「自由・平等・民主・人権」について思う
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2010年12月15日に書かれた文です。
『Forum 高校生新聞』
「ある編集者の歴史」
「自由・平等・民主・人権」について思う
吉田 悟郎(東京:旧制成城高校新聞部OB)

戦前、私は東京府立五中で『開拓創作』という校是のもとに、その頃の全国中学の中では随分開けた自由な雰囲気の中で三年間をすごせた。
外国映画など帝劇で自由に見るという生活を送れた。
次の私立成城高校ではもっと自由な学風の中ですごせるつもりだったが、入学早々高校新聞部の勧誘で投稿した原稿が元で、職員会議から「執筆禁止・新聞部入部はまかりならん」との決定をうけてしまった。
当時起きていた日中戦争に対して無教会主義の立場での非戦論を主張したのが危険思想だという認定であった。
だが、かえってこれに反発して、私はあえて秘密新聞部員として卒業まで新聞編集活動・仮名での執筆活動を続けて、高校生活を満喫したものである。
今も通院の際、娘の車でよく通るのだが、代々木上原の近くに建てられたばかりのイスラムのモスク(例のミナレットが遠くからも見える)の見学記、平賀粛学をやった東京帝国大学総長に面会を求め、開口一番怒鳴られてほうほうの体で退出した思い出など。
兵隊にとられる前、三浦半島や小海線の高原を歩き、インターやフランス映画『パリ祭』や『自由をわれらに』の主題メロディーを合唱したりした青春の思い出。
フランス映画やアメリカ映画の『スミス都へ行く』などは、新聞部仲間には「自由・民主」の空想をふくらませた。
つきあいのあった府立高校新聞部の仲間に、満州から越境して「自由な」ソ連に入るという計画のあることがひそひそ話にあったような時代である。
敗戦後、あのひどい戦争期がとにかく終えられて、何か「自由」が来たような幻想があった。
軍隊がなくなり、兵隊にとられないということ。
毎日がそれこそ「外出」「外泊」であり、あの兵営生活に縛られないこと。
匍匐前進で這いつくばらなくてすむこと、戦死するという心配のない毎日ということ。
それは一時のことだが、珍しく、有難いことであった。
「解放軍」なんて幻想もちょっとはあった。
しかし、それは、占領開始後すぐ打ち破られた。
1947年マッカーサーの2・1ゼネスト中止命令。
旧日本評論社の掘立て小屋の社屋で待機していた印刷出版労働組合日本評論社支部の青年部の委員であった私は冷水を浴びせられ、「自由・民主・人権」の実現などという幻想を打ち砕かれた。
そして戦後ジャーナリズムで先進的な試みを残した雑誌『日本評論』編集部を狙ったレッドパージの嵐。私は労働組合の委員としていやというほど苦しみを体験し、結局は惨敗した。
病気理由で退職し、独立した出版業を夢見たが、あえなく挫折した。
当時は、「いざとなれば占領下の沖縄送りだぞ」と噂された時代である。
「でも教師」として高校の社会科世界史教師になったのは、1952年あの血のメーデー事件の直後で、新米教師なのに、一部の生徒に目をつけられ、事件について語らせられたことがある。
それからの『日本国民の世界史』編纂の七年間の「上原ゼミナール」、上原専禄先生という巨人との出会い、先生以下野原四郎・江口朴郎・西嶋定生・太田秀通・久坂三郎・私という「七人の侍」(いまは私が唯一の生き残り、最も不敏なる末席である)。
その後の 不敏な私なりの「自立と共生を求める世界史学への終わりなき道程のはじまり」、私の造語「絶えざるひっくりかえし」の連続。
そして惜しんでもあまりある巨人である先生の死去・・・・・・・・・。
高校教師を定年前に辞めたあと、富士山麓十里木の山荘で、ワープロで編んだ『東北アジア世界史へのささやかな試作―朝鮮五葉松への旅』全六章。
2001年4月以降、パソコンで綴るホームページ『毎日更新ブナ林便り』での「この乱世世界史の日々瞥見」(ジャワハルラル・ネルー『世界史瞥見』を意識した)する営み。
これが私のラストワークであろう。
この作業を開始してから、はや十年。
その作業は、ある意味で、「いかさまの自由・平等・民主・人権」をひっくり返し、「もっと確かな自由・平等・民主・人権」を探し求めていく永久に続けられる観察と思考の営みであった。
それは、敗戦後わずか五年(1950)にして、傭兵としての対米従属の軍隊が復活させられ、朝鮮の戦争、ベトナムの戦争の「特需」で敗戦後の経済がうるおい、対米従属の保守長期政権が固められ、教育の反動的統制も進められ、いわゆる戦後史の逆コースが進む。
さらに、21世紀の最初の10年間(とくに9.11以降)の「自由・平等・民主・人権」を襲った嵐のすごさ。
満十年になる私の「毎日更新ブナ林便り」の発信は、この世界・日本を襲ったすさまじい嵐に対する、ほんのささやかな「日々の抵抗」の営みしかし、所詮“ごまめの歯ぎしり”にすぎない。
私の一応の仮説は、もう古くなり大分改訂を要するとは思うが、旧作である歴史教育者協議会編の『あたらしい歴史教育―2 世界史とは何か―』(大月書店、1991年)に収めてある『日本からの世界史―7 産業革命・市民革命世界史』に略記してある。
あまり読まれていないようだが、いわゆる「文部省」風な日本史・世界史の「指導要領」や「検定教科書」とはいささか異なる、第三世界からの見方を試みているから、普通の方には取り付きにくいかもしれない。
しかし、第三世界からの見方を必要とする今日、此の際、虚心にぜひ再検討していただきたい。
いま、振り返って「自由・平等・民主・人権」について、どう思うか。
