始まりの始まりも、今はじまったばかり【二】-(12)2012年10月19日 (金曜日)

2012年10月19日 (金曜日)

始まりの始まりも、今はじまったばかり【二】-(12)

 

【私のパレスチナ学習】
                

「1948年戦争」から29年経ち1977年11月横浜国際会議場で始めの『<パレスチナ問題を考える>シンポジウム』、それから4年経ち1981年11月日本大学法学部ではじめて学校教育者たちが『パレスチナ・アラブ・中東を考えるシンポジウム』開催、この二つの画期的シンポジウムの記録が、板垣雄三編『復刻版パレスチナ問題を考えるシンポジウムの記録』(第三書館、2012年)および 板垣雄三・吉田悟郎編『パレスチナ人とユダヤ人―日本から中東をみる視点』(三省堂.1984)-私のパレスチナ学習の出発点であった。

 私自身は、高校社会科世界史教師として、吉岡力さんの歴史教育研究所での板垣雄三三木亘の刺激で1974-79年にアラビア語・ペルシア語・トルコ語の学習を行い、横浜で開かれたシンポジウムの組織委員となり、「日本社会のパレスチナ問題観―教育の面から」という報告=問題提起を準備した。
それから五年おいた日本大学法学部でのシンポジウムは当時PLO駐日代表部のアブドル・ハミードさんのすすめもあり、高校世界史教師や板垣雄三、黒田寿郎長沼宗昭などに助けられ、初めての社会科および世界史教育者のパレスチナ・アラブ・中東学習のシンポジウムを成功させることができた。<パレスチナ問題は世界史―植民地主義とそれへの抵抗、帝国主義戦争と自立・共生・平和へ―の核心である>という確信が生まれ、根付いた。
今、2010年暮れからチュ二ジア・エジプトに始まる民衆決起―板垣雄三のいう「新市民革命」を見るにつけ、その確信が裏づけられたという感がある。
そして、そういう「新市民革命」に共鳴・共振する全世界の99%の民衆決起・異議申し立ての一環に、2012年3月11日の福島第一原発の事故に始まる福島の怒れる女性達を先頭にした歴史始まって以来、の全国的な民衆の怒りと異議申し立てがあることも偶然とはいえまい。
実は福島原発事故以前から本土ではない沖縄で沖縄人民の異議申し立て・日米政府への抗議運動が始っていたのである。
本土・政府および国民からする差別と無視・今回のオスプレイおしつけ。これは琉球処分・沖縄戦・戦後の沖縄処分と継続していたのである。対して、母なる海と大地・いのちと尊厳をとりもどそう・守ろうとする沖縄弧あげてのたたかい。本土もいまやようやく沖縄に眼をむけ、沖縄のたたかいから刺激を受けはじめているのである。
本土―日本にとって、沖縄はいわばパレスチナである。

パレスチナ問題はこのようにして極東の列島民衆をも含んだ新しい世界史の核心となりつつあるのである。20世紀後半以来アラブ諸国は、パレスチナを自分たちの体制をまもるための人間の盾としてきた。
 ここで、2011年に中東で起きた新市民革命を考えるための大事な着眼点をおさらいしておきたい。「新市民革命」という仮説を提起した学友板垣雄三の『これからの世界に向かって立ち上がる市民たち―十代の若い人たちに宛てた手紙』による。


◆革命は、米国の覇権とイスラエルの横車とを批判する運動の爆発。それを支え、それとこっそり手を結んで,生き延びてきたアラブ諸国の政府が、はげしい抗議の突き上げに揺さぶられる。だから、この革命は一国ごとの民主化より、世界の不公正な仕組みの変革をめざすもの。

◆そのように広範囲にひろがる政治変動が引き起こされる土台は、パレスチナ問題。それは、宗教や民族のあいだの紛争ではなく、植民地主義の支配対それへの抵抗、つまり欧米が殖民国家としてのユダヤ人の国」イスラエルをつくり支えるが、そのイスラエルによって排除・追放されるパレスチナ人が民族浄化に抵抗する、という重層の構図。

◆そのようなパレスチナ問題が生まれた根源にあるのは、ヨーロッパ(欧米)が歴史を通じて抱え込んできた反ユダヤ主義(差別・迫害)。ホロコーストの「償い」だと言って、パレスチナ人に犠牲を押しつけながら、ユダヤ人を隔離し棄民するイスラエル国家をつくる。この偽善のボロを出さぬため、欧米は、人工国家イスラエルを守る。イスラエルは中東で欧米の利益を守るための軍事国家としてニラミをきかす。

◆パレスチナ問題は、植民地主義を「仲直りと平和」や「民主化」の問題にすり替えて見せるバーチャル装置だが、パレスチナ人同胞の苦難を自分の苦難と感じる世界中のイスラーム教徒は騙せない。
そこで、イスラーム教徒をテロ容疑者に仕立てる「反テロ戦争」をグローバル展開する。「反テロ戦争」は根拠が危ういイスラエル国家の危険を管理するイスラエル防衛戦争であり、全世界を混乱に陥れ、パレスチナ問題の扱いを全人類に肩代わりさせて欧米は道徳的責任を免れる「自己破産」のための戦争でもある。
 この、脳みそをフル回転させないとわからないカラクリ、何度か読み返してもらえば、だんだん事柄が見抜けるようになると思います。わかってしまえば、次のような謎が自然に解けるはずです。それでもまだ残る疑問については、自分で調べ、考えてください。


*中東で市民の立ち上がりが、国を超えてひろがったのは、なぜか?
*パレスチナ問題が、全世界を巻き込む問題であるのは、なぜか?
*欧米の国々が、中東やイスラエルにとかく干渉がましいのは、
なぜか?
*米国とイスラエルが、やたらと戦争をしたがるのは、なぜか?

 民間教育団体の一つに歴史教育者協議会というのがあり、機関誌として月刊『歴史地理教育』を発行している。
私は戦後都立高校の社会科世界史の教師になり、高橋愼一委員長・小松良郎副委員長時代の歴教協の常任委員をしばらく務めたことがある、『歴史地理教育』1979年10月号にファトヒ・アブドル・ハミードの「現代史におけるパレスチナ人の歩み」が関場理一訳で掲載されている。
ファトヒ・アブドル・ハミード さんは、代官山にあったPLO初代駐日代表(現駐日パレスチナ常駐総代表部 General Mission of Palestine-Tokyo)であった。
これは1977年に設立されたが、PLOの財政難から1995年に閉鎖された。
しかし、2002年にアラファト議長のもとで海外拠点の見直しが進められ5大重要拠点として米.ロ、中、日、EUが挙げられ、2003年になり、約8年ぶりに再開。現代表はワリド・シアム駐日総代表部代表である。ファトヒ・アブドル・ハミード さんは、初代PLO駐日代表として、1977年から1984年まで駐日していた。この間、1981年11月にアラファト議長が日本に初来日している。「追悼 ファトヒ・アブドル・ハミード さん、君はパレスチナをみたか?」を寄稿された主婦長沢美沙子さんは、「ハミードさんは、PLOの闘士であり、政治家だったかもしれないが、実は、一人のジャーナリストだった」と伝えている。
ハミードさんは2000年1月14日永眠されている。
長沢美砂子さんの『略奪と喪失』は、2005年11月末パレスチナ―イスラエルに向かう。プライベートな旅でパレスチナは1999年春の家族旅行以来だった。
 以下 50358524―追悼 ファトヒ・アブドル・ハミードさん、君はパレスチナをみたか{寄稿:長沢美砂子「略奪と喪失(3)―ハミードさんと日本」を抜粋引用する。


「ファトヒ・アブドル・ハミード初代PLO駐日代表のことを皆、ハミードさんと親しみを込めて呼んでいた。
昨年末、ハミードさんの墓をお参りするために「神の丘」という意味をもつ町,ラマッラーにミセス・ハミードさんを尋ねた。-つづいて、ハミードさんの家族は今、ラマッラーの殉教者墓地、は省略する。次のハミードさんの人柄と日本での活躍を読む。
 坂井定雄氏(元共同通信記者、龍谷大学名誉教授)は次のようにハミードさんについて語っておられる。「彼の一生、人格は、優れたパレスチナの知識人、政治指導者の一人、戦士の一人として、いわば象徴といえるのではないでしょうか。あの穏やかな、しかし確固とした人柄は、まさにパレスチナ人です」と。
作家の李恢成さんは「若いときから哲学者の風格が漂っている人」と表現しておられたのを私は記憶している。そして、第一に親しみやすさと懐の大きさを持つ人だった。彼をよく知る人も高齢になっておられ、すでに他界された方が多い。
1983年末に日本を離れてから23年が過ぎ去り、ファトヒ・アブドル・ハミードという名前を全く聞いたことがない人も多くなった。
 ハミードさんの日本人との交流の広さは特筆すべきものがあった。経済界、政界、文学界、大学や研究所関係者、解放運動や平和運動の方々、報道関係の方々、写真家、音楽家たち。「オリーブの樹は燃えた」(『川崎隆司著作選集3』(ミネルヴァ書房)の付記にあるハミードさんの略歴紹介には、「当時、アラブ・イスラエル紛争に関心の薄かった日本で、精力的な活動を通じてパレスチナ問題の重要性を訴え、多数の日本人学者・知識人、市民の協力を得る」という一文がある。
 パレスチナ問題への無知識無理解・偏見が満ちる日本で、理解してくれる友人を得るために、あらゆる扉を叩いておられたという印象がある。中でも重視なさったのは報道記者の方々との交流であり、市民、政治家、知識人への啓蒙活動であったと思う。
その有力な手段としてハミードさんが見つけられたのは、情報月刊誌を自ら発行することであった.『フィラスティン・びらーでぃ(パレスチナわが祖国)』という月刊誌は、たしか1980年初頭に創刊され、1983年12月にハミードさんが日本を去るときに休刊(→廃刊)になった。
 4年間だけだったが、その意味は大きかったと思う。前田慶穂氏(元金沢大学教授、パレスチナ問題研究のパイオニアの一人、現在(89歳)は、「ハミードさんの日本での業績の最大のものは『フィラスティン・びらーでぃ』という月刊誌です」ときっぱり。「単なるお国自慢とか大使館の広報と違って、パレスチナ問題を客観的に扱っていて、しかも私を含めて様々な人がそこに参加するという、開かれた参加型の編集がされていましたね。ハミードさんは名編集長でした」と述懐される。
 アブドルハミード氏と刊行された『びらーでぃ』もともとジャーナリストから出発して'外交官’となったハミードさんが、遺憾なくその能力を発揮したのは国際政治動向と社会の分析・解説であり、編集の仕事だった。
1980年代、シリアの新聞『アッサウラ』(革命の意)の編集長の地位を捨ててファタハに入党すると、ニューデリー、ついで東京でPLO事務所の創設をまかされた。まず市民に訴え、世論を動かすことを心がけられた姿勢にはジャーナリストの誠意が生かされていたのだと思う。
 駐日代表時代の最大の歴史的出来事は、1981年11月のアラファト議長初来日であろう。日本政府は正式にPLOをパレスチナ人民の唯一の代表と認めたわけでも、PLO駐日代表事務所(代表部)に外交特権を与えて大使館並みの昇格を約束したわけでもないが、とにかく日本独自の中東外交を行うというなみなみならぬ意思が働いていたのは確かだった。
もうひとつの在日中のハイライトは、1982年のイスラエルのレバノン侵攻を民衆の立場で裁こうと小田実氏と板垣雄三氏、芝生瑞和氏らを中心とした日本の知識人と市民が行動を起こして実現した
 1983年3月末の≪イスラエルのレバノン侵攻に関する国際民衆法廷≫(IIPTIL)であろう。法廷で証言する人を含めて来日した外国人はざっと30人ほどになるだろうか。
ボランティアの日本人はその数倍ぐらいになると思う。趣旨に賛同した世界の知識人は、ラムゼイ・クラークチョムスキーを含め数十人。翌年、この国際民衆法廷の記録は英文と和文で三友社出版から出版されたが、すべてボランティアの力であった。
PLOはそれを主催したわけでもスポンサーになったわけでもないが、ハミードさんの日頃の活動の蓄積が背後にある。
1984年12月の離日の挨拶パーティには、各界から300人もの友人が駆けつけてくれた。初めて寂しく来日した8年前のことを思い浮かべてであろう、感無量になったハミードさんの横顔が思い出される。」以上で、長沢美砂子さんの「略奪と喪失(3)」-ハミードさんと日本-からの一部引用を終える。
『フィラスティン・びらーでぃ』のバックナンバーは数年前の引越しの際、蔵書整理のとき、うっかり廃棄してしまったので、やむを得ず調べてみたら国会図書館と成蹊大学図書館に全冊所蔵されていることがわかり、近くの成蹊大学図書館に調べに行った、以前と違い施設完備の立派な大図書館になっている。

合本されている『フィラスティン・びらーでぃ』を調べてみたら、私の文章は三篇掲載されていた。
1981年No.15に「イスラエルはユダヤ人問題を解決できるか?-ディアスポラ・ユダヤと国家・シオニストの限界性・孤立と退廃のユダヤ国家・隠蔽されたものは何か・不鮮明なイスラエル像―」と1982年No.27に「アジアの東の端から西の端へーアラブ理解と歴史教育の課題―歴史を書き直す・ひとつの問題提起・全人類史の課題に向けて」と1983年No.36「『パレスチナ社会発展史入門』を読んで―国家・民族・宗教の虚像をくだく」「何々人・何々国の世界史」、「来るもの、侵すもの」、「すべてを溶け込ませたパレスチナ史」、「パレスチナ史は主体的に歴史を読みとる眼をひらかせる」以上3篇をみつけた。
残念ながら、時間を限って調べたので、たしか社会科教師たちがそれぞれパレスチナ問題に生徒とともにどう対面したかを語りあった、私が司会した座談会の記録があったはずなのに見つからなかった。
この次の宿題にしたい。

 2001年にPCで≪ブナ林便り≫を毎日更新ではじめて以来、宿題のパレスチナ問題の学習・追究をどう続けたかについては、またいずれまとめてみたいし、皆さんもトップページであたっていただきたい。

               2012.10.17 よしだ ごろう

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始まりの始まりも、今はじまったばかり【二】-(11)2012年9月18日 (火曜日)

2012年9月18日 (火曜日)

始まりの始まりも、今はじまったばかり【二】-(11)

    
 

 9月18日、今日は柳条湖事件でいわゆる満州事変-日本の中国への侵略戦争開始の日。
中国にとっての重要な国恥記念日である。解禁で中国船団が大挙東シナ海に出漁、日本が一方的に国有化を決めた尖閣=釣魚島に今日明日迫ると報じられている。
(漫画図版上掲の中国新聞漫画は、石原都知事の煽動で国が20億5000円で購入し国有化した無人島嶼。日中両国それぞれが領有を主張しぶつかりあっているのだから、お互いに「実効支配」の争いに走ることなく、しばらく棚上げしてゆっくり話し合うのが、外交のすじ。一方的な日本の軽挙が漫画で風刺されるようなにっちもさっちも行かない危機に日本を追い込んでいる
。(漫画図版)そして今怒れる中国漁船団のツナミの来襲。陸地全国各都市での怒れるデモ隊。実は、日本の人民にとり竹島=独島や尖閣=釣魚島はどうでもよいことで、大事なのは福島であり脱原発なのだ。土地アサリ・資源アサリの金儲け亡者のみほんとは大事なことが、大政翼賛会の報道でだまされ、都合の悪い歴史は忘れられ隠されてきた。日中友好40年に戻すために。

