八九年)を読んでいると、よくソバの穀粒を煮たものにカンヅメ肉の汁をかけたものとか肉などをとりあわせた食事、それにムシソバというのが出てくる。
二谷貞夫さんがウラジオスト―クのキオスクでこのソバの実をパックで売っているのを見つけ、早速購入して店頭でこのパックを手にしているところのスナップを撮っていたら怪しまれ咎められたという。
この写真は貴重なものとして頂戴した。

わが国では徳島県のソバ米が戦前から知られており、山形県の修験の山として知られる麻耶山山麓一帯に伝わる「むきソバ」の法は、今は酒田の名物となり、この缶詰(梅田の「むき蕎麦」)も二谷貞夫さんに送っていただき、有難く賞味した。                                  

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