まだ足が元気で自由に歩けるとき、比較史・比較歴史教育研究会で目良誠二郎さんと「自由・平等・民主・人権」について議論しかけたことがある。
彼は誠実に「自由・民主」は「普遍的」なものだと譲らなかった。
私は、それは欧米出自の理念で、第三世界から見て、そのまま「普遍的」だといただけないのではと反論したが、時間がなく、それはそれで終わってしまった。
16世紀のヨーロッパ・キリスト教勢力の世界進出以来、とくにフランスのいわゆる「市民革命」,そしてイギリスを先頭にする「産業革命」、そして「アメリカ合衆国の独立」以来の欧米勢力の世界進出と世界制覇以降、欧米出自の「自由・平等・民主・人権」は、彼らの錦の御旗として、彼らに占領され支配され従属させられていった諸民族・諸国家におしつけられ、占領と支配・植民地化を推し進め、肯定させる、いわば宣伝スローガンみたいな役割をもっていったのではあるまいか。
第三世界の国々や地域、民族・庶民からすれば、支配者・支配民族の「自由・平等・民主・人権」であるにすぎなかったのではあるまいか。
これは、第三世界の国々・人々が、第三世界が自らの独自な「自由・平等・民主・人権」を闘いとって行くための16世紀以来の長い長い苦しい歴史。
それはまだまだ終わっていない第三世界の歴史からみれば、明らかではあるまいか。
私たちについて、ふりかえれば、「アメリカ信仰」「フランス信仰」、一時は「ソ連信仰」「赤い中国信仰」の時代もあった。すべての幻想は敗れたのだが、内でみれば、「政権交代信仰」のほんの一時が最近のことであろう。
とくに私たちを占領し支配し従属させている,当のアメリカはどうか。
早くからアメリカ通の鶴見俊輔がいうように第二次世界大戦以降、とくに9.11以降アメリカは急速に全体主義化した。また、堤未果が指摘するように「アメリカから自由が消えた」。
例えば、ムスリムの米国人は明らかに不当な差別を受けている。国連の人権理事会は、はじめてアメリカの人権状況を審査するという。
さて、中国の人民網の、2010年10月27日号の次の記事は、そのまま鵜呑みにはできないが、第三世界の発言としては、ことの真実を相当程度突いていよう。(以下引用)
***
■西側のモデルをコピーすべきではない
西側の一部勢力およびこれに呼応する一部の者は長年にわたり、政治体制改革の提言にかこつけて、多党制と三権分立を柱とするいわゆる「憲政改革案」を絶えず持ち出し、西側の民主・自由・人権を喧伝し、人々の耳目を惑わし、中国共産党による指導と社会主義制度を攻撃してきた。総括すると、われわれは西側の政治制度を模倣すべきであり、西側の「政権交代」「三権分立」「議会制民主主義」は最良のものであり、世界各国に適用できる宝物だとする考え方だ。この種の認識は思想的に間違っており、行動上も有害だ。
西側の政治モデルが形成された背景は不名誉なものだし、コピーもできない。第一に、西側先進国の発展は、長期間にわたる大規模かつ衝撃的な歴史的強奪・掠奪を基礎に築かれたものだからだ。西側の学者の示す数字によると、500年間でアメリカ先住民3000万人がジェノサイドの犠牲となり、黒人奴隷500万人が無償労働力としてアメリカへ売られた。第二に、グローバルな生産・分配構造の中で、西側先進国は最多の利益を奪い取ってきたからだ。その発展は第三世界諸国の搾取を基礎に築かれたものだ。こうして築かれた富がなければ、いわゆる投票選挙制度も多党制も存在は難しかっただろう。
現在までのところ、西側民主制度をコピーして成功した第三世界の国は基本的にない。その重要な原因は富の欠如だ。利益の多元化した社会では、利害衝突が余りにも大きい場合、投票による選挙は効力を失し、利益配分を暴力によって解決するほかはないからだ。西側諸国で内部の利害衝突を縮小するには、国による高価な福祉制度によるほかはないが、この制度は世界中から搾取してきた莫大な資源と富を基礎にしている。この基礎を取り除けば、西側のいわゆる民主制度、うまく運営される市民社会または公民社会は、いずれも崩壊するだろう。例えば、05年にパリなどフランスのいくつかの大都市で発生した暴乱は、若者を中心とする大量のアラブ移民が就職難から社会に不満を抱いたことが主たる原因だった。その深いレベルの、最も直接的な原因を探ると、富の問題にいきつく。フランスの福祉制度では全ての移民を養うことはできないからだ。他にも、05年8月に米国東南部の比較的貧しいルイジアナ州とニューオーリンズをハリケーンが襲った際には、被災地で武装掠奪や強姦が多発し、救援部隊は装甲車に乗り込み完全武装で被災地入りするほかなかった。こうしたことは、中国では絶対にあり得ないことだ。
西側先進国は18世紀に始まり、現在わずか10数カ国しかない。その総人口は世界の7~8分の1、つまり10億人またはそれ以下だ。金持ちクラブ内の人口を増やすことは不可能だ。そのライフスタイルを世界中で通用させることはできないからだ。
われわれは無論、西側のいくつかの有益なやりかたや経験を含む人類文明のあらゆる成果を認め、かつ民主の実践の中で参考にするが、それをそのまま模倣しなければならない理由は断じてない。(編集NA9 『中国人民網 日本語版』2010年10月29日)
***
(以上引用終わり)
21世紀、「自由・平等・民主・人権」は、第三世界にとっても、わたしたちにとっても、当分 見果てぬ夢であろうか。
( 2011年を前にして 2010.12.04 記 )
画像:『自由をわれらに』(1931年-仏映画)
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