歴史教育者・歴史研究者がこの際考えてほしいこと。

1.あの戦争の結末と始末のつけ方の問題。戦争が日本史のいうように日中戦争・大東亜戦争に終わらずに反フアシズムの世界戦争に転化していたことそこで出た、ヤルタ会談(協定)ポツダム宣言対日講和--そこで決められた日本の国境・領土の確定。

2.現在日本の国定教育指針ではその日本の国境・領土の確定とは異なるものが強制され学童はそのような地理・歴史・公民教育を義務づけられていることこれは官許の地図・掛図を見ればわかる。

3.こうして覚えこまされたある意味で歪んだ国境観。領土観を高校以上の段階を受け持つ教師はどうその国境観・領土観をほぐし疑問をもたせ自ら正当な認識を形成できるように根気よくしむけるか。この場合至難なことであるが、その教師が国家・政府の見解にそむくことにあるのだ。

4.いわゆる巷間で叫ばれる「正しい歴史的思考」というものが本物であるかどうかが試されよう。

5.いま日中友好40年に戻ろうとする歴史教育者・歴史研究者は次の平常学習ぐらいしておかねばならないのではないかと思う。


孫崎享『戦後史の正体』創元社2012年。
孫崎享『転ばぬ先のツイ』メディアパル2012年 その196~228頁くらいは。
●井上清の尖閣は日本領土かの論考(ネットにあり)と彼が属していた革新党のちがう尖閣観。
●官許歴史・地理でこれらの問題は正しく扱われているか。
●一般国民の国境・領土観 それはどこから注入されたものか。
6.いずれにしろ官許歴史。地理の洗礼をうけてきた教育者・研究者にとって日中友好40年に主体的に対してゆく道は、口で言うよりもそうたやすいことではなかろう。
●浅井基文の中国新聞等の論調
●中国人民日報日本語版の釣魚問題をめぐる諸論考
これらに教育者、研究者としてちゃんと目を通しているかどうか。

         老輩からの苦言として 2012.9.17

*老輩の苦言 日中国交 40年を取り戻すために【追記】

領有問題の論議の材料がほぼ出揃った。
片や五十嵐仁<私は尖閣諸島の領有権は日本にあり、中国の言い分は不当で、暴動や襲撃などは許されないと考えています。>

しんぶん赤旗2012.9.22<尖閣諸島日本の領有の正当性を主張/志位委員長、中国大使と会談>この二つは、大体近現代日本国家の論理。主張と同じうする。
これに対して人民日報日本語版2012.9.19<日本側史料は釣魚島が中国に属すことを証明している>
人民日報日本語版2012.9.20 <世界的に名高い学者らが日本による中国領 土主権への侵害を非難

浅井基文21世紀の日本と国際政治2012.9.22
<尖閣に関する日本の「無主先占」の主張への疑問─「無主先占]を否定する日本側公式文書の存在。

-日本共産党の見解に関する質問と私の答え。>─
人民日報日本語版ふたつと浅井基文の論考はわたしPINUSKORAIEのツイッターで発信している
─これに孫崎享のツイッターが加わる。ひとつは孫崎の調停案外交交渉の際の具体的提案のツイッタ ーそれに2012.9.22<日中関係:中国中央電視台李支局長急遽来る。私の東京新聞インタビュー「紛争を避ける知恵」をすでの報道したが、自らもTV取材あいたいとしてきたもの。「両国にとって紛争を避けることが是非とも必要。その中、先生の考えを中 国に広めたい」。私から周恩来、鄧小平の知恵(「尖閣棚上げ」)の継承大事と説明。>以上、亡き井上清の論考を含めて判断の材料がほぼ整った。

自立と共生、この大転換期の世界史教育世界史研究を志す学友学生関心ある若者たちよ、一つ自分の判断を創り出して見てはどうか。


          2012.9.23 老輩の苦言の追加として

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始まりの始まりも、今はじまったばかり【二】-(10)2012年8月20日 (月曜日)

2012年8月20日 (月曜日)

始まりの始まりも、今はじまったばかり【二】-(10)

         

 最近、孫崎享さんが『戦後史の正体』(創元社)と『転ばぬ先のツイ』(メディアパル)の二冊の本を出した。
どちらも薦めたい本だが、後者は変わった本で孫崎さんがツイッターで書き溜めたものを編集者が目をつけ、原発・TPP・日米同盟・尖閣・北方と分けて、漫画入りで面白く編んだ本である。

 ツイッターを始めたのでは孫崎さんは大先輩だが、私もおくればせながら孫娘の指導でツイッターを始めたのが2011年2月2日「3.11」の一月ほど前、それからつぶやかなった日は5日だけ、2012年8月17日で15、646件、『毎日更新ブナ林便り』でとりあげたものの題名とアドレスの紹介が主で、たまに感想をいれるぐらいだからフォロワーはそれほど増えないが、ここのところ大体三日で一人ぐらいのペースで、今405人になっている。
筆名はPINUSKORAIE(高麗松)である。
大体一日に40通から50通ぐらい、近ごろはやはり孫娘の忠告で感想をわりといれるようになった。

 さて、愛読している仙台の大沼安史さんの個人新聞『机の上の空から』の今日の分、「みんな楽しくHappyがいい」に、<“8.1福島県民の意見を聴く会全書き起し!>福島市の会社員の遠藤さんが言った、「責任が取れる人たちの手で、きちんと廃炉作業をしていかなければならないし、後世にね、きちんと安全な形で残していかなければならない。私はそういうふうに思っています。・・・・分りましたか」。
この意見はパートⅠ:「命を削ってつくらなきゃならないエネルギーなんておかしいでしょう!」→もうひとつ伊達市芳賀さんの意見――パートⅡ「今の私たちなら正しい選択ができるんだから・・・」→やはり福島県の市民からはちゃんと具体的な意見がだされている。ツイッターに戻ると、今日8月6日の孫崎享さんは官邸前デモについて、3つのツイートでこう書いている。

(「2012年と1960年――国民の怒りが政権を打倒する日」
(対談・孫崎×高橋洋一×長谷川幸洋)、本日発売『週刊ポスト』、「今回のデモと60年安保をどう比較するか」)

<孫崎:60年安保は組織化されてた学生は用意されたバスや電車でデモに行き労働者は組合活動として参加し、新聞等のメディアも支援ある意味、反体制という体制に乗せられていた。一方、今のデモは原発再稼動反対から始まり何かおかしい日本を動かしているものが何か違うぞ、と個人が判断している。だから一人一人が地下鉄でふらっと来て, デモに参加してふらっと帰っていく、かつてのように熱に浮かされて感じでない。参加者はどちらかというとクール、誰かに動かされることを最も嫌う人達が個人の判断で加わり,発言していく。デモという形式は同じでも何者かに操作されているのではなく、動かしている力が個人個人の判断、この流れはどこかで打ち切りになることはない。>

 板垣雄三が、とくに2011年から2012年1月にかけて、中東から世界各地に異議申し立て・抗議する市民として立ち上がった市民たちーさまざまな媒体に記録されたり踊ったりした映像・音声・メッセージ・プラカード・歌.・詩などから、かれらの表情・身ぶり・行動・意見・要求・願い・未来像を手がかりに整理してみて、板垣は、きわだった特徴があることを悟り、その後はその見方をたしかめる検証作業をすすめた。そして、項目別にならべてくれた。
これはすでに2012年5月3日(木曜日)の「始まりの始まりも、今はじまったばかり【二】―(5) 」で紹介している。少し長くなるが大事なことゆえ再録させていただこう。前に紹介したものは『DAYS JAPAN』2012年4月号掲載のもので、いくつもの誤りがあり、のちに板垣自身の正文がPDFで掲載された。
その板垣正文による。

●“サティヤーグラハ”(サンスクリット語起源の言葉、真理への執着・こだわり=愛と勇気)の運動によって、世界変革と自己変革を同時並行ですすめる非暴力の不服従をつらぬき、不正な権力に身をさらして抗議し抵抗する直接行動。この“サティヤーグラハ”は、20世紀初めマハートマ・ガンディーが南アフリカやインドで指導した解放運動において、インド人ムスリム同砲と協力する中から編み出した抵抗方式でした。暴力を絶対に使わないのは、すぐ暴力にはしるよりはるかに勇気が要る,ゆたかな愛の行為だということ、わかりますね。自分(の生き方)を変えることによって世界(のあり方)を変えよう、人間の倫理と世界の革命とを組みあわせよう、というのです。

●ネットワークとパートナーシップという組織原理で社会を築く、指揮・命令したり管理・統制したりする上下関係ばかり増やしていく社会に反対。もともと、イスラームの教える“タウヒード”(多即一、ちがいを大事にすることこそ一体性の土台)・バラバラでいっしょ・多様性あふれる宇宙の創造主を信じる)の考え方が ネットワークを世界的にひろめた歴史がありました。ヨコに(対等に・多角的に)つながり合いと相乗作用をひろげていく個人やグループのおのおのが、いつも「まんなか」性と「はじっこ」性とを同時に発揮するようなネットワークのはたらきを、これからは市民自身の手で強め{国や企業に踊らされるのではなく}世界全体で活力をもつ地域社会をめざすのだ、という方向が示されます。革命もこのやり方ですすめようとします。

●「正義・公正」と「安全・平和」を実現するため、たゆまず努力する。侵されつづけた「人間の尊厳」{人間存在の重み・一人前の誇り}・「自由と自立」・{多様性の尊重と連帯」は、気を緩めずに回復しつづけなくてはならないという感覚でしよう。そこで、植民地主義・人種差別・軍国主義{戦争と切り離せない経済・社会のしくみ}と、それらを丸ごと根っこで支えているオトコ中心主義とに、つよく反対することになります。欧米中心主義や歪んだ資本主義が、軍事力の威圧、金融操作の手品、国際機関の決定だという締め付け、マスコミの世論操縦に支えられて、資源や市場の不公正な支配にしがみつき、競争と格差を拡大して人間の生きる権利と生きがいを踏みにじり、カネ儲けのためなら生命も生態系も環境も破壊して平気、という異常な世界にしてしまったのでした。こんな迷走を正そうとする批判に対して、隙あればつけこみ騙しと妨害、気を許せないのです。

●環境との共生・共存する環境を守り育てる世界と自分を変える市民決起のなかで、いのちを大切にし、生物の多様性・文化の多様性・宇宙の多様性を尊重し、「少数者」を大事にすることが、あらためて重要視されるようになりました。生物・無生物あわせて、それぞれに違う多様な「個」が結びあい、支えあいケアしあう深い関係の総体である自然。アダムの子孫たち(バヌーアーダム)=人類は、自然への畏敬のこころをもって、環境共生に連帯し、影響をおよぼしてきた人間の責任を自覚しなおすことが強調されるのです。宇宙の「公益」に反した操作をわざとしてはならない、と。ユダヤ教やキリスト教の聖書の創世記には、人間は地上のものを「支配する」と書かれています(1章28節)。しかし、イスラーム教のクルアーンでは、人間は自然を「信託」された{お世話を引き受けて預かったものだ}が、不正や愚かしさがバレてしまうとも書かれています(33章72節)。これらの言葉をどう理解するのかも、いま問われなおす問題なのです。

●修復的正義{関係者みんなで協力して「正義」をうち立てなおすこと}を実践する何が真実か徹底的に調査し明らかにする仕事を通じて成り立つ和解や、反省・自己批判をつうじて実行されるリドレス(redress 英語でリ―もとのように・ドレス―まっすぐにする)から、是正・補償などが追究されます。正義をなしとげるには、ただ悪者を打倒して権力を奪い、排除・抹殺すればよい、とは考えず、悪には正義を明らかにするためにこそ悪として存在する理由があった、という風にも考えようとするのですね。
 新しい革命の特徴点は、まず、2011年1月~2月チュニジアの市民たちの革命への実践行動と熱望とから見分けられたものでした。ところが、共鳴・共振して世界にひろがった市民決起のなかでも、同じ特徴点を発見することになりました。また、大震災のうえに福島原発事故がつけ加わる苛酷な現実と向きあうことになった2011年の日本の社会でも、市民の動きには間違いなく共通する志向性が確認できたのです。それは、カイロのタハリール広場で脈うつ思想と響きあうばかり息づいていました。それはピタリと一致する、抑制のきいた言葉としても語られ、人々を感動させました。
 2011年9月19日、東京・明治公園の「さようなら原発」集会のステージから、ハイロアクション福島原発40年実行委員会の武藤類子さんがおこなったスピーチが、それです(武藤類子『福島からあなたへ』(大月書店、2012年1月、3~33頁)。以下は、抜き書きです。
「……この事故によって、大きな荷物を背負せおわせることになってしまった、子こどもたち、若い人ひとたちに、このような現実をつくってしまった世代として、心から謝まりたいと思います。ほんとうにごめんなさい……福島県民は核の実験材料にされるのだ。……私たちは棄てられたのだ。……
「私たちをばかにするな」「私たちのいのちを奪うな」……私たちはいま、静かに怒りを燃やす、東北の鬼です……私はこの地球という美しい星と調和した、まっとうな生物ものとして生きたいです。
……どうしたら原発と対極にある新しい世界をつくっていけるのか。……だれかが決めたことに従うのではなく、一人ひとりが……本気で、自分の頭で考え、確かに目を見開き、自分じぶんができることを決断し、行動することだと思うのです。一人ひとりに、その力があることを思い出しましょう。私たちはだれでも変わる勇気をもっています。奪われた自信を取り戻しましょう。……原発をなお進すめようとする力が、垂直にそびえる壁ならば、限りなく横に広ひろがり、つなげていくことが私たちの力です。……怒りと涙を許しあいましょう。……手のぬくもりを日本中に、世界中に広げていきましょう。……」ここには、「人間の尊厳」や「世界変革と自己変革」の結びつきなどという言葉は、出てきません。でも、日本の社会が向き合う現実のなから、武藤類子が力強くも美しい日本語で結晶させた実践課題は、私が新しい市民革命の特質として整理していたことと、あまりにもしっくりとかさなり合うではありませんか。いま日本で、「いのちを奪うな」をもっとも敏感に、するどく、はっきりと要求して立ちあがっているのは、女性たちです。収束しない原発事故のもとで放射能汚染の危険が高い地域と、基地負担が軽くなるどころか犠牲を背負わされるいっぽうの沖縄とでは、ことにそうです。オトコ中心主義への批判が新しい市民革命の目玉だということが、日本でも浮かびあがっています。≫

以上、板垣雄三が仮設した今の世界にひろがる新市民革命の特徴は最近の日本各地域の市民の変化のなかにいろいろはっきり現れだしているといえるのではなかろうか。

                     (2012年8月17日朝)

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始まりの始まりも、今はじまったばかり【二】-(9)2012年7月14日 (土曜日)

2012年7月14日 (土曜日)

始まりの始まりも、今はじまったばかり【二】-(9)


2012年6月29日金曜日、霞が関の首相官邸前の原発再稼動反対の市民デモは20万人を超えた。畏友目良誠二郎は夫婦ともどもこのデモに参加し、その感慨をこう歌い、デモに参加できなかった私たちにも伝えてくれた。
               

