北方史を描く愉しさ(続々) 第三話 はたして五葉の松はアム―ル-ウスリ―流域に繁っているのか
※1997年6月21日から書かれた文章です。
北方史を描く愉しさ(続々)
第三話 はたして五葉の松はアム―ル-ウスリ―流域に繁っているのか
第二話で紹介した絵本『メルゲンとかれの友達』の初めのところに「モミや松の森をぬけていくと」という文章があった。
話はそこへ戻る。
二谷ゼミの三王さんとの間で、この松を五葉の松ととってよいかどうかで議論が続いた。
三王さんは、ウスリ―やアム―ルのような寒冷の地にそのような松があるはずがないといい、私はチョウセン五葉松ならばあるはずだといった。
朝鮮五葉松は、Collins 版ポケットブックの THE TREES OF BRITAIN AND NOTHERN EUROPE のPINE属の8に5-NEEDLED PINES 中に KOREAN PINEとしてカラ―で説明がある。大修館の『原色樹木大図鑑』一九八五年の 755頁にもチョウセンマツ(チョウセンゴヨウ)として図解および説明がある。
しかしいずれの図鑑にも、アム―ル、ウスリ―流域にそれが生えているかどうかなんらふれていない。
ナナイの民話『メルゲンとかれの友達』に出てきた松の森に朝鮮五葉松を考えた根拠は、間宮林蔵の『東韃地方紀行』の次の箇所にあった。第二話で触れたナナイの祖先の集落との出会いである。
「夫より又船を出し、二里半許も漕ぎ上りウルゲ―と云処に至りしに、此処よりコルデッケ(コルジ) と名づけたる異俗夷の部落なり。船夷船を買の事有て、其日は此処に滞泊す。
一 地夷の容貌理髪。其他衣服に至るまで、山旦夷に異なる事なし。其言語は小異ありといへども、
一日の滞泊中、其詳なる事をしらず。
一 此夷種総て五葉松の大材を以て船を作る事を業とす。
南方諸夷の用る処皆此地の造り出す処なり。
故に船夷此処に至て斎し、行処の獣皮を以て船一艘を易得、是より諸雑器を二艘に分積しデレンに趣くといふ。
一 此辺よりして奥地は気候少しく異にして温暖なる事を覚ふ。
故に草木の形状亦カラフト奥地・サンタン地(黒龍江下流域)の如きにあらず、青々蒼々として繁茂せり。
故に南方諸夷壌に見ざる大材を産す。
天度にさまで隔絶なくして、かかる事ありけるはあやしむべき事の一事なるべし。
一 地夷の内満州夷のごとく剃頭の者あるを見しかども、其住夷なりや否を問わざりしまま、何者たる事をしらず。」
佐々木史郎さんの『北方から来た交易民/絹と毛皮とサンタン人』NHKブックス一九九六年は次のように書いている(p 50)。
「この記述はコルデッケ[のちのナナイの祖先]の最も下流の集落(後にヲレヱ―あるいはイリなど呼ばれる)での観察をもとに記されているが、そこには一日しか滞在しなかったにもかかわらず、コルデッケの言語がサンタンの言語と少々異なること(今日の言語学では、ウリチ語とナ―ナイ語のアム―ル下流方言とは方言レベルの相違があるにすぎず、互いに通じることが指摘されている)、五葉松で船を作ることを得意としていて、カラフトから来た者も彼らから船を買って旅を続けること、彼らの中には剃頭して弁髪を結っている者、つまり満州式に頭の周囲にくるりと剃りを入れ、残りの髪を一本の三つ編みにしてたらしている者がいることなど、後の民族誌でも確認できることが 鋭く指摘されている。」
ここに出てくる「五葉松」というのは、きっと「朝鮮五葉松」KOREAN PINE であろうというのが、私の推定であった。
佐々木史郎さんの『北方から来た交易民』は、次のような指摘もしている(p42-43) 。
「彼らが交易の旅に使う船については、日本の史料ではいずれも『図合船』とあるだけで、具体的な記述はない。その姿は『北夷分界余話』などにある挿し絵に若干残されている程度である。
ただ、それを見ると、その形は、ナ―ナイやウリチ、ニヴフなどのアム―ルの諸民族が今日まで残している川船と基本的には同じ構造である。
つまり、平底で、その上に側板を一枚ないし二枚立て、舳先(へさき) には波切り板を 一枚合わせる。
ただし、底板が舳先の前に反り返るように突き出て水面に顔を出す。そこには彫刻が施されていることが多い。
動力は人力で、車櫂(くるまがい) を使って漕ぐ。小さいものならば一人で漕げるが、交易用に荷物や人を大量に運ぶ大型の船の場合には数人から時には一〇人以上の漕ぎ手が乗ることもある。
