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私の十字軍学習  2012年5月28日 (月曜日)

2012年5月28日 (月曜日)

 私の十字軍学習 


 1960年米国で封切られ翌61年日本で公開された映画『栄光への脱出』、原作は『Exodus-エクソダス―栄光への脱出』(犬養道子訳1961年)、映画も主役ポール・ニューマンといえば映画フアンならば誰もが覚えているだろう。
英軍にキプロス島に留め置かれていたユダヤ難民達が英軍の監視をくぐってエクソダス号で脱出、1947年のパレスチナ分割決議案の国連投票を知りイスラエル建国の戦いに馳せ参じる、という映画である。

私もこの映画を見たが、そのころはパレスチナ問題なるものをしかと知らなかったと思う。
その後、アラブ・パレスチナ人が有無をいわせず家・土地を強奪され、命もろとも追い出され、こうして泥沼のようなパレスチナ問題が起こることをようやく知るに至り、1970年代からパレスチナ問題を含めて中東学習を始め、今日に至る。
今ふりかえると『栄光への脱出』という映画は、いわゆるユダヤ人の欧米にも尻押しされたいわば“十字軍”であり、そこで押し立てられた現代「イスラエル」という国家は、最初から第二次大戦後の中東を再編成し、その支配を固める橋頭堡としてつくられたものだということが明らかになった。エルサレムそしてパレスチナは古代イスラエル人の土地、そこは古代イスラエル国家が治めたところという旧約聖書による”神話”が”事実”としてまかりとおるということになり、数千年生き続けた“ユダヤ民族”という神話がいつのまにか欧米で、そして日本でも、真実の歴史として通用するようになる。いわば形を変えた“永遠の十字軍史”に世界は騙されたといえよう。

私の“十字軍”との取り組みの背景にはこのようにパレスチナ問題がいやおうなしに存在したのであった。
1986 年9月に、はからずも、私は中近東文化センターで2日間にわたり催された十字軍シンポジウムに「歴史教育の中の十字軍」という報告を頼まれ、2日間の討論にも参加することができた。
1987年9月26~27日、中近東文化センターで開かれた十字軍シンポジウム「は日本で最初の学会だった。

第一日の議長は橋口倫介・川床睦夫・護雅夫の開会の辞、橋口・川床の開催趣旨で始まり、吉田悟郎「歴史教育の中の十字軍」、牟田口義郎「『アラブが見た十字軍』と日本の読者」、研究情報ー回顧と展望として、佐藤次高「イスラーム史における十字軍」、宮松浩憲「ヨーロッパ史における十字軍ー新しい時代へー」、渡辺金一「ビザンツ史における十字軍」というそれぞれの報告。その後での討論。
第二日は、議長が板垣雄三・樺山紘一、報告は、清水宏祐「セルジューク朝と十字軍:梅田輝也「十字軍とアラブ知識人」、森安達也「十字軍と東方教会」、弥永信美「十字軍と東方イメージ」。
その後で討論1と休憩をおいて討論2でシンポ終結です。