◆目良誠二郎2012年6月29日日々歌ふ

停滞の長きにあれど 列島に抗ふ民の甦りたり

怒りもて十数万の文字通り 市民囲みぬ官邸を

組合旗政党旗なし官邸を 無数の市民怒り囲みて

投石もアジ演説ももはやなく 自ら集ふ無数の市民は

サイカドウハンタイ叫び 幼児まで親と歩みき違和感もなく

つれあひと吾ら二人も加はりぬ 抗ふ民の数多のなかに

晶子聞けつひに来るか 列島に待ち焦がれゐし 山の動く日

◆広瀬 隆は<6月29日は歴史に残る日本人決起の日となった>と書き、≪正しい報道ヘリの会≫は上空からのヘリ空撮で甲子園を埋め尽くす観衆の四倍の市民がペンライトをりかざす空前の情景を世界に報道した。かくて金曜日は首相官邸を怒れる市民が囲み異議申立てを叫ぶ日、霞が関オキュパイ抵抗行動の日となった。

◆≪田中龍作ジャーナル≫は翌週金曜日7月7日の報道でこう書いている。
<方々から駆けつけた参加者で枠の中は一杯になった。宮崎県から飛行機で訪れた男女2人組は「前回(6月29日)の集会をネットで見て居ても立ってもいられなくなって来た。歴史を変えるために来た」と頬を上気させた>。はからずも「歴史を変えるんだ」という言葉が吐かれたのだ、<山は動いた>。

◆金子 勝さん(@masaru_kanekoはツイートする。<松下東京農工大学教授による「紫陽花革命」の分析。シングルスローガン、動員図式はなく、幅広い年齢層と子連れの母親の参加、ソーシャルネットワークと実況中継、警察とのいざこざがない、など。市民参加の新しい風です。今晩には雨がやむといいと思う。http://blog.goo.ne.jp/nazohige

◆また、<昨日(7月6日)、雨にもかかわらずたくさんの人がカッパや傘をさして官邸前の抗議行動が行われた。紫陽花ですから雨ニモマケズ…。 http://goo.gl/TqLUA >。
<広瀬隆氏の呼びかけで、カンパでヘリコプターを飛ばし撮影するのも継続されるようです。 >。
<官邸前の抗議行動は少しも衰えていません。主催者発表で15万人。警視庁調べは1万1千人→1万7千人→2万1千人と増えています。坂本龍一さんも参加しました。http://www.asahi.com/national/update/0706/TKY201207060626.html>。「これからも参加します」という人が多い。>。

◆頭をかすめる情景がある。政治権力は警察やマスコミを使い、反原発を唱える人々を極左暴力集団扱いしてきたという。左翼といわれる勢力が反原発を自らの運動の“道具”に使っていたこともあるのだろうか? だが、3.11-福島の事故を経て、局面は大きくかわった。普通の父ちゃん、母ちゃん、お兄さん、お姉さんが、気軽に「原発はいらない」と口にし、集会やデモに参加するようになった。

◆そして、こういうことも起こった。大飯原発のゲートの前に6月30日から7月2日未明まで集まった庶民たちは最後まで非暴力で機動隊になぎ倒された。機動隊がジワジワと押し込んでくると、女性たちは天に祈りを捧げ始めた。また、こういうことも起きた。機動隊が増強されると、いのちのシンボルである男根が登場した。神社の御神体らしく黒光りしていた。反対派がオキュパイした一角では{命を守れ」のシュプレヒコールが繰り返され、生命創造のシンボル男根の御神体が登場し、祭りだ。パーカッションの情熱的なリズム。NY中心に全米をまきこむ“Occupy”のノリだ。「再稼動するんだろうが、みんなの目が変わるまで(反原発運動を)やる」、京都から駆けつけた母親はケレン味なく言った。

◆もうひとつ。7月7日夕、福島を訪問した野田首相を県庁前で待っていた女性たちの姿があった、「お話がしたい」と。が、警察官に阻止された。三春町の武藤類子さん、東電と政府を刑事告訴している告訴団長は言った。「野田さんは何しに来たんだべ。福島県民の声をちゃんと聞かず庁舎の中に入ってしまうのは、バカにされてるみたいだ。再稼動は正気の沙汰とは思えない。福島の事故が大変な事故だという認識がないのではないか。再稼動は福島の事故をなかったことにしたいということ。私たちは本当に怒っている」と、郡山市議会の駒崎ゆき子議員はいった。                               
                      
                      (2012年7月8日)


『参考』
目良誠二郎 「自立した『普通の市民』による『非暴力直接行動』をも含む
『非暴市民的抵抗(不服従)』について」 非暴力による平和を

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始まりの始まりも、今はじまったばかり【二】-(8)2012年6月18日 (月曜日)

2012年6月18日 (月曜日)

始まりの始まりも、今はじまったばかり【二】-(8)

「始まりの始まりも今始まったばかり」の 最後の文章 
         映画『道─白磁の人』を薦める 私にも見果てぬ夢がある
        吉田 悟郎 (旧制成城高校新聞部OB)
 

私は2008年7月16日付で、『ある編集者の歴史 その9』に「朝鮮五葉松の目線で東北アジアを巡る」という文章を投稿したことがある。
鶴見良行の名著『なまこの目』にあやかった連作を20世紀の85年代から始めて90年代にかけて富士山麓の十里木の山荘でワープロでつくったものである。

2000年4月以降はパソコンのネットを借りての連作の補充を試みた。
私が80歳の手習いでパソコンをはじめたのも、こうして完成した連作『朝鮮五葉松への旅─東北アジア史のひとつの試み』(目次・序・一~四話・むすび・こぼれ話1~4)を、どうにかしてネットで披露したいという思いからであった。
畏友目良誠二郎さんがその友人にワープロのフロッピーをパソコン用に変換する作業をすることを頼んでくれたのである。北海道の高橋延清さんの詩にある。

「森にはなにひとつ無駄がない
植物も動物も微生物もみんな連なって居る
一生懸命生きている
一種の生き物が森を支配することないように
調和の世界に森に美もあり愛もある
はげしい闘いもある、だがウソがない」
            ―高橋延清『どろ亀さん』より―

 私は東京近辺から国内さまざまなところに実在する朝鮮五葉松を訪ね、本・雑誌・テレビ・映画などで朝鮮五葉松の痕跡を捜し求めた。こうして完成した連作は、いまはネットのなかで眠っている。
孫娘のあやち・クローデルが、彼女の発案で『吉田悟郎の ブナ林便り・転』というサイトをつくり、そのなかに「朝鮮五葉松への旅」全編 を収録してくれたし、GOOGLE検索で引けばそれぞれ読むことも出来る。
この松は、今の日本では珍しくなったが、昔は日本を含めて東北アジア世界全体にわたって国や民族の境を越えて生き続け大きな松の実を美味の食料として人々に賞味されてきた。

 私の連作の第一話は、「朝鮮半島を緑に―朝鮮五葉と淺川巧」である。陶芸家沈寿官さんは言う、「植民地支配の暗黒時代に清流のような日本人がいたことを知ってほしい」。
淺川巧は山梨県出身荒廃した朝鮮半島の山野を再生しようと朝鮮総督府林業試験場で働き、自然に学び露天埋蔵法を発見、朝鮮半島の癌であるはげ山を緑化する突破口を開く。
また白磁など朝鮮の優れた伝統陶芸の価値を再発見、美術館建設にも尽力した。
 言葉を覚え、白磁は青磁と違い民の用の具としてどの民どの里でもざらにあり、その美しいかけらもどの家どの里にも埋もれていたのです。朝鮮の人々と差別なく付き合い、40歳で亡くなった。柩をかつぐため多くの村人が葬儀に参加した。
墓は今も京城郊外清涼里、現ソウル市 東大門区 マンウリにある。
 
柳宗悦は淺川巧を追悼する雑誌に「あんなに朝鮮のことを内からわかっていた人を私は他に知らない。本当に朝鮮を愛し朝鮮人を愛した、そうして本当に朝鮮人から愛されたのである。」と書き、淺川の死を「取り返しのつかない,損失である」と書いた。25、6年前に十里木山荘のワープロで打った連作『朝鮮五葉松』第一話「朝鮮半島に緑を―淺川巧と朝鮮五葉」に次のような箇所がある。<江宮隆之氏の小説『白磁の人』に次のようなくだりがある。
 <だが、この半島巡り(種子採集の山歩き)は巧に種子採集とは別に、朝鮮人の暮らしの実情を教えてくれることになった。
日本に併合された明治四十三年(一九一○)以来、吾がもの顔で闊歩する日本人の中で朝鮮人は小さくなって暮らしていたのである。
同時に、朝鮮の山々が父祖伝来の入会権を無視されて日本人の個人所有になっている事実をも目の当たりにした。日本に併合される前には、朝鮮の山はその多くが共同利用地となっていた。無主公山─ムシュコンサンと呼ばれて、個人所有者こそいないものの、共同で入会権を持つ山である。
ところが軍用木材を必要としていた日本は傀儡の朝鮮政府(韓国政府)に「森林法」を公布させて、その無主公山を国有林とした。その後に日韓併合を果たしてそのまま大日本政府の国有林とすり替えたのであった。
朝鮮の人々は、共同利用地としての入会権を失った。
朝鮮総督府は、こうしてほぼ簒奪に等しいやり方で手に入れた朝鮮の山々を今度は「朝鮮特別縁故譲与令」というおかしな名目の、分ったような分らないような名称の法令によって、日本人や親日派の一部の朝鮮人地主などに分け与えてしまった。
新地主たちは、軍用材などの需要に応えるために、与えられた山林を乱伐していった。巧が林業試験場に雇われたのは丁度この時期であったが、そんな事実を知っていない。それだけに実情を知らされるにつれて巧の驚きは深まる一方であった。冠岳山という山の麓では老僧がこう話した。>
江宮の小説で脚色されているのは、三幕寺の老僧のことばだが、草風館版『淺川巧全集』282~283頁の淺川巧の原文から拾いなおしておく(→全集中の「窯跡巡りの一日」)。

< 以前はこの辺一帯は立派な森林であった。それは寺で保護していたのでよかったが、総督府になってから取り上げられて、寺持ちの森林は寺の周囲僅かの部分に限られたので、この頃は寺では薪にも不自由する程になった。
今、この山は日本人の金持ちが独りで手に入れて経営しているが、年々荒れるばかりで、有名な冠岳山の松茸も近年は寺の付近だけにしか生えない>。

 巧は、王子製紙の社長の晩餐会に招待された夜の日記にこう記している。
<彼らはこれから朝鮮の国境の森林をねらって居ることは明らかだ。
北海道も彼らによって裸にされた。樺太だってもういくらも余さないだろう。
それでこれからは鴨緑江上流から西比利亜に見込みをつけて居るだろう。
・・・兎に角あんな工業は森林を荒らすにきまって居る。此処十数年で朝鮮の森林をも松毛虫の様に食ひ尽すであらう。
製紙事業は今の世に必要にきまって居るから利用するのは一向差支へないが、これにともなふて跡地の荒れない様の伐採法と森林が永続する様の造林法が実現されることが必要だと思ふ。>
(『淺川巧全集』草風館版、48~49頁)


淺川巧の夢─朝鮮半島を緑の半島にという夢は、朝鮮五葉松の露天埋蔵法の発見、その普及の開始。それは植民地として朝鮮を支配し収奪する日本帝国の政策とぶつからざるを得なかったであろう。
 朝鮮総督府、それは淺川らの上司であった。そして日本の軍隊・警察の横暴、金持ちなど日本人や一部親日朝鮮人らの専横、朝鮮の自然の軍事的破壊と利用、王子製紙などの森林乱伐とその後の手当ての手抜き等、巧の嘆くこと、さぞかし深かったであろう。
彼は1931年に急性肺炎でなくなり、戦争下の朝鮮と朝鮮人の命と運命を見ないですんだのは、むしろ幸いだったかもしれない。
江宮隆之が書いた『白磁の人』を原作にした日韓協力の映画『道・白磁の人』が封切られている。明日日曜日、大泉のTジョイで上映しているのを早朝見に行く。
 日韓共同制作の映画『道・白磁の人』を見た。
朝鮮五葉松がどう取り上げられているかに関心があったが、はじめからおわりまで―気づく人はすくないかもしれないが―朝鮮五葉松が出てくるので、大いに満足した。
林業試験場の技手として淺川が朝鮮人の同僚かつ親友とともに山道で朝鮮五葉松の種子をさがして拾い集めている場面、試験場の苗圃でみんなが働いている場面、自然法に学んで淺川が露天埋蔵法を見というか開発する場面、彼が植えたであろう朝鮮五葉松の前に臥せて松をいとおしむ場面、解放・独立回復後釈放された淺川の親友─彼から淺川はハングルを学び、朝鮮人の暮らしや心を学んだーが、夭折した亡き淺川を偲び、やはりその五葉松にひれ伏し泣き叫ぶ場面。どこかで淺川が植えたという青瓦台前の「ダイショウ松」も出てきた。
映画を見たあと、“Tジョイ大泉”のショーウィンドウにかざられていた映画制作委員会事務局長をつとめて映画の完成まで紆余曲折の苦労をされた小澤龍一さんの書いた『道・白磁の人 浅川巧の生涯』を購入して一気に読了したが、それにはチョウセンカラマツとあって「朝鮮五葉松」とは注意していなかった。

私の筆名。ツイート名PINUSKORAIE (朝鮮五葉松=高麗松の学名)である。

小澤龍一さんの著書は前半部が淺川兄弟の生涯であり、後半部分の2004年以来の映画制作の苦労話が書かれている。読み応えがある。
映画はぜひ自分で見ていただきたい。
少し印象に残る映像をあげれば、淺川の故郷の風土の一端、ナシの樹、遠く富士が見える、韓国・朝鮮の風土、村人・町人、物売り、こじき。そして朝鮮総督府とその時代の朝鮮の街並み(セットだろうが)、三一運動とその鎮圧 日本憲兵が象徴する帝國・日本人の専横、関東大震災時の朝鮮人虐殺、帝國の崩壊と独立回復など。帝國を背後に踏みつけるものと踏みつけられるものの暮らしと心の越えがたい格差、これはいやというほど味わわされよう。とにかく、淺川巧を主人公にしたから、はじめて描けた作品であろう。

<民族の壁を超え時代の壁を超えて生きた人>がこの映画で完全に描ききれたとはとてもいえない重く凄惨なむごい「日韓強制合併」実は「朝鮮併呑」の歴史であったのだ。しかも、その悪行、ひどい恥ずべき歴史はいまだ清算されてはいないし、朝鮮・朝鮮人差別は在日差別を含めて根強く今日の日本人に残っている。淺川兄弟の生きた時代はまだ終わってはいないといえよう。<明日、世界がほろびるとしても、今日、二人は木を植える>。


 ところで、91歳まで生き延びた私には、まだ見果てぬ夢がある。
これは多分私の生きているうちには とても実現できない夢だと思う。これからの若い人たち、幼い人たちにでも試行してもらえたらという大それた夢を語らせていただいて、この文章を終えたい。


私の『朝鮮五葉松への旅』をほんの一つのささやかなテストケースにしてという夢である。
映画なりシンフォニーなりの形式で将来東アジア世界 東北アジア世界を描けないかという夢である。
人類史のなかで 世界史のなかで 東アジア 東北アジアは国や民族 言語 宗教 イデオロギーを超えてつながって生きてきた。近代人以外の生物 無生物はそれを知っている。
 シンフォニーだったらそれこそ個性ある様々の民族楽器 民族音楽をちりばめどの民族をも癒し励まし和ませほほえませ談笑させるような音楽、そして背後のスクリーンには時々刻々変わるシベリア 極東ロシアからアムール流域 中国東北 鴨緑江流域 朝鮮・韓国そして日本列島 東海 西海等々の風土・自然(そこで朝鮮五葉松「=高麗松=ケードルなど)の映像。素材は私の『朝鮮五葉松への旅』に、詩人や民族や話などささやかだけれどもひとつの手がかりは用意しておいたつもりである。映像と取り組みたい人 音楽をたしなみたい人 これからの若い人たちそして幼い人たちのなかからひとつこの東アジア地域世界を 東北アジア地域世界を 映像で 音楽でとらえ描いてみたいという人があらわれないだろうか。