また、時にはマストを立て、帆を掛けて帆走することもできる。このような船は基本的には平底の川船であるため、外洋を航行することはできない。
しかし、サンタン人のル―トはアム―ル河とカラフトの海岸沿いであるため、このような船でも十分対応できた。」
はたしてナナイ族の地域であるアム―ル中流域、ウスリ―流域に、五葉の松は繁茂しているのだろうか。この謎ははたして解けるのだろうか。
加藤九祚さんの書き物を当たってみた。
かれの『ユ―ラシア野帳』恒文社一九八九年の第二部のユ―ラシア旅行記の三四三頁に五葉松が出てくるが、残念ながらこれは山地アルタイの話である。
しかし同緯度、同条件ではあるまいか。三二九頁に「松や白カバのみごとな林」とあるが、これもシベリアはシベリアだがゼ―ヤ河の河床の砂浜の奥のことである。
アルセ―ニェフの長谷川四郎氏訳『デルスウ・ウザ―ラ/沿海州紀行』平凡社東洋文庫一九六五年を探しても、エゾマツ、トドマツ、カラマツと並んでシベリアマツというのは至るところにでてくるのだが、五葉松だのチョウセンゴヨウマツなどはみつからない。
寺島儀蔵氏の『長い旅/わがラ―ゲリの二〇年』中公文庫一九九六年には、一九三五年の赤い広場のクリスマスに高さ十五メ―トルのシベリア松が立てられたという面白いことがあった。
またラ―ゲリで医者から松葉の煮汁を強制的に飲ませる話も出てきたが、五葉松はどこにもなかった。
これは今日も続いているらしいよい企画なのだが、武蔵野市役所児童婦人室が後援してか<TAMAらいふ21”自然との共生”と”21世紀の環境問題を考えるプロジェクト”というのが東京っ子一〇〇人をつれてハバロフスクからタイガやアム―ル河を下るというフィ―ルドを夏休みに試みていて、東京新聞出版局から『シベリア大冒険―東京っ子一〇〇人、緑の大地を行く』という記録が出ている(一九九四年)。
これにはチョウセンゴヨウマツがでてきはしないか。ナナイの村のニルギン村を訪れてはいるのだが、どこにもこのマツのことはでてこない。
見落とされている、誰も注意していないのである、折角の場所を訪れていながら。
間宮林蔵の見聞・情報は忘れ去られているのだ。
六七頁に、「日本でも健康食としてマツカサの実を食べるが、シベリアでは松の実そのものが大型なので、ハバロフスクの市街で見掛けるものは、ナッツほどの大きさがある。脂肪分もたっぷりで、森を歩く時にはお菓子がわりに摘んで保存するという。」これこそ、のちにわかった<ウスリ―のパン>ではなかろうか。
なぜこのとき、この松の実は何の松の実か誰かが尋ねなかったのか、調べなかったのだろうか。
折角、謎の一角にぶつかっていながらである。
ユ―リ―・B・プキンスキ―という動物学者の著書、千村容子さん訳の『ビキン川にシマブクロを追って/アム―ルの自然誌』平凡社一九八九年で、チョウセンゴヨウマツに出会うことが出来たのである。
ビキン川はあのウスリ―河の支流である。そして、地域はナナイの暮すプリモ―リエ地方である
一七頁に、「プリモ―リエの誇るチョウセンゴヨウ」、一九頁に「ビキン上流でも、マツ・広葉樹林のタイガは、ヨ-ロッパの森林からは信じられないほどうっそうと茂った堂々たるものだ。
このあたりの木は二五メ―トルから三〇メ―トル以上の高さにまで達している。
こういった森は、その三分の二が青銅器時代のチョウセンゴヨウから成る。」
そして、しめくくりは、町の図書館の児童室でみつけた新刊書、福田俊司さんの『シベリア博物誌/ヒグマ・アム―ルヒョウ・極東のチョウ』偕成社一九九六年である。福田さんは、一九九一年からロシア科学アカデミ―の協力を得て、シベリアの自然と人間、野生動物の調査、撮影を精力的に続けてきた。毎年一五〇日以上をシベリアの取材撮影に費やすという著者は、ウスリ―自然保護区の一部であるウラディオスト―ク東方タイガにかこまれたラゾ自然保護区付近をトラとチョウを探して踏査する。
「小屋からゆっくり二時間かけてあるくと、太古の時代から人の手がはいっていないウスリ―のタイガになった。なかでもドロノキの大木はみごとだった。
それは、大人が四人かかかってもかかえきれそうもなかった。
地面からもりあがった根と根のあいだに腰をおろして幹をみあげると、武骨な枝が無数の手となって、天空につきだしていた。/