報告原文とそのレジュメは長いので『中近東文化センター研究会報告No.9』を見ていただきたい。
私の報告自体は、『同研究会報告』の5~19頁、またそのレジュメは179~180頁にある。
私の著書には収録されていないが、拙著『世界史学講義 上下』が、私の十字軍史、イスラーム学習ノートみたいなものであるが、ここでは、中近東文化センターでの討論の中での私の発言を紹介したい。私の十字軍の把握は次のようなものであった。
(中近東文化センターが1988年に出した『中近東文化センター研究会報告No.9』の78~79頁に記録されている。)
<私は「歴史学の中の十字軍」を実は「世界史の中の十字軍」に置き換え、そういう意味で受け止めているのです。こういうことを勉強してきて、この報告を準備する過程で出てきた疑問のひとつは、ユーラフロアジア( Eurafroasia )の西の西欧キリスト(公教)世界とイスラーム世界のぶつかりあいに焦点が行っているのは当然であったと思うのですが、ずっとそういう形で実際西欧のほうに焦点がいってしまっていて、それを補うものとして“アラブ側から” とか、“ビザンツ側”が出てきている観がありました。
これは―よくわからないのですが―西欧の方は13~14世紀以降、あるいは15~16世紀以降、いわばわがまま勝手に、大胆に、十字軍思想、十字軍運動という形で実際に視野、対象が全地球的に拡大していくというふうに捉えてみる見方を出して、そういう形で一緒に考えていく、世界をつくり合ってみるという話をしてみたのですね。
それと同時的に、13~14世紀以降、15~16世紀以降、イスラーム世界もアフリカから南アジア、中央アジア、東アジア、あるいは東南アジアを含めた、いわば太平洋地域みたいなところに拡大してきて、それがどうなっているのか、その実態がどうであったか、どんな意味があったかということはどうもわからない。
わかる捉えかたが出てないわけですね。考えてみると―今日の瞬間では―ソ連の中央アジアのイスラーム圏だとか、中国の新疆ウイグル地区を含めた、北京にも多い回族の社会だとか、われわれの常識的な歴史の知識の中にはティムール帝國だとか、ムガール帝國とか、そういうものがもっと日本の近く、南洋日本町まで実は来ているのだということの発見―フィリピン北部の島のルソンも50年遅ければムスリム化していた、イスラーム化していたのではないかという、フィリピンの歴史家のひとつの指摘-などと絡み合った形で、大航海だとか何かが我々の認識の中で生きているかというと、どうもそうなっていないのではないかという気がするのですね。
大胆に言ってしまえば、十字軍思想、十字軍行動の対象に、その時の日本はなっていると考えていいのではないか。
つまり修道士会の日本、中国を、連関させた軍事計画ですね。また、あるいはネルーの『世界史瞥見』の中で、当時の日本の権力者がやった鎖国はあの当時としては賢かった、よかったことなのだということ、あるいは清水知久さんが訳した『この大地、わが大地―アメリカ・インディアン抵抗史』を書いたコスタ(J.Koster)が、日本はあのとき鎖国できたから今日におけるアメリカ・インディアンのような状態にならなかったのではないかという日本の読者へのアピール。
第1次史料についても勉強しはじめていくと、やはり十字軍史と十字軍運動は日本に対しても発動していると思います。
 日本の中にそれを受け止める動き―これはよくわかりませんが―伊達政宗の慶長遣欧使節などは、まかり間違ってそれをひとつ受け止めてがたがたするような、そういうことが起きていて、また少年使節などの美化、あるいはキリシタンバテレン殉教史の一方的な美化を行っている。そこのところで十字軍イメージというのは偽りのある、歪んだ形で私たちをつくっているという気がしてならないのです。そういう問題意識で報告をしたのですが、舌足らずです。で十分・・・。>
議長:<先ほど私が立てました2つの柱の、十字軍の全体像、今後の研究の方向性ということに、ただいまの発言も含ませていただきます。
日本も十字軍のターゲットの中に入っていて、非常に大きな、グローバルな形の、十字軍の後世への影響の問題も含めて将来の全体像を考えるということでした。・・・>