 東北日本大震災─大津波そして世界に放射能を撒き散らしつつある福島第─原発事故災害をひとつの転機に始まった
<終りの終り=始まりの始まり>を
一時期のこととして風化させるのではなく 
よき転機として<始まりの始まり>を、
自らの問題として推し進めるに必要な行動に、
この夢はなるのではなかろうか。

               (2012年6月13日 よしだ ごろう)

【参考】
●朝鮮五葉松のファイルはいくつかあったはずなのだが、みつからず一冊だけ見つかった。運良く、東アジアの東北アジア世界では一番なじみのうすいシベリア・極東ロシアのファイルである。まず、ナナイの辞書記述と東北アジア世界北辺の地図、「冬になると古代人の心が見えるーシカチリャンの人々と遺跡 武川俊二、”極東ーシベリアの自然・人・生活”毎日新聞社編一九九三年、人と織物・民芸品・家。部屋など四枚の写真、ナナイの人々9枚の写真、民芸品の写真多数、極東地域の構成,、ビキン川にシマブクロを追って アムールの自然誌 ユーリ・B・ブキンスキー著。勇敢なアズムーン アムールのむかし話(リブロ) G・バブりーシン画、、アムール地方の民話(新読書社)、ナナイ続のエヴドキャ・ガーエルさん講演会、バイコフ『私たちの友だち』岩波少年文庫、間宮林蔵、アムール皮・沿海州地域の人・セ勝・衣服 萩原眞子、シベリアの衣服ーナナイの魚皮を中心にー 加藤定子、映画『デルス・ウザーラ』、『シベリア先住民の歴史ーロシアの北方アジア植民地』ジェームス・フォーシス(彩流社)。アムールよ夢のまにまに花吹雪 野村佳雄,、『北東アジア民族学史の研究』加藤九ぞう、『シベリア民族玩具の謎』A・チャダーエヴァ 斉藤君子訳、ドキュメント 金日成の謎ーナナイと抗日連軍の関係、中国遼寧省森林経営研究所を訊ねて 川那辺三郎(「森林」97年7月)、以上
このファイルのほかに、ネットの吉田悟郎「世界史学とともに」にナナイの絵本紹介、三王昌代の「ナナイの村を訊ねて」-写真集、拙稿「北方アジア史を描く愉しさ その一」「北方アジア史を描く楽しさ 第二話」「東アジア史への試み」がある。自分ー地域ー日本ー世界の相互関連・相互浸透を考えれば、東アジア世界についても東北アジア世界とともに東南アジア世界ももちろん視野に上ってくる。琉球弧ー沖縄、台湾、南中国、ベトナム、フィリピン群島、インドネシアなどについては、拙著およびネットでの試行でいくらかの試論・材料がある。太平洋世界・オーストラリア世界・中南米世界そしてネパール・ブータンからパキスタン・インド 南アジア世界、片や中央アジア世界、北方ユーラシア世界 そして重要なイスラーム 中東世界 もちろん おなじみの欧米世界 わたしたちの属する世界 私たちにかかってくる世界は ひろがってゆく。
●道・白磁の人 浅川巧の生涯 小澤龍一 合同出版 2012.6
淺川伯教・巧兄弟資料館ブログ

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始まりの始まりも、今はじまったばかり【二】-(7)2012年6月11日 (月曜日)

2012年6月11日 (月曜日)

始まりの始まりも、今はじまったばかり【二】-(7)

ソフトな自立・共存の人類の世界を自然と共生した緑の列島を─
1991年
二十一世紀は第三世界の世紀という提唱、2001年ツインタワー崩壊。
そして2011年東西の地殻変動・終わりの終わりと始まりの始まり─

1991年7月2日、韓国ソウルのソウル大学湖巖教授会館で日韓歴史教育セミナーが『21世紀を志向する歴史教育』という主題で研究会議を行った。
記録は、1992年11月に三省堂から西川正雄編『自国史を超えた歴史教育』として公刊されている。

まず、ご存知でない方もいるだろうし、この会議の日本側の主催者である比較史・比較歴史教育研究会は2012年今年に入って任務完了として幕を閉じたので、この“「比較史の会」とは?”から説明しておきたい。
それには、私のネットにのせておいた「比較史・比較歴史教育研究会へどうぞ」というアピールがあるので、それで説明に代えさせていただく。

≪1984年、東京駒場の東京大学を会場として私たち比較史・比較歴史教育研究会という非常に小さなグループが韓国と中国から歴史家を招いて、第一回東アジア歴史教育シンポジウムを実現しました。それから五年おきにこのシンポジウムを開催し、1999年には「帝国主義時代の理解をめぐって」という主題で、ベトナム・中国-台湾・韓国から歴史家を招き、第四回東アジア歴史教育シンポジウムを開催しました。前三回のシンポジウムの蓄積と東アジア諸国の歴史学の変化と進歩もあって、1999年のシンポジウムは見るべき成果を生み出し、21世紀へのひとつの灯を掲げたと片山誠二郎さんは賀状に書いてきました。いま、この記録は面白く読めるように 新しい構成で書き下ろしの論文を沢山加えて編集中であり、2001年中には未来社から刊行される予定です。比較史の会と略称で呼ばれている小さなグループは、会則とか規約などなく、年齢・性別・地位・学歴・職業・国籍・民族別など一切問わぬ、つまり学術サークルにありがちなヒエラルキーなど誰も気にしない集まりです。ある韓国の友人が「小さなコミューン」つまり小さな学術的コミューン(共同体)と評してくださいました。彼女は、さらにこうも言ってくれました。 

<私にはこのシンポジウムが,日本の「善きサマリア人」たちが自ら呼び水となって,アジアにおける「善きサマリア人」たちを集めたような気がした。ところが残念なことに、このシンポジウムで実現された「小さな学術的コミューン」は日本社会の中で、さらにはアジアのなかで、あまりにも少数を代表している、という厳しい現実に目をつぶっているわけにはいかない。「善きサマリア人」の「良心」は、普通の人々の「常識」になるまでは,歴史を変える力にはなれないからである。・・・>            
  
 このシンポジウムで育まれた、真のアジアの市民共同体をめざす、小さな、小さなつぼみを私は大事にしていきたい。そして特に日本の若い世代が、その先輩たち―戦後民主主義世代から安保世代、その後の市民運動世代に至るまで―の優れた伝統をもっと精力的に受け継いでいくことを切に望みたいと思う。≫


以上のような小さな会であったが、20世紀の80年代後半から90年代末まで私のひとつの生きがいでもあった。この小さな会は、日本・韓国・朝鮮・中国・ベトナムの「よきサマリア人」の結びつきで五年ごとに計四回「東アジア歴史教育シンポジウム」を催し、その記録・報告書を計六冊公刊した。

【1】『自国史と世界史─歴史教育の国際化を求めて』
             1985年、未来社。
【2】『共同討議 日本・中国・韓国─自国史と世界史』
             1985年、ほるぷ出版。
【3】『アジアの「近代」と歴史教育─続・自国史と世界史』
             1991年、未来社。
【4】『自国史を超えた歴史教育』(西川正雄編の前半─第1部)
             1992年、三省堂。
【5】『黒船と日清戦争─歴史認識をめぐる対話』
             1996年、未来社。
【6】『帝國主義の時代と現代─東アジアの対話』
             2002年、未来社。

 この会が韓国の歴史家と共同した韓国ソウルでの日韓歴史教育セミナーでは、私は基調講演というのを韓国側から指定され、共同討議への基調報告と受け止め、そのように報告を設定した。
題して「二一世紀を臨む歴史教育における自国史と世界史─学と知転換の場としての世界史学―」である。

私は、成蹊・中央・東洋・日本女子などいくつかの大学で{史学」「世界史」の講義を方法論の学習として試み、1995年にお茶の水書房から『世界史学講義(上巻)西欧文明形成の暗黒』・『世界史学講義(下巻)第三世界と世界史学』としてまとめ公刊していた。つまり、自らを上原専禄先生に学んだ「世界史学的方法」への道程についたと自覚したのである。
この世界史学への道程はまだ始まったばかりと自覚する。
 もうひとつ勉強を始めたばかりなのは、イスラーム思想、イスラーム学である。
板垣雄三や三木亘という畏友・先達から学ぶことは続いていたが、同じく優れたイスラーム学者である黒田寿郎さん、それに『商人たちの共和国』(藤原書店)を出されたばかりの奥様である黒田美代子さんから新たに刺激を受け、学ぶところが大きかった。ソウルでの学と知の転換という提言の背景になった学習である、いわゆる講演=報告そのものは前掲書あるいは拙著『世界史学講義 下巻』の「第二十三章 世界史学」への道程の始まりで、「東アジア国際討議への報告」に収録してある。
韓国でも学び、ハングルおよび韓国に通じた畏友横田安司さんが私の報告をうまく要約されているので、ここではその要約によりたい。横田さんの要約は、『自国史を越えた歴史教育・西川正雄編』(三省堂、1992年収録)の横田安司「歴史教育と国家・民族」の154頁~157頁にある。

<吉田悟郎は、基調講演で、現代世界の危機と混沌の本質を、ともに西欧近代文明に起源をもつ第一世界(欧米勢力)と第二世界(ソ連などの社会主義勢力)の「第三世界化」ととらえる。これまで第一世界と第二世界は、「冷戦」というかたちでたがいに対立しあいながら、時には協調しあって第三世界を支配してきた。ところが、この過程で第一世界も第二世界も、自らのなかに抑圧され切り捨てられた諸社会、諸地域、諸民族を生み出した。これらは第一世界・第二世界の内部にできた第三世界であり、これらの人々の異議申し立てが第一世界・第二世界の第三世界化なのである。この傾向は、一九世紀末以来の第一世界の世界支配─やがて第二世界が加わる─に抵抗しつづけてきた第三世界の本格的な異議申し立てと連動しあっており、ここに今日の危機の本質がある。それは、西欧近代文明の支配の崩壊としての「破局」といってもよい。それでは、この破局から次に何が出てくるのか。吉田は、「全世界および世界史の第三世界化」であるとして、第三世界の視点からの世界史認識を提唱する。そのためにはまず、西欧近代文明がつくりだした「国民国家」の枠組みを克服することが必要である。吉田は、第三世界との対比で、西欧近代的国民国家の枠組みをつぎのように列挙する。


①異性・個別性などを排除し否定する、一元性・均質性・整合性。
②多元的多層的な関係性・多義性・相互浸透性・周辺性などを否定し、
敵視し、体系性のみを目指す。
③無境界性に対立し、これを抹殺して境界性を固めようとする。

 こうした枠組みを確立することによって生まれた西欧近代強国は、全世界にわたって極めて抑圧的・階層的・序列化的構造をつくりあげた。これが西欧近代資本主義的世界秩序であり、一九世紀から二○世紀にかけて、これら強国に生まれた帝国意識・大国意識がこの枠組みを強化した。脱亜入欧的近代化の道をたどり、欧米強国に追随して強国の列にのし上がった日本・日本人は、西欧近代国民国家の枠組みにとらわれ、今日の「破局」の意味がつかめないでいる。今日の「破局」に主体的に立ち向かっていくためには、国民国家の枠組みの徹底的な相対化と、これを支えてきた西欧近代文明総体(その日本的ヴァリエーションも含めて)の内在的検討が必要である。それはまた、西欧近代文明を構成している人間優越主義(自然と人間の分離)、科学万能主義(西欧近代科学の独走・理性の絶対化)、工業主義・生産力主義(資本主義および従来の社会主義)、いわゆる市民社会とナショナリズムの徹底的再吟味にほかならない。

こうした作業を通して、吉田は、これらの観念が、ヨーロッパ・ヨーロッパ人の自己確認のための思考枠、アジア=東方世界を管理・指導するための世界観・歴史観にもとづいていること、「自由」「民主主義」「法と正義」「国際秩序」「平和」「人権」などは人類普遍のものではなく、特殊な西欧近代に由来する一つの価値群・理念群に過ぎないことを明らかにし、第三世界的諸特徴、すなわち差異性・関係性・相互浸透性・無境界性などの観点から見直すべきことを主張する。第三世界とは、「自分の国をもてない人々、自分の国だけに縛られない人々、あるいは自分の国にこだわる場合でも自分たちがこれからかちとろうとしている国が別にあると考えている人々、自分の在り様を政治的に選び、闘い取っている人々の世界」である。
それは時々刻々と新しい民族が形づくられるアイデンティティ複合」の世界である。

 吉田は、ハードで一元的な西欧近代的国民「国家」にソフトで複合的な第三世界的「民族」を対置し、そこに世界史と自国史の統一的把握の場をおき、そこから世界の人間の共存の未来を見いだす努力を試みようと述べたのである。>1991年7月ソウル大学湖巌教授会館での日韓歴史教育セミナーの基調講演を準備した、その時は世界史でいえばどういう時であったのか。1989年ポーランドはじめ東欧諸国の一連の民主化革命のなかでベルリンの壁も崩壊した。

アジアでは同年6月4日、天安門事件がおきている。第二次大戦中ナチスドイツとの密約で非合法に合併したバルト三国もソ連軍の介入を排して1991年独立した(当時、在露日本大使館の分析官であった佐藤優の『自壊する帝國』(新潮社、2006年)が裏話をルポしており面白い)。
1989年にはソ連軍は8年半戦争を続けたアフガン戦争の泥沼から撤退を完了しているが
、1991年の夏、ソ連守旧派の党官僚による8月クーデターの失敗はソ連とソ連共産党の崩壊を決定的にした。ロシア共和国、白ロシア、ウクライナ三国の国家共同体をつくり、ソ連に代わる枠組みで切り抜けようとし、ソ連の存在意義はなくなった。
1991年12月25日、ゴルバチョフはソ連大統領を辞任しソ連は完全に解体消滅した。

 中東ではイラク軍のクウェート侵攻により米国ひきいる多国籍軍が編成され、湾岸戦争が始まり、多国籍軍の圧倒的勝利でクウェートは「解放」され、停戦となった。戦費五分の一を負担した日本は、戦争終了後に自衛隊の海外派遣に踏み出す。この間、後に注目される中東における大事なことが進行していた、アフガンからソ連軍を追い出すためにCIA とパキスタン情報局がムジャヒディーン(イスラーム義勇兵を訓練し養成し武装化させ、ここにアルカーイダが生まれたことと、このアルカーイダの活動の中からビン・ラーディンが台頭した(ビン・ラーディンは1989年2月のソ連軍敗退撤退後、反米活動に転じた)ことである。
1991年7月という時は、世界史の一端をふりかえると、このようなピークであり、今日につながる要因が見てとれる。

