朝鮮五葉への旅

朝鮮五葉への旅 第一話 朝鮮半島を緑に ―朝鮮五葉と浅川巧―

朝鮮五葉への旅
第一話 朝鮮半島を緑に 
―朝鮮五葉と浅川巧―
  

浅川巧と露天埋蔵法

 加賀藩-金沢、日本から始まった朝鮮五葉への旅は、韓半島すなわち朝鮮に移る。
対象にした五葉松の学名も Pinus Koraiensis 高麗の松つまり朝鮮の松である。
 高麗松・朝鮮松すなわち朝鮮五葉松の容易で簡単な育苗法を発見したのが、二十世紀のいっとき、朝鮮を植民地にしていた日本帝国、その朝鮮総督府林業試験場の技手であった浅川巧である。
そして彼こそ、延三十六年間朝鮮を植民地としていた日本人のなかでは珍しく朝鮮人から、「韓国が好きで、韓国を愛し、韓国の山と民芸に身をささげた日本人」として敬愛され、愛する韓国の土となった「白磁の人」である。
「白磁の人」とは山梨県人の作家で江宮隆之氏が、浅川巧を主人公とした感動的な伝記小説『白磁の人』河出新社で名づけたものであり、まことによい呼び名だと思う。 
 
 韓国国立中央博物館鄭良謨氏が、江宮氏にこう述べたという。
「青磁にはね、気品があるでしょう。愛情を持って見る側に近付いてきます。まるで女性のように、気品があって美しいのでこちらも大切に扱おうとします。それに対して白磁は、静かでおおらかで自己主張をしない。見る側に決して負担を感じさせません。白磁を見ていると、まるで大切な友達に会えたような気持になれます」。
 江宮氏は、この青磁と白磁の美についての違いが、それはそのまま兄の浅川伯教と弟の巧の人柄や生き方に当てはまるような気がした、という。

 最近(一九九八年十月三十日)の朝日新聞声欄に在日の主婦呉 文子さん(六十一才)の書かれたを「生誕地訪ね浅川巧しのぶ」という好文章が載っていた。ここに引用させていただく。

 『台風一〇号の余波による激しいあらしのなか、私たちを乗せたバスは山梨県の高梨町へ向かった。
そこは、日本の植民地だった時代の朝鮮半島に渡り、工芸や陶芸、植林などの研究で貢献した浅川巧の生まれた里である。
彼は、林業技手として、はげ山対策に有効な朝鮮カラマツを養苗し、民芸運動の先駆者柳宗悦が、朝鮮の工芸品に美を見いだすきっかけを作った人でもある。
彼の墓はソウル市郊外の忘憂里(マンウ-リ-)にある。傍らに「韓国が好きで、韓国を愛し、韓国の山と民芸に身をささげた日本人、ここに韓国の土となる」とハングルで刻まれた碑が建っていて、いまも韓国人によって手厚く守られているという。
 高根町は八ケ岳南ろくにあり、のどかな山里だった。
まず、菩提寺の泉龍寺で持参の線香や花を手向け、甲かぶと 川に沿って歩いて数分のところにある「史跡 浅川伯教・巧兄弟の生誕地」の碑に刻まれている顕彰文を読みながら巧の遺徳をしのんだ。
 ゆかりの地を巡るなかで、高根町が浅川巧の資料館設立を計画し、忘憂里と姉妹都市を結んで日韓友好の発信地にしたいということを知り、熱いものがこみ上げてきた。
日本と韓国二つの故郷をもつ在日の私たちにとって、国や民族を越え、共生することの大切さを、この地を訪ねることでより強く思った。』

 さて、この好文章で気づくことだが、浅川巧が林業技手としてはげ山対策に有効な朝鮮カラマツを養苗し、とある箇所である。
彼はたしかに、朝鮮カラマツの育苗法にも成功したのは事実だ。
しかし、「露天埋蔵法」という名前が今日の韓国の樹木大図鑑に残るほど有名なのは、朝鮮カラマツではなくて朝鮮五葉松の育苗法の発見の方なのだ。

 一九三一年から一九四五年敗戦まで植民地朝鮮に住み、林業試験場長として全朝鮮の林野を踏査し、幾多の試験研究を行なってきた林学者である鏑木徳二氏は、『朝鮮学報』一九六三年第三六輯に執筆した「朝鮮の森林樹木考」で次のように述べている。

 『紅松は五葉松でチョウセンマツの漢名である。学名を Pinus Koraiensis チョウセンマツというとおり朝鮮の代表的樹種で、丈高く太い直幹の梢頭が四~五本に分岐直立して方箒状をなし、林冠をぬいて聳立した様は遠方から一見して紅松の所在を明らかにしている。
 その球果ははなはだ大きく径 九cm 長さ 一五~一八cmに達し、子実また大きく長さ一・五cm、無翼で美味滋養に富む。
材は淡紅色を帯び材質優れ造船材および鋳型材として珍重せられ、わが国随一の宮殿用材と言われるヒノキ材の面影をしのばせるのである。 ロシア人はケ―ドラと呼び無節の直長材がえられるため建築材として賞用するが、極東シベリアの鉄道枕木はすべて本材を使用していた。
 天然林は杉松(エゾマツ、チョウセンモミ類の総称)およびシオヂ、ナラ等広葉樹との混交林が普通であるけれども、まま、純林に出会わし、直径八〇 cm 内外の大木林立し亭々天を摩する雄姿壮観は今なお眼底にきざまれている。
 チョウセンマツは寒温両帯を郷土とし生育地域が広いうえに、育苗ははなはだ容易で生長迅速造林成績のよろしいことは北朝鮮および中朝鮮各地における植栽例で明らかである。アカマツとちがい、陰性および林内の下木植栽に適するため、将来雑木林およびアカマツ林改良をかねて全朝鮮に広く増殖すべき有望樹種と考える。
現在主に寒帯に分布せるため寒帯特有の樹種と考えられがちであるが、すみやかにかかる誤解を一掃しなければなるまい。』
[土井林学振興会編『朝鮮半島の山林―二〇世紀前半の状況と文献目録―』

 鏑木が、朝鮮五葉について「育苗はなはだ容易で生長迅速造林成績のよろしいこと」と書いているのは、一九二二年から翌二三年にかけての育苗試験で浅川巧が「露天埋蔵法」発見したことに始まるのは明らかだ。
 朝鮮松即朝鮮五葉の種子は、アカマツのように室内で貯え翌春下種してもその年に発芽するものは少なく、多数は翌年発芽し、二年分の発芽数を併せても発芽率三〇%内外でしかなかった。
人工的に撒いた種子ではなく、山林のなかで落ちた種子は、どういうわけかその年の秋までに自然に発芽する。
これを実生みしょう という。
浅川はかねがね「自然から教はった造林上の多くの知恵」「自然が告げた方法」を実証することこそ大事だと思っていた。
机上の理論、本から得た知識よりも、なによりも自然に学ぶという姿勢である。
そして目の前には朝鮮産業の癌とされたハゲ山が広がっていた。そのハゲ山を緑に変えて行く上でとても大事な朝鮮五葉の種子を、自然と同じ状態に埋蔵することで翌春の発芽を促進させることが出来るのではなかろうか。