『中近東文化センター研究会報告No.9』の169頁には、討論の中での発言として、私は、次のように言っている。

<うかがっていて、ことしの前期に法学部の1年生の学生たちと一緒に勉強した時の学生の一人が出した疑問がどうなっていたかと読み直して見ましたら―私は依然として学生の疑問に対して一緒に考えていくよりほかないと思っているのですが――でどんな疑問を出しているかといいますと、私が昨日お話しましたような話をしました時―この学生の場合には橋口さんの『十字軍』を割りとちゃんと読んでいまして、その上でまず―十字軍が普通の戦争と変わらない戦争ならば100年以上としても50年に1回とか8回も繰り返されることはなかったはずだという疑問を第1に出しているのです。
なぜ十字軍が長期化したのか。大規模化というのは間違いだと思いますが、その規模は、今から見ると非常に小規模ですが、ひよわきヨーロッパとしてはそれをただ小規模と置き換られるかという問題があります。
第2の疑問は、十字軍が単に東地中海世界に対する反感から始まったものならば, 第1回十字軍がアンティオキアからイェルサレムへの途上、セルジューク勢力圏とファーティマ領において歓待に甘んじた―これは橋口さんの97頁―とあることがまるでわからなくなってしまう。これはいくらか対話ができるという感じがするのです。
3番目。
十字軍とレコンキスタ―これは東方殖民、あるいはアルビジョア十字軍といろんなものがありますが―それが同時進行的に展開されていることも疑問だと。
これは従来の簡単な説明で説明できますが、それでは納得してないというふうに思います。
4番目は、十字軍には終始一貫してヒステリックな影がつきまとっていると。橋口さんの48頁に言及されているような事実を差し引いても、このヒステリックな面は残ると。その本質は何なのかと。
第5、十字軍はなぜ清水の舞台から飛び降りる100倍ぐらいの無謀とも言えるような大挙に出たのか。イスラームとの戦闘に勝ち目のないことを知りつつ、全体としてはイスラームの方が相手にしていないということですが、それでもなお、いわゆる「聖戦」を行わずにいられなかったのはなぜか、云々と。
第6、十字軍が西ヨーロッパ各地にわたってユダヤ教徒、いわゆるユダヤ人を血祭りに上げたのは、敵を身近に顕在化させるためだったとする先生の見解はひとつ納得できるが、果たしてそれだけの位置づけしか与えられないのだろうか。
その辺のところは古い研究、新しい研究、日本の研究ではどうなっているのだろうか。
 学生は非常に主観的な文学的な答えを自分の中で出していまして、ちょっと簡単に問題にできないのですが、十字軍はキリスト教によって目覚めさせられた集団的罪悪感に根ざす行動であり、十字軍は東地中海世界に対する本来の意味でも一揆の変形であるとして、国訴とか一向一揆と比べて論じています。橋口さんの本に民衆一揆という説があるというのを紹介されていますね。それから、これはちょっとどうかと思うんですが、十字軍は古い時代の偉大な精神に自己を同一化せしめる恍惚感に根ざした運動であり―これは弥永さんのお話と重なると思いますが―その意味においてフェスティバルの変形であるというふうに社会史的な捉え方が投影していると思います。こういう答えを出して、先生、意見はどうですか、ご批判を願うと出てきているのです。>

十字軍シンポの討論2日目の後半、私は二つの補足を行っている。

< 異論を申し上げます。はからずも地中海世界ということで、方法, 構成の問題が出ましたので、発言を許していただきたいと思います。
私は、地中海世界、地中海というのは西洋史の延長にすぎないとかねがね感じておりました。やはり難点はそれでは解けないのではないかと思います。結論から申しますと、三木亘さんの仮説、ひとつのビジョンであります中近東、中東と、いわゆるヨーロッパとを一緒にまとめて、彼は、意地悪くわざとそれを西洋というひとつの世界ととるわけですが、それの方に味方します。なぜかと申しますと、三木亘さんは明快に、たしか二つの点を挙げています。
 一つは、例のユダヤ教、キリスト教、イスラーム教のルーツがひとつで、同じ大家族的な宗教であることです。二つ目には、これは三木亘さんの非常に特徴があって考えるべき問題だと思いますが、ユダヤ教の拡大したところがいわゆるオリエント、中近東、中東+ヨーロッパであると。もちろん地中海はその中に入っています。海は地中海だけではありません。
もうひとつはたしか文化の問題で、ギリシア・アラブ医学が西洋の近代医学へと。これはいわば近代科学技術の象徴として彼はかねがね関心を持って、そこのところを突いてきているわけです。たしかその三つ、三つ目は不正確だったかもしれませんが、わざと西洋という捉え方をしています。
そこでは地中海世界という捉え方はしていません。
私はその方がいいと思います。昨日、今日出ております問題は、まだ十分には取り上げきれないと思いますが、例えば、今のユダヤ教といわゆるユダヤ人問題ですが、これは地中海世界という捉え方の中でももちろん出てきますが、西洋史の中でユダヤ人問題・・・、ユダヤ人問題はどうですかね、対象に出てこないかもしれません。
渡辺(金一)さんの言われた国際的なテンションの問題で、これはアイデアとして、私もこの2日間のシンポジウムで学んだことです。
国際的テンションというのは、必ずそれに対応する並列的テンションではなくて、モンゴルの大侵入ですね。それで起こったかに見え、それが十字軍と違った、あるいはもっと拡大した意味でちょっと似たところもある、そういうテンションに転化していくといいますか、発展していく感があります。
13~14世紀、いわゆる“パクス タターリカ”、あるいは“ポーロ一家”の行動などもひとつ指標になると思います。
 それから、恐らくまだそこまではいっていないようなことをお伺いしますが、確実に13~14世紀ごろから西の方に傾いていますと、イスラームとキリスト教とビザンツ側ということだけで、それも十分おもしろいし、学ぶことは多いのですが、一方、サハラを越えたアフリカへ、あるいは南ロシアへ、中央アジアへ、南アジアへ、東南アジアへ、あるいは東アジア、中国に、イスラームは宗教としても文明としても、人や物の情報や交流、例えば狭い経済活動が拡大していくのではないか。それもそのテンションのひとつの大きな結果として出てくるので、そういう形で見ていく場合に、地中海世界というような捉え方では西洋史の延長にすぎないとおもわざるを得ないわけです。ガブリエリと何とか、やはりそういう感じがします。>