この1991年、私は70歳、翌1992年成瀬治さんに代わって比較史・比較歴史教育研究会の代表をつとめる。それから十年経過して2001年は9.11事件(並行ハイジャック・NYのWTCツインタワー崩壊とワシントンのペンタゴン破壊という連続テロ事件)をきっかけに、米英などがアフガニスタンでイスラーム世界相手の出口なき「反テロ世界戦争」を開始。
日本は後方支援の名目でインド洋・イラク・クウェイトへの自衛隊派遣へと踏み込んでいく。
 そして、それから十年、2011年チュニジア・エジプトはじめ中東で新市民革命(板垣雄三の「世界を変える新市民革命の足音」
DAYS JAPAN”Vol.8 ,No.9、『世界』2011年9月号)が拡大。
そのさなか東日本大震災と福島第一原発事故(メルトダウン)とが発生。
米国は債務不履行に陥る危機と向き合い、世界を動かすドルの威力は失墜。
以後、米国の世界覇権はガタ落ちを続ける。

(拙稿「極東の地殻変動と中東の地殻変動」「終りの終りは今始まったばかり」)私はこの前年2010年12月に、“Form高校生新聞”に、1991年のソウルでの報告にも触れた「自由・平等・民主・人権について思う」を投稿している。まず、日本の宗主国である米国は、反テロ戦争の継続の中で自由も民主も平等も人権もともに衰弱したが、米国市民もただ我慢してはいなかった。Occupy運動、1%の独裁と横暴に抵抗して99%の抗議と改革の声をあげつつある。
 西欧ではスペインのM12-M15全国的な怒れる市民の「真の民主主義」を求める決起(RAMON BOOKサイト、童子丸開さんのルポ)、ギリシアにおける急進左翼連合の台頭,ドイツでも“ブロキュパイ”のデモがフランクフルトのヨーロッパ中央銀行前で銀行の貪欲を批判し、同じく政府の緊縮財政に苦痛を与えられているギリシアなど他のヨーロッパ諸国の市民との強い連帯を叫ぶ。西欧の“99%”は、欧州危機の本質は投機の問題もあるが、緊縮財政というよりもサブプライム・バブル崩壊以降の銀行の不良債権処理の失敗にあることを見抜いている。世界の金融資本はバブルの崩壊→金融緩和政策→次のバブルの発生→バブルの崩壊という悪循環を繰り返してきた、そのたびに異常な好景気と異常な不景気をくりかえし、市民の生活を混乱させ多大の苦しみ・絶望を与えてきた。
生産性を向上させ実体経済を育てることこそ99%の市民には大事なのに。銀行、投資企業、さまざまな金融機関は、零細あるいは中産の市民の住宅ローン、あるいは学生ローンなど、年金や先物を賭けた冒険的な預金などをかき集め、巻き上げて太ってきた。それに対して金融取引税=ロビンフッド税の要求が、富や金を巻き上げられた中産・零細ともに没落しつつある“99%”から出てきたのも当然である。
あの米国でも全米看護師聯合(National Nurses United)が、ウォールストリートに対するロビンフッド税を要求し、シカゴでG8サミットにあわせてデモ行進を行なった。米国のウォール街占拠運動は2011年9月以来久々の左派の大衆運動としても継続している。
 2011年9月30日のNY市民総会での公式声明にいわく、「アメリカと世界の富が1%の人たちに握られていること、この富の偏在こそ、あるいは富の偏在がもたらす現代の社会関係こそ、問題である」とし、その変革を主張している。

同時に、企業と企業活動については、民主主義的政府の正統な権力は人民に由来するが、企業は誰に同意を求めることもなく人民や地球から富を簒奪しており、民主主義のプロセスが経済権力によって決定されている間は、いかなる真の民主主義も実現不可能である、という現実を認識している。
人民よりも自分たちの利益を、公正よりも利己的な関心を、平等よりも抑圧を優先するさまざまな企業が私たちの政府を動かしているこのとき、あなたがたによびかけている。「私たちは・・・ここに平和的に集まっており、それは私たちの権利である。世界の99%の人たちは、世界の企業勢力によって不当な扱いを受けている。
つまり、何よりも利益を追求する世界の企業活動が、富を簒奪し政府を動かし、人民の権利を踏みにじっていること。そして、占拠運動はどのように運営され、支持され、広がったのか? 自主的自発的な人々の連合体として運営されている。そして、市民の支持を受け、増え続けている。その多様な参加者。カナダでも市民・学生・女性の決起が見られる、毎日のそういう模様はいくらか“DEMOCRACY NOW”サイトなどで窺い知られる。そして中南米では、ボリビア・ベネズエラやチリその他で同様な変革への動きが始まっている。
これは中南米の政治経済サイトでやはり報道されている。
こうして、2011年から2012年にかけて、アラブの春にはじまり、ヨーロッパ。カナダ。米国、中南米と改革と変革を求める99%の市民の決起がひろがっており、それらの共鳴、共振の相互関係は、かつて人類史には見られなかった新しい夜明けを予感させるものがある、日本の、福島の女性たちが先頭を切った反原発・生命と権利を求める運動は、以上のような世界の春に合流し、その一翼をになうことが世界から期待されるようになりつつある。

 水俣の闘い、沖縄の闘いもこういう日本の市民たちの覚醒と決起を支える闘いである。
板垣雄三の“DaysJapan”2012年4月号の「十代の若者たちにあてた手紙」のよびかけ、ティーンエイジャーズへのアピールも、こういう世界史、人類史のあけぼののなかで起草されたものであろう。
1991年7月ソウル大湖巌教授会館での日韓歴史教育セミナー冒頭の私の基調報告(基調講演と指定されていたがおこがましいので)は、二十一年の経過を経てどれだけ有効であったのか。
提案の「第一・第二世界の第三世界化」という見通しと「21世紀の予想される第三世界の本格的異議申し立て」という予測と判断は、2011年中東での地殻変動に始まる“アラブの春”からヨーロッパ・中南米・カナダ。アメリカにひろがる、いわば“99%”の市民の決起と異議申し立てとなり、2012年5月、今も、継続・成長しつつあるではないか。
「西欧近代的国民国家の枠組みの特徴」:としてあげた諸特徴はまさに自分たちを縛る桎梏と自覚され、それに対比して「第三世界的特徴」として挙げた「ソフトな人類の諸特徴」として挙げたことは当時イスラーム学者黒田寿郎さんやかねがね私淑していた中東学の先輩板垣雄三に学ぶこと大きかったが、2011年から顕在化したアラブ・イスラームの市民革命の随所に示されているではなかろうか。日本の脱原発の市民運動にもそれに近い諸特徴が見られるのではなかろうか。
さて、「ハードで一元的な西欧近代的国民国家にソフトで複合的な第三世界的市民を対置し」「世界史と自国史の統一的把握の場をつくる」「そこから自然・環境とも共生する世界の人類の共存共栄の未来を拓こう」という提唱はどうなっているであろうか。
狭く見れば、依然として明治以来の「特殊な国民国家」の呪縛は堅く根を下ろし、さらに狭く歴史研究・歴史教育の場を見れば、牢固たる「官許歴史・官許世界史+官許自国史」という堅固な壁はそう揺らいでもいないのではなかろうか。
私のささやかな提唱は、所詮「蟷螂の斧」にすぎなかったのであろうか、わが国については。  

               
2012年5月27日 結婚記念67年6月3日を前に  よしだ ごろう


『参 考』
●拙著『世界史学講義 上 西欧文明形成の暗黒』
 御茶ノ水書房1995
●同上『 下 第三世界と世界史学』同上
その中の第二十章・第二十一章 第三世界と世界史学
第二十二章 世界史学とはどういう学問か?
第二十三章 世界史学への道程の始まりでー東アジア国際討議への報告ー
1.二一世紀を臨み自国史と世界史を考える-
            学と知転換の場としての世界史学
2.世界史像の再構築に向けて-近代化は何時何処で始められ、
            誰によって横取りされどう変質していったか
●報告・提案 世界史教育四十五年と世界史学 
法政二高育友会歴史教育研究所で 『歴史教育研究』77号所収
●拙稿 産業革命・市民革命世界史 
 歴教協編『あたらしい歴史教育』の『世界史とは何か』
 大月書店1993所収
●拙稿 世界史研究および世界史教育の問題点 
 歴科協編『歴史科学大系31歴史教育論』所収1994
●吉田悟郎報告 中国歴史教学研究会年会(承徳)で、
 東アジアから見た十三世紀世界史をどう伝えるか1995
●同上 京都真宗大谷派教学研究所・蓮如遠忌五百年に向けての
現代市民社会グループ研究会で民学としての世界史学への道程
●座談会{世界史の自主形成」での発言 歴教協編
『歴史教育五○年のあゆみと課題』未来社1997
●拙稿 世界史教育四十五年と世界史学 
『展望 日本歴史 2 歴史教育の現在』東京堂出版2000
●拙稿 世界史の野蛮化・地獄化の<終りの始まり。2008.04.16
●拙稿 「自由・平等・民主・人権」について思う 2010.12.15
●拙稿 極東の地殻変動と中東の地殻変動-2011年という画期
 2011.04.13および2011.04.14
●拙稿 終りの終りは今始ったばかり
●拙稿 始まりの始まりも今始まったばかり
●拙稿 グローバリゼーションとは 
歴史教育体験を聞く-吉田悟郎 2003.2004 
 上越教育大『歴史教育史研究』第4号
●ネット 自分史略年譜 とくに時々の問題意識 さまざまなテーマ 注意
●ネット 吉田悟郎・ブナ林便り・転にいくつか論考がある
●拙稿 朝鮮五葉松への旅-東北アジア史へのアプローチ
「ブナ林便り・転」に収録

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私の十字軍学習  2012年5月28日 (月曜日)

2012年5月28日 (月曜日)

 私の十字軍学習 


 1960年米国で封切られ翌61年日本で公開された映画『栄光への脱出』、原作は『Exodus-エクソダス―栄光への脱出』(犬養道子訳1961年)、映画も主役ポール・ニューマンといえば映画フアンならば誰もが覚えているだろう。
英軍にキプロス島に留め置かれていたユダヤ難民達が英軍の監視をくぐってエクソダス号で脱出、1947年のパレスチナ分割決議案の国連投票を知りイスラエル建国の戦いに馳せ参じる、という映画である。

私もこの映画を見たが、そのころはパレスチナ問題なるものをしかと知らなかったと思う。
その後、アラブ・パレスチナ人が有無をいわせず家・土地を強奪され、命もろとも追い出され、こうして泥沼のようなパレスチナ問題が起こることをようやく知るに至り、1970年代からパレスチナ問題を含めて中東学習を始め、今日に至る。
今ふりかえると『栄光への脱出』という映画は、いわゆるユダヤ人の欧米にも尻押しされたいわば“十字軍”であり、そこで押し立てられた現代「イスラエル」という国家は、最初から第二次大戦後の中東を再編成し、その支配を固める橋頭堡としてつくられたものだということが明らかになった。エルサレムそしてパレスチナは古代イスラエル人の土地、そこは古代イスラエル国家が治めたところという旧約聖書による”神話”が”事実”としてまかりとおるということになり、数千年生き続けた“ユダヤ民族”という神話がいつのまにか欧米で、そして日本でも、真実の歴史として通用するようになる。いわば形を変えた“永遠の十字軍史”に世界は騙されたといえよう。

私の“十字軍”との取り組みの背景にはこのようにパレスチナ問題がいやおうなしに存在したのであった。
1986 年9月に、はからずも、私は中近東文化センターで2日間にわたり催された十字軍シンポジウムに「歴史教育の中の十字軍」という報告を頼まれ、2日間の討論にも参加することができた。
1987年9月26~27日、中近東文化センターで開かれた十字軍シンポジウム「は日本で最初の学会だった。

第一日の議長は橋口倫介・川床睦夫・護雅夫の開会の辞、橋口・川床の開催趣旨で始まり、吉田悟郎「歴史教育の中の十字軍」、牟田口義郎「『アラブが見た十字軍』と日本の読者」、研究情報ー回顧と展望として、佐藤次高「イスラーム史における十字軍」、宮松浩憲「ヨーロッパ史における十字軍ー新しい時代へー」、渡辺金一「ビザンツ史における十字軍」というそれぞれの報告。その後での討論。
第二日は、議長が板垣雄三・樺山紘一、報告は、清水宏祐「セルジューク朝と十字軍:梅田輝也「十字軍とアラブ知識人」、森安達也「十字軍と東方教会」、弥永信美「十字軍と東方イメージ」。
その後で討論1と休憩をおいて討論2でシンポ終結です。

報告原文とそのレジュメは長いので『中近東文化センター研究会報告No.9』を見ていただきたい。
私の報告自体は、『同研究会報告』の5~19頁、またそのレジュメは179~180頁にある。
私の著書には収録されていないが、拙著『世界史学講義 上下』が、私の十字軍史、イスラーム学習ノートみたいなものであるが、ここでは、中近東文化センターでの討論の中での私の発言を紹介したい。私の十字軍の把握は次のようなものであった。
(中近東文化センターが1988年に出した『中近東文化センター研究会報告No.9』の78~79頁に記録されている。)
<私は「歴史学の中の十字軍」を実は「世界史の中の十字軍」に置き換え、そういう意味で受け止めているのです。こういうことを勉強してきて、この報告を準備する過程で出てきた疑問のひとつは、ユーラフロアジア( Eurafroasia )の西の西欧キリスト(公教)世界とイスラーム世界のぶつかりあいに焦点が行っているのは当然であったと思うのですが、ずっとそういう形で実際西欧のほうに焦点がいってしまっていて、それを補うものとして“アラブ側から” とか、“ビザンツ側”が出てきている観がありました。
これは―よくわからないのですが―西欧の方は13~14世紀以降、あるいは15~16世紀以降、いわばわがまま勝手に、大胆に、十字軍思想、十字軍運動という形で実際に視野、対象が全地球的に拡大していくというふうに捉えてみる見方を出して、そういう形で一緒に考えていく、世界をつくり合ってみるという話をしてみたのですね。
それと同時的に、13~14世紀以降、15~16世紀以降、イスラーム世界もアフリカから南アジア、中央アジア、東アジア、あるいは東南アジアを含めた、いわば太平洋地域みたいなところに拡大してきて、それがどうなっているのか、その実態がどうであったか、どんな意味があったかということはどうもわからない。
わかる捉えかたが出てないわけですね。考えてみると―今日の瞬間では―ソ連の中央アジアのイスラーム圏だとか、中国の新疆ウイグル地区を含めた、北京にも多い回族の社会だとか、われわれの常識的な歴史の知識の中にはティムール帝國だとか、ムガール帝國とか、そういうものがもっと日本の近く、南洋日本町まで実は来ているのだということの発見―フィリピン北部の島のルソンも50年遅ければムスリム化していた、イスラーム化していたのではないかという、フィリピンの歴史家のひとつの指摘-などと絡み合った形で、大航海だとか何かが我々の認識の中で生きているかというと、どうもそうなっていないのではないかという気がするのですね。
大胆に言ってしまえば、十字軍思想、十字軍行動の対象に、その時の日本はなっていると考えていいのではないか。
つまり修道士会の日本、中国を、連関させた軍事計画ですね。また、あるいはネルーの『世界史瞥見』の中で、当時の日本の権力者がやった鎖国はあの当時としては賢かった、よかったことなのだということ、あるいは清水知久さんが訳した『この大地、わが大地―アメリカ・インディアン抵抗史』を書いたコスタ(J.Koster)が、日本はあのとき鎖国できたから今日におけるアメリカ・インディアンのような状態にならなかったのではないかという日本の読者へのアピール。
第1次史料についても勉強しはじめていくと、やはり十字軍史と十字軍運動は日本に対しても発動していると思います。
 日本の中にそれを受け止める動き―これはよくわかりませんが―伊達政宗の慶長遣欧使節などは、まかり間違ってそれをひとつ受け止めてがたがたするような、そういうことが起きていて、また少年使節などの美化、あるいはキリシタンバテレン殉教史の一方的な美化を行っている。そこのところで十字軍イメージというのは偽りのある、歪んだ形で私たちをつくっているという気がしてならないのです。そういう問題意識で報告をしたのですが、舌足らずです。で十分・・・。>
議長:<先ほど私が立てました2つの柱の、十字軍の全体像、今後の研究の方向性ということに、ただいまの発言も含ませていただきます。
日本も十字軍のターゲットの中に入っていて、非常に大きな、グローバルな形の、十字軍の後世への影響の問題も含めて将来の全体像を考えるということでした。・・・>