 『朝鮮五葉の種子に倍量の砂土を交ぜる。板で方形の木ワクを作り自在のために組立式にする。
底には種子よりも小さい目の金網を張り、その上縁が地面と平になるまで開放して畑に埋め、底に厚さ一寸だけ細砂土をしき、これに前記混合種子を入れ、その上に厚さ五分の細砂土をおき、これをワラで覆うこと約五分、その上に防鼠用金網を張る。
土砂は種子より小粒のものを用う。
後日種子と砂土とをフルヒ分ける時に都合がよいから。
これが露天埋蔵法である。
在来の軒下土囲法などより水湿の保留が多い。
一九二二年十一月二十七日光陵の分場でこの方法を行ない、翌年四月一日まで放置し、同日掘出し、種子と砂粒をフルヒ分けた。
種子は暗褐色に変じ、中には幼根を現わしたものがあった。
このようなよい種子だけを選び出し播種し、他の未発根のものは夕方浸水し、翌朝取り出し陽に乾かしたところ新たに発芽を見た。
これを繰り返すとよい発芽種子は全量の四〇%に達した。
こういう試験のくりかえしの末、浸水陽乾の手数を省いても少なくとも七六%の率を示すことが明らかになった。
前後二回の試験結果、結論はこうであった。
 一、埋込の時季が早いほど播種の成績がよいから種子は採取後直ちに埋蔵する。
 二、埋込の時季が早いものは浸水陽乾の手数を省きそのまま播種するを可とする。』

【「朝鮮林業試験場時報」第二号.上原敬二『樹木大図説』第一巻「てぅせんまつ」の項目                                      

  植木の日

 浅川巧は、朝鮮半島の癌であるハゲ山を緑化する突破口を開いたのである。
朝鮮五葉の露天埋蔵法が高く評価されるにつれて、巧は種子の採集や養苗について研修会や講演会の講師を朝鮮半島の各地でさせられ多忙となった。
今日の韓国では毎年四月五日が「植木の日」という公休日になる記念日に指定されている。

『この日、国民が一斉に植樹を行ない愛林思想を高め、山地の資源化に協力する。
実はこの日は新羅が唐の勢力を朝鮮半島から追い出し、三国統一の偉業を完遂した六七七年(文武王一七年)二月二十五日に当たり、また朝鮮朝の成宗が世子・文武百官とともに東大門外の先農壇に出て神を祭った後、親しく田を耕した日である、一四七六年(成宗七年)三月十日に当たる日でもある。
つまり、この日は統一の偉業を完遂し、王自ら土地を耕すという盛典を挙行した民族史と農林史上、大変意義深い日であるばかりでなく、季節的に清明[二十四節気の一つ.春分後十五日、太陽暦の四月五日頃に当たる]前後の植木に適した日であるため、一九四九年、大統領令「官公署の公休日に関する件」を制定し、この日を植木の日と称した。

その後、一時植木の日は公休日から除かれ、これに代わって三月十五日が「砂防の日」に指定されたが、植木の重要性が再び叫ばれるようになり公休日として復活し、
一九八二年には記念日に指定され、山林緑化に大いに寄与することになった。
この日は、全国各職場・学校・軍部隊・村単位で土壌に適した木を植えるのだが、その際には、樹種別植栽基準、一本当たり施肥基準量、樹種別追肥基準量に従って作業できるように努めている。
また、この日の前後一ケ月間を「国民植樹期間」に設定し、経済的な山地資源化を図っている。』[『韓国民族文化大百科事典』第十三巻「植木の日」.横田安司さんの訳によった。]

 指定された樹種は、イタリアポプラ・チョウセンヤマナラシに長期樹であるが、この長期樹というのが、チョウセンマツ・カラマツ等である。
毎年、四月五日、韓国のどこかで朝鮮五葉が一本一本植えられ続けているのであろうか。
『原色韓国樹木大図鑑』を開くとチャンナム changnamuの項目に、チョウセンマツ  Korean Pine 柏子松、新羅松、朝鮮五葉松、紅松とあり、「わが国の特産樹種でほとんど全域にわたって均しく分布する」と述べているのは、『韓国園芸植物図鑑』が、「寒さに強く路地に自生し、よく生育する韓国固有の植物」と書いているのと、軌を一にするが、実は朝鮮五葉は朝鮮のみで自生する五葉松ではない、東北アジア各地で自生していたし今も自生している松なのである。それはともかくとして、「幼苗の時は成長が遅いが、造林後五~六年経てば他の松類に劣らず速やかに成長する。
山腹部から下の肥沃な土壌や渓谷部の肥沃で適当に湿った場所が造林適地であり、造林後約二〇年経つと松笠ができる。秋に球果を採取してから種子を脱穀して地面に直に埋め、春に播くとよく発芽する。
播種してからは光を遮り、播いた種が乾燥しないように注意しなければならない」とあるのは、浅川巧発見の「露天埋蔵法」が既に定着していることを示している。
今日、韓国では朝鮮五葉は育苗はなはだ容易で生長迅速造林成績のよい樹種として定評があり、材質も優れているので建築材によく使われ、その松の実は古来伝統的な食品として珍重され、また「植木の日」・国民植樹期間の植樹・造林樹種にも指定され、公園樹または庭園樹にも利用されている。
[両図鑑のチャンナムの項目とも、ハングルから横田安司さんに訳していただいた。]

 平凡社の『朝鮮を知る事典』で金東旭氏が「松」という項目で、
「朝鮮に自生する松はアカマツとチョウセンゴヨウが主であるが、後者は日本の五葉松より球果が大きく(長さ一〇~一五cm) 、その実は食用にされるため、盛んに樹種改良や植林が行なわれている」と書いている。
つまり、松の実を採取して商品として売るために、採取しやすいように矮樹化して造林しているということである。     
 李元淳さんが教えてくださった「チャッナム 栢子松は ”松の実”チャ― を取る松の木で、高さは五m内外で群落叢生、やや涼冷な山地に成育」がこれであろう。
また、金東旭さんは、こう説明している。
「呼び名もアカマツはソナム sonamu またはソル solと呼ばれるのに対して、チョウセンゴヨウはチャンナム changnamuの固有語のほかに、果松、松子松、五粒松、油松、海松などの異名をもつ。李朝時代には松禁政策によって松を保護し、伐採を禁じている禁標内で松を伐ったら首をはねられてもしかたがないとされた。
松は建築材、船材、オンドルの燃料などとして重要な資源であったが、濫伐のために樹齢の高いものはあまり見当たらない。
李朝時代の家屋の棟梁には太い松材を用いたが、これは家の跡継ぎや社会の重要な人物にたとえられた。」                       
 松禁政策については、徳光宣之氏の『朝鮮治水治山史考』[その冠序のみ前掲『朝鮮半島の山林』に所収]が、昭和一〇年七月の朝鮮総督府林業試験場特報に掲載されている。