ウスリ―のタイガにとってチョウセンゴヨウは、とくべつの木だ。
「シラカバ林で人々は陽気に楽しみ、チョウセンゴヨウの森で祈る」と、ロシア人は語りあう。
荒々しい樹皮、そして、まっすぐに三〇メ―トル以上にのびるチョウセンゴヨウは、人間を敬虔な気持ちにさせるなにかをもっている。
チョウセンゴヨウの一五、六センチもある松ぼっくりには、種(松の実)がびっしりつまっている。
暗紫褐色の大きな種子は、オイル(油脂分)を六〇パ-セントもふくみ、栄養とカロリ―に富み、ノネズミ、リス、モモンガ、イノシシ、ニホンジカ、ノロジカ、アカシカ、ツキノワグマ、ヒグマなど、タイガにすむほとんどの動物たちにとって欠かせない食物だ。
チョウセンゴヨウが ”タイガのパン”といわれるゆえんである。/
ケドロバヤ・パジ(自然保護区)には ”タイガのパン”と称される、栄養たっぷりな松の実をつけるチョウセンゴヨウ(ケドル)が密生しているので、この渓谷(パジ)には最近まで、ノロジカがたくさんすんでいた。」/
そして、一六二頁の
<ケドロバヤ・パジのチョウセンゴヨウの森(航空写真)。黒くみえるのは、すべてチョウセンゴヨウ。>の写真。
一二六頁の<タイガのパン。チョウセンゴヨウの松ぼっくり。ひとつの大きさが二〇センチ近くにもなる。>という写真。
ここで、ついに間宮林蔵の見聞は、実証された。謎は解けたのである。
アム―ル・ウスリ―流域、ナナイのふるさとに、間宮林蔵が聞いた通り、五葉松は重要な船材、大事なウスリ―のパンとして、そして人間を敬虔な気持ちにさせる聖なる森として今も生き続け、人間と共生し続けているのである。
チョウセンゴヨウは元々日本列島にも原生していた。
佐々木高明さんの『日本誕生』集英社・日本の歴史1を読んでいたら、五二頁に列島に広く分布していたチョウセンゴヨウの実は小型のピ―ナッツほどあり栄養価も高く重要な食料であったという鈴木忠司さんの推定が同意できるものとして写真入りで説明してある。
北隆館の『樹木大図鑑』一九九一年の[33]にあるチョウセンゴヨウの説明部分を抜粋してみると、本州中部(福島県から岐阜県にわたる山地である)、四国、朝鮮半島、中国東北部の高地、とくにシラビソ、ブナ帯に分布しており、少なく、直径一・八m、樹高三〇mに達し、五葉の葉は長さ六~一一cm,種子は長さ一五mm、食用になる、とあり、ナッツでいう松の実はこれである。
大きな食料品店には置いてあり、近頃は家庭の食卓でも利用されるようになった松の実のナッツは、問題のチョウセンゴヨウの松の実であったというのである。
案外身近に、現代日本の家庭の食卓にチョウセンゴヨウが生きていた。韓国では秋の採果期には松の実が多く売られ、採果のためあまり高く大きくならないように松を仕立てるとも聞くが。
一九九七年の夏、八月十四~十五日に駿河台の明治大学大学院の講堂で日韓歴史教育シンポジウムの第四回が開かれ、晋州歴史教育協議会の十一人の同学とのよき交流が行なわれた。
このとき、目良誠二郎さんが立派な報告をし、そのなかで日韓関係でのよき日本人で、朝鮮人からも敬愛されたと思われる浅川巧(一八九一~一九三一)のことにも触れていた。
会議の第一日が終って懇親会が始まるのを待っているとき、目良さんと一時歓談した。そのときのことである。
わたしがチョウセンゴヨウの話をしていたら、目良さんが、「チョウセンゴヨウは 浅川巧と深い縁があるんだよ」と熱っぽく語り始めた。
「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人」であり、「韓国の土とな」った浅川巧とチョウセンゴヨウとの親縁について教えてくれた。
浅川巧は、 チョウセンゴヨウの種子をまいて朝鮮の山々を青くしようとして、チョウセンゴヨウの種子の<露天埋蔵法>を確立させた。
早速、教えてもらった、高崎宗司さんの『朝鮮の土となった日本人/浅川巧の生涯』草風館一九八二年と『芸術新潮』一九九七年五月号<李朝の美を教えた兄弟/浅川伯教と巧>を読んでみた。
一九二二年の春を迎えて朝鮮総督府林業試験所技手となった浅川巧は、日記に書く。
<春の働く日は僕の最も得意の日だ。喜ばしき日だ。自然から教はった造林上の多くの知恵を機を得た ら書いてみたく思ふ。従来の砂防造林やその工事には随分自然と縁の遠い仕方が多い。自然が告げた方法 を実験して見たい。>(三月二〇日)