『中近東文化センター研究会報告No.9』の169頁には、討論の中での発言として、私は、次のように言っている。

<うかがっていて、ことしの前期に法学部の1年生の学生たちと一緒に勉強した時の学生の一人が出した疑問がどうなっていたかと読み直して見ましたら―私は依然として学生の疑問に対して一緒に考えていくよりほかないと思っているのですが――でどんな疑問を出しているかといいますと、私が昨日お話しましたような話をしました時―この学生の場合には橋口さんの『十字軍』を割りとちゃんと読んでいまして、その上でまず―十字軍が普通の戦争と変わらない戦争ならば100年以上としても50年に1回とか8回も繰り返されることはなかったはずだという疑問を第1に出しているのです。
なぜ十字軍が長期化したのか。大規模化というのは間違いだと思いますが、その規模は、今から見ると非常に小規模ですが、ひよわきヨーロッパとしてはそれをただ小規模と置き換られるかという問題があります。
第2の疑問は、十字軍が単に東地中海世界に対する反感から始まったものならば, 第1回十字軍がアンティオキアからイェルサレムへの途上、セルジューク勢力圏とファーティマ領において歓待に甘んじた―これは橋口さんの97頁―とあることがまるでわからなくなってしまう。これはいくらか対話ができるという感じがするのです。
3番目。
十字軍とレコンキスタ―これは東方殖民、あるいはアルビジョア十字軍といろんなものがありますが―それが同時進行的に展開されていることも疑問だと。
これは従来の簡単な説明で説明できますが、それでは納得してないというふうに思います。
4番目は、十字軍には終始一貫してヒステリックな影がつきまとっていると。橋口さんの48頁に言及されているような事実を差し引いても、このヒステリックな面は残ると。その本質は何なのかと。
第5、十字軍はなぜ清水の舞台から飛び降りる100倍ぐらいの無謀とも言えるような大挙に出たのか。イスラームとの戦闘に勝ち目のないことを知りつつ、全体としてはイスラームの方が相手にしていないということですが、それでもなお、いわゆる「聖戦」を行わずにいられなかったのはなぜか、云々と。
第6、十字軍が西ヨーロッパ各地にわたってユダヤ教徒、いわゆるユダヤ人を血祭りに上げたのは、敵を身近に顕在化させるためだったとする先生の見解はひとつ納得できるが、果たしてそれだけの位置づけしか与えられないのだろうか。
その辺のところは古い研究、新しい研究、日本の研究ではどうなっているのだろうか。
 学生は非常に主観的な文学的な答えを自分の中で出していまして、ちょっと簡単に問題にできないのですが、十字軍はキリスト教によって目覚めさせられた集団的罪悪感に根ざす行動であり、十字軍は東地中海世界に対する本来の意味でも一揆の変形であるとして、国訴とか一向一揆と比べて論じています。橋口さんの本に民衆一揆という説があるというのを紹介されていますね。それから、これはちょっとどうかと思うんですが、十字軍は古い時代の偉大な精神に自己を同一化せしめる恍惚感に根ざした運動であり―これは弥永さんのお話と重なると思いますが―その意味においてフェスティバルの変形であるというふうに社会史的な捉え方が投影していると思います。こういう答えを出して、先生、意見はどうですか、ご批判を願うと出てきているのです。>

十字軍シンポの討論2日目の後半、私は二つの補足を行っている。

< 異論を申し上げます。はからずも地中海世界ということで、方法, 構成の問題が出ましたので、発言を許していただきたいと思います。
私は、地中海世界、地中海というのは西洋史の延長にすぎないとかねがね感じておりました。やはり難点はそれでは解けないのではないかと思います。結論から申しますと、三木亘さんの仮説、ひとつのビジョンであります中近東、中東と、いわゆるヨーロッパとを一緒にまとめて、彼は、意地悪くわざとそれを西洋というひとつの世界ととるわけですが、それの方に味方します。なぜかと申しますと、三木亘さんは明快に、たしか二つの点を挙げています。
 一つは、例のユダヤ教、キリスト教、イスラーム教のルーツがひとつで、同じ大家族的な宗教であることです。二つ目には、これは三木亘さんの非常に特徴があって考えるべき問題だと思いますが、ユダヤ教の拡大したところがいわゆるオリエント、中近東、中東+ヨーロッパであると。もちろん地中海はその中に入っています。海は地中海だけではありません。
もうひとつはたしか文化の問題で、ギリシア・アラブ医学が西洋の近代医学へと。これはいわば近代科学技術の象徴として彼はかねがね関心を持って、そこのところを突いてきているわけです。たしかその三つ、三つ目は不正確だったかもしれませんが、わざと西洋という捉え方をしています。
そこでは地中海世界という捉え方はしていません。
私はその方がいいと思います。昨日、今日出ております問題は、まだ十分には取り上げきれないと思いますが、例えば、今のユダヤ教といわゆるユダヤ人問題ですが、これは地中海世界という捉え方の中でももちろん出てきますが、西洋史の中でユダヤ人問題・・・、ユダヤ人問題はどうですかね、対象に出てこないかもしれません。
渡辺(金一)さんの言われた国際的なテンションの問題で、これはアイデアとして、私もこの2日間のシンポジウムで学んだことです。
国際的テンションというのは、必ずそれに対応する並列的テンションではなくて、モンゴルの大侵入ですね。それで起こったかに見え、それが十字軍と違った、あるいはもっと拡大した意味でちょっと似たところもある、そういうテンションに転化していくといいますか、発展していく感があります。
13~14世紀、いわゆる“パクス タターリカ”、あるいは“ポーロ一家”の行動などもひとつ指標になると思います。
 それから、恐らくまだそこまではいっていないようなことをお伺いしますが、確実に13~14世紀ごろから西の方に傾いていますと、イスラームとキリスト教とビザンツ側ということだけで、それも十分おもしろいし、学ぶことは多いのですが、一方、サハラを越えたアフリカへ、あるいは南ロシアへ、中央アジアへ、南アジアへ、東南アジアへ、あるいは東アジア、中国に、イスラームは宗教としても文明としても、人や物の情報や交流、例えば狭い経済活動が拡大していくのではないか。それもそのテンションのひとつの大きな結果として出てくるので、そういう形で見ていく場合に、地中海世界というような捉え方では西洋史の延長にすぎないとおもわざるを得ないわけです。ガブリエリと何とか、やはりそういう感じがします。>

<ちょっと「補足していいですか。私が申し上げたかったことは、公教―西欧、正教―ビザンツ、イスラーム―中東(今の中東にあたるもの)の3つの世界の相互浸透でもあるし、また相互激突でもあることが今までの議論で出てきていて、先ほどの議論ですと、うっかり反モンゴルに行ってしまって終わってしまうなという感じがしたのですが、シャーマニズムの北方ユーラシアの、モンゴルで代表されているそういう世界と、ある意味では具体的には四つ巴になるわけですね。
それだけでは尽きないわけですから、アフリカあるいは南アジア、アメリカとか、それを地中海世界というようにいきますと、逆もどりしてしまう感じがしている。地中海世界について、私はそれにはついていけない。それでは解決にならないとかねがね思っていたものですから、ごく小さな研究会などではそういう批判は公にしています。それから、西洋史云々というのは、私は日東西3区分のなかの西洋史という講座体制みたいなもの、西洋史が主になったいわゆる矮小化された世界史、そういうものへの批判はずっと公にしてきていますので、うっかり省略してしまって、すみませんでした。>

第一日の討論の最初に質問が議長から紹介された。

そのなかに、
<「単純な質問で恐縮いたします。十字軍時代日本では元軍の来寇を見たと思いますが、それは、予言された日蓮さまが十字軍のアラブ侵攻まで承知していたものでしょうか。また、当時の日本人はイスラームやアラブを知っていたでしょうか」という質問です。先ほどのお話からしますと吉田さんにお答えいただけたらと思うのですがいかがでしょうか。>

 私の答えは次のとおりでした。

<日蓮が中東へのヨーロッパの侵攻を知っていたかどうかはわかりませんが、ほかの普通の人たちとは違って、モンゴルを野蛮な勢力、ただただ破壊者であるとは見てないのは確かですね。『聖人遺文』でご存知のように、神の罰を下すものであるとか・・・。
16世紀のマルチン・ルター が『トルコ戦争論』(“Vom Krieg wieder die Tuerken 1529” )のなかで述べている考え方、あるいはウィクリフが述べていることをサザーン( R. W. Southern ) が指摘したものとも、ちょっと似ている感じがします。独自にそうなのですね。ただ日蓮が、もし日本の何らかの権力、背景から―ちょうどルブルクやカルピーニのように―宗教上の特使としてカラコルムだとか大都に派遣され、世界中から集まってきた色々な宗教の代表者たちのディスカッションに参加したり、傍聴していたら、と面白い気がします。日蓮の弟子のひとり日持上人が、北海道へ渡って―あと恐らく沿海州、シベリアからどこへでしょうか、元帝國ではないかと思うのですが―行きます。その後が分らないのですが、さっき言った東部環球を巡錫したらしいと・・・。熱河のどろぼう市場で、駿河河口を出た年月日が記されている日持上人の筆跡だという御題目が見つかり、そのことを亡くなった前島信次さんは論文にしておられました。「それだけでそういうことを考えるのは早とちりだ」という反論も勿論出ましたが、非常に面白い論文ですね。
 ムスリムのことを申し上げましたが、16世紀の十字軍とムスリム―世界史的には十字軍対ジハードのぶつかりあいの一部ですが―南洋日本人町が出来て栄えていたルソンで、マジェラン(マガリャエンス)の後継者でフィリピン遠征総司令官レガスピの部下ゴイティが、マニラのもとあったマイ二ラを攻略しています。
17世紀の初期―1630年から1631年の見聞ですが―川端久左衛門が『呂宋覚書』という小冊子の中に「日本人、モウル人うちまじりて店出し申し候」と記載している。
ディウという地域があって―今はマニラの中心部、霞ヶ関みたいなところですが―、恐らくそこで、長屋づくりの店で、ムスリムとまじって活躍していたのではないかと思います。そのムスリムが西ヨーロッパのことを知っていたかというと、多分知らなかったのではないかと想像します。だから、いろいろなことが考えられるわけです。≪発言者補注:休み時間に板垣雄三さんは、「やはり知っていたのでしょうね」と洩らした。≫>

 休憩時間に面白い質問を受けた。
名前も伺わなかったが、私の報告をよく聞かれた感じの年配の女性がこういわれた。

<ご存じですか? マッカーサーが天皇にバイブルをもたせ改宗させようとしたことを。>

知らなかったので、あとで調べてみた。昭和天皇や天皇家をキリスト教徒にする試みはあったらしい。
もちろん体よくあしらわれたらしい。十字軍はそこまではうまく運ばなかった。
しかし、どうだろうか。
昭和天皇がしばらくは沖縄を献上してもいと伝えたことは史料にも残る事実のようである。
とにかく、その沖縄をそれからもう65年もたっているのに米軍は基地の島として居座り続けている。
また、昭和天皇の代に日米安保は結ばれ、がっちり日本国は軍事的にも属国としてひれふし、その上 憲法を破ってまでも、イラク、インド洋での石油補給、南スーダンへと傭兵扱いで出兵させられている。この極東の特異な天皇国は天皇の改宗はうまくゆかなかったかもしれないが、実質忠実な(対AAP十字軍)の傭兵。
基地列島としてマッカーサーの宗主国にご奉公をつとめさせられている。
敗戦後66年も過ぎているのに(2012年現在)。


【参考】
◎「沖縄の分離についての天皇メッセージ問題」を知るために最もわkりやすい また 正確な説明は太田昌秀さんが佐藤優との対談『徹底討論ー沖縄の将来』芙蓉書房出版2010の150ページ以降を読むとよい。太田さん自身が米国国立公文書館で入手したGHQ政治顧問W.J.シーボルトに口頭で伝えられたメッセージの内容を記録した「マッカーサー元帥のための覚書」とシーボルトがG.C.マーシャル米国務長官あてに送った「琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解」の二つが重要文書である。

その他、GOOGLE検索で拾った手軽なものをいくつか挙げておく。

●機密文書「Japan Plan(日本プラン)」 - [雁屋哲]の検索結果
一橋大学教授の加藤哲郎氏が米国国立公文書館で発見した機密文書「Japan Plan」の中で、アメリカは第二次大戦後の日本をどう取り扱うかの構想を記している。 ... 昭和天皇はそのような、自分のために死んだ沖縄の人達に思いを寄せることなく、その土地をアメリカに献上した。 .を残したままでの長期租借-二十五年ないし五十年あるいはそれ以上-の擬制にもとづくべきである」(47.9、GHQ政治顧問シーボルトの「マッカーサー元帥のための覚書」。宮内庁御用掛の寺崎英成が天皇のメッセージとして伝えたもの)

●池田香代子ブログ : 「文書を示せこのポンコツ」 昭和天皇の沖縄
2012年12月24日 この外交文書が機密解除されたのは1979年。「沖縄復帰」7年目。

●沖縄戦関連の昭和天皇発言

●"天皇メッセージ" - 所蔵資料の概要 - 沖縄県公文書館

●真実を知りたい: 沖縄の基地問題は天皇の沖縄メッセージ

十字軍については

●上原専禄 橋口倫介『十字軍ーその非神話化』を読む 『図書』1975.7月号

●吉田悟郎 世界史学講義 上 西欧文明形成の暗黒 下 第三世界と世界史学     (御茶ノ水書房1995)
●吉田悟郎  グローバリゼーションとは? 