 三宅正久氏の『朝鮮半島の林野荒廃の原因―自然環境保全と森林の歴史―』農林出版一九七六年によれば、もちろん反論もあるだろうが、
「朝鮮で林政がはじめて整備された時代は比較的古く四〇〇年余り前のことで、これが行なわれた期間はわずか一〇〇年余りの間にとどまり、その後、李朝の末期に至るまでほぼ三〇〇年の間は林政空白の時代であり、この間の林政は適切な内容をもっていない」(一四二頁)という。
また、「松禁の制」はアカマツの保護のみを目的とした制度である。アカマツは、陶器を焼く燃料や製鉄用燃料として最適であり、家庭用燃料(オンドル)をはじめその他の用材としてもこれに代わりうる有用樹種は外になかった。
永年にわたるこの制度の実施は、朝鮮中南部地方の林相を広い地域にわたってアカマツの単純林とする遠因となったとみられている。このアカマツの単純林は、自然因子と相まって、林野荒廃には弱い一面をもつという。

 横田安司さんの訳読によるのだが、『韓国民族文化大百科事典』第十九巻の<チャンナム>の項目にはこうある。

 『チャンナムは)湿気があり、腐食しており、土深の深いところで生育する。従って谷あいが生育の適地である。
山の尾根で生育する場合は、成長が良くない。
チャンナムはわが国を中心にして満洲・シベリア・アム―ル地方に生育しており、日本では少し見られる程度である。
チャンナムは高山地帯および寒冷な気候を好む樹種である。
もっとも多く生育しているところは、鴨緑江流域で、その面積は約二二万ヘクタ―ルに及び、朝鮮カラマツに次いで多い。
 わが国の南部地方に造林されたものは、一般的に土地が痩せていて良い成果をあげることができないでいる。
しかし、一九六五年から一九八四年までの二〇年間に植えたチャンナムの苗木の数は六億七五〇〇万本に及んでおり、重要な造林樹種の位置を占めている。
チャンナムの木材は大変美しく、材質は軽くいい香りがする。
(紅松という別称―中国・ロシアではこう呼ぶ)は、木材の紅色の色彩に着眼して付けられた名前である)。
それと同時に、加工が容易で高級建築材・板材・器具材・棺材に珍重された。』

 古来、朝鮮でもチャンナムすなわち朝鮮五葉松の木材は、高級な建築材料・板材あるいは家具・器具の材料として、また造船や車両・橋梁の木材として、あるときは棺材として、朝鮮の人々に恵みを与えてきたのである。それに加えて、食用あるいは薬用として、朝鮮のみならず周辺諸国の人々に珍重されてきたのだ。


  松の実

 さて、朝鮮五葉から採取される松の実については、松自体よりも日韓中三国ともに文献が豊富である。

 朴容九氏著、朴尚得氏訳『朝鮮食料品史』国書刊行会には、農業国家の出現・三国時代からの松の実に触れた文献が紹介されている。
まず海東繹史巻第二十六果類に果実として様々なものが採集・栽培されており、なかでも朝鮮松の実と栗が有名であったとある。
高麗史巻八十九には忠烈王の王妃、斉国大長公主・王女は朝鮮松の実と人参を中国に送ると利益が多く出ることを知ってからは各地に人を遣わしてこれらを強制徴収したとある。李氏朝鮮時代、一六八二年に中国に送った贈物のなかに干柿、朝鮮松の実、公孫樹の実・銀杏・栗などが入っている。
また、宗廟の祭事に捧げられる食料品のうち果実を調べてみると、七月には梨、蓮の実、榛の実、朝鮮松の実、胡桃、青葡萄があげられている。
また、『春香伝』のなかで、李夢龍が初めて春香を訪ねた時、春香の母月梅は変心しないと誓約させてから酒を一献勧める。そこで調えられたお膳の模様が描かれているが、そのなかに松の実がでてくる。
一八四四年に書かれた『漢陽歌』ではソウルの街頭の店舗で売っている食料品のなかにやはり松の実が入っている。

 鄭大聲氏の『朝鮮の食べもの』築地書館にはこうある。

 『松の実とは、松柏あるいは柏子ともいい、朝鮮五葉松の種子のことだ。
朝鮮五葉松の松笠は直径六~一〇センチ、長さ九~一五センチくらいの卵のような楕円形をしており、その中に直径一~一・五センチ、幅〇・五センチ、厚さ〇・二センチくらいの種子が平均八〇~一〇〇粒ぐらい入っている。
脂質含有量が六〇%前後と多く、高カロリ―食品で、朝鮮では昔から貴重な薬用食品として扱われている。
病後の人や高齢者などが松の実を食べれば元気が出るというし、松の木という縁起のよさもあって、不老長寿の薬効も説かれている。
しかし、材料は集めにくいものなので、誰もが松の実料理を食べられるというものではない。
それだけにこれをカユとして食べるということはむつかしいことであった。
 元来、朝鮮五葉松は日本の山林には少なく、信州や東北の一部にはあるが、実を食べるということはほとんど行なわれていないようだ。
木が少なくて目立ちにくいことにもあるが、食べ物として利用する知恵がこれに及んでいなかったからであろう。
 朝鮮、中国、シベリアの沿海地方に多いのだが、小さい実を食べられる状態にするには大変な手間がかかる。
松笠の中の実には褐色の渋味のある皮がついていて、今のところ、これを手でひとつひとつはがす方法しかない。
中の実に傷をつけずに渋皮をとる機械でも考案されれば、松の実の生産コストは下がり、もっと手軽に私たちは松の実カユなり、松の実菓子を作って食べられるだろうにと思っている。
しかし、最近日本では非常に入手しやすくなった。
輸入品だが、ス―パ―や料理材料専門店で五〇グラム二〇〇円前後で買える。…今、日本で入手しやすくなった松の実だが、産地では気軽に食用にすることもなく、外貨稼ぎを目的に低廉な人件費で生産しては輸出しているのだ。』