<ちょっと「補足していいですか。私が申し上げたかったことは、公教―西欧、正教―ビザンツ、イスラーム―中東(今の中東にあたるもの)の3つの世界の相互浸透でもあるし、また相互激突でもあることが今までの議論で出てきていて、先ほどの議論ですと、うっかり反モンゴルに行ってしまって終わってしまうなという感じがしたのですが、シャーマニズムの北方ユーラシアの、モンゴルで代表されているそういう世界と、ある意味では具体的には四つ巴になるわけですね。
それだけでは尽きないわけですから、アフリカあるいは南アジア、アメリカとか、それを地中海世界というようにいきますと、逆もどりしてしまう感じがしている。地中海世界について、私はそれにはついていけない。それでは解決にならないとかねがね思っていたものですから、ごく小さな研究会などではそういう批判は公にしています。それから、西洋史云々というのは、私は日東西3区分のなかの西洋史という講座体制みたいなもの、西洋史が主になったいわゆる矮小化された世界史、そういうものへの批判はずっと公にしてきていますので、うっかり省略してしまって、すみませんでした。>

第一日の討論の最初に質問が議長から紹介された。

そのなかに、
<「単純な質問で恐縮いたします。十字軍時代日本では元軍の来寇を見たと思いますが、それは、予言された日蓮さまが十字軍のアラブ侵攻まで承知していたものでしょうか。また、当時の日本人はイスラームやアラブを知っていたでしょうか」という質問です。先ほどのお話からしますと吉田さんにお答えいただけたらと思うのですがいかがでしょうか。>

 私の答えは次のとおりでした。

<日蓮が中東へのヨーロッパの侵攻を知っていたかどうかはわかりませんが、ほかの普通の人たちとは違って、モンゴルを野蛮な勢力、ただただ破壊者であるとは見てないのは確かですね。『聖人遺文』でご存知のように、神の罰を下すものであるとか・・・。
16世紀のマルチン・ルター が『トルコ戦争論』(“Vom Krieg wieder die Tuerken 1529” )のなかで述べている考え方、あるいはウィクリフが述べていることをサザーン( R. W. Southern ) が指摘したものとも、ちょっと似ている感じがします。独自にそうなのですね。ただ日蓮が、もし日本の何らかの権力、背景から―ちょうどルブルクやカルピーニのように―宗教上の特使としてカラコルムだとか大都に派遣され、世界中から集まってきた色々な宗教の代表者たちのディスカッションに参加したり、傍聴していたら、と面白い気がします。日蓮の弟子のひとり日持上人が、北海道へ渡って―あと恐らく沿海州、シベリアからどこへでしょうか、元帝國ではないかと思うのですが―行きます。その後が分らないのですが、さっき言った東部環球を巡錫したらしいと・・・。熱河のどろぼう市場で、駿河河口を出た年月日が記されている日持上人の筆跡だという御題目が見つかり、そのことを亡くなった前島信次さんは論文にしておられました。「それだけでそういうことを考えるのは早とちりだ」という反論も勿論出ましたが、非常に面白い論文ですね。
 ムスリムのことを申し上げましたが、16世紀の十字軍とムスリム―世界史的には十字軍対ジハードのぶつかりあいの一部ですが―南洋日本人町が出来て栄えていたルソンで、マジェラン(マガリャエンス)の後継者でフィリピン遠征総司令官レガスピの部下ゴイティが、マニラのもとあったマイ二ラを攻略しています。
17世紀の初期―1630年から1631年の見聞ですが―川端久左衛門が『呂宋覚書』という小冊子の中に「日本人、モウル人うちまじりて店出し申し候」と記載している。
ディウという地域があって―今はマニラの中心部、霞ヶ関みたいなところですが―、恐らくそこで、長屋づくりの店で、ムスリムとまじって活躍していたのではないかと思います。そのムスリムが西ヨーロッパのことを知っていたかというと、多分知らなかったのではないかと想像します。だから、いろいろなことが考えられるわけです。≪発言者補注:休み時間に板垣雄三さんは、「やはり知っていたのでしょうね」と洩らした。≫>