●吉田悟郎 21世紀のモロ戦争       

●初老のトクさんブログ 
 イスラムに広島の恐怖をー米軍が第一線指揮官に講義  (2012.05.14) 

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始まりの始まりも、今はじまったばかり【二】-(6)2012年5月16日 (水曜日)

2012年5月16日 (水曜日)

始まりの始まりも、今はじまったばかり【二】-(6)

「巷間、“アラブの春”については、ねじ曲げた「お話」や「想定外」といった言い方が多いが」として、板垣は言う。

「ほんとうは、2000年のパレスチナ人インティファーダ(蜂起)を皮切りに、革命にむかう運動の積みかさなりの前史があったのです。
私(板垣)は、それをずっと観察してきました。」ここで2011年に中東で起きたムワーティン=市民革命について考えるための重要な着眼点を挙げることにします。
これは中東を知るためのカギとしても役立つでしょう。


◆革命は、米国の覇権とイスラエルの横車とを批判する運動の爆発。それらを支え、それらとこっそり手を結んで生きのびてきたアラブ諸国の政府が、はげしい抗議の突き上げに揺さぶられる。だから、この革命は一国ごとの民主化より、世界の不公正な仕組みの変革をめざすもの。

◆そのように広範囲にひろがる政治変動が引き起こされる土台は、パレスチナ問題。(私が20世紀の70年代から板垣らに学び、「パレスチナ問題は、今や激変する世界史の核芯だ」と感覚的にいってきたもの)。それは、宗教や民族のあいだの紛争ではなく、植民地主義の支配 対 それに対するレジスタンス=抵抗。つまり、欧米が殖民国家としての「ユダヤ人の国」イスラエルをつくり支えるが、そのイスラエルによって排除・追放されるパレスチナ人が民族浄化に抵抗するという重層の構図。

◆そのようなパレスチナ問題が生まれる根源にあるのは、ヨーロッパ(欧米)が歴史を通じて抱え込んできた反ユダヤ主義(ユダヤ人いじめ、差別、迫害)。ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の「償い」だと言ってパレスチナ人に犠牲を押しつけながら、ユダヤ人を隔離し棄民するイスラエル国家をつくる。この偽善のボロを出さぬため、欧米は、人工国家イスラエルをまもる。イスラエルは中東で欧米の利益をまもるため、軍事国家としてニラミをきかす。

◆「パレスチナ問題は、植民地主義を「仲直りと平和」や「民主化」の問題にすり替えてみせるバーチャル装置だが、パレスチナ人同胞の苦難を自分の苦難と感じる世界中のイスラーム教徒を騙せない。そこで,イスラーム教徒をテロ容疑者に仕立てる「反テロ戦争」をグローバル展開する。「反テロ戦争」は根拠が危ういイスラエル国家の危険を管理する防衛戦争であり、全世界を混乱に陥れ、パレスチナ問題の扱いを全人類に肩代わりさせて欧米は道徳的責任をまぬがれる、「自己破産」のための戦争でもある。」 そう、板垣は説く。
この脳みそをフル回転させないとわからないカラクリ、何度か読み返してもらえば、だんだん事柄が見抜けるようになると思います。わかってしまえば、次のような謎が自然に解けるはずです。それでも、まだ残る疑問については、自分で調べ、考えてください。


■ 中東で市民の立ちあがりが、国を超えてひろがったのは、なぜか?
■ パレスチナ問題が、全世界を巻き込む問題であるのは、なぜか?
■ 欧米の国々が、中東やイスラームに とかく干渉がましいのは、なぜか?
■米国とイスラエルが、やたらと戦争をしたがるのは、なぜか?

 1979年、イラン革命―米・イスラエルがイランから追い出される―米国はイスラエルとエジプトに国交結ばせ、二国拠点に中東支配再編成―2001年以降の「反テロ戦争」(アフガニスタン・イラク・パレスチナなど)―米国覇権の衰えとイスラエル国家の危機とめどなく進行―イスラエルのパレスチナ人しめつけはアパルトヘイト時代の南アも顔まけの息を飲むむごさ―ヨルダン川西岸では入植地拡大、隔離壁を張り巡らせ水源を奪い、ガザ地帯は封鎖された幽閉地にされ、物資の流れを断ち、住民の生命を脅かし、爆撃と暗殺作戦―イスラエルに協力してガザを封鎖するムバーラク政権への市民の抗議は、自分の人間らしさを取り戻す行動となる―こうして、中東の革命の嵐がおきた。

 ムバーラク政権は倒されたが、今もつづくシオニスト・イスラエルのパレスチナ人、ガザや西岸そして東エルサレムに対する形容できないような暴虐野蛮な行動は、毎日の『ブナ林便り』のBOICOTTIL サイトやIMNECサイトそしてTHE ELECTRONIC INTIFADAサイトを見れば、ますますひどさを増している。まさに、<野蛮化・地獄化>した<近代世界史>の極致であり、世界の平和と自立・公正を愛する市民たちにとっても最大の汚点である。私も歩行不全でなかぅた若い時代にBoicottilの抗議行動に参加した。1879年以来、米国は、対外援助の全体の約半分をイスラエルとエジプトに注ぎ込んできたのだから、エジプトの革命の意味は絶大である。米国の衰退とイスラエルの孤立とはさらに加速するだろう。こうして、中東の市民たちの要求は、世界のありかたを変革することなのです。

 中東で、米・欧・イスラエルが主人顔でもてあそぶパレスチナ問題の不公正さは、世界中で植民地主義と人種主義・軍国主義がつくりだすあらゆる紛糾(こんぐらかり)のハブ(中心)のような位置にあります。
パレスチナ問題が、これまでのありとあらゆる思い違いへの誘導・誘惑を乗り越えて、あらためて不公正・不正義の世界の象徴的「結び目」と意識され始めたのです。
ホロコーストにいきついた欧米社会のユダヤ人差別の歴史に加えて、パレスチナ人の世界離散と「ユダヤ人国家」(人種主義+ポストコロニアル植民地主義の国家)とを積み増ししてしまった欧米中心主義。それは、イスラーム憎悪の「反テロ戦争」によって、いよいよ末期的な状態にいたっています。
 このことが、イスラエル国家に反対するユダヤ人を含めて、ひろく世界の民衆の間で直感的に見抜かれるようになりました。
中東で始まった新・市民(ムワーティン)革命が人類史の新しい段階を開くとき、ムワーティンが市民の元祖だということが顧みられることになるでしょう。
中東の社会は、古来、都市・商業・政治を生きるなかで、個人主義・合理主義・普遍主義をはぐくみ、ネットワークとパートナーシップの組織のあり方を活用してきました。イスラームは、そのような生き方を思想と実生活の体系としてまとめてきたものといえます。
その基本であるタウヒード(多即一)の理念は、イスラームが世界史的に展開させはじめた超近代性(スーパーモダ二ティ)の土台なのです。ヨーロッパの近代はそのような展開のローカルな(ヨーロッパという小半島)現れでした。
政治社会を成り立たせる「社会契約」は、のちにヨーロッパ人の理論家たちが理屈だけこねますが、7世紀の契約文書として預言者ムハンマドが締結した「メディナ憲章」の記録が残っています。ところが、ヨーロッパはイスラーム文明から多くを学習することによって拓いたヨーロッパの近代を、世界史のなかの排他的な中心=模範としてすえつけ、近代はヨーロッパからひろまっていくのだという「語り」を武力でもって裏付けるようになりました。
これが欧米中心主義です。

 イスラーム教徒たちも、その勢いにおされて、タウヒードの精神を弱めてしまったのでした。
いま、<世界を変える>と<自分を変える>が同時に強調されるようになったのは、そのためです。
タウヒードの働きを活発にすると、世界は「欧米 対 イスラーム」といった二項対立で成り立ってなどいないことが、はっきりしてきます。
事実、世界中で市民たちの立ち上がりの多角的な共鳴・共振が、無限大のネットワークを形づくりつつあるではありませんか。
以上が、板垣が「どうしても言わなくては」と感じたパレスチナ問題の位置づけである。私も20世紀の70年代から板垣のパレスチナ問題との取り組みのあとについて、細々とではあるが中東―イスラーム、そしてパレスチナ問題の学習を続けてきたと思う。
そしてそのころから、<パレスチナ問題こそ世界史の核心ではないか>と考え続けたのである。
そして91歳にもなった老輩として21世紀の初め、<欧米中心主義>の世界史にわれわれが完全にいなされている、飼いならされているという惨状をつくづく感じるのである。

世界史を探って半世紀以上、欧米中心の<世界史>こそ<世界史>だ、それ以外の歴史などあるはずがないと信じている人が殆どであること。
この壁の厚さ、重さ!蟷螂の斧のたたかいはまだ始まったばかりだ。
そして、歴史の進歩、変遷についても「先進」欧米基準という観念が日本史、自国史を考える場合も変わらず、原始―古代―中世―近世―近代―現代という時代区分やその社会構成、文化変容の基準についても欧米に「右へならえ」であること。
進歩―先進/後進のものさしは明治以来、欧米を手本にしてきていることは庶民大衆を含めて変わらないのではなかろうか。
(つづく)
    

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始まりの始まりも、今はじまったばかり【二】-(6)2012年5月16日 (水曜日)

2012年5月16日 (水曜日)

始まりの始まりも、今はじまったばかり【二】-(6)

「巷間、“アラブの春”については、ねじ曲げた「お話」や「想定外」といった言い方が多いが」として、板垣は言う。

「ほんとうは、2000年のパレスチナ人インティファーダ(蜂起)を皮切りに、革命にむかう運動の積みかさなりの前史があったのです。私(板垣)は、それをずっと観察してきました。」ここで2011年に中東で起きたムワーティン=市民革命について考えるための重要な着眼点を挙げることにします。これは中東を知るためのカギとしても役立つでしょう。

◆革命は、米国の覇権とイスラエルの横車とを批判する運動の爆発。それらを支え、それらとこっそり手を結んで生きのびてきたアラブ諸国の政府が、はげしい抗議の突き上げに揺さぶられる。だから、この革命は一国ごとの民主化より、世界の不公正な仕組みの変革をめざすもの。

◆そのように広範囲にひろがる政治変動が引き起こされる土台は、パレスチナ問題。(私が20世紀の70年代から板垣らに学び、「パレスチナ問題は、今や激変する世界史の核芯だ」と感覚的にいってきたもの)。それは、宗教や民族のあいだの紛争ではなく、植民地主義の支配 対 それに対するレジスタンス=抵抗。つまり、欧米が殖民国家としての「ユダヤ人の国」イスラエルをつくり支えるが、そのイスラエルによって排除・追放されるパレスチナ人が民族浄化に抵抗するという重層の構図。

◆そのようなパレスチナ問題が生まれる根源にあるのは、ヨーロッパ(欧米)が歴史を通じて抱え込んできた反ユダヤ主義(ユダヤ人いじめ、差別、迫害)。ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の「償い」だと言ってパレスチナ人に犠牲を押しつけながら、ユダヤ人を隔離し棄民するイスラエル国家をつくる。この偽善のボロを出さぬため、欧米は、人工国家イスラエルをまもる。イスラエルは中東で欧米の利益をまもるため、軍事国家としてニラミをきかす。

◆「パレスチナ問題は、植民地主義を「仲直りと平和」や「民主化」の問題にすり替えてみせるバーチャル装置だが、パレスチナ人同胞の苦難を自分の苦難と感じる世界中のイスラーム教徒を騙せない。そこで,イスラーム教徒をテロ容疑者に仕立てる「反テロ戦争」をグローバル展開する。「反テロ戦争」は根拠が危ういイスラエル国家の危険を管理する防衛戦争であり、全世界を混乱に陥れ、パレスチナ問題の扱いを全人類に肩代わりさせて欧米は道徳的責任をまぬがれる、「自己破産」のための戦争でもある。」 そう、板垣は説く。この脳みそをフル回転させないとわからないカラクリ、何度か読み返してもらえば、だんだん事柄が見抜けるようになると思います。わかってしまえば、次のような謎が自然に解けるはずです。それでも、まだ残る疑問については、自分で調べ、考えてください。


■ 中東で市民の立ちあがりが、国を超えてひろがったのは、なぜか?
■ パレスチナ問題が、全世界を巻き込む問題であるのは、なぜか?
■ 欧米の国々が、中東やイスラームに とかく干渉がましいのは、なぜか?
■米国とイスラエルが、やたらと戦争をしたがるのは、なぜか?

 1979年、イラン革命―米・イスラエルがイランから追い出される―米国はイスラエルとエジプトに国交結ばせ、二国拠点に中東支配再編成―2001年以降の「反テロ戦争」(アフガニスタン・イラク・パレスチナなど)―米国覇権の衰えとイスラエル国家の危機とめどなく進行―イスラエルのパレスチナ人しめつけはアパルトヘイト時代の南アも顔まけの息を飲むむごさ―ヨルダン川西岸では入植地拡大、隔離壁を張り巡らせ水源を奪い、ガザ地帯は封鎖された幽閉地にされ、物資の流れを断ち、住民の生命を脅かし、爆撃と暗殺作戦―イスラエルに協力してガザを封鎖するムバーラク政権への市民の抗議は、自分の人間らしさを取り戻す行動となる―こうして、中東の革命の嵐がおきた。
 ムバーラク政権は倒されたが、今もつづくシオニスト・イスラエルのパレスチナ人、ガザや西岸そして東エルサレムに対する形容できないような暴虐野蛮な行動は、毎日の『ブナ林便り』のBOICOTTIL サイトやIMNECサイトそしてTHE ELECTRONIC INTIFADAサイトを見れば、ますますひどさを増している。まさに、<野蛮化・地獄化>した<近代世界史>の極致であり、世界の平和と自立・公正を愛する市民たちにとっても最大の汚点である。私も歩行不全でなかぅた若い時代にBoicottilの抗議行動に参加した。1879年以来、米国は、対外援助の全体の約半分をイスラエルとエジプトに注ぎ込んできたのだから、エジプトの革命の意味は絶大である。米国の衰退とイスラエルの孤立とはさらに加速するだろう。こうして、中東の市民たちの要求は、世界のありかたを変革することなのです。

 中東で、米・欧・イスラエルが主人顔でもてあそぶパレスチナ問題の不公正さは、世界中で植民地主義と人種主義・軍国主義がつくりだすあらゆる紛糾(こんぐらかり)のハブ(中心)のような位置にあります。パレスチナ問題が、これまでのありとあらゆる思い違いへの誘導・誘惑を乗り越えて、あらためて不公正・不正義の世界の象徴的「結び目」と意識され始めたのです。ホロコーストにいきついた欧米社会のユダヤ人差別の歴史に加えて、パレスチナ人の世界離散と「ユダヤ人国家」(人種主義+ポストコロニアル植民地主義の国家)とを積み増ししてしまった欧米中心主義。それは、イスラーム憎悪の「反テロ戦争」によって、いよいよ末期的な状態にいたっています。
 このことが、イスラエル国家に反対するユダヤ人を含めて、ひろく世界の民衆の間で直感的に見抜かれるようになりました。中東で始まった新・市民(ムワーティン)革命が人類史の新しい段階を開くとき、ムワーティンが市民の元祖だということが顧みられることになるでしょう。中東の社会は、古来、都市・商業・政治を生きるなかで、個人主義・合理主義・普遍主義をはぐくみ、ネットワークとパートナーシップの組織のあり方を活用してきました。イスラームは、そのような生き方を思想と実生活の体系としてまとめてきたものといえます。その基本であるタウヒード(多即一)の理念は、イスラームが世界史的に展開させはじめた超近代性(スーパーモダ二ティ)の土台なのです。ヨーロッパの近代はそのような展開のローカルな(ヨーロッパという小半島)現れでした。政治社会を成り立たせる「社会契約」は、のちにヨーロッパ人の理論家たちが理屈だけこねますが、7世紀の契約文書として預言者ムハンマドが締結した「メディナ憲章」の記録が残っています。ところが、ヨーロッパはイスラーム文明から多くを学習することによって拓いたヨーロッパの近代を、世界史のなかの排他的な中心=模範としてすえつけ、近代はヨーロッパからひろまっていくのだという「語り」を武力でもって裏付けるようになりました。これが欧米中心主義です。
 イスラーム教徒たちも、その勢いにおされて、タウヒードの精神を弱めてしまったのでした。いま、<世界を変える>と<自分を変える>が同時に強調されるようになったのは、そのためです。タウヒードの働きを活発にすると、世界は「欧米 対 イスラーム」といった二項対立で成り立ってなどいないことが、はっきりしてきます。事実、世界中で市民たちの立ち上がりの多角的な共鳴・共振が、無限大のネットワークを形づくりつつあるではありませんか。以上が、板垣が「どうしても言わなくては」と感じたパレスチナ問題の位置づけである。私も20世紀の70年代から板垣のパレスチナ問題との取り組みのあとについて、細々とではあるが中東―イスラーム、そしてパレスチナ問題の学習を続けてきたと思う。そしてそのころから、<パレスチナ問題こそ世界史の核心ではないか>と考え続けたのである。そして91歳にもなった老輩として21世紀の初め、<欧米中心主義>の世界史にわれわれが完全にいなされている、飼いならされているという惨状をつくづく感じるのである。世界史を探って半世紀以上、欧米中心の<世界史>こそ<世界史>だ、それ以外の歴史などあるはずがないと信じている人が殆どであること。この壁の厚さ、重さ!蟷螂の斧のたたかいはまだ始まったばかりだ。そして、歴史の進歩、変遷についても「先進」欧米基準という観念が日本史、自国史を考える場合も変わらず、原始―古代―中世―近世―近代―現代という時代区分やその社会構成、文化変容の基準についても欧米に「右へならえ」であること。進歩―先進/後進のものさしは明治以来、欧米を手本にしてきていることは庶民大衆を含めて変わらないのではなかろうか。(つづく)
    (次回は「私とパレスチナ問題」-その一 私の十字軍学習-)