 またしても畏友横田安司さんにハングルから訳していただいたのだが、
例の『韓国民族文化大百科事典』第十九巻の<チャッ(松の実)>を読んでみよう。

 『チャンナムの種子。松子・栢子・実柏ともいう。
三角形または鶏卵形で羽がなく、両面に薄い膜があり、長さ十二~十八センチ、直径十二ミリである。秋に採取して食用や薬用にする。
薬として用いるときには、海松子という。
松の実はわが国の特産として名高く、昔から中国にまで広く知られ、唐代の『海薬本草』にはその生産地を新羅と記載してある。
また明の『本草綱目』では新羅松子と称していた。
松の実には脂肪が約七四%ほど入っていて、その主成分はオレン酸・リノ―ル酸である。薬性は穏和で味は甘い。
長期間服用すれば腸の流動運動を促進して排便を容易にし、老人性便秘に効果がある。
痰が出ない、いわゆる空咳の人が服用すれば、肺の機能を正常にして咳を止める。
また、痩せ過ぎで元気がないときに服用すれば、元気が出て、皮膚が滑らかになり、張りも良くなるので美容にもよい。
しかし、下痢している人は服用しない方がよい。
民間では、便秘治療剤として活用されてきたが、薬用よりはおもに食用として用いられてきた。
飲み物や食べ物に薬味として入れ、かゆに炊いて食べたりもする。
また、正月十五日には、松の実を十二個用意して火をつけ、一年の運勢を占う民俗もある。』

 この最後にある運勢占いの民俗については、同事典の<チャンナム>の項目にも説明があり、<内皮をとった松の実十二個を針や松葉にそれぞれ刺して火をつけ、十二カ月にたとえるのである。
松の実の火が明るければ、その月の運勢がよく、火の勢いが弱ければ運勢が悪いという風に占うのである>とある。
 朝鮮古諺に「良妻は夫に松の実をすすむ」というのがあるという。


 マイクル-キオンが書いた朴正煕の伝記『韓国は翔んだ』(原名『コリアン-フェニックス』、徐明錫訳)ビジネス社には、
全羅南道の三軍村から東へ山を越えたところにある慶尚北道平海という不運な村が台風に襲われ折角の造林事業が一頓挫したところ、村人が協力して丘の中腹に朝鮮五葉の植林を行なったら、これは村の自然保護に役立ったばかりか村人に数百万ウォンの収益をもたらしたというセマウル運動中の造林運動を紹介している。
 朝鮮産の松の実は、古来一番美味良質として評価があり、日本には早くから輸出され、朝鮮通信使の土産もののなかにもよくのっていることが記録されている。
また、中国への朝貢品にも入っており、中国産のものより良質美味としてもてはやされたという。
 松の実を海松子ともいうが、新羅の使臣たちが中国へ行くとき、これを携えていき売ったので、ついた名前である。
朝鮮時代にも松の実を明国に送った記録がある。

  北朝鮮では

 『韓国樹木大図鑑』原色に、朝鮮五葉は「特に江原道以北の地域に多く分布しており」とあるように、北の朝鮮におけるこの五葉松の成育ぶりはいったいどうなっているのであろうか。         

 『韓国民族文化大百科事典』第十九巻の<チャンナム>の項目には、

『チャンナムの天然林は他の樹種と混生しもするが、部分的に純林を形成することもある。北緯三八度線以北の高地に多いが、幹の直径一・五メ―トル、高さ三〇メ―トル(中国の『華北樹木志』には五〇メ―トルともある)、樹齢が三〇〇~五〇〇年位になるものもある』と、北朝鮮にこそ、チャンナムの巨木・銘木が多い、あるいは多かったことを示唆している。
 残念ながら今日の北朝鮮におけるチャンナムの生態・実態についての情報は私の手元には乏しい。
一九八七年に出版された今井通子さん+カモシカ同人隊の『白頭山登頂記』朝日新聞社には、北の朝鮮五葉について貴重な見聞が記録されている。まずピョンヤンで「丘陵地帯には、朝鮮五葉松が多い」という。
悽惨な戦火をくぐり抜けて植林したのではなかろうか。
妙香山でも朝鮮五葉松その他の木々の生い茂るのを認め山裾の普賢寺では香の木の葉の香りを楽しみ、庭園地管理研究所研究士の方から三保の松原伝説に似た伝説をうかがう。

『昔、妙香山頂付近には、香の木と朝鮮五葉松が雲に向かってのびのびと育っていたそうで、香の木の香りに誘われて天女たちが天から降りてきては、一日中遊んでいたという。ところが、天女たちは朝鮮五葉松の針葉や香の木の枝に衣をひっかけるので、天に帰ると衣がビリビリに破れてしまっていて、神様に叱られ、もう山頂に遊びにいってはいけないと言われてしまったとか。
山頂付近の香の木や朝鮮五葉松は、美しい天女たちが舞い降りて来て毎日遊んでいてくれなければ、日の光を浴びてすくすく育ったところで、何の楽しみもないと悲観し、そこで彼らは彼女たちの衣を破かないように自分たちが地を這うように寝ればよいと考えた。
だから今でも山頂付近の樹木は這い松のように低く生えている』と。


 朝鮮再興の地とし「革命の聖山」としてあがめられている白頭山は、「山頂に登るにつれて、森林、潅木、草本、地衣帯とかわり、六〇〇余種の植物が特徴ある玄武岩流出地形をおおい、カラ松、エゾ松、朝鮮五葉松、朝鮮ハリモミなどが大森林を形づくっている。動物もノロシカなどをはじめクマ、トラ、オオカミなど多数生息するという。」とある。
白頭山、間島地方については、第三話の中国東北(旧「満州」)の箇所であらためて触れたい。



  朝鮮の林野荒廃の責任は誰か


 三宅正久氏は、『朝鮮半島の林野荒廃の原因』で、「李朝末期に至る三〇〇年間は林政がなかった」という。
では、朝鮮を三十六年間植民地としていた日本に林政はあったのだろうか。朝鮮半島の林野の荒廃、自然の破壊に、日本の植民地政治はいかなる責任を問われるのだろうか。こういう大変な問題が残っている。