 休憩時間に面白い質問を受けた。
名前も伺わなかったが、私の報告をよく聞かれた感じの年配の女性がこういわれた。

<ご存じですか? マッカーサーが天皇にバイブルをもたせ改宗させようとしたことを。>

知らなかったので、あとで調べてみた。昭和天皇や天皇家をキリスト教徒にする試みはあったらしい。
もちろん体よくあしらわれたらしい。十字軍はそこまではうまく運ばなかった。
しかし、どうだろうか。
昭和天皇がしばらくは沖縄を献上してもいと伝えたことは史料にも残る事実のようである。
とにかく、その沖縄をそれからもう65年もたっているのに米軍は基地の島として居座り続けている。
また、昭和天皇の代に日米安保は結ばれ、がっちり日本国は軍事的にも属国としてひれふし、その上 憲法を破ってまでも、イラク、インド洋での石油補給、南スーダンへと傭兵扱いで出兵させられている。この極東の特異な天皇国は天皇の改宗はうまくゆかなかったかもしれないが、実質忠実な(対AAP十字軍)の傭兵。
基地列島としてマッカーサーの宗主国にご奉公をつとめさせられている。
敗戦後66年も過ぎているのに(2012年現在)。


【参考】
◎「沖縄の分離についての天皇メッセージ問題」を知るために最もわkりやすい また 正確な説明は太田昌秀さんが佐藤優との対談『徹底討論ー沖縄の将来』芙蓉書房出版2010の150ページ以降を読むとよい。太田さん自身が米国国立公文書館で入手したGHQ政治顧問W.J.シーボルトに口頭で伝えられたメッセージの内容を記録した「マッカーサー元帥のための覚書」とシーボルトがG.C.マーシャル米国務長官あてに送った「琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解」の二つが重要文書である。

その他、GOOGLE検索で拾った手軽なものをいくつか挙げておく。

●機密文書「Japan Plan(日本プラン)」 - [雁屋哲]の検索結果
一橋大学教授の加藤哲郎氏が米国国立公文書館で発見した機密文書「Japan Plan」の中で、アメリカは第二次大戦後の日本をどう取り扱うかの構想を記している。 ... 昭和天皇はそのような、自分のために死んだ沖縄の人達に思いを寄せることなく、その土地をアメリカに献上した。 .を残したままでの長期租借-二十五年ないし五十年あるいはそれ以上-の擬制にもとづくべきである」(47.9、GHQ政治顧問シーボルトの「マッカーサー元帥のための覚書」。宮内庁御用掛の寺崎英成が天皇のメッセージとして伝えたもの)

●池田香代子ブログ : 「文書を示せこのポンコツ」 昭和天皇の沖縄
2012年12月24日 この外交文書が機密解除されたのは1979年。「沖縄復帰」7年目。

●沖縄戦関連の昭和天皇発言

●"天皇メッセージ" - 所蔵資料の概要 - 沖縄県公文書館

●真実を知りたい: 沖縄の基地問題は天皇の沖縄メッセージ

十字軍については

●上原専禄 橋口倫介『十字軍ーその非神話化』を読む 『図書』1975.7月号

●吉田悟郎 世界史学講義 上 西欧文明形成の暗黒 下 第三世界と世界史学     (御茶ノ水書房1995)
●吉田悟郎  グローバリゼーションとは? 

●吉田悟郎 21世紀のモロ戦争       

●初老のトクさんブログ 
 イスラムに広島の恐怖をー米軍が第一線指揮官に講義  (2012.05.14) 

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