参考

THE ELECTRONIC INTIFADA
IMNEC

boycotti

■パレスチナ問題解決の必須条件としてイスラエル民衆の目覚めと決起がある。
拙稿ネット イスラエル人の目覚めー軍務拒否運動などー

■シオニスト・ユダヤ人の現代イスラエル建国は一種の十字軍だった
フィリピン南部では欧米キリスト教背力の来寇前にはイスラームがひろがり始めていたマニラでもムスリムが南洋日本人町の日本人と軒を並べて店をはっていた。
その後、南部の残るムスリムに対する北を占拠したキリスト教軍隊の南部への十字軍はずっと、今でも続けられている。
拙稿ネット 21世紀のモロ戦争ーフィリピン南部、ミンダナオ・バシランとグリーンベレー

●「高橋和夫の国際ブログ

インティファーダーパレスチナ人のたたかいー  
※ガザの悲劇から見えてくるもの一二三 
※瀕死の聖都エルサレム 一二三四 
※あるガザ・ストーリー 
※ガザ・キッズの凧
※街頭で小物を売る子供たち
以上四篇のネットはブナ林便り保存版に収録。
(2009年4月~2010年2月にかけ不定期で書いた「一日一言」より。)

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始まりの始まりも、今はじまったばかり【二】-(5)2012年5月 3日 (木曜日)

2012年5月 3日 (木曜日)

始まりの始まりも、今はじまったばかり【二】-(5)

         


 板垣は、私の言う<始まりの始まり>をもっと論理的・歴史的―世界史的に明確にする仮設を出してくれた。
板垣仮設をも少し詳しく見てみよう、まず、かれは<あたらしい市民革命>の<目標>について、五つの目標を整理し仮設する。
確かに、童子丸開 のバルセロナ報告『15M キンセ・デ・エメ』というスペインの2011年5月市民蜂起現地報告や田中龍作 のローマ(原発の国民投票時 )やNY(オキュパイ―1%の横暴に抗議する99%の市民行動)の現地報告を、<ブナ林便り>や<ちきゅう座>のサイトで読んだ人はこれに近い感想を持ったにちがいない。

まず、板垣が第一にあげている「サティヤーグラハ」について

●サティヤーグラハ(サンスクリット語起源の言葉、真理への執着・こだわり=愛と勇気)の運動によって、世界変革と自己変革を同時並行ですすめる非暴力の不服従をつらぬき、不正な権力に身をさらして抗議し抵抗する直接行動、「自分の生き方を変えることで世界のあり方を変えよう、人間の倫理と世界の革命とを組みあわせよう」というのである。
マハートマ・ガンディーの南アフリカ・インドで指導した解放運動に、インド人ムスリム同砲と協力する中から編み出した抵抗方式。―こう、板垣は説明する。
 非暴力で不服従という言葉は聞いたことがあるだろう。アヒンサー(不殺生,非暴力)の思想も、ここにつながる。私が生きてきた91年間、シベリア出兵から今のイラク・アフガンの戦争、南北スーダンの戦争まで戦争の絶えた事はあっただろうか。暴力・武力は対抗的な暴力・武力によっては一掃されることはない。暴力は,一層大きな暴力を引き起こしてきただけである。
マハートマ・ガンディーはいう、「非暴力ははるかに暴力にまさることを、敵を赦すことは敵を罰するよりも雄々しいことを、信じている」「非暴力は決して弱者の武器として思いついたものではなく、この上もなく雄々しい心を持つ人の武器として思いついたものなのです」。「現代の戦争の主な原因は、地上のいわゆる弱い民族を搾取しようとする非人間的な競争にあるのではなかろうか。」
中島岳志の『ガンディーからの“問い”―君は「欲望」を捨てられるか』(日本放送出版協会、2005年)という本や、子供向けには目良誠二郎の『平和と戦争の絵本(4)非暴力で平和をもとめる人たち』大月書店、2003年)という良い本がある。
 第二の目標として板垣が整理し指摘したのは次のことである。架空の理屈や議論というようなものではない、先にあげたような市民蜂起・市民行動のなかで、おのずから湧き出ている市民たち自らの生み出した行動様式ともいえるものなのである。

●ネットワークとパートナーシップという組織原理で社会を築く、指揮・命令したり管理・統制したりする上下関係ばかり増やしていく社会に反対。もともと、イスラームの教えるタウヒード(多即一、ちがいを大事にすることこそ一体性の土台――バラバラでいっしょ・多様性あふれる宇宙の創造主を信じる)の考え方がネットワークを世界的にひろめた歴史がある。ヨコに(対等に・多角的に)つながり合いと相乗作用(かけあわせをひろげていく個人やグループのおのおのが、いつも「まんなか」性と「はじっこ」性とを同時に発揮するようなネットワークのはたらきを、これからは市民自身の手で強めていく(国や企業に踊らされるのではなく)世界全体で活力をもつ地球社会をめざすのだという方式が示されている、革命もこのやり方で進めようとしています。
-まさに、われわれの「オトナ~そしてオトコ中心社会ではない、われわれにとってはこれから創造してゆくべきいわば未来社会ではあるまいか。

板垣があげている三つめの目標は、

●「正義・公正」と「安全・平和」を実現するため、たゆまず努力する。
侵されつづけた「人間の尊厳」・「人間存在の重み・一人前の誇り」・「自由と自立」・{多様性の尊重と連帯」は、気を緩めずに回復しつづけなくてはならないという感覚でいよう。そこで、植民地主義・人種差別・軍国主義{戦争と切り離せない経済・社会のしくみ}と、それらを丸ごと根っこで支えているオトナ中心主義とに、つよく反対することになります。
欧米中心主義や歪んだ資本主義が、軍事力の威圧、金融操作の手品、国際機関の決定だという締め付け、マスコミの世論操縦に支えられて、資源や市場の不公正な支配にしがみつき、競争と格差を拡大して人間の生きる権利と生きがいを踏みにじり、カネ儲けのためなら、いのちも生態系も環境も破壊して平気、という異常な世界にしてしまったのでした。
こんな迷走を正そうとする批判に対して、隙あればつけこみ騙しと妨害、気を許せないのです。――大資本・大企業の横暴とか、とくに金融操作の手品(詐欺行為)、といってもピンと来ない人も多かろう。
最近は、イギリスの優れたジャーナリスト、ジャクソン・ニコラウズの書いた『タックスヘイブンの闇―世界の富は盗まれている!』、(朝日新聞出版,2012年)という好著も出ている。童子丸開の現地報告スペインの2011年5月の全国的市民蜂起もこの大銀行・金融資本の詐欺行為に対する99%市民の全国蜂起で、まだわれわれ日本人の気づいていない問題でもある。

第四に板垣が指摘するのは、

●環境との共生・共存する環境を守り育てる世界と自分を変える市民社会のなかで、いのちを大切にし、生物の多様性・文化の多様性・宇宙の多様性を尊重し、「少数者」を大事にすることが、あらためて重要視されるようになりました。生物・無生物あわせて、それぞれに違う多様な「個」が結びあい、支えあいケアしあう深い関係の総体である自然。アダムの子孫たち(バヌー アーダム)=人類は、自然への畏敬のこころをもって、環境共生に連帯し、影響をおよぼしてきた人間の責任を自覚しなおすことが強調されるのです。宇宙の「公益」に反した操作をわざとしてはならない、と。ユダヤ教やキリスト教の聖書の創世記には、人間は地上のものを「支配する」と書かれています(1章28節)。
しかし、イスラーム教のクルアーンでは、人間は自然を「信託」された{お世話を引き受けて預かったものだ}が、不正や愚かしさがバレてしまうとも書かれています(33章72節)。これらの言葉をどう理解するのかも、いま問われなおす問題なのです。―自然との共生である。われわれの列島で破壊され、過疎化―均された大都市一元化につぶされた、かつての人間性や地方性を失った全国総ての「地域」を思え!

-そして、最後、第五に板垣のあげたものは、

●修復的正義{関係者みんなで協力して「正義」をうち立てなおすこと}を実践する何が真実か徹底的に調査し明らかにする仕事を通じて成り立つ和解や、反省・自己批判をつうじて実行される リドレ(redress 英語でリ{もとのように=人間のよい本姓を理解して}・ドレス(まっすぐにする)から、是正・補償}などが追究されます。正義をなしとげるには、ただ悪者を打倒して権力を奪い、排除・抹殺すればよい、とは考えず,悪には正義を明らかにするためにこそ悪として存在する理由があった、という風にも考えようとするのですね。
 以上は、新しい市民革命の目標・理念あるいは特性として、私(板垣)が注目した特徴点です。
私は、世界史上「ブルジョア革命」(フランス語のブルジョアは「まちの大衆・市民」)と呼ばれる17世紀以後~20世紀の民主主義革命「社会主義革命まで含む」革命に対して, 革命を革命する 新しい市民革命の「ムワーティン革命」(アラビア語のムワーティンは「住みなす大地(ワタン)と結びつく人々」 と呼びたいと思います。
新しい革命の特徴点は、まず、2011年1月~2月エジプトやチュニジアの市民たちの革命への実践行動と熱望とから見分けられたものでした。ところが、新しい革命志向と共鳴・共振して世界にひろがった市民決起のなかでも、つぎつぎ同じ特徴点を発見することになりました。
 また、大震災のうえに福島原発事故がつけ加わる苛酷な現実と向きあうことになった2011年の日本の社会でも、市民の動きには間違いなく共鳴する志向性が確認できたのです。それは、カイロのタハリール広場で脈うつ思想と響きあうばかりか、息づかいまでピタリと一致する、抑制のきいた言葉として語られ、人々を感動させました、9月19日、東京・明治公園の「さようなら原発」集会のステージから、ハイロアクション福島原発「せかいへ40年実行委員会の武藤類子さんが行ったスピーチがそれです。ここには、「人間の尊厳」や「世界変革と自己変革」の結びつきなどという言葉はでてきません。でも、日本の社会が向きあう現実の中から。武藤類子さんが力強くも美しい日本語で結晶させた実践課題は、私が新しい市民革命の特質として整理してみていたことと、あまりにもしっくりとかさなり合うではありませんか。

 いま日本で、「いのちを奪うな」をもっとも敏感に、するどく、はっきりと要求して立ちあがあっているのは、女性たちです。
収束しない原発事故のもとで放射能汚染の危険が高い地域と、基地負担が軽くなるどころか犠牲を背負わされるいっぽうの沖縄とでは、ことにそうです。
オトコ中心主義への批判が新しい市民革命の目玉だということが、日本でも浮かびあがっています。
では、中東から世界へと市民の立ちあがりがひろがりだす その矢先、フクシマ原発事故が起きたことについて、どんな意味、どんな教訓を、読みとればいいでしょうか。真実の隠蔽・歪曲、虚偽とごまかし、いじめといやがらせ、暴力と排除・・・・このようなことが罷りとおる日本が、地震・津波という自然の戒めを受けただけでなく、人類を巻き込む核災害をひき起こしてしまいした。
しかも、それは、不正義・不公正の世界にけじめをつけ世界を変えようとする市民(ムワーティン)革命が中東で燃えあがり、これと呼応する市民の立ちあがりが世界全体にひろがろうとする、折りも折り、もちろん、日本の原発事故は世界の市民の立ちあがりを一層促進します。と同時に、この核災害にどう取り組むか、が人類史の新時代をひらくムワーティン革命にとって、最初の試金石となるのです。
日本の国あるいは社会が、日本の責任として、原発事故とその影響に対処していくのはあたりまえのことですが、それは人類全体が協同して取り組む対処“パートナーシップ”を強める一部分でなければならないでしょう。
 日本の取り組み方は、新しい市民革命に対してどんなかかわり方をしようとするか、答えることでもあるのです。日本のなかで、原発事故をこんな角度から考える市民の動きは、オーストラリアのウラン鉱山の拡張や環境汚染に対する先住民族、インドでの原発建設反対運動のうねり、中東の非核地域化をもとめ、日本の原発輸出の受け入れにも反対する中東諸国の市民運動、との連携などにも、現われています。しかし、国際的連携も大事ですが、それぞれの持ち場での運動が離れていて共鳴・共振するような超(ハイパー)パートナーシップの成りたちはもっと大事でしょう。

そこで、板垣は、<新しいムワーティン=市民>革命が、どうして中東から出発したのか、そして、その地球的拡大は世界をどのように変えるだろうか>という、板垣がぜひとも話しておきたいことにたどりつくのである。
                         ・・・つづく
参考
武藤 類子さんを知るために。
ハイロアクション福島原発 -9/19【さようなら原発】武藤類子さん - YouTube
おかんとおとんの原発いらん宣言
福島からあなたへ・武藤類子さんインタビュー - YouTube
「福島原発反対を闘って」福島県三春町武藤類子さん
武藤類子『福島からあなたへ 』(大月書店2012年5月/03)、13~33頁に2011.9.15明治公園スピーチ全文。

参照資料。

◎新しい市民革命のいい実例の記録です。 
童子丸開「銀行家どもに食いつぶされる欧州 
     ポール・クレイグ・ロバーツ論文和訳」
童子丸開「515スペイン大衆反乱:15Mキンセ・デ・エメ) 第8話:
(最終回):「旅人に道はない。歩いて道が作られる。」
童子丸開「515スペイン大衆反乱:15M(キンセ・デ・エメ)第7話:
5月15日から10月15日への「長征」
童子丸開「515スペイン大衆反乱:15M(キンセ・デ・エメ)第6話:
限界、分裂、そして広がり」
童子丸開「515スペイン大衆反乱(キンセ・デ・エメ):   第5話:
世界に広がる「スペイン革命」
童子丸開「515スペイン大衆反乱(キンセ・デ・エメ): 第4話:
     暴力反対!」
童子丸開「515スペイン大衆反乱 キンセ・デ・エメ): 第3話:
     広場を取り戻せ!」                 第2話:
童子丸開「プエルタ・デル・ソルへ!」
童子丸開 「バンケーロ、バンケーロ、バンケーロ」  :   第1話:
【リンクはちきゅう座


三木亘 
世界史のなかのイスラム世界『イスラム世界の人びと1総論』
                       所収1984東洋経済

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