 江宮隆之氏の小説『白磁の人』に次のようなくだりがある。
 『だが、この半島巡り(種子採集の山歩き)は巧に種子採取とは別に、朝鮮人の暮らしの実情を教えることになった。
日本に併合された明治四十三年(一九一〇)以来、吾がもの顔で闊歩する日本人の中で朝鮮の人々は小さくなって暮らしていたのである。
同時に、朝鮮の山々が父祖伝来の入会権を無視されて日本人の個人所有になっている事実をも目のあたりにした。
 日本に併合される前には、朝鮮の山はその多くが共同利用地となっていた。
「無主公山 ムジュコンサン」と呼ばれて、個人所有者こそいないものの、共同で入会権を持つ山である。
ところが軍用木材を必要としていた日本は傀儡の朝鮮政府(韓国政府)に「森林法」を公布させて、その「無主公山」と国有林とした。その後に日韓併合を果たしてそのまま大日本帝国の国有林にとすり替えたのであった。
朝鮮の人々は、共同利用地としての入会権を失った。
朝鮮総督府は、こうしてほぼ纂奪に等しいやり方で手に入れた朝鮮の山々を今度は「朝鮮特別縁故譲与令」という、おかしな名目の、分かったような分からないような名称の法令によって、日本人や親日派の一部の朝鮮人地主などに分け与えてしまった。
新地主たちは、軍用材などの需要に応えるために、与えられた山林を乱伐していった。
 巧が林業試験場に雇われたのはちょうどこの時期であったが、そんな事実を知ってはいない。それだけに実情を知らされるにつれて巧の驚きは深まる一方であった。冠岳山という山の麓では老僧がこう話した。』

 小説で脚色されているのは、三幕寺の老僧の言葉だが、
草風館版『浅川巧全集』二八二~二八三頁の浅川巧の原文から拾い直しておく。
[『全集』「窯跡巡りの一日」]

 『以前はこの辺一帯は立派な森林であった。
それは寺で保護して居たのでよかったが総督府になってから取り上げられて、寺持ちの森林は寺の周囲僅かの部分に限られたので、此の頃は寺では薪にも不自由する程になった。今、此の山は日本人の金持ちが独りで手に入れて経営して居るが、年々荒れるばかりで有名な冠岳山の松茸も近年は寺の付近だけにしか生えない』

 巧は、王子製紙の社長の晩餐会に招待された夜の日記にこう記している。

 『彼らはこれから朝鮮の国境の森林をねらって居ることは明らかだ。
北海道も彼等によって裸かにされた。
樺太だってもういくらも余さないだらう。
それでこれからは鴨緑江上流から西比利亜に見込をつけて居るだらう。
…兎に角あんな工業は森林を荒らすにきまって居る。此処十数年で朝鮮の森林をも松毛虫の様に食ひ尽すであらう。
製紙事業は今の世に必要にきまって居るから利用するのは一向差支へないが、これにとものふて跡地の荒れない様の 伐法と森林が永続する様の造林法が実現されることが必要だと思ふ。』[『浅川巧全集』草風館版一四八~一四九頁]

 浅川巧が、ハゲ山の朝鮮半島を緑の半島に変えようという夢はどこまで実現し、実際はどこまでしか実現できなかったのだろうか。
朝鮮五葉の露天埋蔵法が評価され、巧は種子の採取や養苗について研修会や講演会の講師を朝鮮全土各地でさせられたわけであるが、そのことと巧自身がぶつかったであろう李朝以来の伝統的な入会権の纂奪、林野の「国有化」という形での纂奪、軍用材の大量徴発が象徴するような朝鮮の自然の軍事的破壊と軍事的利用、王子製紙などの製紙事業による森林の乱伐とその後の手当の手抜き等々、予想される収奪と破壊の進行に対して、巧が思うところ嘆くところはさぞかし深かったのではなかろうか。
一九三一年(一八九一年生れ)、急性肺炎でなくなり、戦争下の朝鮮と朝鮮人を見ないですんだのは、むしろ幸いであったかもしれない。


  松の実カユ 

 許南麒氏の書いた『朝鮮歳時記』同成社一九八一年で、松の実がかかわる記事を拾ってみる。
 『上元 サンウオンというのは陰暦一月十五日。正月の次に来る楽しい日だという。
この日は薬飯 ヤクハブ を食べるのがいいとされている。
これは新羅王の炤智王ソヂワン (479-500)のときの故事と関係がある。
 炤智王一〇年の正月十五日、王が天泉亭に行幸されたとき、内殿の僧と宮王との潜通を烏が知り、王に知らせたという。
それからあと、上元の日に人々は薬飯を烏に供え、烏の恩に報いた。
日本では東北のいくつかの県で、正月十一日に烏に餅などを与える風習があると聞いた。もち米を用いることからすれば、薬飯も餅も同じ発想から来るものであろう。とにかく、炤智王の故事があってから、朝鮮では薬飯は二月のものとなってしまった。この薬飯には、不老長寿の仙薬として松の実も入れる。/
 九月九日。重陽節、あるいは重九月。
この日は、三月三日にやってきた燕がふたたび江南に帰る日とされている。
朝鮮をおとずれていた暖かい季節はもう終り、これから来年の三月までは冷え冷えとした季節が始まるというけじめになる日である。
しかし、九月九日がすぎたからといって、明日から急に冷え冷えとした季節になるのではない。
朝鮮の秋はゆっくりと始まり、その青く澄み渡った空とともに、十一月の終りまで続く。つまり、九月、十月、十一月は、秋をこころゆくまで、ゆっくりと味わう月でもあるのだ。九月(陽暦だと十月ということになろう)には、家では菊の花びらでもって餅を作り、酒を作る。また、梨と柚子と石榴と松の実を細かく切り、蜂蜜に漬けて飲む。
餅を菊花煎、酒を菊花酒、そしてこの飲み物を花菜フアチエ という。この酒と、煎と、飲み物とをひっさげて、郊外に出る。そして紅葉狩りをする。/
 十一月の時食。
一つ、冷たい飲み物を紹介しよう。水精菓 スチオングワ である。
まあ、デザ―トだと思えばよい。
乾し柿を、蜂蜜か砂糖水に漬けて、生姜と松の実と桂皮の粉をふりかけ、冷たくして飲む。これも冬の飲み物である。
これは、また宴会のときにも、よく使われる。/
 正月 ソルナル 。
日本では、山椒やキキョウや、蜜柑の皮や小豆などを調合したものを、味醂に浸して屠蘇酒というが、朝鮮では独特な製法の屠蘇酒と並んで椒柏酒があり、山椒と松の実などを調合し、濁酒のうわずみに浸したものである。
二つとも中国伝来で、その年の邪気を払い、長生きするという言伝えがある。』

 さて、松の実カユの作り方だが、まず、畏友横田安司さんに翻訳していただいた『韓国民族文化大百科事典』第19巻にある「松の実カユ」の項目がある。
これにモランボンの研究所長を勤められ国立民族学博物館の「東アジアの食事文化の比較研究」の共同研究員でもあった鄭大聲 チョンデソン 氏の『朝鮮の食べ物』築地書館一九八四年にある松の実カユの作り方も参照してみたい。