来たるべきシ―ズンを、手ぐすねひいて待つ巧の気合やよし。ここには、林業家としての彼の方法論も明確に示されていて、それはなにより自然に学ぶということだった。しかし大学出の上司や同僚たちは机上の理論にしがみついて、本から得た知識のみを振りかざそうとする。そうした上司とときに衝突しながらも、林業技手として巧は、難題とされていたチョウセンカラマツの養苗を成功させ、チョウセンゴヨウマツの ”露天埋蔵法”を確立するなどの成果をあげた。露天埋蔵法とは、種子を自然とほぼ同じ状態に埋蔵[秋に砂と混ぜて埋めて種子が早く育つようにする]することで、翌春の発芽を促進させるというもので、いかにも自然を手本とする巧ならではの発想だった。自然の中で働くことは、巧にとって、美を見出し、喜びに満たされて生きることだった。[『芸術新潮』一九九七・五月、三四頁 高崎宗司文]
こうして、植民地支配のもとではあったが、浅川巧らの努力によって、チョウセンゴヨウやチョウセンカラマツ、シベリアハンノキ、ヤマハンノキなどの植林、造林が試みられ、朝鮮の美しい青山が一面禿山と化することが少しは食止められたのであろうか。
わたしは、いままで述べてきたようないきさつで、チョウセンゴヨウの木そのものがどうしても見たくなっていた。まず、毎朝散歩している石神井公園にないだろうか。
図書館でみつけた東京公園叢書の一冊『石神井公園』の樹木一覧を見ると、チョウセンゴヨウ 一本とある。
早速、公園の管理事務所を訪ね、その所在をたずねると、その本は大分古い本で、調べてみるといまはチョウセンゴヨウはないという。多分枯れてしまったにちがいない。
深大寺のそばにある神代植物公園ならばあるかもしれないと教えられた。
そこで翌日、神代植物公園へ行き、緑の相談所で調べてもらった。
まずリストには、針葉樹園にあることになっている。
しばらくすると、連絡があり、あの木は枯れていまはないということだ。
残念だったが、一応現場に行ってみると、チョウセンゴヨウの名札はあるのだが、そこには十五センチほどの枯れた切株しか残っていなかった。
帰宅して、やはり最初教えてもらったありそうなところ、高尾・浅川の多摩森林科学園に電話をかけてみた。
ある、どうぞ見にいらっしゃい、という返事だ。
早速、翌日ほんとに久し振りのことだったが中央線で高尾まで行ってみた。
多摩御陵のそば、廿里(十々里)=トドリという名の場所に、七十年前宮内省帝室林野局林業試験所が設置され、これが多摩森林科学園の始まりである。
トドリという土地は、四百年以上前、小田原城を攻めるため南下してきた武田信玄の軍勢を北条氏照が迎え撃った古戦場である。
いまは林野庁森林総合研究所の一支所である。森の科学館の方が見学のしおりにある図面で、チョウセンゴヨウの位置を教えてくださった。
急な山道を登り、目指す針葉樹の森に入ると、チョウセンゴヨウの大樹が何本もすくすく生えているではないか。
しかも、さきに書いたしめくくり、福田俊司さんの『シベリア博物誌』がしめくくりではなくて、ここにしめくくりがあったのである。
ちゃんとしたパネルが大樹のまえの地中に刺さっている。
マツ科:Pinus koraiensis S.et Z チョウセンゴヨウ 一名 チョウセンマツ
属 分布=本州中部 四国 朝鮮 中国 ウスリ―
材は耐朽性が強く建築,土木用.
分布に、はっきりウスリ―というナナイのふるさとが入っているのだ。残暑の汗を拭いつつ、しばらくチョウセンゴヨウの樹陰を吹く涼風を味わっていた。
チョウセンゴヨウは、車両、船舶、器具、包装、彫刻にも使われてきたという。
この木でつくったナナイの舟は、加藤九祚さんの『北東アジア民族学史の研究』恒文社二六六-二七一頁にあるようにカラフト・北海道のアイヌの舟にも学ばれており、北日本の歴史にかかってくる。アイヌは 津軽海峡を<しょっぱい川>とよび、本州との往来は頻繁だったという。
(赤阪憲雄『へるめす』九七・一 p25 )。]
三内丸山遺跡にかつて栄えていた縄文人の大共同体の港湾には、ときにこのようなアイヌの舟、つまりナナイ型の舟が訪れていたのではなかろうか。
そして北方のどんな品物、どんな情報を運んできてくれたのであろうか。
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