 『カユの一種である。松の実をすりおろして米の澱粉また米の粉といっしょに煮たカユである。
[鄭氏の説明では、水をたっぷり吸った米と松の実を合せて、ミキサ―で挽いてもよい。これに水を加えながらゆっくりと煮る。]
独特な味がし、滋養に富むカユで消化がよく、香りとまろやかな味が加わった高級食品である。
松の実は上古からわが国の特産品の一つである、新羅時代には中国へ往復する人たちの中では、松の実を持っていって売ることがよくおこなわれていたという。
松の実カユに関する記録は、『是議全書』や『山林経済』などの朝鮮時代の文献に登場するが、いつ頃から松の実カユをつくるようになったかはわからない。
 松の実と米を3:1ないし2:1の比例にする。
[鄭氏の説明はこの重要な点で大きく異なる。松の実、1カップ、米、2カップ、水、5カップの比率である。という。]
 作り方は、まず米を水に浸してふやかした後、完全にすりつぶし澱粉が沈殿するようにし、松の実は水を少しずつ加えながらよくすりつぶして澱粉を沈殿させる。
米を加えたものと松の実を加えたものの上澄みをいっしょに集めてひと煮立ちさせたのち、米の澱粉を入れて中火で煮、澱粉が十分に糊状になったら松の実の澱粉を入れてゆっくりと掻き回しながら、中火で煮る。
松の実の香りが漂ってきたらどろっと流れる程度に濃度を調節し、主穀として供する。
食べるとき、塩味を付けたり、また蜜を入れて甘くし、隠し味にちょっと塩を加えたりする。
朝鮮時代、各家族は大家族で、老人を大事にしてきたので、早朝の食事にカユを差し上げることが多かった。
病後、回復期の食事としても多く摂られた。
宮中では食前に薬湯を出さない日には各種のカユが出たが、その中でも松の実カユは最良のカユとされた。
従って、このような場合のために松の実の粉を一度に沢山つくっておいた。松の実カユはソウルの郷土食として、現在では専門韓菓店で商品化されている。』

 松の実の利用法にはほかにもいろいろあるようである。
もち米と小豆の赤飯に、なつめ、松の実、くるみ、栗、肉桂、はちみつ、しょう油、ごま油などを加え、時には粟、きびが用いられる、干柿、干し葡萄も入る高級五目かやく御飯である。
薬飯ヤクパプ 、これは宮廷料理のメニュ―の一つである。
鳳髄湯 ポンスタン という飲料で、松の実、くるみなどをすりつぶして蜂蜜に漬け、膏に練ったものを熱湯でといて飲む薬用飲料もある。
 幕末の儒学者平田篤胤は、油揚げなどは松の実の油を使っていたと記録されている。松葉や松の実は、仙人の修行と深い関係がある。

法政大学出版局版の『ものと人間の文化史』の一冊『松』(一九七五年)を書いた高嶋雄三郎氏は、次のように書いている。

 『私の子供の頃、朝鮮のお土産として松の実の入った金剛飴(金剛山詣での土産)をよく貰ったが、形はベッコウ切り飴のようなものであった。
宮尾しげお画伯が金剛山に行った時、寺の門前で松の実を売っていたもので、仙境のような金剛山で食べると本当に長生きしそうな気がしたと述懐されていた。朝鮮料理の席で必ずよく松の実が出る。
どんな田舎でも人参、大なつめ、松の実の茶が出るが、素晴らしい飲み物だし、高級料理にはよく松の実のカユが添えられる。…白あんと松の実をまぜて生練りしたあんこを入れたまんじゅうの皮の上に松の実を二、三個ちりばめた朝鮮の金剛まんじゅうの味覚を懐かしむ引揚者がいた。朝鮮漬も本場の上等なものには松の実が必ず入れている程である。』

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加賀藩金沢町奉行になった渡来朝鮮人官僚と朝鮮五葉

※おそらく1995年頃の文章と思われますが確認中です。


加賀藩金沢町奉行になった渡来朝鮮人官僚と朝鮮五葉 吉田悟郎


年賀状に朝鮮五葉のことを書いたところ、高校一年の孫がなんだかよくわからないといったそうだ。

おじいさんの朝鮮松へのこだわりには長い長いわけがあるんだから、そう簡単にわかってもらってはとも思う。
しかし、孫から長い長い理由(わけ)って、ますますわからんといわれそうだから、今日はひとつだけわけを話そうか。面白い話ならねと反撃されそうだが、どこまで期待にそえるかどうか。

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 最近、日本史にも<奴隷官僚制>めいたものがあることに気が付き、大発見とひとりで悦に入っているところだ。ドレイ官僚制って、今時評判の悪いあの官僚のことと聞かれそうだが。
詳しいことは省くとして、世界じゃぁ中近東から南アジア・東アジアにかけて、戦争に敗れた捕虜を奴隷にして連れてきて、育て仕立てて いろいろな官僚にとりたて、官僚制をととのえ、そのなかからはやがては王様、王朝も生れたものだ。
いわゆる文武の官僚にしたんだから、もちろん反乱を起こしたり歴史を変えたいろんな軍人・将軍もたくさん出た。
教科書に出てきて、一番有名なのはオスマン帝国のイエニチェリという制度、あれがそうだ。
 戦争で勝って奴隷を連れてくる<強制連行>とは近代史のことではなくて、例の豊臣秀吉の朝鮮侵略のときのことだ。
 その話に入るまえに、ちょっと朝鮮五葉という松になぜ興味をもったのかという経過がある。
この発端と経過については今度話すから、詳しくはそのときに譲ろう。

実は、二十年ほど前、ハバロフスクのホテルで求めた北方民族ナナイの民話絵本が発端だ。ナナイという民族には、あの間宮海峡の間宮林蔵がアム―ル河を少しく遡ろうとした時、出会っているし、ナナイの土地の五葉松で出来た舟を購ったことも記録がある。
その五葉が朝鮮五葉であり、中国東北・ウスリ―はじめロシア極東・朝鮮・日本中部に分布しており、洪積世には日本の東北から九州まで広く生えていた主要な針葉樹であることがやがて判明する。
この松が東北アジアの歴史のなかでどんな役割を果たし、そこに活躍した人間や生物とどのように共生してきたか。この次から語って行きたい。

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 さて最初の話に戻ろう。
秀吉が企てた文禄・慶長の朝鮮戦争、あの侵略戦争のときの朝鮮人捕虜の少年が<奴隷>として日本に<強制連行>され、日本史近世初期の加賀藩の官僚、金沢の町奉行にまでなった、という歴史が金沢に残っている。
私がこの事実に気付いたきっかけは、『かがのと巨樹名木探訪』田中敏之氏著という本だった。朝鮮五葉が出てくる本や文章はしらみつぶしに探しているうちに、この本にぶつかった。
日本の老樹名木として県指定名勝の庭園玉泉園の朝鮮五葉が写真入りで紹介されているのを見付けたときはうれしかった。早速友人を介して、この朝鮮五葉を撮影してもらえ数葉の写真をお送りいただいた。
おじいさんの小学生時代、ホ―ムグランドのひとつだった兼六公園の東側の小将町にある名勝庭園で、旧脇田直能の邸宅跡だという。
五葉は幹が二つに分れてはいるが、直立する大経木として育っており、幹周り二・〇二メ―トル、樹高二〇メ―トル以上はある。ノウゼンカズラが幹に絡み、毎年初夏幹の先端で赤い花を咲かせるという。写真に写っている標識に「古里を偲ぶため(脇田)直賢父子が朝鮮から苗木を取り寄せ移植したもので樹齢約三三〇年」とある。
五葉自体は、数葉の写真から見ただけでも実に見事であり、北國の厳しい風雪をよくもこれまで耐え抜き生き抜いてくれたものよと有難く感動させる古木であった。

 ところが浅学にして、そのときはこの五葉を古里を偲び植えたという脇田父子の痛切極まり無い思いには、恥ずかしくも思いも寄らなかった。
古里とは壱岐対馬あたりかなととんでもないあて推量をして済ませた。
しかし、これではすまない。図書館で加賀藩の人名事典や日本史の女性人名事典などを探して、次のような簡単な筋書きだけはやがてつかめたのだ。

一五九二年(文禄元年)、壬辰・丁酉倭乱、秀吉の朝鮮侵略の際、朝鮮「帝都」漢城(ソウル) も陥落し、宇喜多秀家と戦って死んだ金時省父子の遺児金如鐘(キム ヨチョル) は七才で捕虜となり、前田利家の四女豪姫に伴われ、金沢の利家夫人芳春院の手元に送られ、芳春院および二代前田利長の膝下で成長し、利長の近習となり、一六〇五年二〇才のころ前田家の家臣脇田家に婿入りした。
脇坂直賢、即ち金如鐘である。
直賢・直能父子、共々金沢町奉行にまでとりたてられ、学芸にも長じた。庭園の名前は、二代藩主夫人の玉泉院の名に因んだもの。
前田利家、利長については、北國新聞に連載された津本陽氏の長編『前田利家』上下、『加賀百万石』があり、豪姫については富士正晴氏の小品『豪姫』という中編がある。とくに後者の中編は面白いから読んでみるとよい。

捕虜となった朝鮮人

 朝鮮に野蛮にも侵略した倭将たちは、なんで朝鮮人を捕虜、奴隷として日本に連れかえったんだろう。
どのくらいの人数だったのだろうか。
なにか当時労働力として必要だったのだろうか。
なぜ秀吉の部将の領国に強制連行された朝鮮人の捕虜、いわば奴隷から藩の重要な官僚に取り立てられる者がでてきたのだろうか。
そういう藩はほかにもあるのか。
朝鮮五葉への探究が、いわゆる日本近世初期加賀藩における被連行朝鮮人のいわば永住=「同化」の歴史事実に浅学無学の私を導いたわけであるが、目を据えると、あるある、この歴史事実についての研究がいろいろな形で手をつけられているのである。

 代表的なものは、内藤雋輔氏が一九六五年の科学研究費により九州地方を中心にした『被擄人資料探訪記』という調査報告書を作成し、その報告を含む『文禄慶長役における被擄人の研究』一九七六年(東大出版会)が出版されている。
さらに、鶴園裕氏代表の共同研究が『日本近世初期における渡来朝鮮人の研究―加賀藩を中心に―』一九九一年としてまとめられている。
この共同報告書には、加賀藩の脇田家に伝わった「家伝」と呼ばれる金(脇田)如鉄の伝記とその異本が収められ、貴重である。

 以下の文章も、この鶴園裕氏代表の共同研究、そのなかにある興味ある金如鉄の自伝によるところが多い。金如鉄のことを教えていただいた鶴園裕氏はじめ共同研究に加わられた方々に感謝したい。
とくに、この報告書の末尾に付した「日本近世初期渡来朝鮮人一覧稿」と「都道府県立図書館別アンケ―ト調査の結果一覧」は、各地における渡来人の史料および研究の有無と所在、近世初期渡来朝鮮人の有無についての概略の情報が得られ、今後各地での学習・研究に益するところが大きいと思われる。
以上の研究成果によって、数々の疑問を少しく考えてみたい。

まず人数の問題である。
これは残念ながら厳密にはまだ正確なところがつかめていないということだ。

 内藤雋輔氏は、被擄人の総数をはじめ五・六万人としていたのを後に二・三万人に訂正している。鶴園裕氏の共同研究者であった片倉穣・笠井純一両氏は、「男女合わせて無慮数万人を超える人数であったと見倣してよかろう」とぼかしている。

 次に、労働力としたのか、何に利用したのか、という問題である。
彼らの多くは、長崎や平戸その他から、ポルトガル商人などにより東南アジアやインド方面に売り飛ばされたが、一方、西国諸大名により連行・分配され、返還・帰国の機会に恵まれず、大名の領国で永住・同化するに至った者も少なくなかった。
 西国大名の領国というと壱岐・対馬・薩摩・熊本・唐津・福岡・小倉・長門・広島・岡山・姫路・兵庫・伊予・土佐・讃岐・阿波・紀州・大阪・京都・加賀・名古屋・静岡・江戸、等々に彼らの痕跡が残された。階層・身分・職業で見ると、農民・職人・学者・文人・武人・官僚・宗教者などであり、性別では婦女、年令別では幼少が少なくない。定住後の居住形態には、集団居住型(苗代川が一典型)と個別分散居住型とに分かれる。薩摩・熊本はじめ西国諸藩の中には、渡来朝鮮人の集団的居住を示す地名や街路名の残ったところもある。
 労働力補充かどうかという論点では、鶴園裕氏の次の見解が妥当なものと思う。
 「中世以来の倭寇の伝統を持ち、文禄・慶長の役でも比較的多数の渡来人が存在したと思われる島津氏領国(薩摩・大隅)においてもこのような考え、労働力移入、「農村耕作者として補填」という解釈を支持するような日本側史料はない。
むしろ西日本各地に存在する高麗町や唐人町などの地名は、彼ら近世渡来人が職能的集団として城下町などの都市的環境に住んだのではないかという仮説を支持するようにさえ思える。
問題は日本の近世初期農村社会が、労働力移入というような「近代的な」(あるいは奴隷労働に依存するというなら古代的な)構造や段階であったかということである」(前掲報告書より引用)。 内藤雋輔氏は、日本へ拉致・連行され残留させられた理由として次のように述べる。

(1)内地における労働力補充のため 
(2)茶の湯の流行と陶工の渡来 
(3)女子や童子たちの中にはその美貌や才智などから伴行されたもの 
(4)戦争中の日本軍協力者 
(5)朝鮮の戦場で妻帯したため同伴した者 等をあげている。

 十六世紀末の秀吉の朝鮮侵略戦争が倭寇以来の「人取り戦争」という側面をあらわにし、朝鮮侵略の先鋒を務めた武将は、おおむね倭寇以来の奴隷貿易の伝統を持つ西国の武将たちであった。
僧慶念の『朝鮮日々記』一五九七年十一月十九日の条に、
「日本よりよろつ(萬)のあき(商)人も来たりしなかに、人あきないせる物来り、奥陣よりあとにつきあるき、男女老若かいとりて、なわ(縄)にてくひ(首)をくくりあつめ」という生々しい人間狩りの状況を記録しているという。
「そこ(全羅南道務安郡)には賊船六、七百艘が数里にわたってあふれており、それらの船にはわが国の男女が倭兵とほぼ半々になるほどいた。
船ごとに哭き叫ぶ虜えられたものの声は海や山を震わせるほどであった」と朱子学者姜 (カンハン)は『看羊録』に記録する[北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』吉川弘文館、二五九頁]。

 この世の阿鼻叫喚地獄ともいえよう。
奴隷として連行された七才の幼童金如鉄を貰い受けた加賀藩および前田利家は、明確な言動で秀吉の朝鮮侵略を批判はしなかったけれども、朝鮮出兵という軍事行動に心底共鳴・賛同していたとは思われないといわれる。
しかし、「高麗人にいろはを教え、髪をはぎ、童部をば、中ぞり仕、召仕候、日本人の様にも候はで、童部も物書き、詩を作候、高麗人文字仕候を召寄、五日・十日づつ置候て、在所在所へ遣候」とあるように、まだ自分というものの確立していないが文字を知り詩をも作れるような両班階級(朝鮮の貴族・官僚層)の優秀聡明な少年を捕虜-奴隷にし、日本語を教え、日本の風俗にさせたうえで、近習などにしたことには変りはなかっただろう。

 金如鉄、即ち脇田直賢の場合は、加賀藩士として大阪夏の陣でも戦功をたて、御使番、三箘国御算用場奉行、御小姓頭、公事場奉行、金沢町奉行等の要職を歴任し、一六六〇年七十五才で没している。やはり金沢町奉行を勤めた息子の脇田直能とともに脇田父子ともども加賀藩の有能な<奴隷官僚>となったといえよう。
 直賢即ち金如鉄は自伝を残したが、父金時省を翰林学士と書き、「幼ヨリ文章ヲ学ビ」、生地を「帝都モ敗北ス」と書いているように、両班階級としての矜持と自負を失わず、隠居・出家後「名ノミムカシニカエリ如鉄ト号ス」とし、さらに朝鮮式「土まんじゅう」の墓に埋葬された。一九八七年、野田山墓地後割で高さ一メ―トル、直径二、三メ―トルの墓など一三基が発見されているという。

望郷の想い

 しかし、祖国・ふるさとから引き裂かれ拉致され奴隷とされ、加賀藩の要職を勤め、いわば奴隷官僚として出世できたにせよ、望郷の思いはさぞかしであったであろう。
直賢は自邸近くの「小立野台牛坂ノ上ヲ過グル毎ニ、目ヲ稚松山下ヨリ浅野川ノ水西流スルヲ覧、謂ヘラク風光故山ニ彷彿タリト、愴然トシテ懐旧ノ涙ヲ垂ルルコト之ヲ久シクスト云フ」。
直賢以後数代にわたって作成されたという玉泉園は池泉回遊式で朝鮮式を採用したものともいわれるが、未検討であるようだ。
 現地の標識にある、「古里を偲ぶため直賢父子が朝鮮から取り寄せ移植した」とあることも多分伝承なのであろうが、今のところその伝承の根拠・出典などはわからない。
ただただこのようないわれのある朝鮮五葉の名木は珍しいものであるし、加賀藩の珍しい<奴隷官僚>であった金如鉄の屋敷跡の名園で生き延びた樹齢三三〇年余の朝鮮五葉であることもたしかである。ぃっそうの長寿を祈りたいものだ。


中国人の捕虜の場合
 
ひとつ、おまけがある。
鶴園裕氏代表の共同研究報告書の末尾に付された、例の都道府県別アンケ―トの中の、島根県立図書館の回答にある「李郎子」の条にもでてくるのだが、播州赤穂浪士・武林唯七の祖父・武林唯右衛門=慶長三年浅野幸長の捕虜となった武林降王、の部下であったという箇所である。
この箇所についての詳細は不明だが、元禄忠臣蔵の四十七士のひとり、武林唯七隆重が、中国の孟子の末裔だという話は割と有名だ。

 例えば、朝日新聞社の『日本歴史人物事典』一九九四年のその項目を開けば、豊臣秀吉が朝鮮に侵略したとき、明王朝の援軍の一員として従軍した、孟子の末裔が倭将の捕虜となり、帰化して武林唯七の祖父となったとある。
以下、中島康夫氏『忠臣蔵四十七義士全名鑑』一九九八年によると、唯七の祖父は、中国淅江省杭州府武林の出身で孟二寛という医者であったが、朝鮮に派遣された明の援軍に従軍し、捕虜=奴隷となり、連行され帰化し、出身地の地名にちなんで、武林治庵と名乗り、渡辺氏の娘に婿入りした。
この祖父の墓碑には、「孟子六十一世の裔(すえ)」とあるという。
 唯七の父は、渡辺平右衛門といい、播州浅野家に仕えた。
二子があり、長男の半右衛門が渡辺姓を継ぎ、唯七は祖父姓の武林を名乗り、藩主浅野内匠頭に仕え馬廻・中小姓の役職(十五両三人扶持)を頂戴している。
吉良上野介は勝手口近くの小屋で見付かり、間十次郎がまず槍を突き付け、武林唯七が太刀を浴びせた。
泉岳寺の墓前に上野介の首級を供えたとき、一番線香は初槍の間十次郎、二番線香が初太刀の武林唯七だった。引き揚げた泉岳寺で「取捨の義を述ぶ」という七言絶句ができた。三十二才で切腹。
四十七士の中で、唯一漢詩で辞世の句を残したところに孟子六十三世の裔の自負が見えると思うのは思いすごしだろうか。
金沢町奉行になった金如鉄ほどではないが、別の形で孟子末裔としての剛直な生涯を残した奴隷官僚のひとりであった。
ちなみに孟子のふるさと魯の国のあたりにある泰安は、中国華北で朝鮮五葉(中国では紅松 hongsonという)が今日でも特に生え繁っている地域だ。
『華北樹木志』一九八四年にそう記してある。


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